ユキから逃げるように脱衣所を出たオレは、リビングに夕貴の姿がないことに気づく。
 ちょうどいいと、オレは歳喰いの魔女を呼んだ。
「おい」
「なにー?」
 魔女は床の向こうからにゅっと顔を出し、そのまま足まで出して目の前に立つ。
「おまえ、ずっとオレの近くにいたのか?」
「いたよ。ああいう本が好みなんだね、おにいちゃん」
「おにいちゃんいうなババ――」
 刹那で詰められた間合いから繰り出される魔女アッパーをくらって舌を噛んだ。
 痛い。
「……事実だろ」
「ババアっていうほどじゃないもん!」
「何歳くらい?」
「女の子に歳をきかないの」
「数千?」
「数百!」
 それはもうババアというより化け物だ。
 人間の規格から外れた魔女だ。
「ありのままの姿でいればいいじゃないか。なんで子供になってるんだよ?」
「こっちのほうが好きなの」
「なんだよそれ」
「そんなこと、歳を喰わせたおにいちゃんには言われたくないな」
 たしかに。と、オレはくだらない会話を終わらせる。
 こんなことが話したいんじゃない。
「どうしてオレに憑いてるんだよ? おばけみたいに」
「そりゃあ、興味あるから」
「いや、ちょっとオレは幼女には――」
「なら、これは?」
 魔女が二十代くらいの女に姿を変えて唇を舌で舐める。
 年相応の美貌と、年相応の艶かしさだった。
 オレは不覚にも、あの日のキスを思い出してしまった。
「まあ、これは冗談として」
 と、すぐに幼女の姿にもどった魔女が言う。
「歳を喰われた人がそれからどうするのか観察したくて。長いこと屋敷にいるとこれくらいしかたのしみがないからさ」
「暇なんだな」
「おかげでさっきは水泡にならずに済んだでしょ?」
「べつに打ち明けるつもりなんてないよ」
 オレはユキとの過去も未来も断ち切って新しい人生をはじめると決めた。
 そしてそのために自分の十年を捨てたんだ。
 この家だってすぐに出ていく。そうするべきだ。
 一緒にいたらいろいろ思い出して、歳を喰われた意味がない。
「今まで水泡になったやつとかいるのか?」
「いるよ。それなりに。だからくれぐれも気をつけてね、おにいちゃん」
 あっけらかんとそう言って魔女はまた姿を消した。
 そのすぐあとにユキが脱衣所から出てきた。
 まだオレが出てから十分も経っていない。おそらく夕貴と二人だけでは気まずいかもしれないと気を利かせてくれたのだろう。
「なにか話してた?」
「あー……夕貴、さんはどこかなって。ひとりごと」
「いない?」
「うん」
「なら、仕事の電話かな。多いの。多忙みたいで」
「へえ」
「わざわざ外いかなくてもいいのにね。気を使わせたくないんだって」
 夕貴について語るユキの顔は満足げで。
 大切にされていることがちゃんとわかっている人間の表情で。
 だから。
 そんな彼女を見ていると、どうしようもなく胸が苦しくなってくる。
「銀行員なんだけどね。投資とか外資とか、わたしにはわかんないことばかりで……」
「もういいよ」
 気がつくと。オレはユキの話を遮っていた。
「……カズくん?」
 ……ああ、オレは昔からそうだ。
 話すまでもなくわかっているはずだという理由で、ユキの話をちゃんときいてやらない。きいてやることができない。
 あの日だって、そうだった。
「…………なんでもない」
 部屋に沈黙が下りる。
 やがてガチャリと玄関ドアが開いて、夕貴が中へともどってくる。
「じゃあ」
 と、入れ替わりに出ていこうとするオレの腕をユキが掴んだ。
「どこにいくの?」
「どこって……」
「帰るところ、ないんでしょ? 今日はもう遅いし、泊っていきなよ」
「いや、それは……」
「夕貴も、いいよね?」
 まるで頷いてもらえることがわかっているみたいな顔でユキは夕貴を見る。
 それに夕貴は穏やかな笑みで返す。
「ああ、いいよ」
「ほら」
 ユキはなぜかうれしそうに手を叩くと、冷蔵庫から適当に食材を取り出して料理を始めた。量から察するに、どうやらオレの分だけを作ってくれているようだった。
「僕たちはもう食べてきたから」
 と、夕貴が言った。
「だったらオレもべつにいいよ、たべなくて」
「遠慮しないの」
 包丁を手に取り、慣れた手つきで野菜を切っていくユキ。
 家庭科のとき、刃物が怖いと言って握れず泣いていた彼女からは見違える上達っぷりだった。
「……」
 夕貴と話す気にはなれなかった。
 そんなオレの気持ちを察してなのか、夕貴もオレに話しかけてこようとはしなかった。
 そういう大人な対応に、自分の未熟さを一層思い知らされた。
「…………」
 オレはユキとずっと一緒にいてやることができなかった。一緒にいて、あいつの話をきいてやることができなかった。あいつが話したくないときにオレの話をすることはあっても、あいつが話したいときにオレはあいつと向き合ってやることができなかった。
 昔、ユキの隣はオレの席だった。
 けれど今、ユキの隣には夕貴がいて。ユキは本当に幸せそうだ。そんな彼女を見守る夕貴も同様に。
 ――ここに、オレの居場所はない。
「いただきます」
 夕飯だけごちそうになったらすぐに出ていこうと思った。
 ユキの料理はうまかった。母さんが作る味に少し似ていた。
「ごちそうさま」
「はい、ハミガキ」
 手を合わせるオレをそそくさとユキが洗面所に引っ張っていく。
 わざわざ新品のブラシを卸してくれたので拒むわけにもいかず、歯を磨く。
 そしてオレが「ぺっ」とやっている頃にはベッドメイクが完了したというので、その善意を無下にするわけにもいかないと、オレはため息を吐いた。
 強引というか、自分の気を通そうとするところは、昔から変わっていないらしい。
「…………今日だけ、泊らせてもらうよ」
 用意された寝床はユキの寝室だった。
 呆れるオレをよそに、ユキは電気を消してタオルケットの中へと潜り込む。
「明かり、つけたままでもいい?」
「オレのことなら気にしなくていい」
「ううん。そうじゃなくて」
 と、ユキは言った。
「つけてないと、わたしが眠れなくて」
「……」
 昔のユキはそんなじゃなかった。
 怪談話やテレビの心霊特集をケラケラと笑い飛ばすような芯の太いやつだったのに。
 まるで、知らない子供みたいだと思った。
「わかった。あと、オレは床で寝るから」
 腰を下ろそうとしたオレを「よいしょ」と持ち上げて、ユキはオレを自分のベッドに転がす。
「カズくんのそういうところ、だれかに似てる気がする」
「だれかって?」
「それが、思い出せないんだ」
 隣で横になったユキが言う。
「でも、カズくんみたいに恥ずかしがりやで、ぶっきらぼうだった気がする」
「子供にぶっきらぼうとか言うなよな」
「たしかに」
 可笑しそうに息を吐くユキにオレは背を向けた。
「実際にはいなかったり、関わりがなかったりする人間のことを思い出しちまうことは、オレだってある。デジャブってやつさ。夢と現実がごっちゃになってるんだ。きっとそんなやつ、最初からいなかったんだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
「……カズくん、よく大人びてるって言われるでしょ?」
「べつに」
「じゃあ、大人びてる」
 オレは寝返りをうった。
 暖色の照明に照らされたベッドの上で、ユキはクスリと笑った。
 世界を独占してしまえそうなほど艶めいた笑みだった。
「大人びて、背伸びしてる」
「……」
「ねえ、カズくん。好きなだけこの家にいてくれていいからね」
 浴室で言っていたのと同じことをユキは言う。
 この家にいればいいと――どこにもいかなくていいと、オレに言う。
 オレがここに留まることを願っているみたいな声で。
「……ずっといてくれても、いいから」
 タオルケットの下で、ユキがオレの手をぎゅっと握る。
 それは家出した子供の手を優しく握る大人の力じゃなかった。
 まるで、ユキのほうがオレに縋っているみたいだった。
 そういう握り方だった。
「…………ユキ?」
 ユキがそっと手の力を弱める。
 けれど繋いだ手が離されることはなかった。
 溺れながら掴むワラではなく、これから自分が溺れることを知っていて握りしめる形見のように、ユキはオレの半身を抱いたまま眠りについた。
 そんな彼女のことを訝しく思いつつ、オレの意識もやがて途切れ、そしてオレはまた子供の頃の夢を見た。