周囲の人間がみんな生き急ぐように遊び耽る大学三年の夏。
オレは人生の自爆スイッチを探していた。
最後に大学の門をくぐったのは散った桜の花が地面で濡れている春先のこと。
ゼミの単位はすべて落とした。留年は免れないとのことらしい。
人づてにそういう通達を受けても、オレの心は微動だにしなかった。
将来に関するあらゆることがどうでもよくなってしまっていた。
――歳を喰う魔女のうわさをきいたのは、ちょうどそんなときだった。
「…………歳喰いの魔女?」
『そう。なんでも望んだ数だけ歳を喰って若返らせてくれるらしいよ』
オレに留年の報を届けて笑いながら、ひとつ上の先輩にあたる木崎さんは電話越しに言った。
『歳を喰うって言葉には歳を重ねるって意味があるのに。なんだか人を喰ったような存在だね』
木崎さんは注いだ酒をあおりながらうるさいくらいの声で話していた。
就活が無事に終わった祝い酒らしい。
「昼間からいい身分ですね」と皮肉ると「もう夜だよ」と笑って返された。
窓もブラインドも閉めきった部屋は時間の流れから乖離してしまっていた。
『カッキー、なにかあったんだろ?』
「べつになにもないですよ」
『いいさ、隠さなくても。急に大学にこなくなって、なにもないなんてことはない。よかれ悪かれなにかあるものさ。人生なんだから』
「もう酔ってるんですか?」
『酔ってない酔ってない。今は夜の十時二十五分。ちゃんと現実時間を生きてるよ』
可笑しいことなんてなにもないのにカラカラと笑ってから木崎さんは話をもどす。
『まあ、カッキーの場合なにかあったのならそれはたぶん悪いことだろう』
「ひどい決めつけだ」
『ことの良し悪しは人の本質で決まるのさ。キミの場合、質が悪いから事も悪い。そういう流れになっている』
「流れ論者め」
『たとえばキミはこうしてキミのことを心配して電話をかけてやってる私のことをうっとうしく思ってるだろ?』
「心配してくれてるんですか?」
『いんや、まったく。でも心配して、気遣って、「だからまた大学にきなよ」って結論にもっていこうとするやつは嫌いだろ?』
オレが相槌をうつより先に木崎さんは「そういうとこだよ」と言ってやはり笑った。
『まあ、だからそういうやつはいっそ歳を喰われて人生をリセットしてみたらどうだって話さ。今の自分じゃなくなればちょっとはその質もマシになるだろう』
そんなふうに言いたいことだけを好き勝手に言って、やがて木崎さんは一方的にブツリと電話を切った。
まるで親しい仲の相手と話すような距離感だったが、木崎さんと話したのはじつに二年ぶりのことだった。
オレが家にこもるまで所属していたお遊びサークルにいたのが木崎さんで、一応の礼儀というかその場のノリというかで連絡先は交換しておいたけれど、必要なことはだいたい文章で送られてきていたし、木崎さんがサークルをあっさりやめてしまってからは顔を合わせることもなくなっていた。
いったいどうやってオレの状態を知ったのかはわからない。
けれど、これもなにかの縁だと思った。
木崎さん的に言うなら「そういう流れ」だ。
この先の未来にたった一点の光明も見いだせなくなっていたオレは、人生の自爆スイッチを求めてその「歳喰いの魔女」とやらを探してみることにした。
†
翌日、数か月ぶりの日光にやられながら、オレは木崎さんに教えられた「魔女の館」へと向かった。
そして、驚くほど簡単にソレを見つけてしまった。
表通りの一等地。夏の太陽に燦々照らされて、紅茶色の門扉を構える大きな屋敷があった。
アジサイが咲く庭園を抜けた先、玄関前の表札には「魔女」と彫ってあった。
魔女というからにはもっとこう、薄暗い路地裏に結界のひとつでも張っている様を想像していたオレは拍子抜けして、やはりからかわれたのだろうと肩を落とした。
そもそもをいえば、魔女なんてものの存在に期待していること自体バカげている。
けれどこのまま木崎さんにしてやられっぱなしなのも癪だったので、オレは館のチャイムを鳴らした。
もし人が住んでいるなら、木崎さんからきかされた魔女のうわさをすべて伝えてあの人の悪評をバラまいてから帰りたかった。
『はーい』
扉の向こうから幼い声が返ってくる。
そしてトタトタという足音とともに姿を現したのは、二つに結んだ黄色い髪の幼女だった。
その目はサンゴのように赤く色づいている。
屋敷の中、雨も降っていないのになぜか黄色いレインコートを着ている幼女は、オレの顔を見るとニヘラと笑って中へと手招きした。
彼女以外に人の気配は感じない。
こうなったらいけるところまでいってみようと、オレはその場の流れに身を任せる。
廊下に敷かれた長い絨毯の上を歩いて応接間に通される。
そこにあった高い背もたれのイスにドサリと腰かけて、オレは幼女に尋ねた。
「おまえが魔女か?」
「うん。そだよー」
呆れるくらいにあっさり答えて、幼女は奥から二人ぶんの紅茶を持ってくる。
「歳を喰ってくれるって」
「気分次第でね」
「気分だって?」
「食べたくなったら食べるし、食べたくなかったら食べない。お茶菓子と一緒だよ。べつに食べなくてもいいんだ」
「へえ。ちなみに今の気分は?」
「興味はあるかも」
「なら、喰ってくれよ」
「条件があるの」
「めんどうだな」
ごっこ遊びに付き合うのも飽きたと席を立つオレに、彼女はその条件を提示した。
「どうして歳を喰われたいのか。理由を言うこと」
「それが条件?」
「そう。きいて、おもしろかったら食べたげる」
「結局気分次第じゃないか」
オレはイスに座り直した。
べつに彼女の言葉を信じたわけじゃない。
たぶん、だれかに話したかっただけなんだと思う。
「幼なじみが、もうすぐ結婚するみたいなんだ」
オレは風のうわさで耳にしたことをそのまま語った。
「短大を卒業してすぐ。それなりに金持ってる年上のやつと」
「それで?」
「絶望した」
結婚なんてまだまだ先のことだとオレは勝手に思っていた。
だからいろんなことを先延ばしにして――先送りにして生きてきた。
そのツケを、いっきに叩きつけられたみたいだった。
「だってまだ二十歳だぜ? 結婚とか、さあ……」
「大事な人だったの?」
「…………少なくとも大事にはしてなかったから、こういうことをうわさで知るハメになるんだろうな」
「好きだったの?」
「もういいよ」
ため息を吐いて立ち上がろうとするオレを、しゃがれた声が引き留めた。
「よくないだろう」
ゾッとするほど低く、冷たい声だった。数千歳の歳を重ねた老婆のような。
声のほうに目を向けると、先ほどまで幼女が座っていたはずのイスに、オレと同じくらいの背丈をした女がいた。
身に着けているのは彼女と同じレインコート。
装いはそのままに、まるで身体と態度だけが大きくなったみたいだった。
「…………魔女?」
「いかにも」
身の丈に合わせて伸びたコートのフードを目深に被り、彼女は紅茶を啜る。
そしてソーサラーにカツンとカップを置いて話をもどした。
「どうでもよくないから、こんなところまできてしまっているんだろう? 魔女なんて、到底ありえそうもない与太話に耳も足も傾けてしまうほど」
挑発的な物言いに突き返す言葉はなかった。
まったくもってそのとおりだったからだ。
たぶんオレは、どうかしてしまっている。
だから得体の知れない相手にいきなりこんな話をしてしまうんだ。
「…………好きだったよ、たぶん」
結んでいた口をついて出た言葉は、奥に引っ込めていた思いの丈を連れてくる。
「いつからそうだったのかはわからない。でも、きっとそうだった。オレはあいつのことが――ユキのことが好きで、いつかあいつとなんだかんだで付き合って、なんだかんだで結婚するんだろうなって、花畑になった頭の隅で思ってた」
オレとユキは保育園からの付き合いで。異性であることなんて意識する前から一緒に遊んでいたから。外を駆け回って泥まみれになりながら笑っていたから。あらためて「好きだ」とか「ずっと一緒にいよう」だとか言うほうがなんだかままごと遊びみたいでしっくりこなかった。
――なんて。ホントはそうじゃない。答えはもっとシンプルだ。
オレがただ、自分の気持ちに素直になれなかっただけだ。
「これは自惚れにきこえるかもしれないけど、そう思ってたのはオレだけじゃないって……ユキも同じことを思ってたって気がするんだ」
「どうして?」
「それは、なんとなくだよ」
「なんとなく」
「べつに恋愛に限ったことじゃなくて。あいつがなにを考えているのかとか、なにを悩んでいるのかとか、なにを可笑しく思うのかとか。そういうことが、全部じゃないにしても、すこしはわかってやることができていたんだ。同じように、オレのこともきっとあいつはどこかでわかってくれてた気がするんだ」
口にすればするほど、オレの中にユキとの思い出が蘇ってくる。
この数か月、ずっとフタをして見ないようにしていた記憶の残像がフラッシュバックしてくる。
通学路。うらぶれた個人商店。営業をやめてロープが張られたガソリンスタンド。息を止めて走り抜けた鶏小屋。大きいけれどなんの意味があるのかよくわからない石碑。短い橋。歩道橋。老人ホーム。校門前にある長い坂道。
「…………ああ……」
オレは机に肘をついて項垂れる。
思い出の中にはいつもたのしそうなユキがいて。そんなユキを見て密かに心躍らせているオレがいて。ただ景色を思い起こすだけで、そこであったくだらないエピソードが無限のように押し寄せてくる。
「飲むか?」
いつの間にかオレの隣にやってきていた魔女がカップを差し出してくる。
オレは差し出された紅茶を飲んで、そのまま床に吐いた。
ストレートティーだった。紅茶はミルクティーとかレモンティーしか飲んだことがなかったから、あまりに不気味な味で反射的に喉から逆流させてしまった。
「んもー!」
これまたいつの間にか再び幼い少女の外見にもどった魔女が膨れ顔で雑巾を持ってくる。
オレは魔女と一緒に紅茶を拭いた。
そしていくらか心を落ち着かせてから話を続けた。
「……重ねていたのはなんてことない日々だ。でも、そういう日々を重ねていくうちにオレたちの間で言葉はだんだん省略されていって。相槌だけでも相手がなにを考えているのか察することができるようになっていた。だからオレは、ユキがオレを好きでいてくれていることもなんとなく察していたし、オレの気持ちがユキにバレていることも理解して、一緒にいたんだ」
ユキとよく遊んでいた公園。互いを待ちあっていたコンビニ。わざわざ用を作って立ち寄っていたスーパー。
そういうものをまばたきのうちに思い出し、回想はついにあの日いけなかった夏祭りに追いつく。
そのあとのことは、あまりよく思い出せない。
あの日を境に、オレはユキと一緒ではなくなってしまっていたから。
「オレはユキのことが好きで。ユキもオレのことが好きだから。あいつがオレ以外のやつと結婚するなんて、考えもしなかった。それを本人からじゃなくて風のうわさできくなんて思いもしなかった」
「だから生きるのがつらい?」
オレは長い息を吐き出して、魔女の言葉に返答する。
「好きだった女に見放されて悲しい――なんて言葉に置き換えられるような一過性の絶望じゃないんだ。もしオレがあいつのことを諦めて。他のやつを好きになって。そいつの耳元で愛を囁いたとしても。必ずオレは頭の隅で、胸の奥で、あいつの――ユキの面影を見ちまう。それで目の前の相手をユキに置き換えて、ユキと比較しちまう。それってオレにとっても、相手にとっても、不幸でしかない」
この先手にできるかもしれないある程度の幸福は、すべてユキと紡いだ時間の下位互換でしかない。
そう、悟ってしまったから。理解してしまったから。オレはオレの人生に絶望していた。
ユキと一緒に重ねている時間が自分にとって最大限度の幸福であると知りながら、その幸福がしかと手中に納めておかなければいつかなくなってしまうものであることを、この手が届かなくなるまでオレはわかっていなかった。
失ってからはじめてその大切さに気づいたわけじゃない。
失ってからもしばらくの間、オレはそれを失っていることにさえ気づくことができなかった。
その愚鈍さが、すべての原因だった。
「ふーん」
魔女はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「いかにも、過去に生きてる人間の言葉だね」
オレはなにも言い返せないままに立ち上がる。
そして屋敷を出ていこうとするオレの背に向かって、魔女は言った。
「うん。いいよ」
「……なに?」
「おにいちゃんの歳、喰ってあげる」
「おにいちゃん」
オレは苦笑しながら振り返って尋ねる。
「歳を喰うかどうかはおまえの気分次第なんだよな?」
「うん」
「この話のどこがおもしろかったんだよ?」
「話自体はよくあることだと思うけど、それを話してるおにいちゃんに興味が湧いた」
そういって、魔女はオレのほうにトタトタと駆けてくる。
「その顔」
と、真朱の瞳でオレを見上げて魔女は言う。
「これから先の自分にまったく展望を見いだせないっていう、その顔。歳を喰ってあげたら、ちょっとはマシになりそう?」
オレはいくばくかの沈黙を挟んでから口を開いた。
「オレにはそもそもその歳を喰うってことがどういうことなのか、まだよくわかってない。この場所だって酒に酔った先輩に冗談みたいなトーンできかされたんだ」
「歳を喰えば、今のおまえがいたという事実はまるっと世界からなくなる」
突如として眼下から消失した魔女の声が背後でする。
またあの老婆のようなしゃがれた声になっていた。
「そして喰われたぶんだけ若返り、過去を切り捨て、まったくべつの人間として人生をはじめることができるだろう」
「…………オレのことを覚えてる人間がだれもいなくなるってことか?」
魔女は無言で肯定した。
「一度喰った歳をもどしてやることはできない。加えて、もし歳を喰われたことを他人に話してしまったら、おまえの身体は水泡となって消える。おとぎ話にでてくる人魚のように。歳を喰われるとはそういうことだ」
魔女の声はたしかな威厳と異質を纏ってきこえていた。
「…………」
オレはじっと立ち尽くしたまま考える。今の自分に残されているものについて。
大学はもういく気になれない。
単位は落とした。
両親のことは好きじゃない。
友人と呼べるような相手はいない。
自分自身に価値を見出すことなどできはしない。
今のオレにあるものはどれも、失って差し支えないものばかりだった。
このままオレであり続けても、オレはずっとユキの面影に縋りついて醜態を晒すだけだろう。
今のオレには“もしかしたらありえたかもしれない未来”に想いを馳せ続けたまま朽ちて死ぬしか道はない。
――けれど。
もしユキとの過去も未来も“最初からありえなかったもの”にできたなら。今よりはまだマシな生き方ができる気がする。すくなくとも「最悪」ではなくなれる。
ならば――。
歳を喰われることに。人生の自爆スイッチを押すことに。躊躇いなど、あるはずもなかった。
「……ああ。かまわない。だからオレの歳を喰ってくれ、歳喰いの魔女」
「なら、いくつもらおうか?」
「十年」
こうしてオレは歳を喰われた。
幼女の姿にもどった魔女に唇を宛がわれ、舌を舌でペロリと舐められて。次の瞬間にはもう、オレは十歳の頃の姿まで退行していた。
オレは魔女に別れを告げて屋敷を出た。
そして実際に歳を喰われているか確認して回った。
大学の連中はオレのことをまったく覚えていなかった。
逆光で見えなくするみたいにして学生証からオレの顔が消されていた。
両親は「自分たちに子供なんていない」と電話を切った。
すぐにやってきたアパートの管理職員が借りていた部屋からオレを締め出した。
――オレはちゃんと歳を喰われていた。
それまでの“オレ”は初めからいなかったものとして世界に処理されていた。
今まで関わってきただれからも、オレがいた記憶は消去されてしまっている。
そのことに不安や後悔を感じることはなかった。
むしろ行きづまっていた現実から解き放たれたみたいで清々していた。
「……オレは十歳……オレはショタ……少年法バンザイ!」
オレはユキとのつながりを完全に断ち切り、十歳の子供として新たな人生を歩むことにした。
それから一週間。子供にもどれたらやってみたかったことをひとしきりやってみた。
スカートめくり。子供料金制度の乱用。立ちション。
「…………」
どれもすぐに飽きた。
あとには虚しさと不便さだけが残った。
「…………マナティー」
そしてせめてもの癒しを求めてコンビニに寄った帰り道、オレは二人に拾われた。
オレのことを覚えていないユキと、その結婚相手である夕貴。
絵に描いたような“二人の幸福”に挟まれて、爆破した人生に呪われているみたいだと思った。
オレは人生の自爆スイッチを探していた。
最後に大学の門をくぐったのは散った桜の花が地面で濡れている春先のこと。
ゼミの単位はすべて落とした。留年は免れないとのことらしい。
人づてにそういう通達を受けても、オレの心は微動だにしなかった。
将来に関するあらゆることがどうでもよくなってしまっていた。
――歳を喰う魔女のうわさをきいたのは、ちょうどそんなときだった。
「…………歳喰いの魔女?」
『そう。なんでも望んだ数だけ歳を喰って若返らせてくれるらしいよ』
オレに留年の報を届けて笑いながら、ひとつ上の先輩にあたる木崎さんは電話越しに言った。
『歳を喰うって言葉には歳を重ねるって意味があるのに。なんだか人を喰ったような存在だね』
木崎さんは注いだ酒をあおりながらうるさいくらいの声で話していた。
就活が無事に終わった祝い酒らしい。
「昼間からいい身分ですね」と皮肉ると「もう夜だよ」と笑って返された。
窓もブラインドも閉めきった部屋は時間の流れから乖離してしまっていた。
『カッキー、なにかあったんだろ?』
「べつになにもないですよ」
『いいさ、隠さなくても。急に大学にこなくなって、なにもないなんてことはない。よかれ悪かれなにかあるものさ。人生なんだから』
「もう酔ってるんですか?」
『酔ってない酔ってない。今は夜の十時二十五分。ちゃんと現実時間を生きてるよ』
可笑しいことなんてなにもないのにカラカラと笑ってから木崎さんは話をもどす。
『まあ、カッキーの場合なにかあったのならそれはたぶん悪いことだろう』
「ひどい決めつけだ」
『ことの良し悪しは人の本質で決まるのさ。キミの場合、質が悪いから事も悪い。そういう流れになっている』
「流れ論者め」
『たとえばキミはこうしてキミのことを心配して電話をかけてやってる私のことをうっとうしく思ってるだろ?』
「心配してくれてるんですか?」
『いんや、まったく。でも心配して、気遣って、「だからまた大学にきなよ」って結論にもっていこうとするやつは嫌いだろ?』
オレが相槌をうつより先に木崎さんは「そういうとこだよ」と言ってやはり笑った。
『まあ、だからそういうやつはいっそ歳を喰われて人生をリセットしてみたらどうだって話さ。今の自分じゃなくなればちょっとはその質もマシになるだろう』
そんなふうに言いたいことだけを好き勝手に言って、やがて木崎さんは一方的にブツリと電話を切った。
まるで親しい仲の相手と話すような距離感だったが、木崎さんと話したのはじつに二年ぶりのことだった。
オレが家にこもるまで所属していたお遊びサークルにいたのが木崎さんで、一応の礼儀というかその場のノリというかで連絡先は交換しておいたけれど、必要なことはだいたい文章で送られてきていたし、木崎さんがサークルをあっさりやめてしまってからは顔を合わせることもなくなっていた。
いったいどうやってオレの状態を知ったのかはわからない。
けれど、これもなにかの縁だと思った。
木崎さん的に言うなら「そういう流れ」だ。
この先の未来にたった一点の光明も見いだせなくなっていたオレは、人生の自爆スイッチを求めてその「歳喰いの魔女」とやらを探してみることにした。
†
翌日、数か月ぶりの日光にやられながら、オレは木崎さんに教えられた「魔女の館」へと向かった。
そして、驚くほど簡単にソレを見つけてしまった。
表通りの一等地。夏の太陽に燦々照らされて、紅茶色の門扉を構える大きな屋敷があった。
アジサイが咲く庭園を抜けた先、玄関前の表札には「魔女」と彫ってあった。
魔女というからにはもっとこう、薄暗い路地裏に結界のひとつでも張っている様を想像していたオレは拍子抜けして、やはりからかわれたのだろうと肩を落とした。
そもそもをいえば、魔女なんてものの存在に期待していること自体バカげている。
けれどこのまま木崎さんにしてやられっぱなしなのも癪だったので、オレは館のチャイムを鳴らした。
もし人が住んでいるなら、木崎さんからきかされた魔女のうわさをすべて伝えてあの人の悪評をバラまいてから帰りたかった。
『はーい』
扉の向こうから幼い声が返ってくる。
そしてトタトタという足音とともに姿を現したのは、二つに結んだ黄色い髪の幼女だった。
その目はサンゴのように赤く色づいている。
屋敷の中、雨も降っていないのになぜか黄色いレインコートを着ている幼女は、オレの顔を見るとニヘラと笑って中へと手招きした。
彼女以外に人の気配は感じない。
こうなったらいけるところまでいってみようと、オレはその場の流れに身を任せる。
廊下に敷かれた長い絨毯の上を歩いて応接間に通される。
そこにあった高い背もたれのイスにドサリと腰かけて、オレは幼女に尋ねた。
「おまえが魔女か?」
「うん。そだよー」
呆れるくらいにあっさり答えて、幼女は奥から二人ぶんの紅茶を持ってくる。
「歳を喰ってくれるって」
「気分次第でね」
「気分だって?」
「食べたくなったら食べるし、食べたくなかったら食べない。お茶菓子と一緒だよ。べつに食べなくてもいいんだ」
「へえ。ちなみに今の気分は?」
「興味はあるかも」
「なら、喰ってくれよ」
「条件があるの」
「めんどうだな」
ごっこ遊びに付き合うのも飽きたと席を立つオレに、彼女はその条件を提示した。
「どうして歳を喰われたいのか。理由を言うこと」
「それが条件?」
「そう。きいて、おもしろかったら食べたげる」
「結局気分次第じゃないか」
オレはイスに座り直した。
べつに彼女の言葉を信じたわけじゃない。
たぶん、だれかに話したかっただけなんだと思う。
「幼なじみが、もうすぐ結婚するみたいなんだ」
オレは風のうわさで耳にしたことをそのまま語った。
「短大を卒業してすぐ。それなりに金持ってる年上のやつと」
「それで?」
「絶望した」
結婚なんてまだまだ先のことだとオレは勝手に思っていた。
だからいろんなことを先延ばしにして――先送りにして生きてきた。
そのツケを、いっきに叩きつけられたみたいだった。
「だってまだ二十歳だぜ? 結婚とか、さあ……」
「大事な人だったの?」
「…………少なくとも大事にはしてなかったから、こういうことをうわさで知るハメになるんだろうな」
「好きだったの?」
「もういいよ」
ため息を吐いて立ち上がろうとするオレを、しゃがれた声が引き留めた。
「よくないだろう」
ゾッとするほど低く、冷たい声だった。数千歳の歳を重ねた老婆のような。
声のほうに目を向けると、先ほどまで幼女が座っていたはずのイスに、オレと同じくらいの背丈をした女がいた。
身に着けているのは彼女と同じレインコート。
装いはそのままに、まるで身体と態度だけが大きくなったみたいだった。
「…………魔女?」
「いかにも」
身の丈に合わせて伸びたコートのフードを目深に被り、彼女は紅茶を啜る。
そしてソーサラーにカツンとカップを置いて話をもどした。
「どうでもよくないから、こんなところまできてしまっているんだろう? 魔女なんて、到底ありえそうもない与太話に耳も足も傾けてしまうほど」
挑発的な物言いに突き返す言葉はなかった。
まったくもってそのとおりだったからだ。
たぶんオレは、どうかしてしまっている。
だから得体の知れない相手にいきなりこんな話をしてしまうんだ。
「…………好きだったよ、たぶん」
結んでいた口をついて出た言葉は、奥に引っ込めていた思いの丈を連れてくる。
「いつからそうだったのかはわからない。でも、きっとそうだった。オレはあいつのことが――ユキのことが好きで、いつかあいつとなんだかんだで付き合って、なんだかんだで結婚するんだろうなって、花畑になった頭の隅で思ってた」
オレとユキは保育園からの付き合いで。異性であることなんて意識する前から一緒に遊んでいたから。外を駆け回って泥まみれになりながら笑っていたから。あらためて「好きだ」とか「ずっと一緒にいよう」だとか言うほうがなんだかままごと遊びみたいでしっくりこなかった。
――なんて。ホントはそうじゃない。答えはもっとシンプルだ。
オレがただ、自分の気持ちに素直になれなかっただけだ。
「これは自惚れにきこえるかもしれないけど、そう思ってたのはオレだけじゃないって……ユキも同じことを思ってたって気がするんだ」
「どうして?」
「それは、なんとなくだよ」
「なんとなく」
「べつに恋愛に限ったことじゃなくて。あいつがなにを考えているのかとか、なにを悩んでいるのかとか、なにを可笑しく思うのかとか。そういうことが、全部じゃないにしても、すこしはわかってやることができていたんだ。同じように、オレのこともきっとあいつはどこかでわかってくれてた気がするんだ」
口にすればするほど、オレの中にユキとの思い出が蘇ってくる。
この数か月、ずっとフタをして見ないようにしていた記憶の残像がフラッシュバックしてくる。
通学路。うらぶれた個人商店。営業をやめてロープが張られたガソリンスタンド。息を止めて走り抜けた鶏小屋。大きいけれどなんの意味があるのかよくわからない石碑。短い橋。歩道橋。老人ホーム。校門前にある長い坂道。
「…………ああ……」
オレは机に肘をついて項垂れる。
思い出の中にはいつもたのしそうなユキがいて。そんなユキを見て密かに心躍らせているオレがいて。ただ景色を思い起こすだけで、そこであったくだらないエピソードが無限のように押し寄せてくる。
「飲むか?」
いつの間にかオレの隣にやってきていた魔女がカップを差し出してくる。
オレは差し出された紅茶を飲んで、そのまま床に吐いた。
ストレートティーだった。紅茶はミルクティーとかレモンティーしか飲んだことがなかったから、あまりに不気味な味で反射的に喉から逆流させてしまった。
「んもー!」
これまたいつの間にか再び幼い少女の外見にもどった魔女が膨れ顔で雑巾を持ってくる。
オレは魔女と一緒に紅茶を拭いた。
そしていくらか心を落ち着かせてから話を続けた。
「……重ねていたのはなんてことない日々だ。でも、そういう日々を重ねていくうちにオレたちの間で言葉はだんだん省略されていって。相槌だけでも相手がなにを考えているのか察することができるようになっていた。だからオレは、ユキがオレを好きでいてくれていることもなんとなく察していたし、オレの気持ちがユキにバレていることも理解して、一緒にいたんだ」
ユキとよく遊んでいた公園。互いを待ちあっていたコンビニ。わざわざ用を作って立ち寄っていたスーパー。
そういうものをまばたきのうちに思い出し、回想はついにあの日いけなかった夏祭りに追いつく。
そのあとのことは、あまりよく思い出せない。
あの日を境に、オレはユキと一緒ではなくなってしまっていたから。
「オレはユキのことが好きで。ユキもオレのことが好きだから。あいつがオレ以外のやつと結婚するなんて、考えもしなかった。それを本人からじゃなくて風のうわさできくなんて思いもしなかった」
「だから生きるのがつらい?」
オレは長い息を吐き出して、魔女の言葉に返答する。
「好きだった女に見放されて悲しい――なんて言葉に置き換えられるような一過性の絶望じゃないんだ。もしオレがあいつのことを諦めて。他のやつを好きになって。そいつの耳元で愛を囁いたとしても。必ずオレは頭の隅で、胸の奥で、あいつの――ユキの面影を見ちまう。それで目の前の相手をユキに置き換えて、ユキと比較しちまう。それってオレにとっても、相手にとっても、不幸でしかない」
この先手にできるかもしれないある程度の幸福は、すべてユキと紡いだ時間の下位互換でしかない。
そう、悟ってしまったから。理解してしまったから。オレはオレの人生に絶望していた。
ユキと一緒に重ねている時間が自分にとって最大限度の幸福であると知りながら、その幸福がしかと手中に納めておかなければいつかなくなってしまうものであることを、この手が届かなくなるまでオレはわかっていなかった。
失ってからはじめてその大切さに気づいたわけじゃない。
失ってからもしばらくの間、オレはそれを失っていることにさえ気づくことができなかった。
その愚鈍さが、すべての原因だった。
「ふーん」
魔女はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「いかにも、過去に生きてる人間の言葉だね」
オレはなにも言い返せないままに立ち上がる。
そして屋敷を出ていこうとするオレの背に向かって、魔女は言った。
「うん。いいよ」
「……なに?」
「おにいちゃんの歳、喰ってあげる」
「おにいちゃん」
オレは苦笑しながら振り返って尋ねる。
「歳を喰うかどうかはおまえの気分次第なんだよな?」
「うん」
「この話のどこがおもしろかったんだよ?」
「話自体はよくあることだと思うけど、それを話してるおにいちゃんに興味が湧いた」
そういって、魔女はオレのほうにトタトタと駆けてくる。
「その顔」
と、真朱の瞳でオレを見上げて魔女は言う。
「これから先の自分にまったく展望を見いだせないっていう、その顔。歳を喰ってあげたら、ちょっとはマシになりそう?」
オレはいくばくかの沈黙を挟んでから口を開いた。
「オレにはそもそもその歳を喰うってことがどういうことなのか、まだよくわかってない。この場所だって酒に酔った先輩に冗談みたいなトーンできかされたんだ」
「歳を喰えば、今のおまえがいたという事実はまるっと世界からなくなる」
突如として眼下から消失した魔女の声が背後でする。
またあの老婆のようなしゃがれた声になっていた。
「そして喰われたぶんだけ若返り、過去を切り捨て、まったくべつの人間として人生をはじめることができるだろう」
「…………オレのことを覚えてる人間がだれもいなくなるってことか?」
魔女は無言で肯定した。
「一度喰った歳をもどしてやることはできない。加えて、もし歳を喰われたことを他人に話してしまったら、おまえの身体は水泡となって消える。おとぎ話にでてくる人魚のように。歳を喰われるとはそういうことだ」
魔女の声はたしかな威厳と異質を纏ってきこえていた。
「…………」
オレはじっと立ち尽くしたまま考える。今の自分に残されているものについて。
大学はもういく気になれない。
単位は落とした。
両親のことは好きじゃない。
友人と呼べるような相手はいない。
自分自身に価値を見出すことなどできはしない。
今のオレにあるものはどれも、失って差し支えないものばかりだった。
このままオレであり続けても、オレはずっとユキの面影に縋りついて醜態を晒すだけだろう。
今のオレには“もしかしたらありえたかもしれない未来”に想いを馳せ続けたまま朽ちて死ぬしか道はない。
――けれど。
もしユキとの過去も未来も“最初からありえなかったもの”にできたなら。今よりはまだマシな生き方ができる気がする。すくなくとも「最悪」ではなくなれる。
ならば――。
歳を喰われることに。人生の自爆スイッチを押すことに。躊躇いなど、あるはずもなかった。
「……ああ。かまわない。だからオレの歳を喰ってくれ、歳喰いの魔女」
「なら、いくつもらおうか?」
「十年」
こうしてオレは歳を喰われた。
幼女の姿にもどった魔女に唇を宛がわれ、舌を舌でペロリと舐められて。次の瞬間にはもう、オレは十歳の頃の姿まで退行していた。
オレは魔女に別れを告げて屋敷を出た。
そして実際に歳を喰われているか確認して回った。
大学の連中はオレのことをまったく覚えていなかった。
逆光で見えなくするみたいにして学生証からオレの顔が消されていた。
両親は「自分たちに子供なんていない」と電話を切った。
すぐにやってきたアパートの管理職員が借りていた部屋からオレを締め出した。
――オレはちゃんと歳を喰われていた。
それまでの“オレ”は初めからいなかったものとして世界に処理されていた。
今まで関わってきただれからも、オレがいた記憶は消去されてしまっている。
そのことに不安や後悔を感じることはなかった。
むしろ行きづまっていた現実から解き放たれたみたいで清々していた。
「……オレは十歳……オレはショタ……少年法バンザイ!」
オレはユキとのつながりを完全に断ち切り、十歳の子供として新たな人生を歩むことにした。
それから一週間。子供にもどれたらやってみたかったことをひとしきりやってみた。
スカートめくり。子供料金制度の乱用。立ちション。
「…………」
どれもすぐに飽きた。
あとには虚しさと不便さだけが残った。
「…………マナティー」
そしてせめてもの癒しを求めてコンビニに寄った帰り道、オレは二人に拾われた。
オレのことを覚えていないユキと、その結婚相手である夕貴。
絵に描いたような“二人の幸福”に挟まれて、爆破した人生に呪われているみたいだと思った。