ふわついている。
 感覚が溶けているようだった。
 それこそ、夢でも見ているみたいな。
 微睡の心地の中で、オレは魔女と再会する。
「どう? 水泡に帰した気分は?」
 魔女はお馴染みのレインコートを目深に被り、たのしそうにケラケラと笑っていた。
 オレはなにも喋ることができなかった。
 だからこれが本当に夢なのだと理解する。
 あるいは、水泡に帰するというのはこういう状態になることなのかもしれないと思った。
「うん。わるくないって顔してるね」
 魔女はコートのフードをバサリと脱いで、幼い少女の姿になってオレのことをのぞき込む。
「そんなおにいちゃんに、わたしから、ささやかな悪夢をプレゼント」
 魔女はキラッとポーズを決める。
 ――なにか、とてもいやな予感がした。
 正確には、いやじゃないんだけど、なんだかとても小バカにされるような。「結局彼はわたしの手のひらの上で転がされていたのでした」なんて言葉でオレの人生を結論づけられてしまいそうな気がした。
 ウソを吐かずに人を騙す歳喰いの魔女は、オレの夢の中でさえ我が物顔で理を掌握する。
「歳喰いのタブーを犯した子供のおにいちゃんは水泡に帰しました。けれどおにいちゃんはまだたしかにそこにいます。さて、ここで問題」
 ちっちゃな指をピコンと立てて、魔女はオレに問いかける。
「今のおにいちゃんは、いったいどこにいるのでしょう? どこにいて、どうなっているのでしょう?」
 尋ねるだけ尋ねておいて、答えを口にすることができないオレをひとしきり嘲笑うと、魔女はまた世界のどこかに潜伏した。
 意味深で、ある種の呪いめいた言葉を残して。
「この夢から覚めたおにいちゃんが次に見るのは、現実なのかな? それとも、またべつの夢なのかな?」
 オレは呆れながら思うのだった。

「どっちにしても、悪くない世界だといいな」

          †

「……!」
 寝言にしてはずいぶんハッキリ喋ってしまったと、オレはオレの声で目を覚ます。
 それから一瞬遅れて、オレは状況を認識した。
 認識して、唖然とした。
「…………オレ、生きてるのか?」
 掲げた両手が目の上に影を作る。
 体勢を起こしてみるとちゃんと足もあった。子どもの足ではなく、大人の――歳を喰われる前の、オレの足だった。
 ゆっくりと周囲を見回してみる。
 そしてオレは自分がジャングルジムの中にいることに気づく。
 いつかのユキが三角座りをしていた場所。
 魔女が言っていたようにまだ夢を見ているのかもしれないと目を擦る。
 そのときだった。
「カズ、みーつけた」
 ジャングルジムの向こう側で、声がした。
 それはオレがたしかに別れを告げたはずの相手の声だった。
 オレは恐る恐る声がしたほうに顔を向ける。
 しかし空いた穴の向こうにあいつはいない。
 やはり幻聴なのかと肩を落とすオレの顔に、やわらかい感触があった。
 だれかに、指を頬に押しつけられていた。
 オレは頬を凹ませながら指のほうに顔を向ける。
 そして、視線の先に彼女をみつけて。オレは言葉を失った。
「…………ユキ……?」
 ジャングルジムの向こうに、幼なじみのユキがいた。
 ポカンと口を開けて固まるオレに、ユキはいつかと同じ言葉を向ける。
「どうしたの、ぼーとしちゃって。夢でも見てるの?」
 そこでようやく、オレは事態を理解した。
「な、なんでオレ、ってえ⁉」
 思わず飛び上がったオレは盛大に頭をぶつけて。地面にたおれながらイモムシのようにジャングルジムを這い出そうとする。
 それを、前方に立ったユキの足に阻止された。
「…………なんでオレ、生きてるんだ? なんでオレ、こんなとこにいるんだ? なんでおまえ、こんなとこにいるんだ?」
 わからないことだらけだった。
 事実と過程が頭の中で繋がらない。
 オレはたしかにあの式場で水泡になって消えてしまったはずだった。
「やっぱりオレはまだ夢でも見てるのか?」
「そうかもね」
 他人事みたいにクスクスと笑って、ユキはオレの前で三角座りをする。
 そして子どもの頃のような視線の高さで、彼女はオレに言うのだった。
「取りやめになった結婚式の費用。十二歳の浩太くんだった結婚相手。集まってくれた人たちへの謝罪回り。好き勝手なこと言って眠るように気絶した幼なじみ。子どものフリしてわたしと一緒にお風呂入ったり一緒に眠ったりしたへんたい。話せることはたくさんあるよ。なにからききたい?」
「……」
 オレはユキに向かって手を伸ばす。
 パチンと、蚊を払うようにその手は叩き落された。
 すくなくとも、その痛みとこの胸にある感情はリアルだった。
 オレは夢の中で魔女がなにを可笑しそうにしていたのか、わかった気がした。
「…………じゃあ、とりあえず、ひとつ」
「はい」
「オレのこと、まだ好きでいてくれてるか?」
 ユキは大きなため息を吐いた。
 オレはひどく動揺する。
 やがて、そんなオレを見て堪えきれなくなったユキが腹を抱えて笑い出した。
「…………あははっ!」
 ひとしきり笑い転げてひーひー言ってから。ユキはもう一度大きなため息を吐いて。
 そしてなにも言わずにオレの唇を奪っていくのだった。
「――――」
「――――」
 ユキの話をきく限り、これからしなくちゃいけないことは山のようにありそうだった。
 けれど、この口の中に広がる甘い味を思い出すだけで、どんなことでも一緒に乗り越えていけそうな気がした。子供になっていろんなことを投げ出したりせず、まだ未熟な大人として。二人で。
「…………なんて締めくくり方は甘いかな?」
 歳を喰われて。なぜかそれをとりもどして。わかったことがひとつ。

 ――――幸せなキスは、きっと、わたがしの味がする。