後悔はなかった。
むしろ清々しくさえあった。
晴天に昇った太陽は麗らかで。なにかに見切りをつけるにはこれ以上ない空模様だった。
「魔女、さんじょー!」
またどこからともなく現れ出た魔女が、とことこオレのあとをついてくる。
「なんだよ?」
「べっつにー」
雨も降っていないのに相変わらず黄色いレインコートを被って。魔女はオレの後ろをついてくる。
「おまえに言ったとおりだよ。結局ユキはオレじゃなくて夕貴を選んだ」
「そうだね」
「だけどそれはオレを嫌いになったからじゃない。ユキは今でも、これから先も、ずっとオレのことを好きでいてくれている。オレがそうであるように」
「うん」
「ただ、ちょっと、ボタンの掛けちがいがあって。それがどうしようもない差異で。オレが十歳の子供で、あいつは二十歳の大人で。その事実から、あいつの心が逃げられなくなっただけなんだ」
ユキのケータイに夕貴から連絡が入っているのは知っていた。
見るまでもなく、わかっていた。
それをわかっていながら、ユキが一度もケータイを見ようとしなかったことも。
オレたちが周りからどんなふうに見られているかも。
身寄りのない子供と大人がずっと一緒にはいられないことも。
あの夏祭りが二人で願った夢の終着点であることも。
全部わかって、オレも、ユキも、束の間の幸せに浸っていたんだ。
言葉にしないだけで、オレたちにはずっと終わりが見えていた。見えていながら、見えないフリを続けていた。
あるいは魔女にも、やがてこうなることがわかっていたのだろうか?
「それで? これからどうするの?」
魔女が首を傾げて尋ねてくる。
やりたいこと。やれること。すべてをやりきって、すべてを失ったオレに、その質問は酷だった。
本当に、魔女は他人の人生を俯瞰してたのしんでいるのだろうなと思った。
なにをするかは決まっている。
あとは、どうするかだけだった。
「…………」
そこまで考えて、オレは手元にユキが残していった金があることを思い出す。
すべてを終えるのは、これを使いきってからでもいいように思えた。
オレは近くのバッティングセンターへと入り、すべての金をメダルに変える。
そして高校以来の金属バットを手にした。
正面のスクリーンにピッチャーの姿が表示されて、投球モーションに合わせて時速百五十キロの球がマシーンから発射される。
ブン、と力いっぱい振ったバットは盛大に空を切った。
「へたくそー」
「うるさい」
運動は苦手なほうじゃない。
むしろ基本的に球技は得意だった。
ただ、昔から野球とサッカーだけはどうにもうまくいかなかった。
「……くそ」
オレはバットを構え直し、次こそはホームランをぶちかましてやると心に誓う。
時間は膨大にあった。メダルも服のポケットにはとても納まらないくらいあった。
次こそは。
次こそはと。
オレはひたすらにバットを振り続けた。
空っぽの胸にこみあげてくるままならない感情を振り払うように。何度も。何度も。
†
やってきたボールをただ打ち返す。
単純な作業は思考を鈍らせて。行為の意味も、理由も、すべてを鈍色に塗りたくっていく。
いったいどのくらいそうしてバットを振り続けていただろうか。
握り直そうとしたバットが手の中から滑り落ちて、オレはようやく現在に返る。
「…………」
手のひらには無数のマメができて潰れた跡があった。
血と泥が混ざって黒くなった手はひどいありさまで。それを認識した瞬間、オレはバットを握っていられなくなった。
見上げた空は灼熱色に染まっていて。経過した時間の流れをありありと語っていた。
「もうやめちゃうの?」
後ろのベンチに腰かけた魔女が言う。夏祭りでオレが手にしたおもちゃを咥えてピーヒョロ鳴らしながら。
「ずっとそこにいたのか?」
「べつにー。出たり消えたり。そういうおにいちゃんは、ずっとやってたみたいだね」
「なあ、魔女。いいかげんオレから離れたらどうだ?」
「どうして?」
「オレといてもこれからは本当に、つまらないことしかないぞ」
「それはわたしが決めることだよ」
「機械相手にバット空振りし続ける素人なんか見てておもしろいのかよ?」
「ぜーんぜん」
「なにか、言いたいことがあるんじゃないのか?」
「言いたいことって?」
「なにか言いたいことがあるから、未だにオレのところにいるんじゃないのか?」
「そうでもないよ」
それとも、と。魔女は言う。
「なにか言ってほしいの?」
オレはなにも言い返すことなくメダルを投入した。
そして震える手を機械に叩きつけ、痛みを上塗りすることで感覚を麻痺させる。
バカなオレの手はまたバットを握れるようになって。腕を振ると放たれた白球をバットが叩いた。
「ッ……!」
痺れるような痛みを感じながら打ったボールはコロコロと目の前を転がるだけだった。
「…………しょうがないじゃないか。全部。ユキが選んだことなんだから」
説教するでも、慰めるでも、からかうでもなく、ただオレを傍観し続ける魔女を背に、オレはひとり呟く。
「もしオレがあそこで『いかないでくれ!』なんて言ったら、あいつを困らせることになる。あいつだって、ずっと考えて、悩んで、出した結論だろうに」
「うんうん」
「あいつが幸せになれるなら、それがオレにとっての幸せなんだ」
「すばらしいね」
振るったバットが白球に弾き飛ばされる。
みっともなく尻餅をついて、オレは奥歯を噛みしめた。
「オレは、まちがってないだろ?」
「そうだね。まちがってない」
立ち上がってバットを構えようとしたオレはふらついて。ゴン、と左手にボールを被弾して蹲る。
この上なく無様で。なんともみじめで。自然と涙が溢れてくる。
「……まちがってないなら、どうして、こんなに痛いんだよ?」
「デッドボールしたからじゃない?」
「手じゃない。胸が、痛いんだ。呼吸が、苦しいんだ。正しいことをしたはずなのに。後悔なんてあるはずないのに。すべてを終えるには絶好の、清々しい日和だったはずなのに。オレは、こんなところでなにをしてるんだ?」
「ホームランを狙ってるんでしょ?」
ため息をついて魔女が中へと入ってくる。
そしてオレからバットを取り上げると、打席に立ってそのまま流れるように百五十キロの速球を打ち上げた。
「よいしょっ!」
場内にファンファーレが鳴り響き、ネットに吊るされたホームランの印がピカピカと光る。
幼女にしてはあまりにも華麗なスイングだった。
「おにいちゃんは姿勢からしてまずダメなんだよ。ボールを打つときは、ボールじゃなくて前を見るの。視線を前方において、あとはそこにイメージを飛ばそうとすれば、球はちゃんとそっちに飛ぶんだよ」
「野球とサッカーは苦手なんだよ」
「じゃあ、勝手に人生に置き換えなよ」
魔女はオレに向かってバットを差し出す。
「わたしはなにも言わないよ。歳喰いの魔女は歳を喰ったり、与えたりするだけ。おにいちゃんの人生なんだから、どうやって生きて、どうやって死ぬかは、ちゃんとおにいちゃんが決めなよ」
じつに魔女らしいセリフだと思った。
オレは魔女からバットを受け取って立ち上がる。
そして指摘のとおり、視線を前においてバットを振るってみた。
魔女のようにいきなりホームランというわけにはいかなかったけれど、今までよりはいくらかマシな飛び方をした球がスクリーンを叩いた。
「……人生に、ね」
オレはオレの人生に残された“これから”に想いを馳せる。
けれどやっぱりそこにはなにもなくて。ユキのいない人生に意味なんてなくて。ボールを飛ばしたい方向も、打ちたいボールもありはしなくて。
――ああ、やっぱりオレにはユキしかいないのだと思い知る。
もしもオレの人生にまだ続きがあったとして。向かいたい場所が、届けたい言葉があったとして。
結局それは、すべてユキの存在に帰結する。
好きだと伝えた。幸せだと伝えた。あと伝えていないのは、オレがユキの思い出の中で生きていた和樹であることだけ。
でも、それを伝えてなんになる?
オレの存在が水泡になって消えてしまう。そんなことはどうでもいい。
今更、オレが和樹だったと伝えて。目の前でオレが消えていくのをみせつけて。それでユキがよろこぶはずがない。
きっとユキは、悲しむ。オレが消えてしまうことを。夢の中で幸せそうに微笑む“カズ”がいなくなってしまうことを。
だからユキはなにも言わずオレのところから去って。オレはユキの知らないところでひっそりと命を絶つ気でいた。
わかっている。全部じゃないにしても、それくらい、ユキのことはわかっているんだ。
なら、どうして、オレはまだ、こんなことを考えている?
どうして、まだ、未練がましくユキのことを考えてしまっている?
“まだオレが知らないユキの本当の気持ち”について、思いを巡らせてしまっている?
「そういえば、今でようやくイーブンだね」
と、おもむろに魔女が口を開いた。
「イーブン?」
「あれ? でも、意味がちがうかな? おあいこ? 喧嘩両成敗?」
「だからなんの話をしてるんだよ?」
「高校生のおにいちゃんがおねえちゃんから逃げて。大人になったおねえちゃんが子供になったおにいちゃんから逃げて。これでどっちもいくじなし」
「…………」
「やーいやーい、いくじなし!」
いくじなし。
その言葉は、意味も使い方も合っているのかもしれない。
オレも、ユキも、結局、自分の気持ちより優先してしまうものを見つけてしまった。周囲の目とか、不確かな未来に怯えて。大事なものをずっと手の中で大事にし続けることができなかった。
そしてオレは大事なはずのユキがいつの間にか自分の世界からいなくなっていることに気づいて。絶望して。魔女なんてわけのわからない相手に歳を喰われた。
「今度はいつか、ユキがおまえに歳を喰われるってか?」
「喰ってあげるかどうかはわたしの気分次第だけど。もしそうなったら、そのときのおねえちゃんは最悪な顔をしてるだろうね。いなくなった幼なじみの幻影に囚われて。二度と会うことのできない相手をみじめに思い続けている。かわいそうで、おもしろくて、きっとわたしはおねえちゃんの歳を喰ってあげたくなるよ。だって、すくなくともそのときより最悪な顔になることはないんだから」
なるほど。それはたしかに、最悪だ。
もしそんな未来が確定しているのなら。オレはまだ死ぬわけにはいかない。
魔女に歳を喰われて水泡に帰すことがどれだけ残酷で、憐れなことなのか。しっかりユキに教えて、決して魔女なんて存在に人生を明け渡さないように言ってきかせないといけない。
オレのようにはならないようにと、オレの無様さを見せつけておかないといけない。
「…………ははっ。なんてこった。せっかく幸せに別れたってのに。だとしたらオレは、あいつに忠告するために、もう一度あいつに会いにいって、最後にもう一度あいつを傷つけなくちゃいけないじゃないか」
思わず、乾いた笑いが漏れてしまう。
本当に、呪われているみたいな人生だ。
オレの未来は真っ暗で。そこに一点の光をみつけたと思ったら、オレにはその光を手にすることができず、いたずらに引っ掻いて、傷つけて、この暗闇から追い出してやることしかできないなんて。自分から遠ざけることでしか、自分を遠ざけることでしか、あいつを守ることができないなんて。
なにより最悪なのは、そんな選択肢しかなかろうと、オレにまだできることが残っているというだけで、心に活力が湧いてきてしまうことだ。
「互いに互いから逃げて。最後にオレが追い縋ったら、このチキンレースはオレの勝ちかな?」
「レースになんかなってないでしょ。バカじゃないの」
「まったくだ」
「強いて言うなら綱引きだね。いきなり綱を放しておねえちゃんに飛びつこうとしたおにいちゃんの反則変態負け」
「ちがいない」
オレは血だらけの手でバットを握りしめながら思う。
よくよく考えれば、オレは元々だれかのためになんて。ユキのためになんて。そんな高尚な理由で動けるような人間だったか?
ちがう。オレはユキが結婚すると知ってひとりで絶望して。ユキに会って直接理由を聞き出そうともしないまま魔女に歳を喰わせて。それで悲しんだりする人間のことも考えず。マナティーに会えない寂しさばかりをシコシコ嘆くような、とんでもなく自分勝手な人間だったじゃないか。
偶然ユキと再会して、無意識のうちにずっと背伸びをしていた。
子供のくせに、大人のフリをしていた。大人でもないくせに。
オレというやつは、ユキのために死んでやれるほど立派な人間じゃない。
だから、ユキを言い訳にするな。
大事な幼なじみを傷つけて放っておくような最低な人間は、最低な人間らしく、ちゃんと最後まで自分の気持ちのままに生きろ。自分を騙すな。
オレにはまだ、あいつを困らせてでも伝えておきたい特別な気持ちがあるじゃないか。
まだオレは、あの言葉をちゃんと“オレの言葉”として伝えていないじゃないか。
それを伝えないままあいつと別れるわけにはいかない。
「なあ、魔女」
「なあに?」
「最後だ。あの話、やってみるか」
「あの話って?」
スクリーンに映し出されたピッチャーが投球モーションに入り、時速百五十キロの球がマシーンから放たれる。
オレは前だけを見て。ボールの到達点をイメージしながらバットを振るった。
鳴り響いたファンファーレを背に、オレはバッティングセンターを飛び出した。
「乗り込むぞ、大事な幼なじみの結婚式に」
†
オレは駐輪場に停めてあった原付を拝借し、アクセルグリップをグイと捻る。
ブワンと唸りを上げて、黒いガスを吐き出しながら、原付はオレを生まれ育った町へと運ぶ。
すぐにケーサツに見つかって追われながら、オレはヘルメットを脱ぎ捨てて笑っていた。
「おい、いるか? 魔女!」
「いるよー」
座席の後ろで魔女の声がする。
「実際、どうだよ、今のオレは?」
「窃盗に、道路交通法違反に、免許不携帯。罰金だけじゃ済みそうにないねー」
「問題ない。ふんぞり返った警官の前でメダルばらまきながら逃げきってやる」
「わー! わるいんだー!」
「そうじゃなくて! 今のオレの顔だよ!」
「後ろからじゃ見えないんですけどー?」
「今のオレは、前を向いてるか?」
「鏡でも見てみれば?」
「なるほど」
オレはサイドミラーに自分の顔を写す。
車体が大きく傾いて。タイヤのホイールが路面を擦っていた。
「わわっ⁉ ちょっと! 危ないじゃん! バカ!」
「おまえが鏡でも見ろって言ったんだろ」
「ぶー! そんなの見なくたってもうわかってるんでしょ!」
オレの心は晴れやかだった。
魔女に歳を喰われてすぐの頃よりも。自由で、気ままで、希望的だった。
「今のおにいちゃんは、とってもわるいけど、そのじつけっこうわるくないよ」
「つまり?」
「歳を喰ってよかったなって」
うるさいサイレンを鳴らし続けるパトカーをまいて。
夕焼けの向こうにある夜さえ越えて。
オレは車線も引かれていない田舎道でバイクを走らせ続ける。
「ねえ、おにいちゃん。今、どんな感じ?」
「どんなって?」
「生きてるって感じ、する?」
「ああ。おかげさまでな」
「へへっ」
「これ、半分くらいは皮肉なんだぞ」
「ヒニク? 幼女だからわかんなーい!」
「はいはい、ババアババア」
背中をポカポカ殴られながら、オレはすこしだけバイクのスピードを落とした。
「まあ、本当に感謝はしてるよ。やっぱりそれだけじゃないけど。おまえのおかげで、今は心に曇りがない。今がいちばん、自分自身の気持ちに素直になれてる感じがする」
「明日には消えてなくなっちゃうけどね」
「オレが消えたらどうなるんだ?」
「歳を喰われたときと同じだよ。子供のおにいちゃんがいたって事実がなくなって、おにいちゃんの存在がまるっと世界からなくなっちゃう」
「でも、覚えてるやつもいるんだろ?」
「そーいうこと。ようやくわかってきたみたいだね。歳喰いについて」
「どうだろうな。おまえは結局ウソを吐かずに人を騙すところがあるから。わかったような気でいると足元を掬われそうだ」
「そこまでわかってるなら花丸だよ」
オレと一緒になって魔女はケラケラと笑っていた。
やがて地平線に朝日が顔を出し。世界に夜明けが訪れる。
眩しい光に包まれながら、オレは人生最後の朝を走り抜ける。
「なあ、魔女。おまえ、そういえば名前はなんていうんだ?」
「そんなの、きいてどーするの?」
「べつに。ただの興味だよ」
「残念。わたしは魔女なのでした。名前なんてなくて。概念として在り続ける、歳喰いの装置なのです」
「なら、オレが名前をつけてやろうか?」
ペラペラと快活に回っていた魔女の舌が止まった。
そして、いくばくかの沈黙を挟んで魔女は答えた。
「いいよ、そんなの。そうやって変におにいちゃんが生きてた思い出を残されると、ときどき急に寂しくなっちゃう」
「やっと人間らしいことを言いやがったな」
ずっとうまくしてやられていた魔女に一矢報いることができると、オレはわるい笑みを浮かべながら言ってやる。
「木崎」
「え?」
「おまえの名前は木崎だ」
「勝手に決めないでよ」
「ちょうどおまえみたいに人を喰ったような物言いをする先輩がいたんだ。おまえのうわさをオレに教えてくれた人だよ。おまえはこれからその名を名乗れ」
「……ふんだ。やだね。そんな名前も、おにいちゃんのことも、百年以内に忘れてやる」
「それはなんとも、長い一生だ」
朝焼けの空に青が馴染み、小鳥の囀りがきこえてくる頃。
ガス欠になったバイクが動きを止める。
そこは既にオレとユキが共に過ごした町の中で。目の前にはカリヨンの鐘を称えるチャペルがあった。場内から二人を祝福するオルガンの音が漏れ聞こえていて。既に式が始まっていることを世界に伝えていた。
「さよならだな、木崎さん」
オレはバイクから降りて大きく深呼吸をする。
そして走馬灯のように人生を振り返った。
やっぱり、オレが思い出すのはユキと過ごした日々ばかりで。
記憶の中の景色と一緒にユキの姿が蘇る。
夜の河原で再開したユキはオレを昔と同じあだ名で呼んで。逃げるように出ていこうとするオレを縋りつくみたいな手で引き留めて。買い物に出かけて。いきなり泣き出して。突然姿をくらませて。公園のジャングルジムで三角座りをしていて。未だにオレを好きでいると語って。ぶたれて。走って逃げ出して。
うらぶれた個人商店を越えて。営業をやめたガソリンスタンドのロープをくぐり。鶏小屋の前は息を止めて走り抜け。大きいけれどなんの意味があるのかよくわからない石碑を周り。短い橋を渡り。歩道橋をくぐり。老人ホームのまえを通り過ぎて。
ユキを攫って。ままならない現実から逃げ出そうとして。ずっとしたかったのにできなかったことを互いにやり尽くして、笑い合って。たのしくて。幸せで。満たされて。限りない充足感の中にオレたちの物語は幕を閉じた。
そして、オレはその物語をすこしだけわがままに書き換えようとしている。
「…………」
一瞬の回想を終えて、オレは目を開ける。
大丈夫。いつかのように気持ち悪くなって吐いたりはしない。
回想を終えてなお、オレの気持ちは揺るがない。
「おにいちゃん」
背後で魔女の声がする。
振り返ると、大人の姿になっていた魔女に両手で頬を挟まれた。
真朱の瞳がじっとオレの顔を見つめる。
そしてやがて、魔女は幼い少女のように純粋な顔でニコリと笑った。
「うん。ずっと、この顔が見たかった。今のおにいちゃん、いい感じに前を向いてる」
オレはふうと息を吐いて、自然と零れた笑みを魔女に向けた。
「ありがとな、木崎さん」
「魔女」
「ありがとな、魔女」
魔女はオレの背中をパン、と叩いて声を張った。
「最後までたのしませてね! おにいちゃん!」
「やなこった!」
オレはべえーっと舌を出してから駆け出した。
今まさに結婚式が行われているチャペルに向かって。
花びらで飾られたアーチをくぐり、純白のタイルを踏み抜いて。
見えてきた式場へと続く扉の前で、オレは息を切らして立ち止まる。
「……なにしてるんだよ? こんなとこで」
幸せを鳴らすカリヨンの鐘の下に、白いタキシード姿の夕貴が立っていた。
「式、もうはじまってるんじゃないのか?」
「キミこそ、なにしにきたんだよ?」
オレとユキの間になにがあったのか、夕貴はおよそ察しているようだった。
そのうえで夕貴はタキシードを着て、胸に造花を差している。
「オレにとっていちばん大事な幼なじみを、困らせにきた」
「ふざけるのもいい加減にしろよ」
「扉の向こうに、ユキはいるのか?」
オレは夕貴のほうへと歩み寄る。
夕貴は立ち尽くしたまま、オレを殴ることも阻むこともしなかった。
「…………なんで、僕じゃダメなんだよ……」
震える夕貴の拳はその怒りを自分自身に向けていた。
「…………なんで、キミなんだよ……っ!」
「……なんだ?」
夕貴は俯いたまま歯ぎしりして、オレに道を譲った。
「…………ユキなら、この奥だ。ウェディングドレスを纏ったユキは、僕なんかの言葉じゃとても言い表せないくらいに……キレイだよ」
「どうしてオレを通す?」
「…………帰ってきたユキは、人が変わったみたいに僕に愛を向けてくれたよ。ああ、やっと報われたって、思ったよ。僕にも彼女を幸せにできるんだって思って、うれしかったよ。彼女のためなら世界中を騙したってかまわないって思ったよ」
「…………」
「…………でも、それは僕の話だ」
そう言葉を区切って、夕貴は続けた。
「いいわけ、ないじゃないか。彼女が自分自身を騙し続けることなんて。それで彼女が……ユキが、幸せになれるわけないじゃないか」
“向こう側”からきこえてくる祝福の曲には不釣り合いなほど顔を歪ませて。感情を噛み潰しながら夕貴は言う。
「僕だってずっとユキのことを見てきたんだ。だから……だからこそ……わかったよ。僕のことを好きだと言って、僕の隣で幸せを語るユキを見て、わかるしかなかったよ。僕がどれだけ努力しても、ユキを幸せにすることはできない。ユキの幸せは、僕が到底立ち入れない領域に閉じ込められて、だれにも開けないようになってしまっている。生涯ウソを重ねても――自分を騙し続けても平気なくらいに――彼女は、僕の知らないところで僕が知らない幸福を手に入れていたんだ」
「…………それが、なんだっていうんだよ?」
「だから、キミが言うとおりだったってことだよ。僕にユキを幸せにすることはできない。僕のウソはいつかバレるし、ユキが僕を彼女にとってのいちばんに置くことはない。好きだと言われても、愛していると言われても、それは永遠不変になったキミを比較対象から除外してのことだ」
「だから、それがなんだって言うんだよ?」
「…………ユキを連れていくならどこへでも――――」
その先のセリフをきく気にはなれなかった。
オレは握りしめた拳で夕貴のことを力いっぱい殴りつけていた。
ふらりとたおれてうなだれた夕貴の身体が式場の鐘を鳴らす。
「ふざけたこと言ってんのはどっちだッ⁉」
オレは夕貴の胸ぐらを掴み上げる。
「だったらどうしておまえはそんな恰好をして! そんな姿をして‼ こんな場所に立ってるんだよ⁉」
「…………式の準備はすべて終わってた。今更それを台無しにはできない」
オレは夕貴の顔に拳を振り下ろす。
キレイな鐘の音がまた勝手に鳴り響く。
「ユキを幸せにするって言ってたおまえの覚悟は、その程度なのかよ⁉」
「ユキの気持ちが変わらない以上、どうしようもないじゃないか!」
「それもウソだろ!」
オレは叫ぶ。
夕貴への憤りと、自分自身への戒めを。
「おまえはあいつの気持ちを知ったうえであいつに取り入ったんだろ! もしおまえが本当にあいつの幸せだけを願っているなら、おまえはバカみたいな顔で真実を話して、滑稽で優しいボランティアのピエロとしてオレとユキを繋ぐべきだったんだ! でもおまえはそうしなかった! 歳を与えられて。別人に成り代わって。そんな姑息なやり方でユキの愛を掠め取ろうとしたんだ! おまえとオレは、だから一緒なんだよ! 悔しいけど! 認めたくないけど! どっちもどっちの、最低野郎だ! バカ!」
幼稚で品のない暴言が純白のチャペルに泥を塗っていく。
「……ここですべてを投げ出してオレに道を譲ろうとしているおまえは結局、身体ばかりデカくなってがらんどうの――大人になりきれてない子供だ。それでオレは、あいつをもう一度傷つけるのが怖くて、言うべきことを言わずに消えようとしちまうような――臆病で、長い間子供になりきれなかった大人のなりそこないだ」
荒くなった息を吐き捨てて、夕貴のタキシードを掴んで立たせる。
「…………もし、大人になるってことに正解があるとしたら。それはたぶん、他人を慮るフリができるやつでも、世界中の人間を騙せるやつでもない。自分にも、他人にも、ウソを吐かずにいられるくらい、堂々と前を向けるやつのことだ」
オレは夕貴から手を放す。
夕貴は――大人の身体を手に入れただけでそのじつ十二歳の浩太は――そのままカリヨンの鐘の下に崩れ落ちた。
「…………そこで見てろ。今から、子供のオレが、一瞬だけ大人になってやる。それでもし、十年後でもいいから、ちゃんと大人になったおまえが、ちゃんとユキのことを幸せにする覚悟ができたとき、真正面向いてオレの言葉に言い返してみやがれ」
オレは鐘の紐を引いてそれを鳴らしまくった。
式場にデタラメな祝福の音が鳴り続ける。
それはオレなりの挨拶だった。
ユキにならきっと通じる――まっすぐ捻くれた人間の祝辞だった。
「…………ふう」
握っていた紐を離し、再び扉の前に立って大きく深呼吸。
目を閉じて夢を見て、目を開けて現実を見る。
あいつの気持ちがちゃんと“オレ”に届いていることを教えるために。オレたちが重ねた時間を「夢」なんて言葉で括らせないために。
オレは真っ白な扉を蹴り開けて式場の中へと踏み入った。
中には赤い絨毯が敷かれていて。両端には大勢の来賓がいて。壇上には間抜け顔の牧師がいて。そしてその前には、純白のドレスに身を包んだユキが立っていた。
「…………カズくん?」
一瞬、その美しさに息を呑んだ。
決意したすべてをないがしろにして、あいつともう一度、永遠を生きたいと思ってしまった。
そんな愚かさを一笑で捨てて。
オレはオレに注目するユキの両親や、友人や、見覚えのある教師たちの真ん中で、今この瞬間、世界でいちばん祝福されている幼なじみをまえにして、オレにとって一生涯、世界でいちばん大事な相手であり続けるユキに向かって、最後の秘密を打ち明ける。
「――――歳喰いの魔女の話を知ってるか⁉」
周囲がざわめき始める中、ユキだけはオレの言葉に、表情に、耳を、目を、傾けてくれていた。
だから、オレの身体から昇り始める水泡に、だれより先に気づいたのも、ユキだった。
「なんでも、人生に絶望したり、後ろ向きな生き方をしているやつの歳を喰ってくれるらしいいんだ! 歳を喰われたやつは喰われたぶんだけ若返って、まったく新しい人間として人生を始められるんだってさ! それまでの記録や記憶はすべて消去されて。夢みたいな話だろ? だからべつに信じなくていい。これはただの……ずっと好きだった幼なじみにちゃんと好きだと言えないまま、絶望して歳を喰われたっていう、未練ったらしい男の空想みたいな話だから!」
ぶくぶくとオレの腕が泡立ち、シャボン玉のように水泡が天井へと昇っていく。
同時に、子供の姿だった身体が徐々に元の背丈を取りもどしていく。
視線の位置が高くなり、ユキとまっすぐ目が合うようになっていく。
「そいつは卑怯なやつでさ! その幼なじみのことが大事だってわかってるのに、自分じゃないだれかにならないとやさしくすることもできなくてさ。わざと迷惑をかけることでかまわれようとしたりして、冷たくしても温かくされることに慣れててさ。相手の気持ちなんて、不安なんて、考えようともしなかったんだ。相手のことをわかった気になって、通じ合えてる気になって、大事なのに、大事にしないまま、ひどい態度でそいつのことを傷つけてばかりだった。ホントに、だれだよそんな最低なやつはってな。まあ、全部オレのことなんだけどさ」
昇る水泡が視界を遮る。
透明な泡の向こうにいるユキの姿が滲んで溶けて、見えなくなる。
時間がない。
「――――ユキ‼」
オレは彼女の名前を叫ぶ。
その姿を、消えゆく魂にまで刻みつけようと、彼女の名前を叫んで、オレはユキに言う。
「たった一言でよかったのに! ずっと思ってたのに! オレがオレとしてこのセリフを言うのに、二十年もかかっちまった! 二十年もかかって、言った瞬間消え去っちまう身体になっちまった! だから今更こんなこと伝えたら、またおまえのこと傷つけちまうかもしれないけどさ! でも、それでもオレは、おまえに言わなくちゃいけないんだ! 言いたいんだ! 言わずにはいられないんだ! ユキ‼ オレはおまえのことが――――」
「――――ずっと好きだったよ‼ カズ‼」
――――ああ、なんてこった。
ここまできて、先に言われちまった。
最後は、オレのほうから言いたかったのに。
実らない愛を告げられて。魂にまで消えない傷をつけられて。困らせられてしまった。
消えたくないと、思わされてしまった。
「――――カズ‼ 待ってよッ‼」
泡の中に映るユキの目を見て、確信する。
オレが本当の姿にもどっていることを。
ユキがすべてを思い出したことを。
「カズ! カズ‼」
ドレスを引きずりながらユキが駆けてくる。
浅い階段でつまづいて、ユキはみっともなくすっ転ぶ。
鼻から血を出して、キレイな化粧を台無しにしているのが泡と泡の間から見えた。
――本当に、ぬかりない。
そんな調子で大丈夫なのか、なんて。心配で、化けて出ちまいそうだ。
「おいてかないでよ‼ カズ! やっと、思い出したのに! 夢じゃないって、やっとわかったのに! 現実がやっと夢に追いついてくれたのに! やっと素直になれるのに! なんの後ろめたさもなく好きだって言えるのに! カズ! カズ‼ 和樹ッ‼」
ひどい顔で泣きながら、ユキがオレに向かって手を伸ばす。
その手をオレが掴むことはない。
次第に薄らいでいく意識の中で、オレは最後に大好きな幼なじみの泣き顔を見る。
――――それはでも、やっぱりすこし、哀しすぎたから。
オレは「大人になってやる」と浩太に言ったその口で、ユキにひとつだけ子供じみたウソを吐いた。
「安心しろよ、ユキ。言ってたじゃないか。夢の中みたいな現実で」
二人でいけた夏祭りの夜を思い出しながら、オレはユキに言う。
「おまえはもう、オレを知ってるんだから。オレのことを忘れたりなんかしないし、おまえが覚えていてくれる限り、オレはいなくなったりもしない。だからもしオレに文句でもなんでも言いたいことがあるなら、オレのことを呼びつけろ。そのときはオレがどこにいようとおまえをみつけて、いつでも会いにいってやる。現実みたいな夢の中にでも。夢みたいな現実の最中にでも」
「…………もし、ウソだったら?」
「世界にダイヤモンドの雨を降らせて金魚鉢で泳いでろ。そしたらオレのほうから掬いたくなって、なにがなんでもおまえに手を伸ばしちまうにきまってる」
ユキがポカンと口を開ける。
そしてあの日の会話を思い出し、やがて彼女は可笑しそうに言うのだった。
「…………バカみたい」
「バカなんだよ。おまえに好きだっていうためだけに歳を喰われちまうくらいに」
「ホントに、ばか」
「わるかったな」
「わるいよ。現実でわるいのは、いけないことなんだよ?」
「じゃあ、この続きはとりあえず、今夜の夢で話そうぜ」
「なにそれ」
「好きだぞ、ユキ」
「冗談みたい」
「本気だよ、ばか」
「知ってるよ、ばか」
そんな軽口を最後に、オレの意識はすべて水泡へと変わった。
二十年もの間互いを想い続けた幼なじみの話を結ぶには、じつにちょうどいいやりとりだった。
そしてその日の夜、オレはユキが見た夢の中で約束通り彼女と再会し、ちっとも尽きない文句と、ちょっとばかりの愛を囁かれるのだった。