「お客様、なにか年齢確認できるものはお持ちでしょうか?」
「ポイントカード」
「申し訳ございません。登録情報にエラーが出てしまいまして」
「免許証」
「申し訳ございません。ご本人様のものでなければ認証できない決まりでして」
「それ、オレのだって」
「お顔が一致いたしませんので」
「オレ、どうみても成人してるだろ?」
「申し訳ございません」
「……」
「申し訳ございません」
オレはレジに並べた本を投げつけて逃走した。
涙の味が塩辛かった。
店員の目が、マセたガキだと笑っていた。
本の中でマナティーも一緒になって笑っていた。
「今日も変わらず、最低な日々だ」
高架下。生え散らかった雑草の上で横になる。川のほとりを丸い月の光が照らしていた。
歳を喰われて、二週間。
子供でいることがこんなに不便だなんて、大人になるまで気づかなかった。
酒はあまり好きじゃないからいい。でも、最低な日々をマナティーに慰めてもらえないのはつらすぎる。タバコも買えない。バイクも乗れない。挙句ちょっと夜道を歩けばすぐに補導だ。
「ねえ、キミ」
ほら、きた。
ケーサツが三回。赤ら顔のおっさんが二回。変態丸出しjkが一回。今まで声をかけてきた。
十歳の男子がひとりで夜にうろついてるってのはそんなに珍しいことなのだろうか?
もう、放っておいてほしい。
オレはもう、いろいろと、ダメなんだ。
「ねえったら」
しつこい呼びかけに観念して首を上げる。
そしてオレは人生を呪った。
「もしかして、ひとりなの?」
ずいぶん長く伸ばされた髪の黒が、夜の光を浴びて艶やかに映えていた。
夏の夜。生温かい風が白いブラウスの裾を撫でていた。
その佇まいは年相応に大人びていて。見たこともないほど奥行きのある笑みで首を傾げている彼女のことを、しかしオレは知っていた。
一目見た瞬間に。あるいは声をかけられたときにはもう既に。彼女がだれなのかわかってしまっていた。
僅かに垂れた目尻。耳たぶにある小さなほくろ。なんでもない会話で弾む声。
極めつけは、呆然とするオレのまえで手を振りながら口にされた言葉。
「どうしたの、ぼーとしちゃって。夢でも見てるの?」
河川敷に立っていたのは、オレがよく知る二十歳の幼なじみだった。
「…………ユキ……」
「え?」
ユキが目を大きくして驚く。
「わたしのこと、知ってるの?」
「…………いや」
オレは目を逸らした。
本当に、最低で、最悪の気分だった。
「おうちは?」
「捨てた」
「おかあさんかおとうさんは?」
「殺した」
「こらっ」
「……捨てた」
ユキが眉を寄せてため息を吐く。
態度ほど呆れた感じではなかった。
そして彼女は昔のように、変わらぬ善意でもってオレに言うのだった。
「じゃあ、うち、くる?」
ユキがオレに向かって手を差し出す。
かつて何度もそうやって差し出され、何度も掴んできた、白くて細い手だった。
けれど今のオレにその手を握る資格はない。
資格はないのに。
いつのまにか、気がつくと、オレはその手を掴んでしまっていた。まるで、自分にとっていちばん居心地がよかった思い出に縋るように。
「よし」
ユキがオレの手を軽く引き上げる。
そして彼女は振り返り、背後に立っていた男に向かって言う。
「そういうことだから。夕貴」
男は胸ポケットから取り出したメガネをかけてやさしく微笑む。
「ああ、いいよ」
スッキリとした茶色の短髪。
夜の空気にも馴染む程度の爽やかさを着こなした男だった。
ユキよりいくつか年上に見える男は、ユキに向けたのと同じ笑みをオレにも向けた。
その表情には人としての余裕が感じられた。
「キミ、なまえは?」
「…………和樹」
「じゃあ、カズくんだ」
ポン、とユキが手を叩く。
その呼び方が昔と同じであることを、きっとユキは知らない。
「なんでもいいよ」
オレはユキの手を振り払おうとする。
けれど先にユキのほうからぎゅっと手を握られてしまい、そうなるともう、十歳の力では抵抗の余地などなかった。
やがておろそかになっていたほうの手も夕貴に握られる。
ユキの手も、夕貴の手も、夏の夜にしてはひどく冷たくオレの手に張りついていた。
「…………」
ユキと夕貴の二人に繋がれて、オレは二人の家へと連れていかれる。
「なんだか家族になったみたいだね」とユキが言った。
「もうすぐなるだろ」と夕貴が言った。
「じゃあオレは二人の子供か」とオレは言った。
二人は数秒顔を見合わせて、それから一緒になって笑った。
互いの間には幸福が滞留しているようだった。
今すぐここに核ミサイルをぶち込んでほしかった。
世界のどこかで魔女の嘲笑がきこえた気がした。
†
道中、ユキと夕貴が他になにを話していたのかはよく覚えていない。
オレの素性についてはあえてきかず、とりとめのない話題に花を咲かせていたのはうっすらと記憶している。
それはたぶん二人の気遣いで。訳ありらしいオレの気を晴らすためか、いつもよりほんのすこし大げさなリアクションで互いに笑いあっていた。時折ちゃんとオレに話を振りながら。
そういう優しさが、逆にオレを一層みじめな気持ちにしていた。
話のテンポ。ハッキリとしない相槌。「そういえば」で抓み出される過去の出来事。
交わされるなにげないやりとりのいたるところに二人が今日まで積み重ねてきた時間の基盤が見てとれて。きけばきくほどオレはオレ自身の不甲斐なさと無力感に苛まれ。耳を塞ぎたいのにあいにく両手は善意の縄に縛されて。耳を伝って脳と心臓に流し込まれる事実をまえに、十歳のオレにできたのは「忘却」だけだった。
忘れたことにしなければ、身体が風船のように破裂してしまいそうだった。
小さな身体に溜め込んでおける空気の量は多くない。
望まぬ情報の空気は宛ら毒薬のようで。忘れてもなお、オレの内側をジクジクと病んでいた。
「とうちゃーく」
と、ユキが朗らかな声を飛ばす。
街の賑わいから少し離れたところにあるタワーマンションが目の前にあった。
エントランスとエレベーターのダブルオートロック。パッと目についただけで防犯カメラが三つ。モダンクラシックな床と暖色の照明。隅には青々とした観葉植物がいくつか。
オレがひとりで暮らしていたアパートとはセキュリティも内観も雲泥の差だった。
ユキと夕貴はそのマンションの五階に住んでいた。
「はい、どうぞ」
夕貴がカギを開け、ユキがオレの手を引く。
玄関にある照明のスイッチを押すと、キレイに整頓された2LDKが目に飛び込んできた。
「どう? けっこういいところでしょ?」
「……ああ。そうだな」
皮肉のひとつでも言ってやろうと思っていた。けれど、なんだかそういうのもバカバカしくなるくらい、行き届いた部屋だった。
ユキと夕貴の部屋がそれぞれあって。互いに互いの時間を尊重しながらリビングで一緒の時間を過ごしている。そんな絵が一瞬で頭に浮かんだ。
「じゃ、まずはお風呂入ろっか」
ユキがオレの背中をポンポンと押して脱衣所のほうに連れていく。
「一番風呂、もらっていいのか?」
「大人みたいなこと言っちゃって」
おかしそうに笑って、ユキはオレの耳元でささやく。
「なんなら、一緒に入ってあげようか?」
胸がバクンと高鳴って、顔が不良品のスマホみたいに熱くなるのを感じた。
「ひとりで入れる!」
「そっか」
くるりと身を翻してユキは脱衣所から出ていった。
すこし、もったいないことをしてしまったかもしれない。
そう思うと同時に、ここで子供であることの利点を使ってしまったらオレは“今の自分”すら許せなくなってしまうような気がした。
『お風呂が沸きました』
浴室のほうから給湯器の声がする。
オレは汚れた服を脱ぎ捨てて湯船に浸かった。
大人でも足を伸ばして入れるくらいの広さだった。
子供のオレならバタ足だってできる。
「ばしゃばしゃ! ばしゃばしゃ! きゃっきゃっきゃっ!」
十秒くらいはしゃいでみて、込み上げてきた圧倒的な虚しさに溺れた。
「…………なにやってんだ、オレは」
もうすぐ結婚する幼なじみの家に転がり込んで。風呂なんか借りてしまって。
きっと今頃リビングではからかわれて赤くなったオレのことをユキが話して笑ってるんだ。オレの今後みたいなテーマで議論しつつ、明日の夕飯とか昨日見た番組とかに話を脱線させてたのしんでるんだ。
――いっそオレがオレであるとバラしてやれば、ちょっとは深刻なムードになるだろうか?
「それは、ダメなんだよー?」
「むわっ⁉」
張られた湯の底からにゅるりと幼女が顔を出す。
黄色い髪が浅い胸の輪郭に沿って流れ、小さな身体がオレの胸へと押し当てられる。
「正体をバラすのは、ダメなんだよー?」
真朱の瞳でじっとオレの目を覗きながら、歳喰いの魔女はそう言った。
「な、なんでおまえがここに……っていうか服を着ろ!」
「でも、ここはお風呂なんだよー?」
「今はオレが入ってるんだ!」
「幼女は男湯に入ってもいいんだよー?」
「数千歳のババアがなに言ってぶごぶばぶべぶ⁉」
顎に魔女パンチを入れられてオレは湯船に沈んだ。
「くすくす。ショタのくせに男とか女とか、おっかしいんだー」
股間を隠して浮上するオレに、再度魔女は忠告する。
「正体をバラすと、泡になって消えちゃうんだよー?」
呑気な調子で口にされたその言葉には、しかし真実味のある圧があった。
オレはごくりと唾を呑む。
そのとき、くもり戸でしきられた脱衣所のほうからユキの声がした。
「カズくん、どうかした?」
「な、なんでもない!」
まちがっても幼女と混浴している現場を見られるわけにはいかなかった。説明にも、言い訳にも、困り果てる。
「わかったー?」
首を傾げる歳喰いの魔女に、オレはこくこくと頷く。
「わかってる。だれにも言わない。言えるわけない」
魔女はニコリと笑って湯の中に沈んでいく。
そして入浴剤が溶けるようにその姿を世界のどこかに霧散させた。
「ひとりごと?」
ホッと一息吐くオレにユキが尋ねる。
「ああ。まあ、そんな感じ」
そう答えてから、オレは違和感を覚えた。
さっきよりユキの声が近くできこえていた。
彼女の声を遮るものがなくなっていた。
オレはゆっくりと顔を横に向ける。
浴槽の傍にあるイスに、裸のユキが座っていた。
「…………はあ⁉」
立ち込めた湯けむりの奥に、昔と変わらない白い肌と、成長して膨らんだ大きな胸があった。
オレは咄嗟に顔を背ける。
ちゃぽん、という音がして、ユキの細い足が湯船に波紋を作る。
「な、なんで入ってきてんだよ⁉」
「へへっ。なんとなく」
ユキは肩まで湯に浸かり、その足をオレのほうに伸ばしてくる。
一杯になった湯が浴槽から溢れてまけた。
「ふう。いいきもちだね、カズくん」
こうして二人で裸になっているのに。
どちらかがちょっとでも動けば身体と身体が触れ合う距離にいるのに。
ユキはなにも恥ずかしがっていないようだった。
オレだけ慌てているのがバカみたいだった。
「ねえ、カズくん」
オレの首筋にそっと両手が宛がわれる。
背中にやわらかい感触があった。
ユキの息が耳たぶにかかっていた。
「ひとりで、さびしかったでしょ?」
すぐ近くでユキの匂いがする。
いつか家庭科の授業で一緒に作ったパンケーキみたいな匂いだった。
「すきなだけ、うちにいてくれていいからね」
囁くみたいな声で、ユキはそう言った。
優しくて。甘ったるくて。慈愛に満ちた声だった。
「…………」
ああ、今、自分は慰められているのだと理解した。
なにか事情があって家出したらしい十歳の子供を、彼女は慰めているのだ。心からの善意で。そこに他意は一切なく。だれにでもするように、彼女は無償の好意を振る舞っている。
じつにユキらしいなと思った。
優しくて、正しくて、高潔で。
「…………バカみたいだ」
オレは湯船から上がった。
「カズくん?」
開けた戸を閉めて出ていこうとするオレをユキが心配そうに見つめていた。
なにか言わなければいけないような気がした。
脱衣所の三面鏡に、十歳の自分が映っていた。
十歳の自分に、二十歳の自分が混ざり込んだみたいな。後ろ暗さを青さで覆ったような顔だった。
「…………心配してくれて、ありがとう」
そう口にするオレを鏡が映していた。
それは歳を喰われるまで一度も口にできなかった素直な気持ちだった。
オレはオレでなくなることで、はじめてユキに伝えるべき言葉を正しく伝えられた。
「…………」
バタンと、風呂の戸を閉める。
目の前にある自分の姿は、現実のようで現実じゃないような気がした。
「ポイントカード」
「申し訳ございません。登録情報にエラーが出てしまいまして」
「免許証」
「申し訳ございません。ご本人様のものでなければ認証できない決まりでして」
「それ、オレのだって」
「お顔が一致いたしませんので」
「オレ、どうみても成人してるだろ?」
「申し訳ございません」
「……」
「申し訳ございません」
オレはレジに並べた本を投げつけて逃走した。
涙の味が塩辛かった。
店員の目が、マセたガキだと笑っていた。
本の中でマナティーも一緒になって笑っていた。
「今日も変わらず、最低な日々だ」
高架下。生え散らかった雑草の上で横になる。川のほとりを丸い月の光が照らしていた。
歳を喰われて、二週間。
子供でいることがこんなに不便だなんて、大人になるまで気づかなかった。
酒はあまり好きじゃないからいい。でも、最低な日々をマナティーに慰めてもらえないのはつらすぎる。タバコも買えない。バイクも乗れない。挙句ちょっと夜道を歩けばすぐに補導だ。
「ねえ、キミ」
ほら、きた。
ケーサツが三回。赤ら顔のおっさんが二回。変態丸出しjkが一回。今まで声をかけてきた。
十歳の男子がひとりで夜にうろついてるってのはそんなに珍しいことなのだろうか?
もう、放っておいてほしい。
オレはもう、いろいろと、ダメなんだ。
「ねえったら」
しつこい呼びかけに観念して首を上げる。
そしてオレは人生を呪った。
「もしかして、ひとりなの?」
ずいぶん長く伸ばされた髪の黒が、夜の光を浴びて艶やかに映えていた。
夏の夜。生温かい風が白いブラウスの裾を撫でていた。
その佇まいは年相応に大人びていて。見たこともないほど奥行きのある笑みで首を傾げている彼女のことを、しかしオレは知っていた。
一目見た瞬間に。あるいは声をかけられたときにはもう既に。彼女がだれなのかわかってしまっていた。
僅かに垂れた目尻。耳たぶにある小さなほくろ。なんでもない会話で弾む声。
極めつけは、呆然とするオレのまえで手を振りながら口にされた言葉。
「どうしたの、ぼーとしちゃって。夢でも見てるの?」
河川敷に立っていたのは、オレがよく知る二十歳の幼なじみだった。
「…………ユキ……」
「え?」
ユキが目を大きくして驚く。
「わたしのこと、知ってるの?」
「…………いや」
オレは目を逸らした。
本当に、最低で、最悪の気分だった。
「おうちは?」
「捨てた」
「おかあさんかおとうさんは?」
「殺した」
「こらっ」
「……捨てた」
ユキが眉を寄せてため息を吐く。
態度ほど呆れた感じではなかった。
そして彼女は昔のように、変わらぬ善意でもってオレに言うのだった。
「じゃあ、うち、くる?」
ユキがオレに向かって手を差し出す。
かつて何度もそうやって差し出され、何度も掴んできた、白くて細い手だった。
けれど今のオレにその手を握る資格はない。
資格はないのに。
いつのまにか、気がつくと、オレはその手を掴んでしまっていた。まるで、自分にとっていちばん居心地がよかった思い出に縋るように。
「よし」
ユキがオレの手を軽く引き上げる。
そして彼女は振り返り、背後に立っていた男に向かって言う。
「そういうことだから。夕貴」
男は胸ポケットから取り出したメガネをかけてやさしく微笑む。
「ああ、いいよ」
スッキリとした茶色の短髪。
夜の空気にも馴染む程度の爽やかさを着こなした男だった。
ユキよりいくつか年上に見える男は、ユキに向けたのと同じ笑みをオレにも向けた。
その表情には人としての余裕が感じられた。
「キミ、なまえは?」
「…………和樹」
「じゃあ、カズくんだ」
ポン、とユキが手を叩く。
その呼び方が昔と同じであることを、きっとユキは知らない。
「なんでもいいよ」
オレはユキの手を振り払おうとする。
けれど先にユキのほうからぎゅっと手を握られてしまい、そうなるともう、十歳の力では抵抗の余地などなかった。
やがておろそかになっていたほうの手も夕貴に握られる。
ユキの手も、夕貴の手も、夏の夜にしてはひどく冷たくオレの手に張りついていた。
「…………」
ユキと夕貴の二人に繋がれて、オレは二人の家へと連れていかれる。
「なんだか家族になったみたいだね」とユキが言った。
「もうすぐなるだろ」と夕貴が言った。
「じゃあオレは二人の子供か」とオレは言った。
二人は数秒顔を見合わせて、それから一緒になって笑った。
互いの間には幸福が滞留しているようだった。
今すぐここに核ミサイルをぶち込んでほしかった。
世界のどこかで魔女の嘲笑がきこえた気がした。
†
道中、ユキと夕貴が他になにを話していたのかはよく覚えていない。
オレの素性についてはあえてきかず、とりとめのない話題に花を咲かせていたのはうっすらと記憶している。
それはたぶん二人の気遣いで。訳ありらしいオレの気を晴らすためか、いつもよりほんのすこし大げさなリアクションで互いに笑いあっていた。時折ちゃんとオレに話を振りながら。
そういう優しさが、逆にオレを一層みじめな気持ちにしていた。
話のテンポ。ハッキリとしない相槌。「そういえば」で抓み出される過去の出来事。
交わされるなにげないやりとりのいたるところに二人が今日まで積み重ねてきた時間の基盤が見てとれて。きけばきくほどオレはオレ自身の不甲斐なさと無力感に苛まれ。耳を塞ぎたいのにあいにく両手は善意の縄に縛されて。耳を伝って脳と心臓に流し込まれる事実をまえに、十歳のオレにできたのは「忘却」だけだった。
忘れたことにしなければ、身体が風船のように破裂してしまいそうだった。
小さな身体に溜め込んでおける空気の量は多くない。
望まぬ情報の空気は宛ら毒薬のようで。忘れてもなお、オレの内側をジクジクと病んでいた。
「とうちゃーく」
と、ユキが朗らかな声を飛ばす。
街の賑わいから少し離れたところにあるタワーマンションが目の前にあった。
エントランスとエレベーターのダブルオートロック。パッと目についただけで防犯カメラが三つ。モダンクラシックな床と暖色の照明。隅には青々とした観葉植物がいくつか。
オレがひとりで暮らしていたアパートとはセキュリティも内観も雲泥の差だった。
ユキと夕貴はそのマンションの五階に住んでいた。
「はい、どうぞ」
夕貴がカギを開け、ユキがオレの手を引く。
玄関にある照明のスイッチを押すと、キレイに整頓された2LDKが目に飛び込んできた。
「どう? けっこういいところでしょ?」
「……ああ。そうだな」
皮肉のひとつでも言ってやろうと思っていた。けれど、なんだかそういうのもバカバカしくなるくらい、行き届いた部屋だった。
ユキと夕貴の部屋がそれぞれあって。互いに互いの時間を尊重しながらリビングで一緒の時間を過ごしている。そんな絵が一瞬で頭に浮かんだ。
「じゃ、まずはお風呂入ろっか」
ユキがオレの背中をポンポンと押して脱衣所のほうに連れていく。
「一番風呂、もらっていいのか?」
「大人みたいなこと言っちゃって」
おかしそうに笑って、ユキはオレの耳元でささやく。
「なんなら、一緒に入ってあげようか?」
胸がバクンと高鳴って、顔が不良品のスマホみたいに熱くなるのを感じた。
「ひとりで入れる!」
「そっか」
くるりと身を翻してユキは脱衣所から出ていった。
すこし、もったいないことをしてしまったかもしれない。
そう思うと同時に、ここで子供であることの利点を使ってしまったらオレは“今の自分”すら許せなくなってしまうような気がした。
『お風呂が沸きました』
浴室のほうから給湯器の声がする。
オレは汚れた服を脱ぎ捨てて湯船に浸かった。
大人でも足を伸ばして入れるくらいの広さだった。
子供のオレならバタ足だってできる。
「ばしゃばしゃ! ばしゃばしゃ! きゃっきゃっきゃっ!」
十秒くらいはしゃいでみて、込み上げてきた圧倒的な虚しさに溺れた。
「…………なにやってんだ、オレは」
もうすぐ結婚する幼なじみの家に転がり込んで。風呂なんか借りてしまって。
きっと今頃リビングではからかわれて赤くなったオレのことをユキが話して笑ってるんだ。オレの今後みたいなテーマで議論しつつ、明日の夕飯とか昨日見た番組とかに話を脱線させてたのしんでるんだ。
――いっそオレがオレであるとバラしてやれば、ちょっとは深刻なムードになるだろうか?
「それは、ダメなんだよー?」
「むわっ⁉」
張られた湯の底からにゅるりと幼女が顔を出す。
黄色い髪が浅い胸の輪郭に沿って流れ、小さな身体がオレの胸へと押し当てられる。
「正体をバラすのは、ダメなんだよー?」
真朱の瞳でじっとオレの目を覗きながら、歳喰いの魔女はそう言った。
「な、なんでおまえがここに……っていうか服を着ろ!」
「でも、ここはお風呂なんだよー?」
「今はオレが入ってるんだ!」
「幼女は男湯に入ってもいいんだよー?」
「数千歳のババアがなに言ってぶごぶばぶべぶ⁉」
顎に魔女パンチを入れられてオレは湯船に沈んだ。
「くすくす。ショタのくせに男とか女とか、おっかしいんだー」
股間を隠して浮上するオレに、再度魔女は忠告する。
「正体をバラすと、泡になって消えちゃうんだよー?」
呑気な調子で口にされたその言葉には、しかし真実味のある圧があった。
オレはごくりと唾を呑む。
そのとき、くもり戸でしきられた脱衣所のほうからユキの声がした。
「カズくん、どうかした?」
「な、なんでもない!」
まちがっても幼女と混浴している現場を見られるわけにはいかなかった。説明にも、言い訳にも、困り果てる。
「わかったー?」
首を傾げる歳喰いの魔女に、オレはこくこくと頷く。
「わかってる。だれにも言わない。言えるわけない」
魔女はニコリと笑って湯の中に沈んでいく。
そして入浴剤が溶けるようにその姿を世界のどこかに霧散させた。
「ひとりごと?」
ホッと一息吐くオレにユキが尋ねる。
「ああ。まあ、そんな感じ」
そう答えてから、オレは違和感を覚えた。
さっきよりユキの声が近くできこえていた。
彼女の声を遮るものがなくなっていた。
オレはゆっくりと顔を横に向ける。
浴槽の傍にあるイスに、裸のユキが座っていた。
「…………はあ⁉」
立ち込めた湯けむりの奥に、昔と変わらない白い肌と、成長して膨らんだ大きな胸があった。
オレは咄嗟に顔を背ける。
ちゃぽん、という音がして、ユキの細い足が湯船に波紋を作る。
「な、なんで入ってきてんだよ⁉」
「へへっ。なんとなく」
ユキは肩まで湯に浸かり、その足をオレのほうに伸ばしてくる。
一杯になった湯が浴槽から溢れてまけた。
「ふう。いいきもちだね、カズくん」
こうして二人で裸になっているのに。
どちらかがちょっとでも動けば身体と身体が触れ合う距離にいるのに。
ユキはなにも恥ずかしがっていないようだった。
オレだけ慌てているのがバカみたいだった。
「ねえ、カズくん」
オレの首筋にそっと両手が宛がわれる。
背中にやわらかい感触があった。
ユキの息が耳たぶにかかっていた。
「ひとりで、さびしかったでしょ?」
すぐ近くでユキの匂いがする。
いつか家庭科の授業で一緒に作ったパンケーキみたいな匂いだった。
「すきなだけ、うちにいてくれていいからね」
囁くみたいな声で、ユキはそう言った。
優しくて。甘ったるくて。慈愛に満ちた声だった。
「…………」
ああ、今、自分は慰められているのだと理解した。
なにか事情があって家出したらしい十歳の子供を、彼女は慰めているのだ。心からの善意で。そこに他意は一切なく。だれにでもするように、彼女は無償の好意を振る舞っている。
じつにユキらしいなと思った。
優しくて、正しくて、高潔で。
「…………バカみたいだ」
オレは湯船から上がった。
「カズくん?」
開けた戸を閉めて出ていこうとするオレをユキが心配そうに見つめていた。
なにか言わなければいけないような気がした。
脱衣所の三面鏡に、十歳の自分が映っていた。
十歳の自分に、二十歳の自分が混ざり込んだみたいな。後ろ暗さを青さで覆ったような顔だった。
「…………心配してくれて、ありがとう」
そう口にするオレを鏡が映していた。
それは歳を喰われるまで一度も口にできなかった素直な気持ちだった。
オレはオレでなくなることで、はじめてユキに伝えるべき言葉を正しく伝えられた。
「…………」
バタンと、風呂の戸を閉める。
目の前にある自分の姿は、現実のようで現実じゃないような気がした。