信じられない、と紗依は目を見張ったまま身動き一つできずにいた。
紗依の手を握り真っ直ぐに熱の籠った眼差しを向ける男性が、かつて紗依の友であった小さな光と同一の存在であるなど。
あの日、自分が何であったのかと思い出して夕星は消えた。
矢斗と呼ばれたこの美しい男性が、小さな夕星の本来の姿であるというのか。
それならば、夕星は、このひとは、一体。
ぐるぐると裡を忙しなく巡る問いに、眩暈すら感じかけていた。そのまま力が抜けて、倒れ込んでしまいそうになる。
言葉どころか声すら発せない紗依の様子を察したらしい時嗣が、一つ息を吐いた。
「矢斗。まずは説明が必要だろう。紗依殿が混乱している」
時嗣が苦笑い共に告げた言葉で、夕星……矢斗は漸く、紗依が驚愕の表情のまま今にも倒れそうだと気付いたようだ。
慌てた様子で紗依が倒れぬように注意しながら、握っていた手を離す。
時嗣が視線で何かを示すと、千尋は静かに立ち上がり、その場から姿を消す。
そっと手を添えて支えられながら改めてその場にて姿勢を正して座り、紗依は数度深く呼吸をする。
まだ何が起きているか理解しきれず、座していても身体がふわふわとした不思議な心地のまま。
気を抜いたらそのまま倒れ込みそうな感覚はあるものの、それでも紗依は力を振り絞り、静かに口を開いた。
「夕星……あなたは、一体……」
紗依が震えながらも何とか紡いだ問いと揺れる眼差しを、矢斗は真っ直ぐに受け止めた。
現かと疑うような状況であるというのに、何故か不思議と紗依の中には、この男性がかつて友と呼んだ小さな光であるという事実が馴染んでいく。
小さな友の本来の姿が、この威厳ある美丈夫であるということが、少しずつ信じるに足るものだと思えていく。
だが、それならば。
紗依が夕星と呼んだ友は、一体何者であるのか。
途切れ途切れに紡がれた問いは、少しばかり掠れてしまっていた。
少しの間何かを思案していた様子だったが、やがて紗依へと居住まいを正して向き直る。
「私が、人ではないのは元より知っていただろうが……」
紗依は、小さく頷いた。
かつて知っていた友の姿は、人とは異なる姿だった。
人ならざるものであると元より承知して時を重ねてきたのであれば、改めて告げられたとしてもそれは特に驚くことではない。
けれど、そこから先が全く想像できない。
友であった男性が、何を告げようとしているのか。
息を飲んで続きを待つ紗依を見て、僅かな逡巡があった。
だが、矢斗はやがて静かに口を開いた。
「私は、始まりの帝が有していた武具の一つ。破邪の弓の付喪神だ」
矢斗が低く落ち着いた声で紡いだ言葉の内容に、紗依はまたしても目を見張ってしまう。
偽りなど全く感じられない真摯な言葉に言葉を失う。
夕星が……矢斗が、人ならざる付喪神であるということは、理解できた。
真を射抜くような清冽な眼差しを持つひとは、邪を射抜く弓の化身と言われても確かにと思う。
だが、その本体である武具は。
始まりの帝の武具であったもの、それはすなわち。
「……北家が、長らく失ったままだった祭神だ」
紗依の抱いた疑問に答えるように、時嗣が様々な感情が滲んだ複雑な声音で告げた。
そう、北家を始めとする『四家』と呼ばれる家門が擁していた神威そのもの。四家が祭神として祀っていた存在、それが始まりの帝が有しておられたという力ある武具だ。
存在そのものが永き年月を経た不可思議の象徴ともいえるものである。魂を有し、人のかたちをとっていたとしてもおかしいとは思わない。
けれど紗依にとってはまだ現実味のない話で、現実から剥離したような感覚は拭えない。
友である夕星は、矢斗という名の付喪神であり。長らく不在であった北家の祭神である。
すぐに全て受け入れるには、あまりに衝撃的な事実でありすぎた。
「……何故、あのような姿に……。それに……『神嫁』とは……」
紗依が夕星を見つけ出した時、友は今にも消えそうな程か細い光だった。
共に時間を過ごし、言葉を重ねるうちに、少しずつ確かなものとなってはいったけれど。
それならば何故、北家において祭神とまで呼ばれる偉大な存在は、はあのような脆く頼りない姿だったのか。
そして矢斗が、北家が祀る神であるならば。
北家が玖瑶家に対して求めた『神嫁』とは一体どんな意味を持つものなのか。
一つずつ事実は明かされていくのに、疑問はその都度増えていく堂々巡り。
表情の硬さがとれないままの紗依を見て、矢斗は表情を曇らせ、時嗣は複雑な色の滲む苦笑を浮かべている。
「……矢斗が自分を失っていた経緯ついては、いずれ説明したい。今はただ、矢斗が神としての存在を失いかけていた、とだけ知っていて欲しい」
紗依は、矢斗と時嗣の態度に何か含みがあるように感じる。
けれど、それを問うのは憚られる空気を感じる。
それに。
頭の奥に小さいけれど形容しがたい痛みを感じる。
まるで何かが蠢くようなおかしな感覚を覚える。
誰かが、何かが、それに触れてはならない、と告げている気がする……。
「紗依……?」
心配そうな矢斗の声を聞いて、紗依は自分が眉を寄せたまま俯いてしまっていたことに気付く。
視線を向けると、気づかわしげに眉を寄せた矢斗がこちらを見つめている。
横から控えめな声がしたと思えば、茶で満たされた白磁の椀がそっと紗依の元に差し出された。
見れば、先程どこかへ消えた千尋が戻ってきていた。どうやら、紗依の為に茶を用意してくれたらしい。
茶が漂わせる豊かな芳香には心を落ち着かせる作用があるようで、紗依の表情がわずかに緩む。
更に勧めてくれた千尋に礼を述べてから口をつけて、知らずのうちにかなり喉が乾いていたらしいことに気付く。
かつて味わったことがない上等な茶が通過していくにつれ、潤った喉からはひとつ、深い吐息が零れた。
紗依の表情が少しでも落ち着いたことを察した矢斗は、安堵したように表情を綻ばせる。
そして、二人の表情を確かめた時嗣は、紗依の問いに対する答えを更に続けた。
「神嫁、とは。言葉通り……神、すなわち、矢斗の嫁だ」
最初こそ、神嫁とは……神に嫁ぐとは古の意味を踏まえて贄のことかとも思った。
だが、恐らく矢斗は、紗依を贄として求めているわけではない。
時嗣の言葉が真実であるならば、紗依はあくまで純粋に花嫁として……祭神たる者の伴侶として望まれてこの場にある。
まるで見合いに臨むようだと感じた身支度は、まさしくその通りだったのかもしれない。
矢斗は伴侶を求めた。
それに応じて、当主夫妻は矢斗に嫁ぐ者として紗依を整え、引き合わせた。
そう感じれば、頬が俄かに熱を帯びた気がする。
自分が誰かに嫁ぐ日など、もうとうの昔に諦めていた。誰かに伴侶として求められる日など、生涯来るまいと。
矢斗が紗依の名を呼ぶ声に。紗依を見つめる眼差しに宿る焦がれるような熱が、紗依の鼓動を早くする。
誰かにそんな風に名を呼ばれたことも、見つめられたこともないから。どのような顔をしていいか分からない。
真っ直ぐに向けられる琥珀の眼差しが面映ゆく感じて、見つめ返すことができない。
「けれど、玖瑶家が長女としていたのは……」
視線を少し逸らしながら、紗依は裡に抱えていた懸念を口にする。
北家からの申し出は、長女を神嫁としてもらいうけたい、というものだった。
だが、真に長女である紗依は死んだことにされており、対外的な長女は妹である苑香だった。それであれば、求められていたのは紗依ではないはずだ。
「私が望んでいたのは、間違いなく紗依だ。紗依以外、求めていない」
疑問に惑う紗依に言い聞かせるように、揺るぎなく確かな言葉が響く。
弾かれたように紗依が声の主を見たならば、矢斗の真摯な光を宿した琥珀の一対が紗依を捉えている。
咄嗟に視線を逸らしたくても、魅入られてしまったように動けない。
一途に紗依を求める焦がれた光に偽りはないと感じてしまったのなら。
真っ直ぐに向けられた言の葉に籠った熱い心を感じ取ってしまったのなら、尚更。
だって、矢斗の言葉は聞き様によっては、いやあまりにも真っ直ぐな。
「うちからの申し出で『長女』と指定すれば、必ずあの御仁は紗依殿を出してくると思ったからな」
ただ見つめ合う侭になってしまった二人の耳に、苦笑気味の声音が聞こえる。
戸惑いと高鳴る鼓動に言葉を紡げずにいる紗依が視線を向けた先で、時嗣が静かに語り始めた。
「他の三家ならともかく、うちは『神無し』北家だからな。自尊心の高い玖瑶の現当主が、対外的に長女としているご自慢の次女を出してくるとは元から思っていなかった」
あなた、と窘めるような千尋の声にも北家の当主は肩を軽く竦めて見せるだけ。
事実だからな、と呟く溜息交じりの声は少しばかり苦く、それを聞いた矢斗の表情が僅かに揺れる。
それに気付かないのか。或いは、気付いていても知らぬ振りをしているのか。
時嗣はそのまま、変わらぬ声音で説明を続けている。
「矢斗が戻ってきたことを今はまだ公にしていない。だから、うちが『神嫁』と言ったところで祭神の妻とは思わないだろう。大方、俺の妾か何かだと勘違いしたんじゃないか?」
全くもってその通りなので、紗依は何とも言えない表情で沈黙するしかない。
確かに、祭神のある家門から『神嫁』という求めがあったのであれば、祭神の妻を求められていると思ったかもしれない。
だが、北家は神を失って久しく、祭神不在であるとされていた家門である。
だからこそ、不在の神の妻など、何か不都合な存在を飾る建前に過ぎないと父達は判断したのだ。
彼らが『神無し』と呼び蔑んでいた北家に祀る祭神が戻っているなど、想像することすら無かっただろう。
返す言葉に困ってしまって複雑な表情になってしまっている紗依を見て、時嗣は笑って見せた。
「千尋がいるのに、他の女なんぞ要らんよ。まあ、予想通りに勘違いしてくれて助かった」
あまりに躊躇いなく言い切られ、千尋が恥じらったように俯いた。
人前で、と咎めるようにいう千尋の声は少し弱弱しい。
照れた妻を見ながら、本当の事だからと言い切る夫の顔には満面の笑みがある。
その様子に当主夫婦の揺るぎない絆を感じ取って、父達の邪推が恥ずかしくすら思う。
「矢斗は最初から紗依殿以外を求めていないし、うちが申し入れしたのも紗依殿目当てで間違いない。だから、不安に思わないでくれ」
紗依がばつの悪そうな様子を見て色々と察したらしい時嗣が、笑いながらも確かな言葉で紗依の不安を拭おうとする。
矢斗の様子を見れば、そして時嗣の言葉を聞けば。
紗依がこの場に居ることが『人違い』だとはもう思えない。
だからといって、紗依の中に渦巻いていた謎が消えたわけではない。
それならば、何故北家に祀られる偉大なる存在は、そうまで紗依を望んでくれるのか。
矢斗は知っているはずだ。
紗依が異能を持たない『呪い子』であるが故に、玖瑶家で忌まれていたことを。
こうして美しく装っていたとしても。持つべきものを持たずに生まれた、ただのみすぼらしい痩せこけた小娘でしかないことを知っているのに。
その思いが拡がりゆくと共に、自然とまた俯きかけてしまう。
だが、それを止めたのは、あまりに揺るぎない矢斗の言葉だった。
「紗依は、私を救ってくれた」
はっきりと耳を打つ言葉に、紗依は顔をあげる。
紗依を見つめ、微かに微笑みながら矢斗は静かに今に至るまでを語り始めた。
かつて、自分という存在がどういうものであったか、名も形も何もかも失いただ消えゆくばかりだった。
誰の目にも留まることのないまま。
何時からそこにいたのか、どうしてそこにいるのか。何故どのような経緯で自身がそうして在るのかも、既に考える事すらできぬ程に微かなものとなっていた。
消えるのも目前であったある日、彼は紗依と出会った。
少女はか細い両の手で、確かに彼を救ってくれたのだ。
小さな光だった矢斗は、少女が彼にとって世界そのものともいえる温かな光だと感じた。
「紗依だけが気付いてくれた。紗依だけが私をそこにあると認め、言葉を交わしてくれた」
矢斗は、自らの想いを噛みしめるように微笑みながら言葉を紡いだ。
紗依と共に在る日々が、彼という存在に力を与えていた。
互いしか知らない名で呼び合い、語り合う日々を過ごすうちに、少しずつ自分という存在が確かになっていく。
辛い日々に耐える紗依を守りたいという思いが強くなるのに応じるように、少しずつ自分が何であったのかが蘇ってくる。
そして、彼はあの桜の舞う日に全てを思い出した。
己が破邪の弓を本体する付喪神であること、北家の祭神であったことを。
「だから、あの日。貴方のもとを去った。……貴方を守るに足るものに、戻る為に」
一度とはいえ別れること、一人置いていくことを心から辛いと思ったけれど。
自分が一体『何』であったのか取り戻した矢斗は、自分を祀っていた北家へと帰還した。
これ以上紗依に辛い思いをさせたくないが為に、彼女を守りたいと願うが故に。
そして、彼は紗依を自身の妻に……『神嫁』にと望んだ――。
紗依の手を握り真っ直ぐに熱の籠った眼差しを向ける男性が、かつて紗依の友であった小さな光と同一の存在であるなど。
あの日、自分が何であったのかと思い出して夕星は消えた。
矢斗と呼ばれたこの美しい男性が、小さな夕星の本来の姿であるというのか。
それならば、夕星は、このひとは、一体。
ぐるぐると裡を忙しなく巡る問いに、眩暈すら感じかけていた。そのまま力が抜けて、倒れ込んでしまいそうになる。
言葉どころか声すら発せない紗依の様子を察したらしい時嗣が、一つ息を吐いた。
「矢斗。まずは説明が必要だろう。紗依殿が混乱している」
時嗣が苦笑い共に告げた言葉で、夕星……矢斗は漸く、紗依が驚愕の表情のまま今にも倒れそうだと気付いたようだ。
慌てた様子で紗依が倒れぬように注意しながら、握っていた手を離す。
時嗣が視線で何かを示すと、千尋は静かに立ち上がり、その場から姿を消す。
そっと手を添えて支えられながら改めてその場にて姿勢を正して座り、紗依は数度深く呼吸をする。
まだ何が起きているか理解しきれず、座していても身体がふわふわとした不思議な心地のまま。
気を抜いたらそのまま倒れ込みそうな感覚はあるものの、それでも紗依は力を振り絞り、静かに口を開いた。
「夕星……あなたは、一体……」
紗依が震えながらも何とか紡いだ問いと揺れる眼差しを、矢斗は真っ直ぐに受け止めた。
現かと疑うような状況であるというのに、何故か不思議と紗依の中には、この男性がかつて友と呼んだ小さな光であるという事実が馴染んでいく。
小さな友の本来の姿が、この威厳ある美丈夫であるということが、少しずつ信じるに足るものだと思えていく。
だが、それならば。
紗依が夕星と呼んだ友は、一体何者であるのか。
途切れ途切れに紡がれた問いは、少しばかり掠れてしまっていた。
少しの間何かを思案していた様子だったが、やがて紗依へと居住まいを正して向き直る。
「私が、人ではないのは元より知っていただろうが……」
紗依は、小さく頷いた。
かつて知っていた友の姿は、人とは異なる姿だった。
人ならざるものであると元より承知して時を重ねてきたのであれば、改めて告げられたとしてもそれは特に驚くことではない。
けれど、そこから先が全く想像できない。
友であった男性が、何を告げようとしているのか。
息を飲んで続きを待つ紗依を見て、僅かな逡巡があった。
だが、矢斗はやがて静かに口を開いた。
「私は、始まりの帝が有していた武具の一つ。破邪の弓の付喪神だ」
矢斗が低く落ち着いた声で紡いだ言葉の内容に、紗依はまたしても目を見張ってしまう。
偽りなど全く感じられない真摯な言葉に言葉を失う。
夕星が……矢斗が、人ならざる付喪神であるということは、理解できた。
真を射抜くような清冽な眼差しを持つひとは、邪を射抜く弓の化身と言われても確かにと思う。
だが、その本体である武具は。
始まりの帝の武具であったもの、それはすなわち。
「……北家が、長らく失ったままだった祭神だ」
紗依の抱いた疑問に答えるように、時嗣が様々な感情が滲んだ複雑な声音で告げた。
そう、北家を始めとする『四家』と呼ばれる家門が擁していた神威そのもの。四家が祭神として祀っていた存在、それが始まりの帝が有しておられたという力ある武具だ。
存在そのものが永き年月を経た不可思議の象徴ともいえるものである。魂を有し、人のかたちをとっていたとしてもおかしいとは思わない。
けれど紗依にとってはまだ現実味のない話で、現実から剥離したような感覚は拭えない。
友である夕星は、矢斗という名の付喪神であり。長らく不在であった北家の祭神である。
すぐに全て受け入れるには、あまりに衝撃的な事実でありすぎた。
「……何故、あのような姿に……。それに……『神嫁』とは……」
紗依が夕星を見つけ出した時、友は今にも消えそうな程か細い光だった。
共に時間を過ごし、言葉を重ねるうちに、少しずつ確かなものとなってはいったけれど。
それならば何故、北家において祭神とまで呼ばれる偉大な存在は、はあのような脆く頼りない姿だったのか。
そして矢斗が、北家が祀る神であるならば。
北家が玖瑶家に対して求めた『神嫁』とは一体どんな意味を持つものなのか。
一つずつ事実は明かされていくのに、疑問はその都度増えていく堂々巡り。
表情の硬さがとれないままの紗依を見て、矢斗は表情を曇らせ、時嗣は複雑な色の滲む苦笑を浮かべている。
「……矢斗が自分を失っていた経緯ついては、いずれ説明したい。今はただ、矢斗が神としての存在を失いかけていた、とだけ知っていて欲しい」
紗依は、矢斗と時嗣の態度に何か含みがあるように感じる。
けれど、それを問うのは憚られる空気を感じる。
それに。
頭の奥に小さいけれど形容しがたい痛みを感じる。
まるで何かが蠢くようなおかしな感覚を覚える。
誰かが、何かが、それに触れてはならない、と告げている気がする……。
「紗依……?」
心配そうな矢斗の声を聞いて、紗依は自分が眉を寄せたまま俯いてしまっていたことに気付く。
視線を向けると、気づかわしげに眉を寄せた矢斗がこちらを見つめている。
横から控えめな声がしたと思えば、茶で満たされた白磁の椀がそっと紗依の元に差し出された。
見れば、先程どこかへ消えた千尋が戻ってきていた。どうやら、紗依の為に茶を用意してくれたらしい。
茶が漂わせる豊かな芳香には心を落ち着かせる作用があるようで、紗依の表情がわずかに緩む。
更に勧めてくれた千尋に礼を述べてから口をつけて、知らずのうちにかなり喉が乾いていたらしいことに気付く。
かつて味わったことがない上等な茶が通過していくにつれ、潤った喉からはひとつ、深い吐息が零れた。
紗依の表情が少しでも落ち着いたことを察した矢斗は、安堵したように表情を綻ばせる。
そして、二人の表情を確かめた時嗣は、紗依の問いに対する答えを更に続けた。
「神嫁、とは。言葉通り……神、すなわち、矢斗の嫁だ」
最初こそ、神嫁とは……神に嫁ぐとは古の意味を踏まえて贄のことかとも思った。
だが、恐らく矢斗は、紗依を贄として求めているわけではない。
時嗣の言葉が真実であるならば、紗依はあくまで純粋に花嫁として……祭神たる者の伴侶として望まれてこの場にある。
まるで見合いに臨むようだと感じた身支度は、まさしくその通りだったのかもしれない。
矢斗は伴侶を求めた。
それに応じて、当主夫妻は矢斗に嫁ぐ者として紗依を整え、引き合わせた。
そう感じれば、頬が俄かに熱を帯びた気がする。
自分が誰かに嫁ぐ日など、もうとうの昔に諦めていた。誰かに伴侶として求められる日など、生涯来るまいと。
矢斗が紗依の名を呼ぶ声に。紗依を見つめる眼差しに宿る焦がれるような熱が、紗依の鼓動を早くする。
誰かにそんな風に名を呼ばれたことも、見つめられたこともないから。どのような顔をしていいか分からない。
真っ直ぐに向けられる琥珀の眼差しが面映ゆく感じて、見つめ返すことができない。
「けれど、玖瑶家が長女としていたのは……」
視線を少し逸らしながら、紗依は裡に抱えていた懸念を口にする。
北家からの申し出は、長女を神嫁としてもらいうけたい、というものだった。
だが、真に長女である紗依は死んだことにされており、対外的な長女は妹である苑香だった。それであれば、求められていたのは紗依ではないはずだ。
「私が望んでいたのは、間違いなく紗依だ。紗依以外、求めていない」
疑問に惑う紗依に言い聞かせるように、揺るぎなく確かな言葉が響く。
弾かれたように紗依が声の主を見たならば、矢斗の真摯な光を宿した琥珀の一対が紗依を捉えている。
咄嗟に視線を逸らしたくても、魅入られてしまったように動けない。
一途に紗依を求める焦がれた光に偽りはないと感じてしまったのなら。
真っ直ぐに向けられた言の葉に籠った熱い心を感じ取ってしまったのなら、尚更。
だって、矢斗の言葉は聞き様によっては、いやあまりにも真っ直ぐな。
「うちからの申し出で『長女』と指定すれば、必ずあの御仁は紗依殿を出してくると思ったからな」
ただ見つめ合う侭になってしまった二人の耳に、苦笑気味の声音が聞こえる。
戸惑いと高鳴る鼓動に言葉を紡げずにいる紗依が視線を向けた先で、時嗣が静かに語り始めた。
「他の三家ならともかく、うちは『神無し』北家だからな。自尊心の高い玖瑶の現当主が、対外的に長女としているご自慢の次女を出してくるとは元から思っていなかった」
あなた、と窘めるような千尋の声にも北家の当主は肩を軽く竦めて見せるだけ。
事実だからな、と呟く溜息交じりの声は少しばかり苦く、それを聞いた矢斗の表情が僅かに揺れる。
それに気付かないのか。或いは、気付いていても知らぬ振りをしているのか。
時嗣はそのまま、変わらぬ声音で説明を続けている。
「矢斗が戻ってきたことを今はまだ公にしていない。だから、うちが『神嫁』と言ったところで祭神の妻とは思わないだろう。大方、俺の妾か何かだと勘違いしたんじゃないか?」
全くもってその通りなので、紗依は何とも言えない表情で沈黙するしかない。
確かに、祭神のある家門から『神嫁』という求めがあったのであれば、祭神の妻を求められていると思ったかもしれない。
だが、北家は神を失って久しく、祭神不在であるとされていた家門である。
だからこそ、不在の神の妻など、何か不都合な存在を飾る建前に過ぎないと父達は判断したのだ。
彼らが『神無し』と呼び蔑んでいた北家に祀る祭神が戻っているなど、想像することすら無かっただろう。
返す言葉に困ってしまって複雑な表情になってしまっている紗依を見て、時嗣は笑って見せた。
「千尋がいるのに、他の女なんぞ要らんよ。まあ、予想通りに勘違いしてくれて助かった」
あまりに躊躇いなく言い切られ、千尋が恥じらったように俯いた。
人前で、と咎めるようにいう千尋の声は少し弱弱しい。
照れた妻を見ながら、本当の事だからと言い切る夫の顔には満面の笑みがある。
その様子に当主夫婦の揺るぎない絆を感じ取って、父達の邪推が恥ずかしくすら思う。
「矢斗は最初から紗依殿以外を求めていないし、うちが申し入れしたのも紗依殿目当てで間違いない。だから、不安に思わないでくれ」
紗依がばつの悪そうな様子を見て色々と察したらしい時嗣が、笑いながらも確かな言葉で紗依の不安を拭おうとする。
矢斗の様子を見れば、そして時嗣の言葉を聞けば。
紗依がこの場に居ることが『人違い』だとはもう思えない。
だからといって、紗依の中に渦巻いていた謎が消えたわけではない。
それならば、何故北家に祀られる偉大なる存在は、そうまで紗依を望んでくれるのか。
矢斗は知っているはずだ。
紗依が異能を持たない『呪い子』であるが故に、玖瑶家で忌まれていたことを。
こうして美しく装っていたとしても。持つべきものを持たずに生まれた、ただのみすぼらしい痩せこけた小娘でしかないことを知っているのに。
その思いが拡がりゆくと共に、自然とまた俯きかけてしまう。
だが、それを止めたのは、あまりに揺るぎない矢斗の言葉だった。
「紗依は、私を救ってくれた」
はっきりと耳を打つ言葉に、紗依は顔をあげる。
紗依を見つめ、微かに微笑みながら矢斗は静かに今に至るまでを語り始めた。
かつて、自分という存在がどういうものであったか、名も形も何もかも失いただ消えゆくばかりだった。
誰の目にも留まることのないまま。
何時からそこにいたのか、どうしてそこにいるのか。何故どのような経緯で自身がそうして在るのかも、既に考える事すらできぬ程に微かなものとなっていた。
消えるのも目前であったある日、彼は紗依と出会った。
少女はか細い両の手で、確かに彼を救ってくれたのだ。
小さな光だった矢斗は、少女が彼にとって世界そのものともいえる温かな光だと感じた。
「紗依だけが気付いてくれた。紗依だけが私をそこにあると認め、言葉を交わしてくれた」
矢斗は、自らの想いを噛みしめるように微笑みながら言葉を紡いだ。
紗依と共に在る日々が、彼という存在に力を与えていた。
互いしか知らない名で呼び合い、語り合う日々を過ごすうちに、少しずつ自分という存在が確かになっていく。
辛い日々に耐える紗依を守りたいという思いが強くなるのに応じるように、少しずつ自分が何であったのかが蘇ってくる。
そして、彼はあの桜の舞う日に全てを思い出した。
己が破邪の弓を本体する付喪神であること、北家の祭神であったことを。
「だから、あの日。貴方のもとを去った。……貴方を守るに足るものに、戻る為に」
一度とはいえ別れること、一人置いていくことを心から辛いと思ったけれど。
自分が一体『何』であったのか取り戻した矢斗は、自分を祀っていた北家へと帰還した。
これ以上紗依に辛い思いをさせたくないが為に、彼女を守りたいと願うが故に。
そして、彼は紗依を自身の妻に……『神嫁』にと望んだ――。