「俺、これからは彼女と一緒に帰るから。悪いけど真理は一人で帰ってくれな?」
その言葉は、私に小さな衝撃を与えた。
雷に打たれたような大きなものじゃない。せいぜい、冬の乾燥した朝に不意打ちで攻撃してくる静電気くらいの衝撃。
つまり、他人からすれば誰でもなることと流されそうな事象だけれど、私にとっては確かな痛みとなって襲ってきたもの。
ずっと一緒にいた幼馴染みの彼・累の言葉は、私にとってそういうものだった。
別に、累を男として見ていて恋愛感情があったわけじゃない。
ただ、物心つく頃から一緒にいて……なんの疑いもなく、大人になってもずっと幼馴染みとして側にいるものだと思い込んでいた。
どんなに仲の良い幼馴染みでも、異性である以上片方に恋人が出来てしまったら近くにいるべきじゃない。
それが一般的な常識であることは知っていたし、私自身そうするのが当然だと思っていた。
ただ……それが私と累にも当てはまることだという認識が無かった。
頭では理解していても、感情がついて行かないという状態だと思う。
私がまともな返事を出来ないでいるうちに、累は好物の肉まんを食べたときよりも幸せそうな顔をして彼女の元へと行ってしまった。
仲の良い幼馴染みという関係は変わらない。
ただちょっと、今までより一緒にいる時間が減るだけ。
それだけなのに……でもそれだけじゃない。
その証拠に、私と累の間にはなにかの線のようなものが引かれた気がした。
見えないその線は、まるでヒビでも入ってしまったかのように、累と私を分けたような気がした。
***
いつもと変わらないはずの歩調で慣れた道を歩く。
いつもと同じ道、同じ歩調、同じ景色。
でも、隣にいるいつもの存在がなくて変な感じがする。
今までだって、私か累のどちらかに用事があって一人で歩くことはあった。
なのにそのときと違うように感じるのは、これが一時のものではないと知っているからなんだろう。
今日だけじゃなく、これからずっと私は一人でこの道を歩くことになる。
また累と歩くことがあるとすれば、彼が彼女と別れたときだ。
でも、そんなことは望んでいない。
私が見たこともないような幸せな累の顔を思い出す。
大事な幼馴染みの、あんなに良い笑顔を曇らせたいなんて欠片も思わないから。
だから、ヒビが入ってしまったような線を引いたままでいるしかない。
現状を変えるつもりがないから、私は一人の帰り道に慣れていくしかないんだ。
それを受け入れることも別に嫌じゃない。仕方ないなって思うし。
ただ、少し寂しいだけ。
……でも、その寂しさをないものとして扱うにはまだ時間が必要で……。
だから、ちょっとだけいつもと違うことをしようと思った。
いつもは二人で真っ直ぐ家に帰るけれど、今日は少しだけ寄り道をしようと進む足の方向を変えたんだ。
途中にある商店街の、一つ向こうの角を曲がる。
その道は少し坂になっていて、商店街の賑やかな雰囲気から離れるように上っていく。
昔――といっても小学五年生の頃だから六年くらい前のこと。
親とケンカして家に帰りづらいという累と、少しだけ街探検をしてみようとこの辺りを散策したことがあった。
そのとき見つけた、街から少し離れたお店。
外観は古くさい骨董品店みたいだったけれど、中に入ると白いものが混じった立派な口ひげをつけた優しそうなおじいさんが迎えてくれた。
色んな宝石を扱う宝石店【KAROBU】。
特定のお客さんしか来ないというお店は閑散としていて、小学生だった私たちにとってはちょとした秘密基地みたいな場所になった。
店主のおじいさんも、商品に絶対触らないならと快く迎えてくれてお菓子を用意してくれていることもあったから。
そんな素敵なお店だけれど、私たちが中学に上がると足が遠のいた。
単純に部活とかで忙しくなったからなんだけど……。
ほぼ通い詰めていた状態だったのに、いきなり行かなくなったから不義理をしてしまったような気分になっていた。
今更かもしれないし、あの優しい店主は気にしていないかも知れないけれど……。
行きづらいと言っていた累が今はいないから、ちょっと様子を見に行ってみようかなと思ったんだ。
子どもの頃は街から離れて少し不安になってしまうくらいの道のりだったけれど、背も伸びた今は記憶よりも早く店に着いた。
ほんのり洋風な雰囲気を漂わせる古ぼけた店構え。控えめにぶら下がっている看板には年季の入ったKAROBUの文字が入っている。
大人からみれば味があるっていうのかな?
子どもの頃はサッパリわからなかったけれど、今見たら少しはわかるような気がした。
昔と変わらない、ギシリと軋む音を立てる入り口のドア。
昔と変わらない入店を知らせるチリンというベルの音。
そして、昔とは違う若い男性の「いらっしゃいませ」という声。
思わず「え?」と声を上げて声の主を見た。
記憶にある優しいおじいさんの声じゃない。もっと若い、少し甘さを含んだようなとろりとした声音。
目を向けた先にいた人物も、声色のイメージに合うような甘いマスクをしていた。
少し長めの黒髪をなでつけるようにセットし、一部だけ銀色にした前髪を垂らしている。
柳の葉ように形の良い眉に、少したれ気味の茶色の目。通った鼻筋に、薄い唇は一見優しげに笑みの形を作っていた。
綺麗な顔立ちだし細身で弱そうにも見えるけれど、ワイシャツにベスト、スラックスという服装の彼は体幹が良いのか真っ直ぐ綺麗な姿勢で立っている。
私と目が合った彼は、おや? と不思議そうな顔をした。
「珍しい、若いお客さんだね」
「あ、その……」
宝石を売っている店なのだから、それなりにお金を持っている大人が来る場所なんだろう。
初対面の彼が明らかに学生である私を不思議がるのも理解出来た。
とはいえ、どうするべきか。
商品を見に来たわけでもない、狭い店内をぐるりと見回してもお目当ての店主はいない。
かといって、店員らしい男性と目が合ったのになにも言わずに出て行くのも気が引けた。
「えっと……店主のおじいさんはいますか?」
結果、一番の目的を遂行することを選ぶ。
「店主は俺だけど……おじいさんってことは俺の祖父かな? 三年前までいたから」
客ではなさそうだと思ったのか、店主を名乗った男性は幾分砕けた口調で話してくれた。
前もおじいさん一人しか店にはいなかったし、彼が店主である可能性はなんとなく察していた。でもまさか孫だったとは。
「今は代替わりして俺が店主をしているんだ。じいちゃんは隠居してるからここにはもう来ていないよ」
「そう、ですか……」
男性の答えに私は気落ちする。あの優しいおじいさんとはもう会えないのか……って。
不義理をしたままになってしまったな、と後悔のため息が漏れた。
ため息と一緒にその後悔をはき出して、息を吸いながら切り替える。
お目当ての店主がいないとなれば、もうここに来ることもないだろう。
そう思った私は、久しぶりに店の中を見てみることにした。
百貨店などのジュエリーショップにはない原石や、珍しい宝石もある。昔はあまり近づくと止められたけれど、少し大人になったんだからむやみに触らなければ止められることもないだろう。
そうして買いもしない商品を見ていると、店主の男性が声を掛けてきた。
「じいちゃんを知ってるってことは……もしかしてここをたまり場にしていた小学生って君のことかな?」
カウンターから出てきてわざわざ近くに寄ってきた彼に、私は思わず眉を寄せる。
近づかれて警戒したわけじゃない。単純に、その言葉が不満だったんだ。
「たまり場……」
確かに秘密基地みたいな扱いはしていたけれど……【たまり場】なんて言われたら私たちが不良みたいに聞こえるじゃない。
心外だ、と不満に思っていると、彼はさらに私の不満のツボを突いてきた。
「聞いた話だともう一人いるみたいだけど?」
「……彼は来づらいって言ってたので。それに彼女ができたし、多分ここには来ないです」
実際に私たちを知っているおじいさん店主に言われたならまだしも、話を聞いただけの人にそこを突いて欲しくなかった。
そんな不満と、そんなことを言われる原因になった累への不満で棘のある言い方になってしまう。
八つ当たりになってしまったかな? って反省したのも束の間。男性はさらに突っ込んだ質問をしてきた。
「失恋?」
「はあぁ……違いますよ、彼は弟みたいなものでしたから」
つい、肺の中の空気を全て出したようなため息を吐いてしまう。
幼馴染みに彼女が出来たからって、どうして私が失恋したと思われなきゃいけないのか……。
マンガやドラマの影響を受けすぎなんじゃないかな?
「そっか、ごめん」
でも、すぐに謝ってくれたことで不満が怒りに変わることはなかった。
自分の間違いをすぐに認める姿勢が大人だなぁと思わせて……。なんとなく、安心感のようなものを覚えた。
「……でも、そうですね。ちょっと寂しさはあります」
だからかな? つい、累に対して思っていたことをポロリとこぼしてしまったんだ。
「ずっと一緒にいたから、隣にいるのが普通過ぎて……彼女と別れて欲しいわけじゃないんです。ただ……なんか、変わるはずのない幼馴染みっていう関係の中に線を引かれた気分で……まるでヒビでも入ってしまったみたいなんです」
一通り話しながら、なんで初対面の人にこんなことを話してるんだろうって思う。
思うけれど、きっとこの店の懐かしい雰囲気がそうさせてるんだろう。
子どもが冒険を夢見るような……それを見守ってくれているような……そんな優しい雰囲気がこの宝石店にはあった。
その雰囲気の一員でもある男性店主は、私の話を聞くと少し考えるそぶりを見せて「ちょっと待ってな」と私をその場に残し離れる。
カウンターの奥へ消えてしまった彼は、でもすぐに戻って来て私になにかを手渡した。
「手、出して」
「え? はい」
うながされて差し出した手のひらの上に乗せられたのは、直径2センチほどの透明な玉。
「……水晶、ですか?」
「ああ、アイリスクォーツだ。成長過程で自然と亀裂が入った水晶なんだ。ヒビが入ったことで、虹色の光が見えるんだ」
言われて改めて見ると、確かに虹を閉じ込めたような綺麗な水晶玉だった。
「ヒビが入っても……いや、入ったからこそ綺麗に見えることもある。その幼馴染みとの関係も少し変わっただけだというなら、別の見方をすれば綺麗な景色が見えるかもしれない」
「……対人関係と宝石は別物だと思うんですけど?」
キザったらしい言い方に、私の方が恥ずかしくなってついかわいくないことを言ってしまう。
でも大人な店主は、そんなかわいくない私の言葉を「手厳しいね」と笑って受け流す。
その様子もまた落ち着いた大人の男性に見えて、私は自分がいつもより子どもっぽくなっているように感じた。
だから、少しでも大人に近づけるように背伸びしてみる。
「でも……ここに来て良かったな、とは思いました」
子どもっぽく拗ねないで、素直な気持ちを告げる。
すると大人な彼はやっぱり落ち着いた優しい笑顔を浮かべた。
「そうか。俺も、君がここに来てくれて良かったと思うよ」
見上げた茶色の目は優しく細められていて……。
懐かしさを含んだ心安まる空間がここにはあった。
***
「ありがとうございました」
そう告げて店を出ようとすると、店主はわざわざ見送りに出てきてくれた。一つの商品も買わない、客ですらない相手のために。
そんなに暇なんだろうか? とも思ったけれど、それは口にしないでおいた。
「これはあげるよ」
チリン、とドアのベルを鳴らして外に出ると、彼は軽く押しつけるように私へ小さな巾着袋を手渡してきた。
なにが入っているのかはわからないけれど、初対面の相手からものをもらうわけにはいかない。
「いえ、結構です」
キッパリ告げて押し返そうとしたけれど、優しげな店主は受け取らず「そういえば」と別のことを話し出した。
「俺自己紹介もしていなかったよな」
「え?」
「俺の名前は響だ。覚えておいてくれ」
一方的に名乗った店主――響さんは、優しさの中に甘さを含ませた笑みを浮かべその顔をぐっと私に近づけた。
突然の行動にドキリとした私に、彼は耳打ちする。
「それは受け取って欲しいな、真理ちゃん。再会できたお祝いってことで」
「え?」
再会? 私、響さんと会ったことなんてあった?
それに、私名前教えたっけ?
驚きと疑問に目をまん丸にして驚いているうちに、響さんは店に戻りドアを閉めようとする。
その手には、いつの間に取りだしたのか桜貝が入った小瓶をペンダントにしたものを持っていた。
その見覚えのあるペンダントは、昔ある男子高校生に私があげたものだ。
五年前、六年生の夏の終わり。
海に行って綺麗な桜貝を拾ったことをおじいさんに自慢したくて、一人でここに来たことがあった。
そのとき店番をしていた高校生のお兄さんにあげたんだ。
たくさんの宝石が欲しいと言っていた彼に、学生には過ぎたものよ! とおじいさんから聞きかじった言葉を使って叱り、代わりにこれでガマンしなさいとあげたんだっけ。
今思うとかなり一方的な行動で恥ずかしいけれど、あれが響さんだったんだ。
思い出しているうちに、響さんは「またね」と意味ありげな笑みを浮かべてドアを閉めてしまった。
ドアがしっかりと閉じられ、私は巾着を返しそびれてしまったことに気づく。
困った私は、とりあえず中身を確認しようと巾着を開けてみて息を呑んだ。
入っていたのはピンク色の宝石が付いたネックレス。
響さんの声を思わせるようなとろみのある色合い。柔らかなピンク色の宝石は、小さいけれど五枚の花びらのようで……。
桜のようなペンダントトップは、どう考えても安いものじゃあなかった。
「こんなものをくれるとか……いったいどういうつもりなのよ」
頭をかかえたくなった。
今すぐ閉められたドアを開けて問いただしに戻りたいと思った。
でも、どうしてだろう。
「またね」と言われたからだろうか?
今すぐ聞きに行って返すのはなんだかもったいない気がした。
こんな高そうな宝石を持つなんてごめんなんだけれど……でも、これを持っていればまた来店する理由が出来る。
これをくれた意図を聞きに、そして返すためにまた来店しないとって。
こんな私の思いも見越して響さんはこの巾着を押しつけてきたんだろうか?
わからない。でもそれも、次に来店したときにわかるはずだ。
なんだか楽しい気分になって、フフッと笑った私は【KAROBU】に背を向けて歩き出した。
累と私の間にできた線は、響さんとの縁を結ぶという素敵なことへと導いてくれたみたい。
アイリスクォーツのように見方を変えればヒビも美しく見える……というのとは少し違う気もするけれど。
それでも、確かに今は素敵な景色が見える。
また明日、さっそく来てみよう。
聞きたいこと、話してみたいことはたくさんあるから。
このときはまだ、私がこの小さな宝石店へ通い詰めることになるなんて思いもしていなかった。
END
その言葉は、私に小さな衝撃を与えた。
雷に打たれたような大きなものじゃない。せいぜい、冬の乾燥した朝に不意打ちで攻撃してくる静電気くらいの衝撃。
つまり、他人からすれば誰でもなることと流されそうな事象だけれど、私にとっては確かな痛みとなって襲ってきたもの。
ずっと一緒にいた幼馴染みの彼・累の言葉は、私にとってそういうものだった。
別に、累を男として見ていて恋愛感情があったわけじゃない。
ただ、物心つく頃から一緒にいて……なんの疑いもなく、大人になってもずっと幼馴染みとして側にいるものだと思い込んでいた。
どんなに仲の良い幼馴染みでも、異性である以上片方に恋人が出来てしまったら近くにいるべきじゃない。
それが一般的な常識であることは知っていたし、私自身そうするのが当然だと思っていた。
ただ……それが私と累にも当てはまることだという認識が無かった。
頭では理解していても、感情がついて行かないという状態だと思う。
私がまともな返事を出来ないでいるうちに、累は好物の肉まんを食べたときよりも幸せそうな顔をして彼女の元へと行ってしまった。
仲の良い幼馴染みという関係は変わらない。
ただちょっと、今までより一緒にいる時間が減るだけ。
それだけなのに……でもそれだけじゃない。
その証拠に、私と累の間にはなにかの線のようなものが引かれた気がした。
見えないその線は、まるでヒビでも入ってしまったかのように、累と私を分けたような気がした。
***
いつもと変わらないはずの歩調で慣れた道を歩く。
いつもと同じ道、同じ歩調、同じ景色。
でも、隣にいるいつもの存在がなくて変な感じがする。
今までだって、私か累のどちらかに用事があって一人で歩くことはあった。
なのにそのときと違うように感じるのは、これが一時のものではないと知っているからなんだろう。
今日だけじゃなく、これからずっと私は一人でこの道を歩くことになる。
また累と歩くことがあるとすれば、彼が彼女と別れたときだ。
でも、そんなことは望んでいない。
私が見たこともないような幸せな累の顔を思い出す。
大事な幼馴染みの、あんなに良い笑顔を曇らせたいなんて欠片も思わないから。
だから、ヒビが入ってしまったような線を引いたままでいるしかない。
現状を変えるつもりがないから、私は一人の帰り道に慣れていくしかないんだ。
それを受け入れることも別に嫌じゃない。仕方ないなって思うし。
ただ、少し寂しいだけ。
……でも、その寂しさをないものとして扱うにはまだ時間が必要で……。
だから、ちょっとだけいつもと違うことをしようと思った。
いつもは二人で真っ直ぐ家に帰るけれど、今日は少しだけ寄り道をしようと進む足の方向を変えたんだ。
途中にある商店街の、一つ向こうの角を曲がる。
その道は少し坂になっていて、商店街の賑やかな雰囲気から離れるように上っていく。
昔――といっても小学五年生の頃だから六年くらい前のこと。
親とケンカして家に帰りづらいという累と、少しだけ街探検をしてみようとこの辺りを散策したことがあった。
そのとき見つけた、街から少し離れたお店。
外観は古くさい骨董品店みたいだったけれど、中に入ると白いものが混じった立派な口ひげをつけた優しそうなおじいさんが迎えてくれた。
色んな宝石を扱う宝石店【KAROBU】。
特定のお客さんしか来ないというお店は閑散としていて、小学生だった私たちにとってはちょとした秘密基地みたいな場所になった。
店主のおじいさんも、商品に絶対触らないならと快く迎えてくれてお菓子を用意してくれていることもあったから。
そんな素敵なお店だけれど、私たちが中学に上がると足が遠のいた。
単純に部活とかで忙しくなったからなんだけど……。
ほぼ通い詰めていた状態だったのに、いきなり行かなくなったから不義理をしてしまったような気分になっていた。
今更かもしれないし、あの優しい店主は気にしていないかも知れないけれど……。
行きづらいと言っていた累が今はいないから、ちょっと様子を見に行ってみようかなと思ったんだ。
子どもの頃は街から離れて少し不安になってしまうくらいの道のりだったけれど、背も伸びた今は記憶よりも早く店に着いた。
ほんのり洋風な雰囲気を漂わせる古ぼけた店構え。控えめにぶら下がっている看板には年季の入ったKAROBUの文字が入っている。
大人からみれば味があるっていうのかな?
子どもの頃はサッパリわからなかったけれど、今見たら少しはわかるような気がした。
昔と変わらない、ギシリと軋む音を立てる入り口のドア。
昔と変わらない入店を知らせるチリンというベルの音。
そして、昔とは違う若い男性の「いらっしゃいませ」という声。
思わず「え?」と声を上げて声の主を見た。
記憶にある優しいおじいさんの声じゃない。もっと若い、少し甘さを含んだようなとろりとした声音。
目を向けた先にいた人物も、声色のイメージに合うような甘いマスクをしていた。
少し長めの黒髪をなでつけるようにセットし、一部だけ銀色にした前髪を垂らしている。
柳の葉ように形の良い眉に、少したれ気味の茶色の目。通った鼻筋に、薄い唇は一見優しげに笑みの形を作っていた。
綺麗な顔立ちだし細身で弱そうにも見えるけれど、ワイシャツにベスト、スラックスという服装の彼は体幹が良いのか真っ直ぐ綺麗な姿勢で立っている。
私と目が合った彼は、おや? と不思議そうな顔をした。
「珍しい、若いお客さんだね」
「あ、その……」
宝石を売っている店なのだから、それなりにお金を持っている大人が来る場所なんだろう。
初対面の彼が明らかに学生である私を不思議がるのも理解出来た。
とはいえ、どうするべきか。
商品を見に来たわけでもない、狭い店内をぐるりと見回してもお目当ての店主はいない。
かといって、店員らしい男性と目が合ったのになにも言わずに出て行くのも気が引けた。
「えっと……店主のおじいさんはいますか?」
結果、一番の目的を遂行することを選ぶ。
「店主は俺だけど……おじいさんってことは俺の祖父かな? 三年前までいたから」
客ではなさそうだと思ったのか、店主を名乗った男性は幾分砕けた口調で話してくれた。
前もおじいさん一人しか店にはいなかったし、彼が店主である可能性はなんとなく察していた。でもまさか孫だったとは。
「今は代替わりして俺が店主をしているんだ。じいちゃんは隠居してるからここにはもう来ていないよ」
「そう、ですか……」
男性の答えに私は気落ちする。あの優しいおじいさんとはもう会えないのか……って。
不義理をしたままになってしまったな、と後悔のため息が漏れた。
ため息と一緒にその後悔をはき出して、息を吸いながら切り替える。
お目当ての店主がいないとなれば、もうここに来ることもないだろう。
そう思った私は、久しぶりに店の中を見てみることにした。
百貨店などのジュエリーショップにはない原石や、珍しい宝石もある。昔はあまり近づくと止められたけれど、少し大人になったんだからむやみに触らなければ止められることもないだろう。
そうして買いもしない商品を見ていると、店主の男性が声を掛けてきた。
「じいちゃんを知ってるってことは……もしかしてここをたまり場にしていた小学生って君のことかな?」
カウンターから出てきてわざわざ近くに寄ってきた彼に、私は思わず眉を寄せる。
近づかれて警戒したわけじゃない。単純に、その言葉が不満だったんだ。
「たまり場……」
確かに秘密基地みたいな扱いはしていたけれど……【たまり場】なんて言われたら私たちが不良みたいに聞こえるじゃない。
心外だ、と不満に思っていると、彼はさらに私の不満のツボを突いてきた。
「聞いた話だともう一人いるみたいだけど?」
「……彼は来づらいって言ってたので。それに彼女ができたし、多分ここには来ないです」
実際に私たちを知っているおじいさん店主に言われたならまだしも、話を聞いただけの人にそこを突いて欲しくなかった。
そんな不満と、そんなことを言われる原因になった累への不満で棘のある言い方になってしまう。
八つ当たりになってしまったかな? って反省したのも束の間。男性はさらに突っ込んだ質問をしてきた。
「失恋?」
「はあぁ……違いますよ、彼は弟みたいなものでしたから」
つい、肺の中の空気を全て出したようなため息を吐いてしまう。
幼馴染みに彼女が出来たからって、どうして私が失恋したと思われなきゃいけないのか……。
マンガやドラマの影響を受けすぎなんじゃないかな?
「そっか、ごめん」
でも、すぐに謝ってくれたことで不満が怒りに変わることはなかった。
自分の間違いをすぐに認める姿勢が大人だなぁと思わせて……。なんとなく、安心感のようなものを覚えた。
「……でも、そうですね。ちょっと寂しさはあります」
だからかな? つい、累に対して思っていたことをポロリとこぼしてしまったんだ。
「ずっと一緒にいたから、隣にいるのが普通過ぎて……彼女と別れて欲しいわけじゃないんです。ただ……なんか、変わるはずのない幼馴染みっていう関係の中に線を引かれた気分で……まるでヒビでも入ってしまったみたいなんです」
一通り話しながら、なんで初対面の人にこんなことを話してるんだろうって思う。
思うけれど、きっとこの店の懐かしい雰囲気がそうさせてるんだろう。
子どもが冒険を夢見るような……それを見守ってくれているような……そんな優しい雰囲気がこの宝石店にはあった。
その雰囲気の一員でもある男性店主は、私の話を聞くと少し考えるそぶりを見せて「ちょっと待ってな」と私をその場に残し離れる。
カウンターの奥へ消えてしまった彼は、でもすぐに戻って来て私になにかを手渡した。
「手、出して」
「え? はい」
うながされて差し出した手のひらの上に乗せられたのは、直径2センチほどの透明な玉。
「……水晶、ですか?」
「ああ、アイリスクォーツだ。成長過程で自然と亀裂が入った水晶なんだ。ヒビが入ったことで、虹色の光が見えるんだ」
言われて改めて見ると、確かに虹を閉じ込めたような綺麗な水晶玉だった。
「ヒビが入っても……いや、入ったからこそ綺麗に見えることもある。その幼馴染みとの関係も少し変わっただけだというなら、別の見方をすれば綺麗な景色が見えるかもしれない」
「……対人関係と宝石は別物だと思うんですけど?」
キザったらしい言い方に、私の方が恥ずかしくなってついかわいくないことを言ってしまう。
でも大人な店主は、そんなかわいくない私の言葉を「手厳しいね」と笑って受け流す。
その様子もまた落ち着いた大人の男性に見えて、私は自分がいつもより子どもっぽくなっているように感じた。
だから、少しでも大人に近づけるように背伸びしてみる。
「でも……ここに来て良かったな、とは思いました」
子どもっぽく拗ねないで、素直な気持ちを告げる。
すると大人な彼はやっぱり落ち着いた優しい笑顔を浮かべた。
「そうか。俺も、君がここに来てくれて良かったと思うよ」
見上げた茶色の目は優しく細められていて……。
懐かしさを含んだ心安まる空間がここにはあった。
***
「ありがとうございました」
そう告げて店を出ようとすると、店主はわざわざ見送りに出てきてくれた。一つの商品も買わない、客ですらない相手のために。
そんなに暇なんだろうか? とも思ったけれど、それは口にしないでおいた。
「これはあげるよ」
チリン、とドアのベルを鳴らして外に出ると、彼は軽く押しつけるように私へ小さな巾着袋を手渡してきた。
なにが入っているのかはわからないけれど、初対面の相手からものをもらうわけにはいかない。
「いえ、結構です」
キッパリ告げて押し返そうとしたけれど、優しげな店主は受け取らず「そういえば」と別のことを話し出した。
「俺自己紹介もしていなかったよな」
「え?」
「俺の名前は響だ。覚えておいてくれ」
一方的に名乗った店主――響さんは、優しさの中に甘さを含ませた笑みを浮かべその顔をぐっと私に近づけた。
突然の行動にドキリとした私に、彼は耳打ちする。
「それは受け取って欲しいな、真理ちゃん。再会できたお祝いってことで」
「え?」
再会? 私、響さんと会ったことなんてあった?
それに、私名前教えたっけ?
驚きと疑問に目をまん丸にして驚いているうちに、響さんは店に戻りドアを閉めようとする。
その手には、いつの間に取りだしたのか桜貝が入った小瓶をペンダントにしたものを持っていた。
その見覚えのあるペンダントは、昔ある男子高校生に私があげたものだ。
五年前、六年生の夏の終わり。
海に行って綺麗な桜貝を拾ったことをおじいさんに自慢したくて、一人でここに来たことがあった。
そのとき店番をしていた高校生のお兄さんにあげたんだ。
たくさんの宝石が欲しいと言っていた彼に、学生には過ぎたものよ! とおじいさんから聞きかじった言葉を使って叱り、代わりにこれでガマンしなさいとあげたんだっけ。
今思うとかなり一方的な行動で恥ずかしいけれど、あれが響さんだったんだ。
思い出しているうちに、響さんは「またね」と意味ありげな笑みを浮かべてドアを閉めてしまった。
ドアがしっかりと閉じられ、私は巾着を返しそびれてしまったことに気づく。
困った私は、とりあえず中身を確認しようと巾着を開けてみて息を呑んだ。
入っていたのはピンク色の宝石が付いたネックレス。
響さんの声を思わせるようなとろみのある色合い。柔らかなピンク色の宝石は、小さいけれど五枚の花びらのようで……。
桜のようなペンダントトップは、どう考えても安いものじゃあなかった。
「こんなものをくれるとか……いったいどういうつもりなのよ」
頭をかかえたくなった。
今すぐ閉められたドアを開けて問いただしに戻りたいと思った。
でも、どうしてだろう。
「またね」と言われたからだろうか?
今すぐ聞きに行って返すのはなんだかもったいない気がした。
こんな高そうな宝石を持つなんてごめんなんだけれど……でも、これを持っていればまた来店する理由が出来る。
これをくれた意図を聞きに、そして返すためにまた来店しないとって。
こんな私の思いも見越して響さんはこの巾着を押しつけてきたんだろうか?
わからない。でもそれも、次に来店したときにわかるはずだ。
なんだか楽しい気分になって、フフッと笑った私は【KAROBU】に背を向けて歩き出した。
累と私の間にできた線は、響さんとの縁を結ぶという素敵なことへと導いてくれたみたい。
アイリスクォーツのように見方を変えればヒビも美しく見える……というのとは少し違う気もするけれど。
それでも、確かに今は素敵な景色が見える。
また明日、さっそく来てみよう。
聞きたいこと、話してみたいことはたくさんあるから。
このときはまだ、私がこの小さな宝石店へ通い詰めることになるなんて思いもしていなかった。
END