2.真相は何処

 なぜ兄が兄として檮山家に来たのか。その理由を知ったのは俺が中学一年になった頃のことだった。ある日学校から家へ帰ると、玄関に高そうなパンプスが置かれているのに気づいた。海外での公演を終えたピアニストの母が久しぶりに家に帰ってきているらしい。
 母が海外や地方の公演から帰ってきた時、俺と春くんは母の前でピアノを弾くのが習慣になっていた。自分がいない間に、子どもたちのピアノの腕がどれ位上達したのか知りたいみたいだった。ただ、俺はピアニストである母の前でピアノを弾くことに対して酷く緊張してしまうので、その時間はあまり好きではなかった。
 また今日も何かしらの小言を言われてしまうのか、と億劫になりながらリビングのドアを開けようとした瞬間、俺の手は思わず止まってしまう。リビングで話をしているらしい母と芳子さんの声がいつもより低く、俺が入ってはいけない気配が漂っていた。

「今年も博信さんのお墓参りは行かないんですか」
「行くわけないでしょう。莉央が行きたいって言ってるなら、悪いけど芳子さんが連れていってやって」
「私は構いませんが、もうそろそろ莉央くんも気づく年頃ですよ。どうしてお母さんは来ないんだと聞かれたら何て答えればいいでしょう」

「博信さん」は、俺の父の名前だった。父は事故で亡くなり、毎年夏の時期に俺と芳子さんでお墓参りに行っていた。そう、母は一度も来たことがない。仕事で忙しいからだと漠然と思っていたが、どうやらそれは違うらしい。
 俺はゆっくりとドアを開けた。こちらに気づいた芳子さんと母はビクリと身体を揺らし、驚きの形相で俺を見つめる。「今の話って、どういうこと?」そう問いかければ、二人は気まずそうに視線を交わした。
 しばらくして、はぁ、と重いため息をついた母が「こっち来なさい」と言う。飛行機で長時間かけて帰ってきたであろう母の顔は、影がかかっているかのように暗い。俺は母と向かい合って椅子に座った。芳子さんが俺の分の緑茶も淹れてくれる。

「……そうね。もうこうなったら、莉央には全部話すわ」

 手で顔を覆うようにして、母はゆっくり語り始めた。何かに打ちのめされているような母の姿を見るのは、初めてだった。

「あなたのお父さんは確かに事故で死んだ。対向車線の車の居眠り運転のせいでね。それは事実だわ。でも一人で死んだんじゃないの。もう一人、女の人と一緒に死んだ」
「女の人?」
「……不倫してたのよ。相手の女とドライブデート中、事故に遭って死んだ。私はその時、何も知らずに札幌のコンサートホールでモーツァルトを弾いていたわ」

 俺は何も言うことが出来なかった。俺の記憶の中にいる父は、いつも優しく笑っている穏やかな人で、そんなことをするなんてとても信じられない。

「警察から携帯に電話が入って、慌ててこっちに戻って来たら、あの人はもう何も喋らない死体になっていた。同じ車に乗ってて亡くなった女性が、って聞かされたときの衝撃ったら」

 フフ、と母は自嘲気味に笑った。

「呆然としながらあの人の葬式を終えて、それからせめて相手の女の顔を見てやろうと思って、その女の葬式に乗り込んだのよ」
「え……本当に?」

 そんな状況でありながらも浮気相手の顔を見てやろうと思ってしまうところは母らしい。

「そしたらね、まだ小さい春臣がいたの。その女の子どもだってその場にいた人から聞いたわ。父親はどこで何をしているのかも分からない。母親は死んでしまった。引き取りたいと願い出る親戚の人間もいない。それでその子をどうするかってちょっと揉めててね。大人のエゴに引きずり回される春臣を見てたら、何かもうプッツンときちゃって『それなら私が引き取ります』って言ってそのまま家に連れてきたの」
「……は、はぁ!?」

 まさに衝撃の事実だった。春くんがこの家に来た当時、俺はまだ幼くて、物事というものをよく分かっておらず、春くんが突然兄になった理由など考える余地もなかった。母が兄だと言って連れてきたから、春くんは俺の兄なのだと、そういうものなのだと思ったままこれまで過ごしてきた。そんな簡単なことじゃなかったのだと、この時になって俺は初めて知った。
 父の死の真相と兄の出自。それを難なく受け止めるほど俺は出来た人間じゃない。しばらく座ったまま、母の顔を見つめることしか出来なかった。

「……えっと、とりあえず、お母さんがお父さんのお墓参りに行かない理由っていうのは」
「私を裏切った人間の墓参りになんて行きたくないわよ。葬式出しただけでも有難く思って欲しいわね」
「それに加えて、俺と春くんは兄弟じゃない」
「血は繋がってないわね。でも私は春臣も莉央も家族だと思ってる。確かに勢いに任せて春臣を引き取ったけど、大事に思う気持ちは変わらない」

 母はこうと決めたら絶対にそれを曲げない人だ。だから本当に父のお墓参りには行かないだろうし、これからも春くんを息子として育てるだろう。それは理解した。理解したけれど、俺の頭はもうキャパオーバーだった。
 次の日、俺は熱を出して一日学校を休んだ。ベッドの中でうんうんと唸りながら、昨日の母との会話を思い出す。余りにも現実味がなくて、自分は夢の中の住人なんじゃないかなんて思う。それでも、春くんが兄となった事実だけは本当であって欲しくて、いるかも分からない神様に、これからも春くんとずっと一緒にいれますように、と朦朧としながら祈った。

***

「うわー、ブラコンってほんとにいるんだねぇ」

 放課後、家庭科室で俺と一緒にレアチーズケーキを作っている安積さんに兄の話をすると、彼女はどこか楽しそうにそう言った。安積さんは別クラスの生徒であり、見た目もそれなりに派手で普段なら絶対に関わることのないタイプだが、何故か料理部内では馬が合ってよく話す仲だった。

「やっぱりブラコン、なのかな」
「檮山くんの話を聞いている限りはね。だって重要な用事もないのに月に一度はお兄ちゃんの家に行くんでしょ?」
「うん」
「それはもうお兄ちゃん大好きっ子人間だよ」
「大好きっ子人間って……」

 料理部の活動はかなり緩く、俺たちの他に「大量の肉が食べたい」と言って焼豚を作っている部員もいれば、レシピ本や動画を眺めていたり、お菓子を食べながらただ喋っているだけの部員もいる。この料理部の適当な感じの空気感が割と好きだった。
 ケーキ型の底に敷くビスケットを綿棒で砕きながら、この前春くんの家に泊まりに行った日を思い出す。同じ学部の人だと言う女性と話していた春くんは、完全に俺の知らない春くんだった。

「よく家に押しかけてくる弟って、うざい?」
「んー、あたしは一人っ子だからよく分からないけど、わざわざ一人暮らしを選んだのに家族がよく来るのは……うざいって思う人もいるんじゃない?」

 ボウルの中のクリームチーズをグルグルかき混ぜながら、安積さんは言う。汎用的な回答ではあるけれど、今の自分にはそれなりのダメージを受けてしまった。と言うより、すでに自分の中で答えが出ているのだ。
 粉々になっていくビスケットを眺めながら、短くため息をつく。

「もう家に行くの止めようかな。結城たちにも若干引かれてるし」
「まぁ、行く頻度を少し下げたら? 物理的にも精神的にも距離を置くことで、何か変わるかも」
「そう、だといいけど」

 しばらくの間、春くんの顔を見なければ、心はすっきりするだろうか。いずれにしても何かしら状況を変えたほうがいいだろうということは、薄々と感じてはいる。
「やばっ」という安積さんの声がして視線を向けると、クリームチーズと混ぜるために用意していた生クリームがテーブルに広がっていた。どうやら泡立て器を持っていた手が生クリームを入れていたカップに当たってしまったようだ。確か生クリームは予備がないので、新しいものを買いに行かなければならない。
やっちゃったぁ、という彼女の目が俺に向けられる。こういう時、結局俺が買いに行くことになるのは分かっていたので、安積さんが何か言う前に「そこ綺麗にしといて」と言い放ち、俺は財布を持って家庭科室を出た。

 何とか期末テストをやり過ごし夏休みに入っても、俺は春くんと連絡を取らず、家にも行かなかった。当然というように春くんからの連絡もなかった。やはり内心では俺のことを面倒に思っていたのかもしれない。これからは距離感というものを意識しないとな、なんて考えながらも、やはりどこか心の片隅が欠けてしまったような気もする。
 晴天でうだるような暑さの日、結城と三河の三人で集まり映画館へと行った。野球部に入っている三河は連日の部活動ですっかりと日焼けしていて、まさに野球少年といった姿に俺と結城は笑ってしまう。
 結城は結城で、別の高校に通っている彼女が浮気をしているのではと疑っているようで、映画を見た後、ショッピングモールのフードコート内で俺と三河に彼女の怪しい行動を事細かに伝えてきた。必死な様子がちょっと面白く、笑わないように気を付けながら結城を励まし、それならもう直接聞くしかない、なんてありきたりなアドバイスを言う。
 オレンジ系の明るい髪色の人とすれ違う度、俺は思わずその人を見てしまう。春くんがこんなところにいるわけがないと分かっていながらも、もしかしたらと期待してしまう。そんな自分が女々しくて嫌になってくる。
 結城が彼女と別れることになったら慰め会をしよう、なんてふざけた約束をして帰宅すると、芳子さんが夜ご飯の準備をしていたので、俺も部屋着に着替えてから芳子さんの手伝いをした。

「お味噌汁作るね。具材は?」
「ありがとうございます。今日は油揚げと玉ねぎとワカメにしようと」

 芳子さんは手慣れた手つきで野菜を切っている。トントントン、という包丁でまな板を叩く音は、小さい頃からずっと変わらない。
 母がいない時は、この家には俺と芳子さんの二人だけしかいない。俺がいなければ芳子さんは一人でご飯を食べることになる。それが何となく嫌で、夜に友達と外食をすることはほとんどなかった。
 二人で手早くご飯を作り、二人だと大きすぎるテーブルでぽつぽつと会話しながら出来立てのご飯を食べる。春くんがいないだけで、檮山家の食卓は途端に淋しくなってしまった。きっと芳子さんもそう感じているだろうけど、それを口にすることはなかった。
 ご飯を食べ終え後片付けをしてから、何となくピアノを弾く気分になったので、一階の奥にある防音室に入った。防音室には母のグランドピアノがある。物心ついた時からあるもので、俺と春くんはずっとこのピアノを弾いてきた。ピアノの脚には、俺が幼いころ貼ったクマのシールが今でも残っている。
 椅子に座り、鍵盤蓋を開けて軽く音を鳴らす。それから気ままに思い浮かんだ曲を弾きたいところまで弾いては次の曲へと移っていった。エリーゼのために、ジムノペディ、子犬のワルツ……。
 俺も春くんと同じように、高校生になってからピアノを習うのをやめた。春くんの真似をした訳ではなく、シンプルに自分はこれ以上ピアノが上手くなることはないと感じ取ったからだ。ピアノが下手な訳ではない。でも、自分より上手な人、魅力的な演奏をする人は沢山いて、その人たちをかき分けて賞を勝ち取ることは俺にはきっと出来ないと思った。死に物狂いで努力をしようとも思えなかった。
 そんな俺のピアノとは違い、春くんの指先から生まれるピアノの音は宝石みたいで一際輝いていた。だから俺は、春くんは音楽学校へ行ってピアノの腕を磨き、最終的には母のようにプロの道へと進むのだろうと勝手に思っていたのだった。実際は全く違ったけれど。
 余計なことをなるべく考えないようにして、鍵盤を叩く。以前より指の動きは鈍ってしまったが、今も学校で伴奏を頼まれたらピアノを弾ける程度には技術は残っている。でも、やはり自分が弾くピアノはあまり好きじゃない。

 気が済むまで適当にピアノを鳴らし、軽く手入れをしてから防音室を出た。自室へ戻る前に水を飲もうとキッチンへ行くと、芳子さんが流し台やコンロを掃除している。俺に気づくとにこりと笑って「春臣くんが帰って来てますよ」と伝えてきた。

「春くんが? どうして?」
「お友達と遠出をしたようですけど、アパートよりこちらのほうが帰るのに近かったようで。遊び疲れた様子でした」
「へぇ。珍しい」

 春くんは一人暮らしをしてからこちらへはあまり帰ってこないのに、どうしたのだろう。特殊イベントの発生に緊張しながら階段を上がり、春くんの部屋へと向かう。早く顔を見たいけど、何を言われるのか、それとも何も言われないのか、春くんの反応を見るのが少し怖い。
 ドアの前に立ち、名前を呼んでノックをしても中から返事はなかった。遠出をして遊び疲れたようだと芳子さんも言っていたし、寝ているのだろうか。
 僅かにドアを開けて、そっと室内を覗く。案の定、春くんは窓際のベッドで寝ているようだった。引き返そうと思ったものの、久しぶりに会えた嬉しさが勝ってしまい、起こさないように足音を消して部屋へと入ってしまった。
 小学生の頃、俺も一緒に寝たことのあるベッドで、小さな寝息をたてて春くんは寝ている。ベッドの傍に腰をおろし、こうして春くんを眺めていると、昔に戻ってしまったかのように感じた。
 この家に来たばかりの頃、春くんは全く笑わない子どもだった。笑わないどころか、悲しみも嬉しさも何もかも表情に出さなかった。多分、出さなかったのではなくて、感情というものが心の中に存在していなかったのかもしれない。とにかく、そんな彼を俺は不思議に思った。何を聞いても無表情で頷くか、首を振るかしかしなかったのだ。
 それを母に言うと、母は暗い顔をして「あの子、きっと誰のことも信頼していないのよ」と悲しそうに言った。

「しんらい?」
「……誰のことも、好きじゃないってこと」
「ぼくのこともお母さんのことも、春くんは好きじゃないってこと?」
「私たちはまだ春臣くんと出会ったばっかりだからね。だからこれから莉央が春臣くんと仲良くして、笑わせてあげてくれる?」

 そう言って俺の頭を撫でてきた母に、わかった、と頷いた。
 それからは泣きもせず笑いもせず、あまり動きもしない春くんの腕を掴んで、色々なところへ連れまわした。まずは家の間取りを覚えてもらうためにリビングやキッチン、お風呂場、ベランダ、勝手口まで。次は家のすぐ近くにある自販機、それから公園、猫のたまり場。
 芳子さんやたまに母が作ってくれるご飯ももちろん一緒に食べた。「これは美味しい」とか「これは苦い」とか、食材の好き嫌いのコメントをつけながら。春くんはそんな俺の言葉を無言で聞いてから、一口ずつご飯を食べていった。
 お風呂も一緒に入って、髪を芳子さんに乾かしてもらい、それぞれのベッドに入る。人形のような春くんが自分と同じように眠るという行為が出来るのか、つい心配になってしまって、俺は度々春くんが眠りにつくまでベッドの傍で見守ったのだった。
 春くんが初めて笑ったのは家に来てから半年後くらいだろうか。一緒に公園の砂場で遊んでいて、俺は大きめの砂の城を作るのに夢中だった。すぐ近くまで野良猫が忍び寄ってきていたのに気づかず、ふと隣を見た途端、俺は猫がいることに驚いて声を上げて尻餅をついてしまった。
 猫は飛び跳ねて素早く逃げていき、俺は尻餅をついたままぽかんとしている。その光景が面白かったのか、春くんは「ふふっ」と笑った。ようやく見ることが出来たその笑顔は、それまで見てきたものの中で一番綺麗で、そしてとても嬉しいものだった。今でも忘れることは出来ない一瞬の記憶。
 それから春くんは人形に魂が宿ったかのように生き生きと話し、動き、笑うようになった。春くんが大学生になって家を出ていくまで、俺たちはこの家でずっと一緒に育ってきたのだ。

「……莉央?」

昔のことを思い出していると、春くんが起きてしまったようでゆっくりとその瞼が持ち上がる。

「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、大丈夫。少し寝るだけのつもりだったから丁度いいや」

 ベッドの上で伸びをして、スマートフォンを手にとり時間を確認する。ベッドの柱には帽子がかけられていた。

「遠出したって芳子さんから聞いた」
「そー。バンドの奴らと川遊びしてきたんだけど、普段そこまで身体動かしてないから疲れちゃってさ」

そう言って春くんは俺のほうへと身体の向きを変えた。そのままじっとこちらを見つめてくるので、思わずたじろいでしまう。

「な、なに?」
「んー、……どうして最近、俺の家に来ないのかなって」

 春くんは手を伸ばし、俺の髪にそっと触れた。途端に心臓の鼓動が速くなり、思わず顔をそむけてしまう。

「えっと、その、テストもあったし夏休みも色々と予定が入ってて」
「そっか。暑い日ばっかりだし、夏バテにならないようにね」
「……あの、俺が春くん家行くの、迷惑じゃない?」

 尋ねると、春くんは一度瞬きをして、それからやんわりと微笑む。

「もちろん、迷惑じゃないよ」

 そう言ってくれる春くんのガラスのような瞳は、何故か苦しんでいるように見えた。