1.兄

 兄と初めて会ったのは、確か俺が五歳くらいの、父が亡くなった夏だった。夜、家に母が帰って来た気配がしたので玄関まで走っていくと、ドアの向こう、蒸し暑い空気の中で兄は母と手を繋いで立っていた。自分よりも背丈のあるその子の顔は、感情というものがなく、でも綺麗な造りをしていて、まるで人形のようで少し怖かったことを覚えている。

「莉央……今日からこの子がお前のお兄ちゃんになるから。春臣くんって言うの」

 暗い声で母は言った。玄関前に立っているこの二人が、何だか別の世界の人間のように見えて、俺は何も言うことが出来なかった。夢のような記憶だけれど、夢ではない。
 その日からその人形のような男の子――春くんは、俺の兄になった。

***

檮山(ゆすやま)、この後カラオケ行こうぜ。三河も誘ってさ」

 金曜日の放課後、教室で帰り支度をしているとクラスメイトの結城が話しかけてくる。いつもなら二つ返事で彼らと駅前のカラオケへ向かうところだが、今日はそうするわけにはいかなかった。

「ごめん、今日は用事あるから」
「なんだよ、部活もないだろ? あ、もしかして兄貴の家に行く日?」
「そう」

 あの夏の夜に出会った三歳上の兄は、大学に入学したと同時に一人暮らしを始めた。実家から大学へ通うことも出来はするけれど、乗り換えが多く通学に時間を取られてしまい、割と不便なので、それならいっそ大学の近くに部屋を借りたほうがいいと母を説得し、兄は手際よく家を出てしまったのだった。それからもう一年と少しが経った。

「お前もよく兄ちゃんの家に行こうとするよな。俺も家を出た姉ちゃんがいるけど、正月に顔を合わせるだけで十分だわ」
「……気持ちとしてはホテルに泊まる感覚っていうのかな。たまに自分の家じゃないところに泊まりたくならない?」
「あー、まぁ、分かるっちゃ分かるかも」

 今の言葉も嘘ではないが、一番の理由は単純に兄――春くんに会いたいからだ。でもそんなことを言えばブラコンだと笑われるに決まっているので、絶対に言いたくない。普通の兄弟の距離感とはちょっと違うだろうということは、自分が一番分かっていた。

「じゃあ、もう行くから。また月曜にね」
「ん、またな」

 着替えが入ったいつもより重たいリュックを背負い、教室を出て足早に駅へと向かう。早く春くんの顔を見たい。そう思う一方で、心のどこかで春くんの家へ行くのに怯える自分もいた。
 一人暮らしを始めてから、春くんはどこか冷たくなったように思う。具体的にどこが、と問われるとうまく答えることは出来ないのだが、何となく、少し素っ気なくなった。そんなことはないと確かめるように月に一度は春くんの家に遊びに行くが、その不安を払拭することはまだ出来ていない。
 一人暮らしの家に何度も出向く弟は流石にうざったいだろうか。でも、あの日から今まで、俺の記憶はほぼ春くんで埋め尽くされている。俺の一部のような人が急に遠くへ行ってしまったら、寂しいに決まってるじゃないか。
 春くんの家に向かう急行の電車の中、速いスピードで流れていく景色を見つめながら、悶々とする気持ちを持て余す。隣に座っている男の人のイヤホンから漏れる賑やかな曲が、耳元に纏わりついて落ち着かなかった。
 最寄りの駅に到着するとすぐさま電車を降り、誰よりも早く改札を抜ける。春くんの家に行く前に夜ご飯の買い物をしなくてはならないので、そのまま駅直結のスーパーへ向かった。
春くんの家に泊まる時は、いつの間にか俺が夜ご飯を作るのが習慣になっていた。一人暮らしだと適当に食事を済ませてしまうことが多いらしく、春くんの家の冷蔵庫にはあまり食材がない。だから駅に着いたらまずはスーパーへ行って、献立を考えながら余らない程度の食材を買うことになる。元々家で住込みの家政婦をしている芳子さんのお手伝いをすることもあって、料理自体は嫌いじゃなかった。その延長線で、高校では料理部に入ってしまったし。
 仕事帰りの大人たちに混じって野菜を手に取り、お買い得品のワゴンをチェックし、レジに並ぶ。買い物を終え、レジ袋を持って春くんの家――駅から徒歩十五分の小さなアパートの二階に行き、二〇二号室のチャイムを押すものの、反応がなかった。春くんはまだ帰ってきていないようだ。
合鍵を使ってドアを開けて部屋に入り、スマホのメッセージアプリで『もう家にいるよ』とメッセージを送る。しばらくして春くんから『了解』と返事が来た。俺が来ることは忘れていないみたいなので、ホッと一息つき、キッチンを軽く綺麗にしてから買ってきた食材でご飯を作る。
 野菜スープとハンバーグが出来上がる頃に春くんは帰って来た。「おかえり」と声をかけると、春くんはこちらを見て小さく笑い「ただいま」と返してくれる。大学に入ってオレンジブラウンに染めた髪の毛は、最近になってようやく見慣れてきた。似合ってはいるけれど、俺にとって春くんの髪の毛はずっと茶髪に近い黒髪だった。

「もうすぐでご飯出来るよ」
「ありがと。いい匂い……ハンバーグ?」
「そう。後はベーコンたっぷりの野菜スープ。これ好きでしょ?」
「うん」

 背負っていたベースをベッドの横に立てかける。高校に上がった時くらいに春くんはピアノをやめ、その代わりとでも言うように軽音部に入ってバンドを始めた。高校を卒業し大学に入ってもバンド活動自体は続けているようで、時々ライブハウスで演奏をしているらしい。何となく怖い感じがして、俺は一度もライブハウスに行ったことはないけれど。
 出来上がった料理を二人でテーブルに運び、向かい合って食事をする。学校での出来事や芳子さんとの会話など、どうでもいいようなことを話しても春くんは面倒な顔をせず最後まで話を聞いてくれた。どこからどう見ても優しくてかっこいい自慢の兄。でも、やっぱり俺と目を合わせる回数は確実に減った。
 食べ終わった食器の後片付けとお風呂の準備はいつも春くんがやってくれる。その間、俺はブドウ味のアイスキャンディーを食べながらテレビを見ていた。画面の向こうで笑い声をあげているタレントたちを眺めながら、春くんが普段座っているソファーに身体を埋める。大学に通う春くんのことを、俺は全然知らない。どんな授業を受けて、友人が何人いるのか、バンド仲間の人たちとどこでどんな練習をしているのか、何も知らない。俺が知らない春くんがどんどん増えてくる。この部屋にいると、それをまざまざと思い知らされる。

「アイス、溶けてるよ」

 ふいに春くんの声がして、手に持っていたアイスキャンディーに目をやると、液体になってしまった部分が指に垂れそうになっていた。慌てて舐めとれば「そんなにテレビ面白かった?」と春くんが笑って隣に座り、同じようにアイスキャンディーを食べる。

「別に。ちょっとボーっとしてただけ」
「眠いなら早くお風呂入って寝ちゃいなよ」
「大丈夫。……ねぇ、明日買い物付き合ってよ。夏服、新しいの欲しいし」
「いいよ。というか、俺が着なくなったやつもあげる。嫌じゃなければ」
「嫌じゃない。ありがと」

 この年になって兄と一緒に出かけるのは変だろうか。結城たちに知られたら、やはり呆れられるか、笑われたりするのだろう。一般的な兄弟の付き合い方をしたほうがいいとは思うけれど、でも。
 テレビを眺めながら春くんの肩に頭をぶつける。「ここで寝るなよ」という声が上から降ってくる。うーん、という中途半端な返事をして、春くんの肩に更に体重を預けた。

 ずっと昔の夢を見た。ピアノの練習中に即興で作った「春くんのうた」を弾いている時の夢。メロディもぐちゃぐちゃで歌詞だって脈絡がないヘンテコな曲だったが、俺も春くんも笑っていた。「もっかい弾いて」と後ろから抱きしめてくる春くんの体温が高くて暑かったけれど、そんなのは気にならなかった。春くんが笑っているだけでもう十分で……。
 ふと意識が浮上して目を開ける。部屋はすでに真っ暗で、春くんはベッドの上で寝息を立てていた。先にお風呂に入って来客用の布団を敷いた後、横になって春くんがお風呂から上がるのを待っていたが、いつの間にか寝てしまったようだった。
 起き上がり、キッチンに行ってグラスに水を注ぐ。冷たい水を一気に胃へ流し込めば、先ほどの夢の余韻はあっけなく引いていった。ただ、ついさっきまで春くんの体温がすぐ傍にあった気配だけが残っている。現実でそんなことあるはずがないのに。俺から近寄らなければ、春くんはすぐに俺から離れていくだろう。春くんから俺に近づくことなんて、きっともうない。そんな気がする。
 グラスの中の水がゆらゆらと揺らめく。俺の夢も思い出も何もかもが、水の中に溶けこんで消えていってしまうように思えた。

次の日、俺たちは約束通り買い物をするために、春くんの大学近くの繁華街に出向いた。休日ということもあって街は大勢の人で溢れかえっている。周囲から絶えず聞こえるざわめきに加え、梅雨も明けて夏本番へと近づいている蒸し暑い空気にバテてしまいそうになるけど、隣に春くんがいるというだけで気分は浮上した。

「これ、莉央に似合いそう。試着してみなよ」

街をぶらついて目についたショップに入り、夏物の服を探す。春くんが選んでくれた服というだけで、その服が何だか特別なもののように思えて、問答無用で全てレジ行きにしてしまう。

「これはどう? 普段あまり着ないような色合いだけど」
「似合ってる。俺が言うんだから間違いない」
「じゃあこれも買う」

そうして気づけば、ほとんどの服を春くんのアドバイスのもと買うことになってしまった。
一通りのショップは回ったので、一息つこうとカフェに入ることにした。ただ、休日の午後はどこの店も満席状態で、店内に入って埋まっている座席を見渡しては引き返すということを何度か繰り返す。やっと座れた店は、大通りから外れた人通りの少ない静かなカフェだった。案内された窓際の席からは、夏椿が咲いている中庭がよく見えた。
 春くんはアイスコーヒー、俺はアイスカフェオレとチーズケーキを注文する。料理部でチーズケーキを作ろうという話が出ているので、調査がてらの注文だ。

「思ったより混んでて驚いちゃった。この辺りっていつもこんな感じなの?」
「この前新しい商業施設がオープンしたから、そのせいかもね。人酔いしてない?」
「うん、大丈夫」

 運ばれてきたカフェオレにガムシロップを入れてストローでかき混ぜれば、氷がぶつかり合って涼しげな音を立てる。チーズケーキは冷やして固めるレアタイプで、口に入れるとレモンの風味がふわりと広がった。この時期は、レアチーズケーキのほうがさっぱりとして丁度いいかもしれない。
 春くんはブラックのアイスコーヒーを飲みながら時折スマホをいじっている。店内のBGMはクラシックのピアノメドレーが流れていて、とある曲が流れ始めた瞬間、思わず「あ」と声を出してしまった。

「出た、ノクターン第二番」
「莉央は昔からこれ好きだよね。飽きない?」
「飽きないよ」

 ショパンのノクターン第二番。ピアノをやっていればほぼ確実に弾くことになるくらい有名な曲だけれど、俺はこの曲が大好きだった。正確に言えば、春くんが弾くノクターンが、大好きだった。
 春くんがこの曲を練習している様子を、俺は隣でずっと見ていた。「あまり見ないでよ」と少し恥ずかしそうに言う春くんに、俺はあと一回だけ、と何度も言ってその横顔を、指先をじっと見ていた。春くんから生まれるノクターンの音が、俺にとってはとても心地のよいゆりかごのようだった。

「春くんが弾く曲なら、ずっと飽きない」
「それはどうも」

 また弾いてよ、という何でもない台詞を、何故か口にすることが出来ず飲み込んでしまう。春くんのアパートにはピアノがない。ピアノを置くスペースがないのだから当たり前だ。そして、グランドピアノがある実家にはあまり帰ってこない。春くんがピアノを弾く姿は、もう随分長い間見ていない。
 オレンジブラウンの髪は、やはりこのカフェでも目立っている。両耳にはシルバーのピアス。大学に入ってから開けたらしい。

「ねぇ、ピアス開けた時って痛かった?」
「そこまで痛くなかったよ。軟骨はそれなりに痛いらしいけどね」
「俺も開けようかな」
「何で? 莉央は開けなくていいよ。不良にならないで」
「別に、ピアス開けたからって不良になるわけじゃないじゃん」

 そうだけど、小さく笑って、春くんは指先で俺の耳たぶに触れた。別に本気でピアスを開ける気はないが、自分の真似はするなと言われているようで納得がいかない。確かに、春くんと比べたら不似合いではあるだろうけど。
 春くんと距離が出来てしまうのが嫌なのに、春くんに会えば会う程遠くに行ってしまうような気がする。だからと言って会いに行くのを止めてしまえば、二度と会えないような予感もする。こうやって兄弟というものは、段々と距離を置いていくものなのだろうか。でも俺たちは、本当の兄弟じゃない。それでも、血の繋がった兄弟のような振る舞いをしなくてはいけないのだろうか。
 胸の中にぐるぐると渦巻く気持ちを押し込むようにカフェオレを飲み干す。氷が溶けて薄まってしまったカフェオレはあまり美味しくない。
 チーズケーキも食べ終え、春くんのグラスも空になったのを見計らって、文房具を買いに雑貨店に行きたいと言おうとした時、背後から「あれ、もしかして春臣くん?」という女の人の声がした。振り返ると、いかにも女子大学生というような華やかな身なりをした人が立っている。飯田さん、と少し驚いた様子で春くんがその人に声をかけた。

「こんなところでどうしたの」
「この後ライブに行くんだけどさー、友達がなかなか来ないから時間潰してた」
「ああ、この前言ってたやつ」
「そうそう! 結局チケット買えたんだよね」

 二人は仲よさそうに会話をしている。いつもより少し高めの声で笑顔を浮かべながら話す春くんを俺は知らない。春くんの知り合いであるこの女の人を、俺は知らない。会話に入れない俺は、溶けかけの氷しか入っていないグラスの中身をストローでぐるぐるかき回す。中庭の夏椿の花が一輪、音もなく地面に落ちた。

「てかこの子、春臣くんの後輩?」
「ううん、弟」
「ええー! 似てないけど弟くんもイケメンじゃん! これは新発見だわ」
「そんなことより時間大丈夫? 友達が駅に着いたんでしょ?」
「ああそうだった!」

「じゃあまた学校でね!」と女の人が慌ててカフェを出て行った後、段々と小さくなっていくその人の後ろ姿を眺めながら、何でもない風に「あの人、彼女?」と尋ねてみる。

「違うよ。同じ学部の子。授業で一緒になることが多いからよく話すだけ」
「じゃあ彼女はどんな人?」
「彼女はいないよ。作ろうと思ってないし」
「……ふーん」

 春くんは昔からモテた。勉強も運動もそつなくこなせて、おまけに整った顔をしていて、ピアノも上手い。モテない理由がなかった。春くんが小学生の時は女の子が家までラブレターを渡しに来て、中学生時代は月に一度は家の前で告白されていた。高校生の時は流石によく知らないけれど、でも駅前で女子と二人で歩いているのを見たことがある。
 だから絶対、大学でも沢山の女の人に声をかけられているに決まっている。その内、彼女が出来たから家には来るなと言われる日も来るのだろうかと思うと、気分はまたずぶずぶと沈んでいく。
 もう出ようと春くんに言われ、席を立つ。両手に持ったショッピングバッグがさっきよりも重い。春くんと同い年で、同じ大学に通っていればこんな気分にはならないのだろうか。と言うよりも、どうして春くんのことを考えるだけでこんなに思い悩んでしまうのだろう。
 カフェの外は相変わらず暑く、熱気がすぐさま襲い掛かってくる。隣には春くんがいて、「他に行きたいところある?」なんて優しく話しかけてくれているのに、何故か俺一人だけで雑踏を歩いているような感じがした。