海沿いの街は比較的涼しいと言われているけど、今年の夏はここ三里ヶ浜も熱くなりそうだった。
7月の終わり。今日から三里ヶ浜高校は夏休みに入る。
本来なら今日からあちこちへ遊びに行ったり、アルバイトをしている予定だった俺は、悲しいことに今日も昨日までと同じく三里ヶ浜高校の校舎の中にいた。
「まさか美術部が夏休みまで活動してるとは思わなかったなー」
窓の外から鳴り響く蝉の声に負けじと、俺は声を張り上げた。扇風機から送られてくるなまぬるい風が気持ち悪い。三里ヶ浜高校の美術室には、なんとクーラーが設置されていなかった。熱中症で倒れでもしたら絶対に訴えてやる、と心に誓う。
「そんなに嫌なら来なくてもいいよ? 今すぐ辞めてもいいし」
俺のぼやきを聞きつけた野村部長が、嫌味ったらしく言った。
この人は、乙木に近づく俺を未だに排除したがっている。俺を辞めさせたって、自分が乙木と仲良くなれるわけでもないのにな。春から夏にかけて俺は乙木とかなり仲良くなった自信があるので、どうしても野村部長を憐れんでしまう。
「……でも部長、夏休み中に文化祭のオブジェ作らないといけないじゃないですか。男手あったほうがいいですよ」
2年生の部員が言うと、周りから「そうだよね、乙木君に重いもの持たすわけにいかないし」「うちらだけでオブジェ運ぶのはちょっと」などと、次々に同意する声が聞こえて来た。美術部に入ってから周りに媚びを売りまくっておいてよかった。部長以外の部員については、毎日根気よく話しかけていた甲斐あって、味方をしてくれるくらいには仲良くなれたようだ。
だけどそんな部内の雰囲気がお気に召さなかったのか、野村部長は「人心掌握がずいぶん得意みたいだねえ、霜中君」とこれまた嫌味を言ってきた。
「あはは……そんなつもりじゃないっすよー」
愛想笑いを作るのもそろそろ限界で、頬が引き攣った。
たぶん、俺も部長もお互いに同じことを思っている。「いけ好かないやつだ」と。
ピリついた空気の中、夏休み期間の1番メインとなる活動――文化祭のオブジェのモチーフを決めることになった。今年はどでかく、また三里ヶ浜を象徴するようなものを作りたいという意見が出たので、浮世絵風のさざ波を段ボールや絵の具を使って作るそうだ。
俺は手先が器用じゃないので、これはお荷物確定かもしれないな、と苦笑いするしかない。せめてもの償いとして、荷物運びや買い出しは積極的に行こう。
「段ボールの買い出し、俺が行きますよ」
手を上げてそう言うと、何人かの部員たちはややホッとした顔を見せた。段ボールもかなりの数が必要なので、学校まで運ぶのが大変だろうし、誰もこんな暑い日にそんな労力を消費したくなかったんだろう。いつもだったら噛みついてくる野村部長も黙っている。都合の悪い時だけだんまりなんて、卑怯な人だ。
部内でお姫様扱いされている乙木はもちろん学校に残ることになり、俺はひとりで買い出しに行くことになった。
校舎を出ると、眩暈を起こしそうなくらい強い日差しが降り注ぐ。
今頃、他の美術部の奴らは乙木にちょっかいを出しながらのんびり過ごしてるのかと思うと、苛立ちが湧いてきたが、これも乙木の好感度のためだ。我慢、我慢、と堪える。
教師用の駐車場を通り、校門をくぐろうとした、その時。ハンディファンを顔に当てながら校門に寄りかかっている人影が見えた。
「凛、なんでここにいるんだ」
声をかけると、凛はダルそうに顔を上げた。いつからここにいたのか、頬が少し赤くなっている。
「話したいことがあって」
「それなら先に連絡しろって。熱中症になるぞ」
そう言うと、凛はキッと目を細めて俺を睨む。そして「連絡したよ。空が見てくれてないだけじゃん」と言い、証拠と言わんばかりにスマートフォンを見せつけてきた。
マナーモードに設定したつもりもないけどな、とポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
そこには、1時間前に【話があるから校門まで来て】という凛からのメッセージが、確かに送られてきていた。
「あー……悪い、気づかなかった」
てっきり連絡もせずに凛が勝手に待ち伏せしていたと思い込んでいたので、ばつが悪くなる。こんなこと、今までなかったのに。
自慢じゃないけど俺はメッセージのレスポンスが速いほうだ。それなのに気づかなかったのは、美術部の活動――というより、乙木に近づくことばかり考えていたからだ。
凛に借りを作ってしまった。申し訳ないという気持ちと、すぐに借りを返さないと何を要求されるかわからないという恐怖が頭の中で渦巻く。
とりあえず、暑いなか待たせてしまった詫びとして、すぐ近くのコンビニでアイスを奢ると提案した。
「らっしゃっせー」というやる気のない学生バイトの挨拶を聞きながら、キンキンに冷房の効いたコンビニの中へ足を踏み入れる。
「俺が買ってくるから、凛はここに座ってて」
イートインスペースの椅子を引き、凛に座るよう促した。凛は無言のままこくりと頷いて、大人しく席に座る。その様子を見届けてから、店内を歩き出した。外の気温で火照った身体が、急速に冷気で凍えていく。最近浮かれていた頭に、冷や水をぶっかけられた、みたいな感覚。冷凍のコーナーにたどり着き、どのアイスを買おうか迷う。凛の機嫌を取らないといけないので、ここは無難にハーゲンダッツにしておくか。ダッツの期間限定味と、スポーツドリンクを手にしてレジに向かう。ダルそうにカウンターへ寄りかかっていたバイトに会計をして貰い、さっさとイートインスペースへと戻った。
「お待たせ」
会計を終えたアイスを凛の前に置く。笑顔を見せてはみたものの、美術部の買い出しもあることだし、早く凛との話を終わらせてしまいたい。そんな気持ちが透けなかっただろうか、と少し不安になる。
だけどこちらの心配をよそに、凛は無表情のまま俺が手渡したアイスの蓋を取り、スプーンで掬い出した。
じりじりとした気持ちを抑えながら、凛を見つめる。早く、早く、学校に戻りたいのに。
「それで、話って何?」
もうそろそろ聞いてもいいよな。凛がアイスを半分ほど食べたところで、話を切り出した。凛は手を止めて、俺を見つめた。
「あたし、空が好き。だから付き合って」
堂々と告げられる言葉。なんとなく予想していただけにため息を吐きたくなるが、その代わりに「ごめん。それは出来ない」と返す。
前から、凛は俺とどこか似ていると感じていた。凛は美人だし、傍若無人な態度を取るから自分に相当な自信があるように思われがちだ。
でも、俺には凛の強気な姿勢は防御壁にしか見えなかった。誰からも舐められないように強がりながらも、自分を守ってくれる寄生先を探しているような。世間的に見て価値のある人間にすり寄る種類の人間だ、と。
早い話、同族嫌悪をしていた。
俺の返事を聞いた凛は、眉を寄せてわかりやすく怒りを示した。
「なんで。他に好きな人がいるから?」
「そうじゃなくて。凛は大事な友達だし、そういう目で見たことない」
本心だった。凛を見ていると、ときどき鏡を見ているようで胸を抉られる。当然、恋愛対象としては見れなかった。凛だって俺が断ることを薄々気づいていたはずなのに。どうして告白なんてしてくるんだよ、と忌々しくも思ってしまう。
「ハッ……嘘ばっかり」
腹立たし気に凛は鼻で笑うと、まだ中身の残っているアイスの容器を俺のシャツ目がけて投げつけた。ドロッとした液体が、シャツから零れ落ちる。溶け出していたアイスはそう冷たくもなく、気持ちの悪いなまぬるさが肌に伝わってきた。
「そうやって本当の気持ち、誤魔化してばっかでさ。あたしの好きって気持ちを勝手に想像して、否定して。馬鹿にされてるって気づかないとでも思ってんの? 耳障りのいい言葉並べとけばこいつは騙せると思ってんでしょ。素直に好きな人がいるって言え!」
汚されたシャツを見下ろしている俺に、凛は怒鳴った。
そして言い終わると、俺の返事などはなから期待していない、とでもいうように、長い髪をたなびかせながらコンビニを出ていく。
俺は凛に同族嫌悪を感じると同時に、本物を見抜けず俺に言い寄って来る凛に、失望もしていた。そんな凛から失望し返されるとは、皮肉だ。
俺は凛のことを軽んじていたんだろうか。人から軽んじられるつらさは、誰よりもよくわかっているつもりだったのに。結局は俺もあの人たちと同じ種類の人間だった。その事実が、悲しい、というより笑うしかないほど悔しかった。俺はどこかで、自分は弟のような特別な人間ではないかわりに、両親よりは高潔な人間であるはずと期待をしていたんだ。
床に転がったアイスの容器を拾いあげ、シャツに付着したアイスのなれの果てを手持ちのウエットティッシュで軽く拭いた。汚れは簡単に落ちたけど、甘ったるい匂いがしみついていたので、顔を顰める。
最近のコンビニが服も売っていて本当によかった。
俺は店内に陳列されていたTシャツを手に取り、レジへ向かった。
***
凛というトラブルがあったせいで買い出しに時間がかかってしまったが、美術部のみんなからは特に文句も言われず(俺ひとりに買い出しを押し付けたからだ)、文化祭のオブジェ作りは構図だけが決まった状態で明日以降に持ち越しとなった。
美術部の面々が帰っていく中、乙木だけは居残りでデッサンの練習をすると言って、鉛筆を削り出した。野村部長は自身も残りたそうに乙木を見ていたが、これから予備校があるらしく渋々と帰っていく。心の中で「やった」とガッツポーズを作り、俺は当然という顔をして美術室に居座った。
夕暮れ時になっても、扇風機しかない部室は暑くて仕方ない。汗をTシャツの袖で拭いながら、絵のモチーフはどうしようかと乙木と相談する。ちょうどいい絵のモチーフが見つからなかった乙木は、お互いの顔で練習しよう、と提案してきた。俺はいちもにもなく頷いた。乙木の顔をじっくり眺めても不審がられない、この上ないチャンスだ。嬉々として乙木の正面に椅子とキャンバスを置く。
「空、ちょっとこっち向いて」
「はいよ」
言われるままに顔を乙木に向けると、乙木はおもむろに俺の頬に触れた。ひんやりとした乙木のてのひらの温度が伝わってくる。夢か。夢なら覚めるな、なんて考えが頭の中をぐるぐると駆け巡った。俺も乙木の顔をデッサンしないといけないのに、手が震えてしまうので、全く筆が進まない。
鉛筆を動かすこともなく震えている俺に気づくと、乙木は一瞬「うん?」とでも言うように頭を傾げる。そして「耳、真っ赤だよ」と呟いた。
「そんなに俺のことが好き?」
「え、いや、あの、う、うん……」
ストレートな聞きかたに、何と答えるのが正解なのかわからないまま、曖昧に頷く。乙木は何て答えるんだろう。ドキドキしながら、答えを待つ。でも、乙木はふっと俺の頬に触れていた手を離すと、何も言わずに黙々とキャンバスに向かい始めてしまった。がっかりしてから、俺も似顔絵を描く作業に戻る。
乙木は綺麗な顔をしているけど、その美しさはデフォルメしにくい。2次元化しにくい繊細な美しさ、とでもいうのか。つまり絵にするには描きにくい。俺はああでもない、これも違うと己の絵のセンスに文句を言いつつ絵を描き進めていく。
「そういえば、ピアス。つけてくれたんだね」
「えっ!? あ、あーこれね。うん」
俺が悪戦苦闘している間に下書きを描き終えたらしい乙木は、俺の耳たぶを指差して言った。乙木が宿泊研修の時にくれたレンゲソウのピアスだ。乙木がこれをどんな意図でプレゼントしてくれたのかはわからなかったが、好意のアピールに使えると思った俺は、毎日ピアスをこれ見よがしにつけていた。
「ああ、そういや宿泊研修のとき変な噂話が回ってたよなー。好きな人に作品あげたら両想いになれるー、とかいうやつ」
ばかばかしくて笑い飛ばした噂を思い出して、何気なく口にしたつもりだった。
だけど、その話をした途端、乙木にピアスをもらったことで無意識に自分が期待してしまっていたことに、今更ながら気づいてしまう。ああ、己の浅ましさが嫌になる。
「へえ。そんな噂があったんだ」
乙木は先ほど仕上げた下書きを水彩絵の具で着色をしながら、なんでもなさそうに言った。そうだよな。乙木はそんな噂に振り回されるような人間じゃないもんな。そう納得しながらも、俺の妄想が期待外れだったことが、ほんの少しだけ胸を痛ませた。
「春斗が騒いでたからなー、クラスのやつらみんな話してたよ」
「そういえば空は作間さんに作品渡されてたよね。あれはどう思った? 作間さんのこと好きになった?」
唐突に、乙木の口から凛の名前が飛び出る。凛のことをフッたばかりなので、なんとなく気まずい。数時間前の凛とのやり取りも思い出したくなかった俺は、わざと笑い話にすることにした。
「どうも何も。そんなんで両想いになれたら、今頃うちの学校カップルだらけなはずだろ」
つまり、嘘ってことだ。ワハハと笑い飛ばすと、乙木は珍しく口元を歪め、苛立ちの表情を見せる。
「そうやって誤魔化すために茶化して笑うのは、空のよくないところだね」
乙木の言ったことは、正論だった。凛にも指摘されたことだ。
――そうやって本当の気持ち、誤魔化してばっかでさ
今日、凛から投げつけられた言葉が脳裏に蘇る。
俺が、凛を軽んじていたこと。薄っぺらい嘘で誤魔化して、本心をぶつけなかったこと。乙木には全部バレているんじゃないか、と背筋に寒いものが走った。
「あ……うん。ごめん」
言葉が、上手く出てこない。いつもは調子のいいことをペラペラと話す口も、今は役立たずだ。
特別な人間の乙木に認められたら、特別じゃない俺もちょっとは価値のある人間になれるんじゃないかって、そう思っていたけど。そもそも、乙木みたいな人に誤魔化しの小細工が通用するはずなかったんだ。
春から少しずつ積み上げてきた乙木との信頼が崩れたかもしれない。それは、足場が不意に消えてしまったかのような恐怖だった。
こんなことで泣きたくなんてないのに、俺の瞳は意と反して涙を浮かべ出す。そんな俺に気づいた乙木は、ハッとしたように忙しなく動かしていた筆を止めた。
「えっと、怒ってるわけじゃないよ。ただ、そうやって道化に徹してばかりいると、いつかつらくなると思う」
乙木はそう言うと、ハンカチを差し出してくる。きちんとアイロンがけまでされた、ブランド物のハンカチだ。親切を払いのけるわけにもいかなくて、大人しく受け取ったハンカチで目元を拭った。乙木に好かれたいのに、なんだか乙木の前ではいつも格好悪い姿ばかり晒してしまう。
「ごめん……ありがとう」
嫌われてしまったかもしれないと焦りながらも、乙木が馬鹿な俺を労わってくれたことくらいはわかっていた。だから、「ありがとう」と口にした。
乙木は何も言わなかった。しばらく絵筆を動かし続けてから、思い出すように呟いた。
「空は、無理して大人になろうとしてるよね。もっと子供でいてもいいのに」
乙木の言葉は、抽象的でよくわからない。俺はなんと返せばいいか迷っているうちに、乙木は絵を完成させた。「見る?」と聞かれたので、頷いてキャンバスを覗き込む。
乙木が描いた俺の顔は、不思議と弟の碧生の顔に似ていた。俺と碧生は何ひとつ似ていない兄弟だというのに。例えば――碧生は二重まぶたで大きな瞳を持っている。対する俺は一重まぶたで米粒みたいな小さい目だ。加えて、碧生のように整った眉毛でもなければ、高い鼻筋も持っていない。
まだ親しくなる前の乙木が俺の似顔絵を描いた時は、すぐに俺の顔だとわかる絵だった。でも、これは違う。
「これ、俺の顔なんだよな?」
もしかしたらこの作品は乙木なりの皮肉で、本当は弟を描いていたりして。怯えて尋ねてみたけど、乙木は頭を横に振る。
「空だよ。俺から見た、今の空の顔」
乙木からの言葉を受けて、もう一度絵に向き直る。やっぱり、碧生に似ている。他人から見たら俺は碧生に似ていたりするんだろうか。だとしても、それを嬉しいと素直に思えない。
ただ、自分と不釣り合いの評価を受けてしまったかのような、居心地の悪い複雑な感情だけが残った。
***
「お帰り、空にい」
家に帰ると、乙木が描いた似顔絵とそっくりな弟が玄関で俺を出迎えた。今はその顔を見たくなかったな。内心ではそんな意地悪な気持ちを抱えながら、「ただいま。今日は仕事ないのか?」と俺は微笑んだ。
「今月から放送されるドラマがクランクアップしたから、お休み貰えたんだ」
碧生は嬉しそうに言うと、俺の腕にしがみついてきた。子供の頃から、碧生はよくこうやって甘えてくる。兄を慕ってくれる弟が可愛いと思う反面、後ろ暗い俺の気持ちを察してくれない弟への苛立ちも感じてしまう。
俺の複雑な心境なんて知らない碧生は、ぐいぐいと腕を引っ張りながら話し続けた。
「空にいも夏休みだから時間あるでしょ? 一緒に遊園地に行こうよ。もうずいぶん行ってないし」
「遊園地なんて人が多い場所、バレたら騒ぎになるだろ」
「大丈夫だって。変装していけばバレないって、アイドルの友達も言ってた」
「そっか。碧生がそんなに行きたいならしょうがないなー、行くか!」
「やったあ! お揃いのカチューシャ買おうね」
俺たちが楽し気に会話しながらリビングに入ると、両親が満面の笑みで振り向いた。碧生がいる今は、俺のことも視界に入ってるみたいだ。碧生の「今度、空にいと遊園地行くんだあ」という言葉に、「空は本当に優しいお兄ちゃんね」「仲良しだな」なんて微笑んでいる。
きっと、幸せで理想的な家族の形なはずだ。それでも、俺は吐き気を催さずにいられない。
「碧生、今度始まるあのドラマはなんて名前だったかしら、あの学園物の……」
「ああ、『三日月くんの好きな人』だよ。母さんたちも見てね」
「もちろん! 毎週録画もして見るわよ」
弟と母親の会話を聞き流して、俺は偽りの笑顔を顔に張り付けた。
7月の終わり。今日から三里ヶ浜高校は夏休みに入る。
本来なら今日からあちこちへ遊びに行ったり、アルバイトをしている予定だった俺は、悲しいことに今日も昨日までと同じく三里ヶ浜高校の校舎の中にいた。
「まさか美術部が夏休みまで活動してるとは思わなかったなー」
窓の外から鳴り響く蝉の声に負けじと、俺は声を張り上げた。扇風機から送られてくるなまぬるい風が気持ち悪い。三里ヶ浜高校の美術室には、なんとクーラーが設置されていなかった。熱中症で倒れでもしたら絶対に訴えてやる、と心に誓う。
「そんなに嫌なら来なくてもいいよ? 今すぐ辞めてもいいし」
俺のぼやきを聞きつけた野村部長が、嫌味ったらしく言った。
この人は、乙木に近づく俺を未だに排除したがっている。俺を辞めさせたって、自分が乙木と仲良くなれるわけでもないのにな。春から夏にかけて俺は乙木とかなり仲良くなった自信があるので、どうしても野村部長を憐れんでしまう。
「……でも部長、夏休み中に文化祭のオブジェ作らないといけないじゃないですか。男手あったほうがいいですよ」
2年生の部員が言うと、周りから「そうだよね、乙木君に重いもの持たすわけにいかないし」「うちらだけでオブジェ運ぶのはちょっと」などと、次々に同意する声が聞こえて来た。美術部に入ってから周りに媚びを売りまくっておいてよかった。部長以外の部員については、毎日根気よく話しかけていた甲斐あって、味方をしてくれるくらいには仲良くなれたようだ。
だけどそんな部内の雰囲気がお気に召さなかったのか、野村部長は「人心掌握がずいぶん得意みたいだねえ、霜中君」とこれまた嫌味を言ってきた。
「あはは……そんなつもりじゃないっすよー」
愛想笑いを作るのもそろそろ限界で、頬が引き攣った。
たぶん、俺も部長もお互いに同じことを思っている。「いけ好かないやつだ」と。
ピリついた空気の中、夏休み期間の1番メインとなる活動――文化祭のオブジェのモチーフを決めることになった。今年はどでかく、また三里ヶ浜を象徴するようなものを作りたいという意見が出たので、浮世絵風のさざ波を段ボールや絵の具を使って作るそうだ。
俺は手先が器用じゃないので、これはお荷物確定かもしれないな、と苦笑いするしかない。せめてもの償いとして、荷物運びや買い出しは積極的に行こう。
「段ボールの買い出し、俺が行きますよ」
手を上げてそう言うと、何人かの部員たちはややホッとした顔を見せた。段ボールもかなりの数が必要なので、学校まで運ぶのが大変だろうし、誰もこんな暑い日にそんな労力を消費したくなかったんだろう。いつもだったら噛みついてくる野村部長も黙っている。都合の悪い時だけだんまりなんて、卑怯な人だ。
部内でお姫様扱いされている乙木はもちろん学校に残ることになり、俺はひとりで買い出しに行くことになった。
校舎を出ると、眩暈を起こしそうなくらい強い日差しが降り注ぐ。
今頃、他の美術部の奴らは乙木にちょっかいを出しながらのんびり過ごしてるのかと思うと、苛立ちが湧いてきたが、これも乙木の好感度のためだ。我慢、我慢、と堪える。
教師用の駐車場を通り、校門をくぐろうとした、その時。ハンディファンを顔に当てながら校門に寄りかかっている人影が見えた。
「凛、なんでここにいるんだ」
声をかけると、凛はダルそうに顔を上げた。いつからここにいたのか、頬が少し赤くなっている。
「話したいことがあって」
「それなら先に連絡しろって。熱中症になるぞ」
そう言うと、凛はキッと目を細めて俺を睨む。そして「連絡したよ。空が見てくれてないだけじゃん」と言い、証拠と言わんばかりにスマートフォンを見せつけてきた。
マナーモードに設定したつもりもないけどな、とポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
そこには、1時間前に【話があるから校門まで来て】という凛からのメッセージが、確かに送られてきていた。
「あー……悪い、気づかなかった」
てっきり連絡もせずに凛が勝手に待ち伏せしていたと思い込んでいたので、ばつが悪くなる。こんなこと、今までなかったのに。
自慢じゃないけど俺はメッセージのレスポンスが速いほうだ。それなのに気づかなかったのは、美術部の活動――というより、乙木に近づくことばかり考えていたからだ。
凛に借りを作ってしまった。申し訳ないという気持ちと、すぐに借りを返さないと何を要求されるかわからないという恐怖が頭の中で渦巻く。
とりあえず、暑いなか待たせてしまった詫びとして、すぐ近くのコンビニでアイスを奢ると提案した。
「らっしゃっせー」というやる気のない学生バイトの挨拶を聞きながら、キンキンに冷房の効いたコンビニの中へ足を踏み入れる。
「俺が買ってくるから、凛はここに座ってて」
イートインスペースの椅子を引き、凛に座るよう促した。凛は無言のままこくりと頷いて、大人しく席に座る。その様子を見届けてから、店内を歩き出した。外の気温で火照った身体が、急速に冷気で凍えていく。最近浮かれていた頭に、冷や水をぶっかけられた、みたいな感覚。冷凍のコーナーにたどり着き、どのアイスを買おうか迷う。凛の機嫌を取らないといけないので、ここは無難にハーゲンダッツにしておくか。ダッツの期間限定味と、スポーツドリンクを手にしてレジに向かう。ダルそうにカウンターへ寄りかかっていたバイトに会計をして貰い、さっさとイートインスペースへと戻った。
「お待たせ」
会計を終えたアイスを凛の前に置く。笑顔を見せてはみたものの、美術部の買い出しもあることだし、早く凛との話を終わらせてしまいたい。そんな気持ちが透けなかっただろうか、と少し不安になる。
だけどこちらの心配をよそに、凛は無表情のまま俺が手渡したアイスの蓋を取り、スプーンで掬い出した。
じりじりとした気持ちを抑えながら、凛を見つめる。早く、早く、学校に戻りたいのに。
「それで、話って何?」
もうそろそろ聞いてもいいよな。凛がアイスを半分ほど食べたところで、話を切り出した。凛は手を止めて、俺を見つめた。
「あたし、空が好き。だから付き合って」
堂々と告げられる言葉。なんとなく予想していただけにため息を吐きたくなるが、その代わりに「ごめん。それは出来ない」と返す。
前から、凛は俺とどこか似ていると感じていた。凛は美人だし、傍若無人な態度を取るから自分に相当な自信があるように思われがちだ。
でも、俺には凛の強気な姿勢は防御壁にしか見えなかった。誰からも舐められないように強がりながらも、自分を守ってくれる寄生先を探しているような。世間的に見て価値のある人間にすり寄る種類の人間だ、と。
早い話、同族嫌悪をしていた。
俺の返事を聞いた凛は、眉を寄せてわかりやすく怒りを示した。
「なんで。他に好きな人がいるから?」
「そうじゃなくて。凛は大事な友達だし、そういう目で見たことない」
本心だった。凛を見ていると、ときどき鏡を見ているようで胸を抉られる。当然、恋愛対象としては見れなかった。凛だって俺が断ることを薄々気づいていたはずなのに。どうして告白なんてしてくるんだよ、と忌々しくも思ってしまう。
「ハッ……嘘ばっかり」
腹立たし気に凛は鼻で笑うと、まだ中身の残っているアイスの容器を俺のシャツ目がけて投げつけた。ドロッとした液体が、シャツから零れ落ちる。溶け出していたアイスはそう冷たくもなく、気持ちの悪いなまぬるさが肌に伝わってきた。
「そうやって本当の気持ち、誤魔化してばっかでさ。あたしの好きって気持ちを勝手に想像して、否定して。馬鹿にされてるって気づかないとでも思ってんの? 耳障りのいい言葉並べとけばこいつは騙せると思ってんでしょ。素直に好きな人がいるって言え!」
汚されたシャツを見下ろしている俺に、凛は怒鳴った。
そして言い終わると、俺の返事などはなから期待していない、とでもいうように、長い髪をたなびかせながらコンビニを出ていく。
俺は凛に同族嫌悪を感じると同時に、本物を見抜けず俺に言い寄って来る凛に、失望もしていた。そんな凛から失望し返されるとは、皮肉だ。
俺は凛のことを軽んじていたんだろうか。人から軽んじられるつらさは、誰よりもよくわかっているつもりだったのに。結局は俺もあの人たちと同じ種類の人間だった。その事実が、悲しい、というより笑うしかないほど悔しかった。俺はどこかで、自分は弟のような特別な人間ではないかわりに、両親よりは高潔な人間であるはずと期待をしていたんだ。
床に転がったアイスの容器を拾いあげ、シャツに付着したアイスのなれの果てを手持ちのウエットティッシュで軽く拭いた。汚れは簡単に落ちたけど、甘ったるい匂いがしみついていたので、顔を顰める。
最近のコンビニが服も売っていて本当によかった。
俺は店内に陳列されていたTシャツを手に取り、レジへ向かった。
***
凛というトラブルがあったせいで買い出しに時間がかかってしまったが、美術部のみんなからは特に文句も言われず(俺ひとりに買い出しを押し付けたからだ)、文化祭のオブジェ作りは構図だけが決まった状態で明日以降に持ち越しとなった。
美術部の面々が帰っていく中、乙木だけは居残りでデッサンの練習をすると言って、鉛筆を削り出した。野村部長は自身も残りたそうに乙木を見ていたが、これから予備校があるらしく渋々と帰っていく。心の中で「やった」とガッツポーズを作り、俺は当然という顔をして美術室に居座った。
夕暮れ時になっても、扇風機しかない部室は暑くて仕方ない。汗をTシャツの袖で拭いながら、絵のモチーフはどうしようかと乙木と相談する。ちょうどいい絵のモチーフが見つからなかった乙木は、お互いの顔で練習しよう、と提案してきた。俺はいちもにもなく頷いた。乙木の顔をじっくり眺めても不審がられない、この上ないチャンスだ。嬉々として乙木の正面に椅子とキャンバスを置く。
「空、ちょっとこっち向いて」
「はいよ」
言われるままに顔を乙木に向けると、乙木はおもむろに俺の頬に触れた。ひんやりとした乙木のてのひらの温度が伝わってくる。夢か。夢なら覚めるな、なんて考えが頭の中をぐるぐると駆け巡った。俺も乙木の顔をデッサンしないといけないのに、手が震えてしまうので、全く筆が進まない。
鉛筆を動かすこともなく震えている俺に気づくと、乙木は一瞬「うん?」とでも言うように頭を傾げる。そして「耳、真っ赤だよ」と呟いた。
「そんなに俺のことが好き?」
「え、いや、あの、う、うん……」
ストレートな聞きかたに、何と答えるのが正解なのかわからないまま、曖昧に頷く。乙木は何て答えるんだろう。ドキドキしながら、答えを待つ。でも、乙木はふっと俺の頬に触れていた手を離すと、何も言わずに黙々とキャンバスに向かい始めてしまった。がっかりしてから、俺も似顔絵を描く作業に戻る。
乙木は綺麗な顔をしているけど、その美しさはデフォルメしにくい。2次元化しにくい繊細な美しさ、とでもいうのか。つまり絵にするには描きにくい。俺はああでもない、これも違うと己の絵のセンスに文句を言いつつ絵を描き進めていく。
「そういえば、ピアス。つけてくれたんだね」
「えっ!? あ、あーこれね。うん」
俺が悪戦苦闘している間に下書きを描き終えたらしい乙木は、俺の耳たぶを指差して言った。乙木が宿泊研修の時にくれたレンゲソウのピアスだ。乙木がこれをどんな意図でプレゼントしてくれたのかはわからなかったが、好意のアピールに使えると思った俺は、毎日ピアスをこれ見よがしにつけていた。
「ああ、そういや宿泊研修のとき変な噂話が回ってたよなー。好きな人に作品あげたら両想いになれるー、とかいうやつ」
ばかばかしくて笑い飛ばした噂を思い出して、何気なく口にしたつもりだった。
だけど、その話をした途端、乙木にピアスをもらったことで無意識に自分が期待してしまっていたことに、今更ながら気づいてしまう。ああ、己の浅ましさが嫌になる。
「へえ。そんな噂があったんだ」
乙木は先ほど仕上げた下書きを水彩絵の具で着色をしながら、なんでもなさそうに言った。そうだよな。乙木はそんな噂に振り回されるような人間じゃないもんな。そう納得しながらも、俺の妄想が期待外れだったことが、ほんの少しだけ胸を痛ませた。
「春斗が騒いでたからなー、クラスのやつらみんな話してたよ」
「そういえば空は作間さんに作品渡されてたよね。あれはどう思った? 作間さんのこと好きになった?」
唐突に、乙木の口から凛の名前が飛び出る。凛のことをフッたばかりなので、なんとなく気まずい。数時間前の凛とのやり取りも思い出したくなかった俺は、わざと笑い話にすることにした。
「どうも何も。そんなんで両想いになれたら、今頃うちの学校カップルだらけなはずだろ」
つまり、嘘ってことだ。ワハハと笑い飛ばすと、乙木は珍しく口元を歪め、苛立ちの表情を見せる。
「そうやって誤魔化すために茶化して笑うのは、空のよくないところだね」
乙木の言ったことは、正論だった。凛にも指摘されたことだ。
――そうやって本当の気持ち、誤魔化してばっかでさ
今日、凛から投げつけられた言葉が脳裏に蘇る。
俺が、凛を軽んじていたこと。薄っぺらい嘘で誤魔化して、本心をぶつけなかったこと。乙木には全部バレているんじゃないか、と背筋に寒いものが走った。
「あ……うん。ごめん」
言葉が、上手く出てこない。いつもは調子のいいことをペラペラと話す口も、今は役立たずだ。
特別な人間の乙木に認められたら、特別じゃない俺もちょっとは価値のある人間になれるんじゃないかって、そう思っていたけど。そもそも、乙木みたいな人に誤魔化しの小細工が通用するはずなかったんだ。
春から少しずつ積み上げてきた乙木との信頼が崩れたかもしれない。それは、足場が不意に消えてしまったかのような恐怖だった。
こんなことで泣きたくなんてないのに、俺の瞳は意と反して涙を浮かべ出す。そんな俺に気づいた乙木は、ハッとしたように忙しなく動かしていた筆を止めた。
「えっと、怒ってるわけじゃないよ。ただ、そうやって道化に徹してばかりいると、いつかつらくなると思う」
乙木はそう言うと、ハンカチを差し出してくる。きちんとアイロンがけまでされた、ブランド物のハンカチだ。親切を払いのけるわけにもいかなくて、大人しく受け取ったハンカチで目元を拭った。乙木に好かれたいのに、なんだか乙木の前ではいつも格好悪い姿ばかり晒してしまう。
「ごめん……ありがとう」
嫌われてしまったかもしれないと焦りながらも、乙木が馬鹿な俺を労わってくれたことくらいはわかっていた。だから、「ありがとう」と口にした。
乙木は何も言わなかった。しばらく絵筆を動かし続けてから、思い出すように呟いた。
「空は、無理して大人になろうとしてるよね。もっと子供でいてもいいのに」
乙木の言葉は、抽象的でよくわからない。俺はなんと返せばいいか迷っているうちに、乙木は絵を完成させた。「見る?」と聞かれたので、頷いてキャンバスを覗き込む。
乙木が描いた俺の顔は、不思議と弟の碧生の顔に似ていた。俺と碧生は何ひとつ似ていない兄弟だというのに。例えば――碧生は二重まぶたで大きな瞳を持っている。対する俺は一重まぶたで米粒みたいな小さい目だ。加えて、碧生のように整った眉毛でもなければ、高い鼻筋も持っていない。
まだ親しくなる前の乙木が俺の似顔絵を描いた時は、すぐに俺の顔だとわかる絵だった。でも、これは違う。
「これ、俺の顔なんだよな?」
もしかしたらこの作品は乙木なりの皮肉で、本当は弟を描いていたりして。怯えて尋ねてみたけど、乙木は頭を横に振る。
「空だよ。俺から見た、今の空の顔」
乙木からの言葉を受けて、もう一度絵に向き直る。やっぱり、碧生に似ている。他人から見たら俺は碧生に似ていたりするんだろうか。だとしても、それを嬉しいと素直に思えない。
ただ、自分と不釣り合いの評価を受けてしまったかのような、居心地の悪い複雑な感情だけが残った。
***
「お帰り、空にい」
家に帰ると、乙木が描いた似顔絵とそっくりな弟が玄関で俺を出迎えた。今はその顔を見たくなかったな。内心ではそんな意地悪な気持ちを抱えながら、「ただいま。今日は仕事ないのか?」と俺は微笑んだ。
「今月から放送されるドラマがクランクアップしたから、お休み貰えたんだ」
碧生は嬉しそうに言うと、俺の腕にしがみついてきた。子供の頃から、碧生はよくこうやって甘えてくる。兄を慕ってくれる弟が可愛いと思う反面、後ろ暗い俺の気持ちを察してくれない弟への苛立ちも感じてしまう。
俺の複雑な心境なんて知らない碧生は、ぐいぐいと腕を引っ張りながら話し続けた。
「空にいも夏休みだから時間あるでしょ? 一緒に遊園地に行こうよ。もうずいぶん行ってないし」
「遊園地なんて人が多い場所、バレたら騒ぎになるだろ」
「大丈夫だって。変装していけばバレないって、アイドルの友達も言ってた」
「そっか。碧生がそんなに行きたいならしょうがないなー、行くか!」
「やったあ! お揃いのカチューシャ買おうね」
俺たちが楽し気に会話しながらリビングに入ると、両親が満面の笑みで振り向いた。碧生がいる今は、俺のことも視界に入ってるみたいだ。碧生の「今度、空にいと遊園地行くんだあ」という言葉に、「空は本当に優しいお兄ちゃんね」「仲良しだな」なんて微笑んでいる。
きっと、幸せで理想的な家族の形なはずだ。それでも、俺は吐き気を催さずにいられない。
「碧生、今度始まるあのドラマはなんて名前だったかしら、あの学園物の……」
「ああ、『三日月くんの好きな人』だよ。母さんたちも見てね」
「もちろん! 毎週録画もして見るわよ」
弟と母親の会話を聞き流して、俺は偽りの笑顔を顔に張り付けた。