「え……?」
 充は弾かれたように顔を上げた。静まり返った廊下の奥から、誰かが自分の名を叫んでいる。なんだ、と思う間もなく、ばたばたと大柄な影がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
「いた、る……?」
 顔は暗くて見えなくても、その姿は見間違えようがない。
「え、マジで……? なんで、」
 最後まで言う前に、みるみる近づいてきた影に思い切り腕を引かれて、充は思わずよろけた。どしん、とぶつかったものに、そのまま抱き込まれる。
「は? え?」
「ごめん、……すみません」
 最初の言葉は充に、続いたのは呆然と口を開いている女子生徒に向けられたものらしかった。
「おま、なに……」
 なぜ至がここにいきなり現れて、自分を女子生徒から遠ざけるように抱きかかえているのか、何一つ分からず充は混乱しきった声を上げる。久しぶりに間近で見る至の顔は必死の形相で、けれど、それに、なんだか場違いにどきりとした。
「至くん……?」
 女子生徒の声に、充はようやく我に返った。身じろぎすると、至の腕にはまるで充を逃すまいというように力が込められる。
「どうして、ここに……?」
 充の心をそのまま言い表したような彼女のつぶやきに、至が眉をしかめて、苦い顔になった。長年見てきたけれど、こんな苦しそうな表情は見たことがない。
「充」
「え、おれ?」
 こっちに話を振られると思わなかったから、間抜けな声が出る。けれど至は笑いもせず、苦い顔のままで頷いた。
「お前、この人……結城(ゆうき)さんと、付き合うのか」
「は……?」
「告白、されたんだろ」
「ちょ、っと待て。お前」
 何かが大きく噛み合っていないのだけは分かる。いつも落ち着いている至がこんなに暴走しているのは初めてだった。そもそも、まだ女子生徒の名前も聞いていない。結城、というのがそうらしいと、この意味不明な会話からそれだけを何とか察知する。知り合いなのかと聞けそうな空気でもない。
「どうなんだ」
「人の話を聞けよ……!」
 手のつけられない状態の至に凄まれて、充は天を仰いだ。なんなんだ。何が起こっている。一度、大きく深呼吸をして、至を睨みつけた。
「まだ何も言われてねえよ。その、これから、だった。けど……」
 すっかり困った顔の結城をちらりと見る。こうなってしまったら、彼女が一番の被害者ではないだろうか。至の質問への答えは、そのまま、結城が充に告げるはずだったことへの、答えになる。至はそれすら頭から抜け落ちている様子で、充の言葉を待っている。普段至を王子だの騎士だのともてはやしている子たちが見たら、さぞ驚くに違いない、と充は思った。
「けど……おれは、断るつもりだった」
 少し離れたところで、小さく息を呑む音がした。こんな形で言うことになるとは思わず、さすがにバツが悪くて、そちらを見られないまま、頭を下げる。
「ごめんなさい……」
「……ううん。いいの。何か、最初から分かってたっていうか、今ようやく分かったっていうか」
「えっと、それって……?」
「内緒」
 思ったよりからりとした声に顔を上げると、結城は妙に穏やかな顔をしていた。謎めいた言葉の意味を教えてくれる気はないらしく、充の顔と、後ろの至を見比べて、何だか納得したように小さく笑っている。
 はあ、と上から大きなため息が落ちてきて、腕の力が緩んだ。身体を硬くしていた充だったが、ハッとして、至を見上げる。
「で? お前は一体何なの? ちゃんと説明しろよ」
「や、その……」
 さっきまでの気迫が嘘のように、とたんに至の歯切れが悪くなる。
「んだよ、らしくねえじゃん」
「ああ、その……、少し前、結城さんに、充のことを教えてくれって言われて、話をしてたんだけど。だんだん、そうか、充はこの人と付き合うかもしれないのか、と思ったら……最初は応援してやんなきゃって思ってたし、俺がずっとつきまとってたらいけないと思って、なるべくひとりで行動するようにもしてたんだ。けど、今日、告白するって聞いて、……どうしても」
「……? 全く、何言ってるかわかんねえ」
 思ったままを言えば、深々とため息をつかれる。どうしたものか、と言いたげな顔つきにムカッとして言い返そうと口を開いた時、横から声がした。
「えっと、その……私は分かっちゃった、と思うし、先に戻るね……?」
「え? あ、その、ほんと、ごめんなさい、なんか、こいつまで……」
「いいの。至くんから聞いてて、なんとなくは、分かってたし。来てくれて、ありがとう」
 一番迷惑を被っているはずの結城が何故か清々しい顔で笑う。申し訳なさとともに、この説明だけで至の言いたいことが分かるなんて、そんなに親しかったのか、と思うと複雑な気持ちにもなった。廊下の端に小走りの背中が消えると、充は今度こそ至の腕から抜け出て、ドンと胸を押す。 
「ったく、ほんと何なんだよお前! 確かにおれは告白されてもごめんなさいって言うつもりでここに来たし、それはお前が来たからとかじゃないけど、何言ってんのか全然分かんねえんだよ。ていうか、そもそもお前の彼女はどうしたんだよ!? 置いてきたのか!?」
「は!?」
 途中まで難しい顔をして充の言葉を聞いていた至だったが、急に目をこぼれんばかりに見開いた。
「彼女? 俺の?」
「そうだよ! お前、先月終わりくらいから急にバイト増やすとか言って、俺とつるまなくなったじゃん。彼女ができたんだって、みんな噂してたぞ。教室に二年の女子が呼びに来てたって」
「あ……それは、」
「嘘つくなよ。おれ、お前にそれを隠されてたってのが、すげえショックで……っ」
「隠してないよ」
「隠してただろ!」
「落ち着け充。俺の話も聞いてくれ」
「……」
 髪の毛が逆立ちそうなほどの怒りに支配されていた充は、もう一度伸びてきた手に手を握られて、その感触に少しだけ落ち着きを取り戻した。至が充と目線を合わせて、口を開く。
「まず、俺に彼女はいない。正真正銘、誓ってもいい。それと、教室に来たのは結城さんだ。さっき、結城さんに充のことを聞かれたって言ったろ? それがその時のことだったんだよ。お前と一番仲がいいのは俺だって聞いたからって。バイト増やしたのは……結城さんから、充のことを相談されて、じゃあ俺がつきまとってたら邪魔だなって、そう思ったからだ」
 噛んで含めるように話す至の口調は、ようやくいつもの調子に戻っている。だんだんことが飲み込めてきた充には、また別の怒りが湧いてきた。
「……って、ことは。おまえ、おれに何も言わずに、勝手にひとりで決めて、おれのこと避けてたってこと?」
 自分でも驚くほど低い声が出た。至が顔をしかめる。
「そう、なるな」
「ひでえよ……おれが、どんだけ凹んだか、おまえ分かってんのかよ……」
 止める間もなく、ぼろぼろと涙が目から溢れた。ずっと堪えてきたものが決壊したみたいだった。あわててハンカチを探る至の狼狽えように、いい気味だと思う。至が涙を拭くのも、勝手にさせた。自分で拭く気も起こらなかった。せいぜい振り回されればいいんだ、なんて子どもじみた考えに頭が支配される。
「……充、ひとつ、聞いていいか」
 ハンカチを充の頬に押し当てたまま、妙に緊張した面持ちで至が静かに言った。
「なに」
「俺に彼女ができたと思って、充が凹んだのは、俺が充にそれを隠してると思ってたから? それとも、俺に彼女ができたってこと自体?」
「んー……?」
「聞き方を変えよう。もし俺に彼女ができたとして、充にそれをちゃんと話してたら、凹まなかったか?」
「それは……」
 充は、自分がひとり悶々と考えていた時のことを思い返した。あの時、自分は何に憤っていたのか。ちゃんと紹介しろよ、とも思ったが、それで自分は笑って祝福してやるつもりだったか。
「いや、おれは……たぶん、自分が置いてきぼりみたいなのが、嫌だった」
 少しずつ、よくわからなくて放置していた感情を思い起こし、言葉にしてみる。あの時は至がいなかったけれど、今は目の前にいる。分からなくなったら、きっといつものように、手を差し出してくれる。そうだ、と充は思った。
「おれ、お前が傍にいないのが、それが一番嫌だった。いつも、困ったら至に聞きたいと思ったし、お前がいない時間がすごく長くて、……それに、……」
「うん?」
「お前が、この後夜祭で彼女と二人でどっかいって、……そういうこと、すんのかなって思ったら、それもすごく、嫌だった」
 思い出してしまって、だんだん声のトーンが落ちていく。
「……充。ちょっと、こっち」
「?」
 握られたままだった手を軽く引かれ、そのまま引き寄せられた。
「な、に……」
 正面から、抱きすくめられている。さっきの、痛いくらいの力ではなくて、振りほどこうと思えばそうできるくらいで、けれどしっかりと確かめるように腕が身体に回されている。なぜか、心臓がうるさい。そういえば、さっき必死に自分を抱きしめられた時も、そうだった。そして、同時に気づいたものがある。
「至……」
 同じくらい早い心音が、押し当てられた至の胸からも、聞こえてくるのだ。