金曜から始まった文化祭は、順調に三日目の最終日を迎えていた。
「いらっしゃいませ、お二人ですね。それではこちらからどうぞ〜」
 当番が回ってきた充は、半分くらい心ここにあらずの状態でお化け屋敷の案内を行っている。
 ——あと三十分で、閉会式だ。そしたら……。
 この数日、ずっと考えていた。もし、後夜祭で、女の子と二人で何処かへいこうとする至を見かけてしまったら。
 ——思い切って、声をかけよう。本当は一人でいるところを捕まえたかったけど……。
 ここまでの間に、声をかけるチャンスが全くなかったわけではない。でも、ずっと決心がつかないまま、今日になってしまったのだ。
 声をかけて、ちゃんと説明してもらいたい。俺のことを無視するなって、迷惑かもしれないけど、やっぱりちゃんと言いたい。それくらい、したっていいはずだ。
 ようやく、今朝、そう思えた。なにより、至と、目を見て話がしたかった。このままずっと残りの高校生活を送るなんて、絶対に嫌だ。それが充の中で、一番強い気持ちだった。
「あ、あの」
 立ったまま考え事に意識が持っていかれていた充は、遠慮がちにかけられた声にハッと我に返った。斜め前に、女子生徒が立っている。顔に見覚えはないから、上級生だろうか。
「あ! すいません。お一人様ですね」
「あ、ごめんなさい、違うの。……これ」
「……えっ」
「それじゃあ、渡したから!」
 目に止まらないくらいの速さで、サッと何かを充の手の中に押し付け、その生徒は走るように去っていってしまった。手の中を見ると、押し付けられたものは、ルーズリーフを折りたたんだ紙片のようだ。
「お、お前、今の……!」
 声を聞きつけたらしいクラスの男子が入口から頭をのぞかせ、興奮した様子で充の手元を覗き込んでくる。
「ああ、何だったんだ? あの人」
「それあれだよ、後夜祭の呼び出し! おま、ほんとにもらってんじゃねーか……!」
「え、」
 固まった充をよそに、急速に教室の中を興奮したささやき声が伝っていく。充は手の中の紙片を広げた。
『十八時半に、三階渡り廊下へ来てください』
 それだけしか書いていない。名前も書かれていなかった。
「うわー、本物初めて見た」
「お前、覗くなよ」
「いいだろ、どうせ誰からのかわからないんだし」
「今の人じゃねえの?」
「いや、友達とか後輩に頼んで渡して貰うもんらしいぜ。そうじゃなきゃバレちゃうだろ」
「なるほど……」
 あまり、現実のことと思えず、ぼうっと紙切れを見つめる。
「しっかしさすが充。告白されたらOKするん?」
「えー……考えたこともなかったな……うわーめんどくせえ」
「おっま、めんどくせえって、刺されるぞ」
「いやーだってさ……」
 考えもしなかったことが急に降り掛かってきて、しかもそれはあと二時間もしないうちにやってくる。至のことで頭がいっぱいの充には、正直今誰に告白されたとしても「面倒」でしかなかった。
「でもとりあえず行かないとまずいんだろ? これ」
「だろうな。行かなかったやつの話は聞いたことないけど、まあ断るにしたって行くのが誠意ってもんじゃね」
「誠意、ねえ……」
「なにいっちょまえに憂える美少年みたいな顔しやがって」
「美少年は合ってるだろ」
「顔がいいやつが言うと否定できないからムカつくんだよなー!」
 顔がいい、と言われて、充は自分を呼び出そうとしている女子生徒のことを想像した。普段からよく話をしているような同学年の女子たちなら、こんなまどろっこしい手順を踏んで告白してくるようなことはない気がする。そうなると、話したことのない、上級生ということになる。先程紙切れを渡してきたのが上級生だろうと感じたことともその予想は一致する。だとしたら、どうやって自分のことを知って、なぜ告白してくるんだろう?
「顔、か……」
「何だよ、急に」
「いや、なんでもない」
 ちょっと顔が好みだとか、案外そういう理由だってあり得るかもしれない。そうと決まったわけではないが、何とも言えない気持ちになった。至のように、ずっと一緒にいて、知らないことなどないと思っていてさえ、こうしてすれ違うことがあるのに、と充はため息をついた。

 頑張ってこいよー、と冷やかし半分の激励を背に、充は後夜祭の会場を出て、校舎へ通じる廊下を歩いていた。すでに陽は暮れ、出入り口の灯りがついている。普段見ることのない時間帯の校舎には、後夜祭のざわめきを遠くにして、不思議な空気が満ちているようだった。この時間に呼び出して、二人きりの場所で気持ちを伝えるのはきっと特別感がある。伝統になっているのも頷けるな、とどこか冷めた気持ちで充は思っていた。
「ったく、こっちは今それどころじゃないっての」
 至は今頃どこで何をしているのだろう。鉢合わせたらどう声をかけようか、と散々悩んでいたのに、思いのほか人が多かったこともあって結局一度も見かけないままだった。
 ——彼女と、どっかでいい雰囲気にでもなってんのかな、あいつ。
 苛々と階段を足音も荒く一段飛ばしで登る。至がいたら危ないから止めろと注意してくるところだろうが、今はいないからどうだって構わない気持ちだった。
 三階に着いて歩き始めると、今まで感じなかった人の気配がそこここにするようになった。暗くてよく見えないが、どうやら、同じように相手を呼び出している生徒たちがそれぞれ教室の中や廊下の隅に互いの邪魔にならないように距離を取りながら、相手を待っているかあるいは告白の最中であるようだ。
 やがて、充は指定された渡り廊下の端にたどり着いた。この先には図書室しかない、奥まっている場所に他の生徒はいないようだった。廊下の真ん中あたりにひとり、たたずんでいる影がある。窓の外を見つめて立っていた、その女子生徒がこちらを振り向いた。
「来て、くれたんだね」
 知らない顔だったが、素直に美人だな、と充は思った。けれど感想はそれだけだった。あとは、相手には悪いけれど、どう短時間でこじれずにこの場を収められるか、そればかりだ。
「ええ、まあ」
 曖昧な返事をしたのに、その生徒は嬉しそうに笑った。少しだけ罪悪感が充の胸を刺す。
「私ね、どうしても充くんと仲良くなりたくて……」
 はにかみながら、彼女が切り出す。充も仕方なく、合わせるように頷いた。
「おれのことは、どうして……?」
「そうだよね。私が一方的に知ってただけだから。充くんって、入学式のときから、噂になってたの、知らなかった? 背が高くて硬派っぽい子と、アイドルみたいに可愛い子が入ってきたって。いつも二人一緒にいて仲良さそうで、すぐ女子の間でどっち派か、って盛り上がってさ」
「な、るほど……?」
 背が高くて硬派っぽい、というのはどう考えても至のことだ。けれど、自分たちがそんな風に注目されているとは思いもしなかった。至のことを王子だのと持て囃している連中がいるのは分かっていたけれど、上級生にまでとは思いもしない。
「でも、いつもあの背の高い子、至くんと一緒だから、なかなか話しかけるチャンスもなくて。みんな遠巻きにしてるだけだったんだよね。だから正直、呼び出しの手紙も渡せると思ってなかった。他の子からも、貰った?」
「いえ……」
「やっぱり、みんなきっと無理だろうなって諦めてたんだね。私だけ、抜け駆けしちゃった」
 悪戯が成功したような表情に、充も苦笑いしながら、内心複雑な気持ちになる。こんなことになる前に充が思っていたように、この文化祭の間も至と一緒だったら、彼女の言う通り、手紙を渡されるチャンスはなかったのかもしれなかった。
 うつむき加減に無理矢理笑う充の心中を知らないだろう、女子生徒が小首を傾げ、続けて何か言おうと口を開いたのが見えた、その時だった。
「充!」