8



 眠れないかな…と思っていたけど、昼間の島散策の疲れもあったのか、俺はいつの間にか意識を失っていた。

 やがて深い眠りから覚めると、雑魚部屋はまだ眠りに満ちていて、だけど夏目先輩が寝ていたはずの布団には誰も寝ていなかった。

 俺は布団から出て、部屋の廊下へ出る。

 玄関まで行ってみたけど、人の気配は無かった。昨夜、夏目先輩と海から戻って来て、並べて入れた靴箱の靴が、夏目先輩のだけ無くなっていた。

 そう言えば、島で朝靄の風景を撮るって先輩は言っていたっけ。

 俺は慌てて雑魚部屋へ戻ると、昨夜枕元へ置いたカメラを持って外へ出た。

 早朝の島の風景は昼間とは様変わりしていて、辺り一面に濃い白い靄が掛かっていた。

 俺は昨日一人でアートスタンプラリーをした道を自転車で通り抜ける。

 夏目先輩が朝靄の風景の作品を撮るとしたら、どこへ行くのか。

 やっぱり森の中じゃないか…。








 毎年、この島の朝靄の風景を写真に撮りたくて、合宿の朝は早起きしていた。

 少し冷んやりした朝の空気。

 今年こそは綺麗な朝靄を写真に収めるんだ。

 自転車を遊歩道に停めると、森の中へ入って行く。



 《すみません…俺、止まんなくなっちゃって…》


 
 急に昨夜の敬の顔が浮かんで、思わず立ち止まる。

 
 あのキス。

 
 欲望に溢れた激しいキスだった。

 
 あんなふうに人に求められる事なんて無かったから驚いたけど、でもそれ以上に俺の中の何かが呼び覚まされるような感覚があった。

 
 敬に強く抱きしめられたら…俺はどうなってしまうんだろう。
 
 
 パキパキッと地面に落ちた小枝を踏み締める。
 
 朝靄が立ち込める森の中に光が差し込んできた。

 何本も森の中に落ちてくる光の筋。

 どこだ。

 どこを撮れば、この美しい風景を伝えられる?

 
 大きな木に生い茂る緑の葉の間から降り注ぐ乳白色の光。

 沢山の細い枯れ枝が白い靄の中に線描を渦巻かせる様子。

 大きな倒木に差し込む日の光は悲しげにも映る。

 緑の苔に覆われた枯れ枝が、朝靄に覆われた空に向かって手を伸ばしている姿。
 
 
 夢中でシャッターを切る。

 
 カチャン

 その時、自転車を停める音が後ろから聞こえた。

 振り向くと、敬がいた。

 俺の邪魔をしない為か、こっちには来ない。

 首にカメラをぶら下げたまま、写真を撮るわけでもなく、自転車のハンドルに片手を乗せて真っ直ぐに俺の方を見ている。

 俺は思わず敬にカメラを向けてシャッターを切っていた。

 
 「敬、おはよ」

 「先輩、おはようございます。すみません。邪魔しちゃって」

 「いいよ。もう、どこを撮っていいのか分からなくなってた」

 俺は近くの倒木に腰掛ける。

 「自然の風景を撮るって難しいんだよ。絶対にこの場にいて、この目で見た物が一番綺麗なんだ。それを写真で伝えるなんて無理なんだよ」

 「そうかも知れないですね」

 敬も隣りにやって来て座る。

 昨日までのように普通に敬の顔を見れない。

 二人で黙って、朝靄が日の光に静かに溶けて消えていくのを見ていた。

 日の光は強くなって来て、まるで生まれ変わったかのように木々の葉を輝かせる。

 
 森が目覚める。

 チュンチュンと小鳥達も朝を告げる。


 
 「今年も傑作は撮れなかったな」

 
 俺は立ち上がった。

 敬も立ち上がる。

 
 「現像してみないと分かりませんよ。先輩、集中して写真撮ってたじゃないですか」

 「うん。まあ、焼いてみるよ」

 
 二人で見つめ合う。

 敬の視線が熱い。

 
 「夏目先輩、俺、ずっと先輩の事好きだったんです。初めて部室の前で会った時から。一目惚れでした」

 
 そう、初めて会った時から、敬の真っ直ぐな視線を感じていた。

 その目で見つめられると何だか落ち着かなかった。
 
 でも、敬はいつも穏やかにそこに居て、一緒にいると安心出来て、その視線さえも心地良くなっていった。


 「敬」

 「はい」

 「俺もお前の事が好きだよ」

 「ほんとに?」

 「うん」

 
 敬の体の温度が俺の体を包んだ。

 俺はそれじゃあ物足りなくて、ギューッと敬の体を抱きしめる。

 敬も俺の体をギューッと抱きしめてきた。

 「あっ…」

 思わず声が出てしまう。

 敬が腕を緩めて俺の顔を覗き込むと、優しく微笑んだ。

 俺の少し汗ばんだ額に敬がチュッとキスをする。

 「夢みたいです。俺もう死んでもいいかも…」

 敬の目にうっすら涙が浮かんでいた。

 「まだ死ぬのは早いだろ」

 俺は少し背伸びをして敬の唇にキスをした。

 敬は俺の後頭部を優しく両手で包み込むと、熱くて長いキスをする。

 俺の体ごと敬に持っていかれるような、脳みそが蕩けるようなキス。

 

 森の中を涼しい風が通り抜けていく。

 
 でも、どんな風も俺達の熱を冷ます事は出来なさそうだった。