二か月前。高校に入って三回目の春がきて、新しいクラスでの生活が始まった。
あの日、塾の課題に追われていた私は、新学期初日の早朝にも関わらず机で一人参考書を開いていた。
必死に参考書の文字を追いかけてシャーペンを走らせていた私は話しかけられるまで彼の存在に気が付かなかった。

「積分…」

「わっ、いった!」

いきなりの人の声に驚いた私は勢いよく顔をあげてしまい、次の瞬間頭がぶつかってゴンッと鈍い音がした。

「ってて…ごめん!」

目線の先にいたのは綺麗に透き通った茶色の瞳。

あまりに整った顔が急に目の前に現れたからか、少し心臓が跳ねた気がして彼から目を逸らした。

「いや、だ、大丈夫です」

「すごいねぇ、こんな時間からよく分かんない文字読んでるとか」

彼はひょいと片手で私の参考書を取り上げ見るだけで眠くなる~、と言い欠伸をしていた。

そんな姿でさえなぜか目で追ってしまう自分がいて動揺した。

「白石…かなはちゃん?」

「そよ、です」

「え、ごめん。読めないねーってよく言われない?俺も言われるんだけど」

「な、なんて言うんですか」

「山宮睦月。睦まじいのむつに月でむつき!」

「全然、読めると思いますけど…」

「えぇ、すごいね?」

そんなどうでもいい会話が数回続いた後、山宮くんは私の前の席に座り突っ伏して眠ってしまった。
ずば抜けて小さい顔や地毛を疑うほど綺麗に染まった金髪のせいか。
なんでもない後ろ姿から目が離せなくなって、そっと参考書を閉じてしまった。
その後すぐに分かったことだが、山宮くんは校内でも有名な人気者だった。
そんな人と一度でも二人きりで話ができただけで奇跡のような時間だったのかもしれないと、後から思った。
私みたいに何もかもを捨てて勉強だけしてきた人間とはきっと見える世界も違うのだろう。
最初はそんな微かな憧れから彼のことを気にしだすようになった気がする。
けれどあの日以来、山宮くんと話すことはなかった。
自分なんかが山宮くんみたいな人間とつるむことができるだなんて思っていない。
それなのに心はどうしようもない靄で埋め尽くされたような日々が続いた。
そんな面倒くさい感情でごちゃごちゃになった私の心を落ち着かせてくれるのは、本の存在だった。
昔から勉強漬けの日々を生きてきた私にも読書という趣味があった。
けれど今どき読書が趣味、と人に打ち明けることはあまりない。
ただでさえ勉強ばかりしている女、というだけでも地味なのに加えて趣味が読書だなんて。とてもじゃないけれど言えなかった。
家で本を読んでいると勉強をしていない自分を責めそうになってしまうし、かと言って学校で本を開くこともできない。
だから本を読みたくなった時には図書館に籠ることにしている。
うちの高校の一つの魅力でもある大きな図書館では本を読むためだけにたくさんの人が集まってくる。
そんな環境が自分にとってとても心地が良かった。
高校を選ぶときの決め手にもなったこの図書館だけど、つくづく正解だったなと実感する。
校舎の一本裏にある木製の建物。
大きな扉を押すと本で埋め尽くされた壁が一面に見える。
いつも座っている窓際の席を確保し、図書館の中を歩く。
この時間が唯一の癒しだ。