ハリスがデロス村へ到着する数日前。
ノエイル王都から少し離れた位置にある広大な敷地。
そこには将来有望な若者たちが集うノエイル王立魔剣学園があった。
ここもまた、ハリスが訪問視察で訪れる場所のひとつであり、未来ある生徒たちの健康管理にひと役買っていた。
また、この学園にはアントルース家令嬢であるフィクトリア・アントルースも数年前から在学しており、聖院をクビになったハリスが最後の挨拶に訪れたと聞いて春季休校中でありながらわざわざ訪れ、アントルース家の意向を伝えに来ていた。
「なるほど……あなたの言いたいことはよく分かりました」
落ち着いた口調でそう告げたのは、白髪の老婦人――王立学園で学園長を務めるマイロスであった。その横には彼女の右腕である副学園長のノーマンが立っている。こちらは五十代前半で綺麗に整えられた髭と片眼鏡が特徴的な偉丈夫である。
「マイロス学園長! それでは――」
「まあ、待ちなさい。慌てるのはあなたの悪い癖ですよ、フィクトリア・アントルース」
満面の笑みを浮かべるフィクトリアは自分の提示した条件をマイロスが呑んでくれると確信したようだが、当のマイロスとしては明確に答えを告げたわけではないので、とりあえず早とちりをしているフィクトリアをなだめた。
彼女が提示した条件とは、ハリスをデロス村へ住まわせるということ。
もちろん、最終決定を下すのはハリス自身なのでそうするように仕向けるというマネはしない。しかし、母親の体調面を考慮すると、やはりハリスのような腕の良い治癒魔法使いには近くにいてほしいと願っていた。
必死になって訴えるが、あまりにもプランを練らず慌てて来たものだからうまく話せず、何度か会話が止まってしまったものの、最終的に自分の伝えたい話は喋れたと安堵していた。
一方、マイロスはマイロスで悩んでいた。
かつてハリスが学園を訪れた際、魔草薬の研究についての話を聞いたのだが、とても魅力的でぜひとも協力したいと申し出ていた。
しかし、ハリスは訪問診察の件もあってこれを保留。
ハッキリとした答えが出ないまま、彼は理不尽な理由で聖院をクビになってしまった。
当然、挨拶に来た彼をヒルデは学園へと誘った。
だが、ハリスはロザーラの容体が気になるとここでも断ったのだ。
どうやら学園でも屈指のおっちょこちょいで知られるフィクトリア・アントルースは、それを知らずに学園長室へ乗り込んできたのだろうとため息をつく。
「ハリスの件ですが……彼は私の誘いを断ってデロス村へ戻ると言っていましたよ」
「えっ? そ、それって――」
「あなたの母上の容体を気にかけてでしょうね」
「彼の性格を考えればそうなる結果は見えていたが……これほどの好条件を振り切って待っている人のところへ戻るのは相当な覚悟がいる。さすがはハリスだ」
ノーマン副学園長も、ハリスの判断を讃えていた。
「そ、それを聞いてひと安心しました……」
ハリスが無事に領地へ戻ってきてくれると知ったフィクトリアは思わずその場へとへたり込む。
――だが、マイロスの話はこれで終わりではなかった。
「でも……たとえあなたの家の件がなかったとしても、学園側は彼の召集をあきらめざるを得なかったかもしれませんね」
「? どういう意味ですの?」
「スペイディア家は知っているな?」
「は、はい」
ノーマン副学園長からの質問に対し、フィクトリアは「何を今さら?」という表情を浮かべながら返した。
スペイディア家はノエイル国内でも屈指の大貴族――王家とは親族関係である公爵家だ。同じ貴族でありながらも辺境領主であるアントルース家とは立場が違いすぎるのだが、フィクトリアが気になったのはなぜこのタイミングでその名前が出てきたのかという点。
「ま、まさか……」
脳裏に浮かんだ、絶対にあってはならない可能性。
どうか自分の予想が外れていますようにと願うフィクトリアを待っていたのは、無情な現実であった。
「スペイディア家の当主がハリスに関心を持ったと、あなたより先に来た使者が伝えてくれたわ」
「そ、そんな……」
一転して放心状態となるフィクトリア。
相手が公爵家となったら太刀打ちはできない。
それに、まだまだハリスを欲していそうな大物たちは数多くいるのだ。
絶望するフィクトリアへ、マイロスが声をかける。
「あなたのくれたメッセージには、ハリスについて話をするため、一度アントルース家に集まって話し合いをしたいと書いてあったけど……それにスペイディア家を招待してみてはどうかしら」
「えっ?」
「学園としても今後のことがあるので一度じっくりアントルース家当主と話をしてみたいと思っていたところだし、もしそれでいいなら私の方から提案をしておくわ」
「ス、スペイディア家の当主がうちに……」
一瞬たじろいだが、ハリスの件でしっかりと話し合うにはこの機会しかないとすぐに立ち直り、「よろしくお願いいたしますわ!」とマイロスに頭を下げた。
「分かりました。それではそのように手配をしましょう」
「だが、相手は公爵家……当主自らが足を運ぶかどうかは未知数だぞ」
「それでも構いませんわ。お母様のこともありますし、何よりわたくしはハリスさんに憧れてこの学園に入った――そんな尊敬する方の近くで学べる機会をみすみす失いたくはありませんもの。最善の努力はいたしますわ」
「ふふふ、頼もしいですね」
学園長としては、しっかりと自分を持ち、将来に向けてのビジョンも固めているフィクトリアのような学生の願いは聞き入れたいところではあった。
すべては公爵家次第。
――いや、それ以外にも影響力の強そうな者たちがハリスを狙っている。
これからは対応次第で状況が大きく変わると確信したマイロスは、自分もしっかり見極めなければと気合を入れ直すのだった。
◇◇◇
フィクトリアの帰宅後。
すでに辺りは真っ暗になっているが、未だ学園長室に残っていたマイロスを心配したノーマンが声をかける。
「本当によろしかったのですか?」
「何がです?」
「ハリス殿の件です。彼に魔草薬の研究主任としてのポストを与え、その分野の発展に専念させるという学園長のお考え……かなり本気のように見受けられましたが」
「個人的な感情でいえば残念でなりませんが、こればかりは仕方がありません。アントルース家だけでなく、スペイディア家までかかわってくるとなると、うちだけに置いておくわけにはいきませんよ」
マイロスの目論見は外れてしまうが、アントルースやスペイディアといった貴族とのかかわりが強くなるのであれば、学園にとっても好影響だろう。何より、ハリス自身が強い意志をもってデロス村への移住を希望していたため、どのみち思い描いていたプラン通りに運ばなかっただろうし。
「今後のレイナード聖院とのかかわりについては、どのようにお考えですか?」
「学園としては聖院との付き合いというより、あくまでもハリスが聖院に所属していたからこれまでさまざまな仕事を依頼していただけに過ぎませんからね」
バッサリと斬り捨てる学園長。
「彼は独立しても定期的に学園へと足を運んでくれるそうなので、今後はそちらと専属契約を結ぶという形にしましょう。……正直、ドレンツ・レイナードからは誠実さを欠片も感じられないというのも理由にはありますが」
「同感です。私もそれがよろしいかと。では、早速そのように手配しましょう」
「面倒事を押しつけてしまって悪いわね」
「いえいえ。お気になさらず」
ノーマンとしても、私利私欲のために有能な人材であるハリスを切り捨てる聖院に大事な生徒たちを任せるというのは不安だったので、マイロスの判断は大歓迎であった。
こうして、レイナード聖院はひとつ大きな得意先を失うこととなったのだった。
ノエイル王都から少し離れた位置にある広大な敷地。
そこには将来有望な若者たちが集うノエイル王立魔剣学園があった。
ここもまた、ハリスが訪問視察で訪れる場所のひとつであり、未来ある生徒たちの健康管理にひと役買っていた。
また、この学園にはアントルース家令嬢であるフィクトリア・アントルースも数年前から在学しており、聖院をクビになったハリスが最後の挨拶に訪れたと聞いて春季休校中でありながらわざわざ訪れ、アントルース家の意向を伝えに来ていた。
「なるほど……あなたの言いたいことはよく分かりました」
落ち着いた口調でそう告げたのは、白髪の老婦人――王立学園で学園長を務めるマイロスであった。その横には彼女の右腕である副学園長のノーマンが立っている。こちらは五十代前半で綺麗に整えられた髭と片眼鏡が特徴的な偉丈夫である。
「マイロス学園長! それでは――」
「まあ、待ちなさい。慌てるのはあなたの悪い癖ですよ、フィクトリア・アントルース」
満面の笑みを浮かべるフィクトリアは自分の提示した条件をマイロスが呑んでくれると確信したようだが、当のマイロスとしては明確に答えを告げたわけではないので、とりあえず早とちりをしているフィクトリアをなだめた。
彼女が提示した条件とは、ハリスをデロス村へ住まわせるということ。
もちろん、最終決定を下すのはハリス自身なのでそうするように仕向けるというマネはしない。しかし、母親の体調面を考慮すると、やはりハリスのような腕の良い治癒魔法使いには近くにいてほしいと願っていた。
必死になって訴えるが、あまりにもプランを練らず慌てて来たものだからうまく話せず、何度か会話が止まってしまったものの、最終的に自分の伝えたい話は喋れたと安堵していた。
一方、マイロスはマイロスで悩んでいた。
かつてハリスが学園を訪れた際、魔草薬の研究についての話を聞いたのだが、とても魅力的でぜひとも協力したいと申し出ていた。
しかし、ハリスは訪問診察の件もあってこれを保留。
ハッキリとした答えが出ないまま、彼は理不尽な理由で聖院をクビになってしまった。
当然、挨拶に来た彼をヒルデは学園へと誘った。
だが、ハリスはロザーラの容体が気になるとここでも断ったのだ。
どうやら学園でも屈指のおっちょこちょいで知られるフィクトリア・アントルースは、それを知らずに学園長室へ乗り込んできたのだろうとため息をつく。
「ハリスの件ですが……彼は私の誘いを断ってデロス村へ戻ると言っていましたよ」
「えっ? そ、それって――」
「あなたの母上の容体を気にかけてでしょうね」
「彼の性格を考えればそうなる結果は見えていたが……これほどの好条件を振り切って待っている人のところへ戻るのは相当な覚悟がいる。さすがはハリスだ」
ノーマン副学園長も、ハリスの判断を讃えていた。
「そ、それを聞いてひと安心しました……」
ハリスが無事に領地へ戻ってきてくれると知ったフィクトリアは思わずその場へとへたり込む。
――だが、マイロスの話はこれで終わりではなかった。
「でも……たとえあなたの家の件がなかったとしても、学園側は彼の召集をあきらめざるを得なかったかもしれませんね」
「? どういう意味ですの?」
「スペイディア家は知っているな?」
「は、はい」
ノーマン副学園長からの質問に対し、フィクトリアは「何を今さら?」という表情を浮かべながら返した。
スペイディア家はノエイル国内でも屈指の大貴族――王家とは親族関係である公爵家だ。同じ貴族でありながらも辺境領主であるアントルース家とは立場が違いすぎるのだが、フィクトリアが気になったのはなぜこのタイミングでその名前が出てきたのかという点。
「ま、まさか……」
脳裏に浮かんだ、絶対にあってはならない可能性。
どうか自分の予想が外れていますようにと願うフィクトリアを待っていたのは、無情な現実であった。
「スペイディア家の当主がハリスに関心を持ったと、あなたより先に来た使者が伝えてくれたわ」
「そ、そんな……」
一転して放心状態となるフィクトリア。
相手が公爵家となったら太刀打ちはできない。
それに、まだまだハリスを欲していそうな大物たちは数多くいるのだ。
絶望するフィクトリアへ、マイロスが声をかける。
「あなたのくれたメッセージには、ハリスについて話をするため、一度アントルース家に集まって話し合いをしたいと書いてあったけど……それにスペイディア家を招待してみてはどうかしら」
「えっ?」
「学園としても今後のことがあるので一度じっくりアントルース家当主と話をしてみたいと思っていたところだし、もしそれでいいなら私の方から提案をしておくわ」
「ス、スペイディア家の当主がうちに……」
一瞬たじろいだが、ハリスの件でしっかりと話し合うにはこの機会しかないとすぐに立ち直り、「よろしくお願いいたしますわ!」とマイロスに頭を下げた。
「分かりました。それではそのように手配をしましょう」
「だが、相手は公爵家……当主自らが足を運ぶかどうかは未知数だぞ」
「それでも構いませんわ。お母様のこともありますし、何よりわたくしはハリスさんに憧れてこの学園に入った――そんな尊敬する方の近くで学べる機会をみすみす失いたくはありませんもの。最善の努力はいたしますわ」
「ふふふ、頼もしいですね」
学園長としては、しっかりと自分を持ち、将来に向けてのビジョンも固めているフィクトリアのような学生の願いは聞き入れたいところではあった。
すべては公爵家次第。
――いや、それ以外にも影響力の強そうな者たちがハリスを狙っている。
これからは対応次第で状況が大きく変わると確信したマイロスは、自分もしっかり見極めなければと気合を入れ直すのだった。
◇◇◇
フィクトリアの帰宅後。
すでに辺りは真っ暗になっているが、未だ学園長室に残っていたマイロスを心配したノーマンが声をかける。
「本当によろしかったのですか?」
「何がです?」
「ハリス殿の件です。彼に魔草薬の研究主任としてのポストを与え、その分野の発展に専念させるという学園長のお考え……かなり本気のように見受けられましたが」
「個人的な感情でいえば残念でなりませんが、こればかりは仕方がありません。アントルース家だけでなく、スペイディア家までかかわってくるとなると、うちだけに置いておくわけにはいきませんよ」
マイロスの目論見は外れてしまうが、アントルースやスペイディアといった貴族とのかかわりが強くなるのであれば、学園にとっても好影響だろう。何より、ハリス自身が強い意志をもってデロス村への移住を希望していたため、どのみち思い描いていたプラン通りに運ばなかっただろうし。
「今後のレイナード聖院とのかかわりについては、どのようにお考えですか?」
「学園としては聖院との付き合いというより、あくまでもハリスが聖院に所属していたからこれまでさまざまな仕事を依頼していただけに過ぎませんからね」
バッサリと斬り捨てる学園長。
「彼は独立しても定期的に学園へと足を運んでくれるそうなので、今後はそちらと専属契約を結ぶという形にしましょう。……正直、ドレンツ・レイナードからは誠実さを欠片も感じられないというのも理由にはありますが」
「同感です。私もそれがよろしいかと。では、早速そのように手配しましょう」
「面倒事を押しつけてしまって悪いわね」
「いえいえ。お気になさらず」
ノーマンとしても、私利私欲のために有能な人材であるハリスを切り捨てる聖院に大事な生徒たちを任せるというのは不安だったので、マイロスの判断は大歓迎であった。
こうして、レイナード聖院はひとつ大きな得意先を失うこととなったのだった。