諦めの悪いミツルに、仕方なく付き合うかと腰を上げようとしたところで、窓の外にマリンを見つけた。
夜の海にいる人魚だと言ってたくせに、普通に歩いてんじゃねーか。
「悪い、用事ができた」
「はぁ?」
「また今度! メッセして!」
ぽかんっと驚いたミツルをそのままに、カバンを肩に掛けて教室を飛び出す。友人とじゃれあってる同級生たちの間をすり抜けて、玄関まで急ぐ。俺が行くまで、あそこに居てくれればいい。
人間のマリンと、話がしてみたかった。表情のわからない夜の海じゃなく、面と向かって。
下駄箱で、上履きからスニーカーに履き替えて玄関を飛び出す。ジリジリと焼けつくような太陽が、背中に汗をかかせる。それでも、止まらずに海岸まで走れば、息がどんどん上がっていった。
こんなに走ったのは、いつぶりだったろうか。岩礁で割り箸に糸をつけたものを垂らしてる、マリンにこっそりと近づいていく。スマホで釣りの様子を、撮影してるようだった。
「夜しかいなかったんじゃないのか、人魚」
声をかければ、肩をビクッと揺らして、顔を上げる。俺を認識した瞬間、割り箸も、近くに置いてたバケツも放り投げて、走り出そうとした。
岩礁で転けたら……
咄嗟に手を掴んで、抱き上げる。軽々しくと持ち上がったマリンは、足をジタバタと暴れさせた。
「悪い、危ないから落ち着いて」
声を掛ければ、非難するような視線で俺を見つめる。近くにいた観光客たちが、「なになに?」と、不躾な視線も隠しもせずこちらを見ていた。居た堪れなくなって、マリンを下ろして、その場から逃げようとした。
俺の制服のズボンを、ぎゅっとマリンに握られて、逃げきれなかったが。
「ソウくん、驚かせないでよ!」
少し潤んだ瞳で俺を見上げて、ふぅふぅっと息を荒げている。後ろから近づいたのが、よっぽど怖かったらしい。割り箸やバケツを拾い集めて、マリンに渡せば、落ち着いたようだった。
「ごめん」
「びっくりしたから、許さない!」
まさか、許さないと答えられるとは思っていなくて、ぐっと息が詰まる。次の言葉を待てば、マリンは唇をにぃっと広げた。
「罰として、釣りに付き合ってもらいます。せっかく取ったカニも、逃げちゃったし」
空っぽのバケツを俺に投げ渡してから、ポケットに手を突っ込む。様子を見ていれば、ポケットからはもう一本割り箸の釣り竿が飛び出してきた。
「はい」
「エサは?」
「スルメ!」
反対のポケットから、スルメを取り出して、俺の前に差し出す。受け取ろうと手を伸ばせば、カジっとためらいなく噛み出した。
「さっき驚かされた、仕返し!」
にししと笑う顔を光の下で見れば、胸がとくんっと熱くなる。太陽のせいか、人の多さのせいか、熱中症になりそうなくらいだった。
二人でじっと岩の間に、糸を垂らして待つ。ツンツンという刺激を感じて、釣竿をあげれば、スルメをガッチリ挟んだカニ。バケツに放り込めば、マリンが「おぉー」と感嘆の声を上げた。
「なに?」
「掴めるんだね」
「慣れてるからな」
目の前を黒い物体が通っていって、マリンは「ひゃあ」と悲鳴をあげて飛び上がる。ガッチリ俺の肩に捕まって「ジー! ジー!」と騒ぎ立てた。首を傾げてから、ようやく意味がわかって、お腹を抱えて笑う。
「フナムシだよ」
「カサカサ動いてた! むりぃいいいい!」
鳥肌をぶつぶつと立てて、立ち上がってバケツを持ったまま逃げていく。マリンを追いかけながら、笑いが止まらない。海に行けば付き物だろ、それくらいと言いたくなった。
フナムシが比較的少ない、道路沿いまで逃げてからマリンは立ち止まる。
「あんなのにも慣れるの? 無理」
「人魚なのに?」
意地悪を言えば、マリンは頬を膨らませて、俺にバケツを押し付けた。
「人魚はそういう設定だって、わかってたでしょ!」
「ごめんごめん、意地悪言った」
謝れば、満更でもなさそうな顔で、「許そう」と腰に手を当てて偉そうに仁王立ちをする。まっすぐに立ってる堂々たる姿に、本当に人間なんだと再確認した。人魚設定を信じきっていたわけではないけど。
そして、「あっ!」と声を上げて、また走り出す。今日だけで、何回走ったか。こんなに体を動かしたのは、久しぶりな気がする。
額を伝う汗が心地よくて、走ってマリンを追いかけた。ぐんぐんと、水族館に近づいていく。水族館の駐車場は、県外ナンバーの車で埋まっていた。
やっぱり夏休み効果で、観光に来てる人が多いのだろう。三台並んだ自販機の前で、ぴたりと止まって、マリンは俺の方を向く。
「パインサイダーでいい?」
「なにが?」
「この前勝手に貰ったのと、タオルのお返し!」
律儀に、「お返しする」という言葉を守ろうとするマリンに、つい頬が緩む。どうしようかな、と悩みながら自販機を眺めていれば、待つこともせずマリンはパインサイダーを押した。
「俺は……」
「これは、私の! ソウくんは好きなの選んでいいよ、はい」
小銭をもう一度、チャリンチャリンと鳴らしながら自販機に入れていく。結局、俺も同じパインサイダーを選んだ。
「少し歩かない? ここだと、人も多いし」
「いいけど」
マリンに誘われるがまま、歩道をゆっくりと歩いていく。パインサイダーを開ければ、プシュウっと爽やかな音がして炭酸が抜けた。喉に流し込めば、奥でパチパチとはぜた音がする。
「こっちの人はこれ好きだよねーとは言ったけど、私も飲んだらハマっちゃった」
まっすぐ前を見つめながら、照れたように頬を染める。沈んできた太陽のせいか、本当に赤く染まってるのかは、わからないけど。
「俺も好きだよ」
「急な告白?」
「ちげーよ! パインサイダー!」
「知ってるー!」
ふざけたように答えて、タッタッタと小走りになる。先ほどからこの小さい体のどこに、こんな体力があるのか。いつもより動いたせいで、少しへとへとだった。
俺の高校を見上げながら、マリンは羨ましそうな顔をする。