なのに、マリンとの再会はすぐだった。その日の夕方から夜になりかけくらいのタイミングで、スマホの着信が鳴る。

 部屋でウトウトしていたところを起こされて、慌ててスマホを拾う。今日は珍しく静かな姉に、ビクビクしながら小声で出ればマリンだった。

「ねぇ、海に来れない? 出会ったところ」

 いつもよりも、少しダウンした声に、何かあったことがすぐにわかった。

「すぐ行く」

 小さな声で返事をして、すぐに出かける準備をする。開けていた窓からは、冷たい空気が部屋に流れ込んできていた。だから、温かいお茶を淹れてから、家を出た。
 
 海で会ったマリンの様子は、またおかしい。理由は、家を出る前に、確認した。防波堤の上で、人魚のヒレを身につけて華麗に夜の海を泳ぐマリンを見つめる。
 俺のせいだ……。

 ネットストーカーからの言葉は、止まることはなかった。最初は、湊音へのメッセージだったのが少しずつ、少しずつ、マリンへの個人攻撃へと変わっていく。他の視聴者の反応が『似てるかもだけど、湊音くんとは確定してなくない?』とか、『アンチもいるけど、マリンちゃんとソウくん応援してます』という、好意的なことだけが救いだった。

 それでも、マリンのメンタルをおかしくさせるには十分な攻撃のコメント。

『私の湊音くんを返して。湊音くんのこと、どうせ脅してるんでしょ、売女』
『また、マリンかよ。鬱陶しい』
『男にチヤホヤされたいなら、湊音くんじゃなくていいだろ、消えろ!!!』

 最初に見つけた時にブロックなり、違うと否定するなり、すればよかったんだ。それを、俺が、湊音であることを隠してるから。マリンを、巻き込んでしまった。

 マリンは俺に直接言わないけど、宣伝用に始めたSNSにもDMで届いてるようだった。SNSが怖くて、確認も、更新もマリンに全てお願いしていたけど、今回の件でアカウントを作らず覗いた。そしたら、『DMに返信しろ』という言葉のオンパレード。色々なアカウントから届いてるように見えたけど、全てあのネットストーカーの複垢だろう。

 はぁっとこぼれ落ちるため息を、両手で押さえた。マリンは海を優雅に泳いでいるから、聞こえてはいないだろうけど。

 こんな日でも、海は夜空と交わって星を反射させてる。マリンは星空を掬うように、両手で海に差し込む。仕草一つ一つが、美しくて、息が止まりそうだった。遠目に見ているだけでもマリンが泣き出しそうな顔に見えて、俺まで涙が出てくる。

 俺のせいだ。わかってるのに、湊音としてコメントを出すことも、マリンに打ち明けることもできていない。

 体が冷えてきたのか、泳いでいたマリンがゆっくりと防波堤に近づいてくる。そして、ヒレでぺたんぺたんと鳴らしながら、階段を登った。

「さすがに寒くなってきちゃったねぇ!」

 わざとらしく明るい声を上げながら、ヒレをペチペチと防波堤に打ち付ける。出会った頃と全く同じ仕草に、マリンとの出会いを思い出した。まだ、数週間も経っていないのに、俺はマリンと出会って、こんなにも楽しい。

 家族のことも、湊音のことも、解決はしていないのに、毎日がキラキラ輝いて見えた。マリンと、このままずっと一緒にいたい。マリンの目的のために、俺も協力する。

 そう決めたはずなのに、俺の弱さがマリンを苦しめてる。

 俺の横にマリンは座って、髪の毛をぎゅうっと絞る。長い髪の毛にまとわりついていた、海水はポタポタと滴り落ちた。

 波の音と、マリンの髪から滴るポタ、ポタという音だけが耳に響く。それだけなのに、なんてキレイな音なんだろうと思った。マリンに関われば、全て美しいものに変わっていく。

「ごめん」

 すぅっと息を吸い込んで、出た言葉は、謝罪の言葉だった。マリンはヒレをモゾモゾさせながら、俺の方に上半身だけを向ける。とても不思議そうな顔をしていた。

「炎上っていうか、変な人に絡まれてるだろ。コメントとか」
「ソウくんは、悪くないじゃん」

 俺は、本当に悪くない? 俺がもっとちゃんと、ネットストーカーと向き合って決着をつけていれば? 湊音であることを隠して、動画に出ていなければ?

 今更どうにもできない、たらればを思い浮かべて、胃の奥がグッと締め付けられた。できることは、何個もあった。それなのに、怖いから。傷つきたくないから。ただ、自分勝手な理由で逃げ続けてきた、罰なんだろう。

「でも、もっとやれるのとあっただろ」

 弄ばれた、その一言で、湊音は炎上した。そして、その湊音が名前を隠して、カップルチャンネルを運営したら……簡単に、想像ができることだった。考えついていなかったのは、歌わなくても俺だとバレてしまうことだけ。

「似てるだけで、ここまでするかねぇ、ほんと!」

 ぷくっと頬を膨らませて、眉毛を下げる。怒ったような、困ったような表情に、胸が熱く締め付けられた。

 言わなくちゃ、告げなくちゃ。わかっていても、体が震えて、ただ、空気だけが口から出ていく。

 二人の間の沈黙が、シィーンと広がって、海の波の音だけが押し寄せては、消えていく。

 ザザァ。
 ザプン。

 意を決して、顔を上げればマリンは、か細い声で「やめよっか」と呟いた。
 やめたくない。
 俺は、まだマリンと二人で……
 本当は、本当の恋人になりたいとまで思ってた。

 自分の浅ましさに、吐き気がする。俺のせいでこれだけ、傷つけておいて、俺が湊音だということも隠しておいて、都合が良すぎるだろ。

「マリンに言ってないことがあるんだ」

 これを言ったら、本当に好きになってしまったことも伝えよう。それでマリンが、拒否するようなら、俺はもうこのチャンネルをやめる。きちんと、湊音なのに、名前を隠して、炎上と向き合わなかったことも謝罪してから。

「いまさら、そんな言わなきゃいけないことあるー?」
「あるよ」

 真剣な声色を作れば、頭が割れるように痛い。言いたくない。俺が湊音だってこと、知られたくない。
 知ったら、マリンはどんな反応をする?
 俺のせいでって怒る?
 俺みたいなやつ嫌いだって、悲しそうな顔をする?

 良い想像は何一つ、思い浮かばない。だけど、言わないことには、俺たちは前に進めないから。

「俺が悪いんだ」
「なにがー? まさか、このコメント、ソウくんの自作自演?」

 防波堤からヒレを放り出して、ペチンペチンと打ち付ける。苛立ってるのか、ただのクセなのか、判断がつかない。
 
「それじゃない……そのコメントの……」
「似てるから自分のせいだと思い込んでるの? 違うよ、ソウくんは悪くないって」

 慰められるたびに、心臓が壊れそうなくらい、痛かった。俺のせいじゃないって言われるたびに、死にたくなるくらい辛かった。このまま、海に飛び込んで泡となって消えてしまえればいいのに。

 名前もアカウントも消した。それでも、どこまで行っても『湊音』が消えることはなかった。海の泡になって、消えてくれれば、こんなことにはならなかった。

「似てるだけじゃないんだ」

 ヒュウっと喉の奥が締め付けられて、熱が上がっていく。マリンの顔が見えなくて、遠くを眺める。空も海も、暗い色で混ざり合っていた。