マリンが小さく呟いて、両手を自分の方に引き寄せる。悲しませたいわけじゃない。それでも、まだ歌うことが怖かった。
歌が悪いわけじゃない。それでも、歌えば、あの時の炎上や、ネットストーカーのネットリとしたDMが脳裏に蘇ってしまう。
マリンは、スマホを触りながら、検索を始める。
「次は、どんな動画撮ろっか」
ずっと考えていた。どうしたら、もっと多くの人に届くのか。マリンの思い人に届けるために、もっと大勢に見てもらいたい。
マリンのためなら、何でもできるような気分になっていた。
だから、調べてきた。スマホをポケットから取り出して、最近の流行りのショート動画をマリンに見せる。
「ショート動画ねー」
今までは普通の動画しか上げていなかった。でも、やっぱり、ショート動画やショート専用のアプリからの動線で見に来てくれる人が今は多いらしい。ネットの情報を鵜呑みにしてるだけ、だけど。
「この空中ウォークやってみるとか、踊ってみる、とか? カップル用の踊り、結構あるんだよ」
お気に入りに登録してあった動画を、スワイプしてマリンに見せる。踊りは得意ではない。それでも、歌いながら踊るマリンを見ていれば、マリンは好きだろうと思った。
カップルで歌ってる動画も、よく見かけるが……歌はまだ、怖い。
それに、万が一、湊音という名前で俺が歌を上げていたことがバレてしまえば……
今回の炎上の比じゃないだろう。女関係で燃えたのに、カップルチャンネルを始めてるなんて。
想像してみて、背筋がゾワゾワとした。マリンは、俺の様子には気づかず、じいっと動画を見つめている。そして、顔を上げて、大きく頷く。
「いいかもねぇ」
どれに対してかと思えば、カップル用に振付されたダンスの動画だった。そこまで難しい踊りではないから、俺でもできる、と思う。
マリンが自分のスマホを操作して、俺たちの目のの三脚に立てかけた。スマホの画面には、先ほどまで俺が見せていたダンス動画の解説が映っていた。
「はい、練習!」
「え?」
「やるんでしょ、カップルダンス」
マリンが立ち上がって、俺の前でぐっと背伸びをする。そして、腰に手をやって立つ。
「ほら、ソウくんも!」
「今から?」
「今から!」
提案は確かにした。それでも、こんなにすんなりマリンがやる気になるとは思わなかった。
スマホから流れる音楽に合わせてマリンが、ダンスを覚え始める。0.5倍速にされた音楽のスピードなら、俺もできる気がした。隣に立って、映像のダンスを真似る。
俺が歌ったこともある曲。マリンはすんなりと覚えて、簡単のように踊る。俺は、といえば……
頭の中では簡単にできると思っていたものの、足が追いつかない。
見かねたマリンが、俺の手を掴む。そして、手の動きをぐるぐると俺の手で踊ってみせる。掴まれた手が、燃え盛るように熱い。それでも、この思いを気づかれないように隠す。
「まずは、手だけ覚えて、できるようになったら足も付けよ」
「はい……」
情けなさを感じながら、マリンに操られて動く。少しずつ掴めてきて、なんとか、フリは追いかけられるようになった。
「じゃあ、次は見ないで!」
スマホの画面は暗くなり、音楽だけが流れている。どうやら、歌いながらやるつもりらしい。確かにマリンは歌も上手いし、歌ってみれば……人気が出るかもしれない。
マリンの声に合わせて、くるくる回ったり、指でハートを描いたり……なんとか一曲を、踊り切れた。
好きになった人に思いが届かなくて、それでも、会いたい、好きだ、と思い続ける曲。今のマリンにピッタリだな、と思って、胸が痛んだ。
マリンの恋が、叶えばいいのに。
その相手が、俺だったらいいのに。
あり得ない願いを口に出しそうになって、ソファにへたり込む。数十分練習をしただけで、息も絶え絶えで、喉はカラカラ。運動不足なつもりはなかったのに、意外にダンスは体力を消耗するらしい。
「飲み物買ってくるから、休んでて!」
マリンの言葉に、返事をする元気もなく、ただ頷く。俺の気持ちが届けばいいのに。マリンが帰ってくるまで、と思って、スマホの音楽に合わせて口ずさむ、
久しぶりに、歌えば、気持ちがスッキリしていく。
この気持ちが、君に伝わればいいのに。
君がこんなに、好きなのに。
歌うことが楽しいという気持ちと、自己嫌悪が湧き上がってくる。切ないラブソングに、自己を投影して、酔ってるみたいで気持ち悪い。途中で、音楽を止めて、ペットボトル持ち上げてから空っぽになったことを思い出した。
たった一滴でもいいから、早く喉を潤したくて、口をつける。唇に触れた途端、一滴は消えていく。
なかなか帰ってこないマリンに、変な心配が浮かぶ。
自販機は入り口のすぐそばにあったから、そこまで遠くないはずなのに。俺も一緒に行けば良かった。もしかして、また、変なのに絡まれてる?