バッシャン

 バランスを崩し海面に叩き付けられた私は、海から顔を出すと空を見た。これで何度目の失敗だろう。海に投げ出された私は、ライフジャケットのお陰で沈むことなくプカプカ浮いている。
 空には、雲一つない綺麗な青が見渡す限り広がっていた。海の青さと空の青さに挟まれて自分のちっぽけさを思い知る。

「あーくやしいー」

 海の上で一人叫ぶ。さっきまで私を引っ張っていた小型の船は、私が体勢を崩してハンドルを離したのでゆっくりとこちらに戻ってきている。

 今私は、ウェイクボードの真っ最中。

 今日、初めて挑戦したのだが全然立てない。ボードの上に立てたと思ったらすぐにバランスを崩して撃沈し、何度もそれを繰り返している。
 ちょっとだけでいいから、華麗に海の上を滑ってみたい。だけど、全然できなくて自分の運動神経のなさを呪う。

「咲ちゃーん、どうするー? もう一回やるー?」

 船の上から、私に向かって叫んでくれている。私は、プカプカ海に浮かびながら考える。

 本当はできるまでやりたい。だけど、残念ながら私一人がずっとやるわけにはいかない。ボート一台につき、一人ずつしかやれないスポーツなのでかなりの贅沢なのだ。
 他のメンバーにも譲ってあげなければと、私は仕方なく諦めることにした。

「上がりまーす」

 私は、大きな声で船に向かって手を挙げた。

 ゆっくりと船が私の近くまで寄ってくれる。ある程度来たところで止まってくれたので、船の後ろにある海から上がれる部分まで泳いで行った。

「お疲れ様ー」

 一緒に来ている湊さんが出迎えてくれた。手を差し出してくれたので、私はその手に捕まった。

「引き上げるよ」

 強い力で船に引き上げられる。私は船に引き上げられた瞬間、重力を感じて床に倒れ込んだ。体が重すぎて立ち上がれない……。

「大丈夫? 咲ちゃん? 疲れちゃったんでしょ?」

 湊さんは、ニコニコ笑って私の顔を覗き込む。

「すみません。体が重すぎて立ち上がれない……」
「あはは。だって、咲ちゃん何回も挑戦してたもんねー」
「でも、全然立てなかったです」

 私は、しょげて落ち込んだ。

「コツさえ掴めば早いんだけどね。休憩したら、また挑戦したらいいよ」

 湊さんが、優しく励ましてくれる。

「次は、誰がやるー?」

 複数人が手を挙げたのか、ボートのデッキではじゃんけんをする声がした。私は、重い体を無理やり動かして足に付けていたボードを外した。

 今日は、飲み会で知り合った人たちに誘われて湘南の海に来ている。マリンスポーツなんて初めてで、結構楽しみにしていた。
 初めてやったウェイクボードだったけれど、とても楽しい。これで、上手に海の上を滑ることができたらもっと楽しかっただろうな……。
 目の前に広がる海を見て、名残惜しさを隠せない。

 だけどその日は、久しぶりに休日を満喫できて大満足だった。


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「海楽しかったな」

 私は、会社のデスクトップパソコンの前に座って呟く。私こと藤堂咲(とうどうさき)は、貿易会社の営業事務として働く普通のOL。今日も安定の残業で、お腹が空いて集中力が切れてしまった。
 本当は、営業さんに頼まれた資料について考えていたのだが、気が付いたら二週間前に行った海を思い出していた。

 時計を見ると19時を過ぎている。そろそろ今日も、コンビニに行って来よう。私は、席を立ち机の中に入れている長財布を取り出す。
 二年前に自分へのご褒美に買ったお気に入りの財布。使い始めて二年なので、程よく自分の手に革が馴染んでいる。

「コンビニ行ってきまーす」

 同じように残業するのだろう同僚たちに、声を掛けてからオフィスを出た。

 私は、貿易を生業とする会社に勤めていて今年で8年目。新卒から働いているので、三十歳になる。新卒の頃は、自分がこの仕事をこんなに続けているだなんて思いもしなかった。 
 ブラックとまでは言わないが、残業が多い仕事だ。きちんと残業代は出るので、同じ世代の女性よりもちょっとは年収がいいと信じたい。でも、出て行く分も多いから手元に残るのは同じなのかも。

 外に出ると、帰宅中のスーツを着たサラリーマンたちが駅方面に歩いていた。私は、逆方面のコンビニへと足を向ける。
 空を見ると星も月も見えない。どんよりした雲が、真っ暗な空の下で動いていた。上空では風が強く吹いているのか雲の動きが早い。今にも雨が降りだしそうな空だった。

 夜は雨って言っていただろうか……。朝から晴れていて天気が良かったから、天気予報をチェックしていなかった。
 雨が降る前に今日は帰ろう。私は、小走りになってコンビニへと急ぐ。もうすぐコンビニだと足を緩めると、視界の隅にギターが入ってくる。

 ん? と気に止めて見ると、路地の入口付近に誰かがしゃがみこんでいた。その人は、ギターをギュっと握りしめて一点を見つめている。
 見た感じ、大学生くらいの男の子だ。こんなところでどうしたのかなーと思いながら私は通り過ぎた。

 コンビニで、シーチキンおにぎりと昆布のおにぎり、それとペットボトルのお茶を買う。私は、食べ物で冒険はしない主義。定番が一番好き。そして、コンビニを出て会社へと急いで戻る。

「戻りましたー」

 戻ったことを告げると、隣の同僚が「おかえりー」とパソコンを見ながら返事をくれる。これが、私の日常。

「ねえ、鈴木さん。外、雨降ってきそうです。夜、雨って言ってました?」

 隣の席の三年先輩の男性社員、鈴木さんに声をかける。鈴木さんは、私が担当している営業さんだ。

「えっ? まじで? 嫌だなー。今日は早く帰るかな」

 鈴木さんが、パソコンのディスプレイから私へ視線を移して返事を返してくれた。

「ですよね。私も今日は、早めに帰ります」

 お互い頷いて、パソコンへと視線を戻す。私は、買って来たおにぎりをほおばりながら、さっき路地裏にいた男の子を思い出す。
 別に酔っぱらっている風でもなかったし、どうしたのかな? 見た感じ、普通の男の子だったけど……。
 そう思ったのは一瞬で、おにぎりを食べ終わった私はお腹を満たし仕事モードに切り替わる。怒涛の勢いで、資料を作成していった。

 キリが良い所まで終わって時計を見ると、コンビニから帰って来てから一時間半が経過している。21時をちょっと過ぎた辺りだった。
 いつもならあと少しやって行くが、今日は帰ろうとパソコンの電源を落とす。

 自分のデスクの横にかけていたカバンを取って立ち上がる。隣を見ると、鈴木さんもまだ仕事をしていた。

「お先に失礼しまーす」

 周りで働いていた同僚に聞こえるように、ちょっと大きめに声を出す。

「「「お疲れ様ー」」」

 何人かから返事が返ってくる。その返事を聞いた私は、オフィスを後にした。会社の廊下を歩きながら、雨は大丈夫だろうか? と心配になる。
 自分の机が窓際にある訳じゃないから、外の天気がわからないのだ。

 会社を出ると、残念ながら雨が降っていた。しかも結構降っている。さっきよりも風が強くなったようで、屋根のある出入口から一歩出るときっと服の色が変わるくらい濡れてしまう。

 私はちょっと考えて、コンビニに寄って行くことにした。こんなことなら、さっきついでに買っておけばよかったと後悔しながら一歩足を踏み出す。
 右手をおでこに当てて、顔が濡れないようにガードした。

 人にぶつからないようにコンビニまで走る。すると、さっきと同じ路地に座り込んでいる男の子がいた。
 ギターが相当大切なのか、自分よりもギターが濡れないように着ていたTシャツで守っていた。私は、その横を素通りしてコンビニまで走る。

 突然降り出した雨だったから、売り切れていないか心配だったが透明のビニール傘がまだ残っていた。良かったとホッとしながらお会計を済ませる。
 コンビニを出た私は、今度は走ることなくゆっくりと駅に向かう。駅に向かうためには、もう一度会社の前を通り過ぎないといけない。だから、またさっきの男の子の横を通った。

 横目で見た彼は、自分がびしょびしょになるのも構わずに動く気配がない。ゆっくりと通り過ぎたのだけれど、どうしても気になっている私がいる。
 いつもなら、絶対に気にも留めない私なのに……。自分から進んで、厄介事に頭を突っ込む性格ではないのも自覚している。だけど、どうしても足が止まってしまう。

「はぁー。仕方ない……」

 私は、諦めて彼がいる路地に戻る。男の子が座り込んでいた頭上に、傘を差してあげた。

「こんなところでどうしたの?」

 そう声をかけると、その子は、え? っと驚いた顔をして私を見上げた。