相変わらず弘が起きてくるのは遅かった。早苗も起きて準備が整っていて、弘だけを待つ状態になっても、弘は焦る様子もない。のんびりと自分のペースで支度を進めている。

(早くしろよ。みんなお前を待ってんだぞ)

 詠子は急かしたい気持ちを抑えながら、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる宥介の隣に座る。まだ時間がかかると踏んでいるのか、宥介は熱いコーヒーを冷ましながら啜っている。そこには大人の余裕を感じさせた。

 詠子はまだ準備している弘を見やり、それから宥介に言った。

「ごめんなさい宥介さん、弘くんが遅くて」
「いや、いいよ。焦っても仕方ない」

 夜中に一人で出て行こうとした人間の言う言葉でないと思った。きっと宥介は早くここを出て探索したいはずだ。それなのに、いちばん足を引っ張る人間のせいで出発できない。いつか宥介が弘を切り捨ててしまうのではないかと心配になる。そうなった時、自分はどちらに付くのか、詠子は決めかねていた。

 弘は早苗と何か話しながら準備している。いいからさっさとしろよ、と言いそうになって、詠子は水を飲んで心を落ち着かせた。こんなところで本性を晒すわけにはいかない。

 やがて弘の準備ができると、宥介は立ち上がった。

「じゃあ、行こうか。西の石碑を目指そう」

 四人で小屋を出て、また森の中を進んでいく。さすがに慣れてきたものだが、歩きにくいことに変わりはない。

 変わったのは、詠子が二番目に来たことだ。宥介の隣を歩くようになった。弘の世話は早苗に任せて、宥介と相談しながら道を決めるようになった。これは詠子が自主的に始めたことだが、宥介は何も言わず、弘と早苗も受け入れたようだった。

 詠子は弘と早苗が急に仲良くなったと感じていた。歩きながらも楽しそうに話している。早苗がいるポジションに、本来なら自分がいるべきなのではないかと思ったが、今の弘と楽しく話せる自信がなかった。早く歩けよと尻を叩いてしまいそうだ。

 弘と早苗が遅れないように気をつけながら、西へ向かって歩いていく。代わり映えしない緑色の景色にうんざりしてくる。

「なぁんか飽きてきますねぇ。もっと景色が変わったらいいのにー」

 詠子が宥介に話しかけると、宥介は同意してくれた。

「そうだね。面白味もないし、迷ってしまいそうになる」

 詠子は木の根を踏みしめて、溜息を吐いた。雑談でもしないとやっていられない。

「宥介さん、大学って楽しいですか?」
「どうしたの、急に」
「いえ、黙ったまま歩くのも退屈だなぁと思いまして」
「そう。まあ、大学自体は楽しくないけれど、高校の頃よりも遊べる範囲が増えて楽しいよ」
「バイトとかしてるんですか?」
「してるよ。本屋でね」
「ああ、似合うかも。宥介さん、本屋にいそう」

 詠子が笑いながら言う。宥介は「そうかな」と口にした。詠子には宥介が本屋のエプロンを着けて働いている姿が目に浮かんだ。よく似合っている。

「本屋って何するんです? レジ打ちと陳列?」
「あとはポスターの貼り替えとか、雑誌を紐で縛ったりとか、そういう雑用だね。意外とやることは多いんだよ」
「へええ。楽しいですか?」
「楽しいこともあるよ。本の売れ筋もわかるし、本が好きならやっておいて損はない。ああ、足元気をつけて」

 宥介に言われて、詠子は足元に出っ張っている木の根を避ける。こういうのをスマートにこなせてしまうあたり、宥介はきっとモテるのだろうと思ってしまう。菜美が惚れてしまうのもよくわかる気がした。もう、菜美はいないけれど。

「うわっ!」

 後ろで弘の声がして、宥介と詠子は振り向いた。どうやら木の根に躓いて転んでしまったらしい。詠子は溜息が出そうになるのを堪えた。

(鈍くせえなあ。どうしてこうなるのかねぇ)

 詠子が心の中で愚痴を言いながら弘の無事を確認しようとしたら、先に早苗が弘に声をかけた。

「弘くん、大丈夫? 怪我していない?」
「あ、ああ、大丈夫。ちょっと転んだだけだよ」

 差し出された早苗の手を取って、弘が立ち上がる。学生服に付いた砂を早苗がかいがいしく払ってやる。これではどちらが彼女なのかわかったものではない。

 けれど、詠子は嫉妬しなかった。むしろ早苗に感謝していた。お荷物のお世話係ご苦労、と言いたい気分だった。今の詠子にとって、弘への愛はますます冷めつつあった。

「足捻ったりしてない? 歩ける?」
「ああ、大丈夫」

 詠子も弘に声をかけたが、これは可愛さを取るための行動だった。彼氏が転んだのに何も言わないのは可愛くない。優しさを見せることも、可愛く見えるためには必須の行動だった。

 宥介は一連の様子を見ていたが、弘に声をかけることなく、また先を歩き出す。自分が声をかける必要はないと判断したのだろう。詠子はその宥介の背中を追って、また横に並んで歩いていく。

「今どの辺まで来たんでしょうね。現在地が表示されたらいいのに」
「さあね。真西に進んでいるわけではないだろうし、西端の石碑まではもう少しかかるんじゃないかと思うよ」
「あたし、この数日で一か月分くらい歩いてる気がします」
「そうかもね。意外と歩けるんだって驚いているよ」
「今日はゆっくり寝たいなー。大きい小屋が見つかるのを祈るしかないですねぇ」

 歩きにくい道を歩いているせいで、余計に体力を消耗しているようにも思える。詠子はベッドでぐっすり寝たかった。この世界に来てからぐっすりと眠った記憶がない。

 森を進んでいると、川の流れる音が聞こえてくる。それなりに大きな音だ。そのまま進んでいくと、古びた木製の吊り橋が見えてくる。吊り橋の下には大きな川が流れていて、対岸に渡るには吊り橋を通っていくしかなさそうだった。

 宥介はすぐに地図を出す。そして、地図にも書かれている太い川を指した。

「この川のどこかにいるんだな。橋は二本ある。ここと、下流にもう一つ」
「流れも速いですし、ここが上流なんじゃないですか?」
「とすると、今ぼくたちがいるのはここか。だいぶ西端に近づいてきているな」

 宥介と詠子で現在地を確認する。西端まではまだ距離があるが、確実に近づいていることは間違いなかった。地図によれば、西端に行くためにはこの橋か、もう少し下流にある橋を渡らなければならないようだった。

 目の前にある木製の橋は今にも崩れ落ちそうなくらい朽ちていた。宥介は臆することもなく橋を渡っていく。ぎしぎしと音を立てて軋んでも、宥介は構わず進んでいく。

 宥介は橋を渡りきって、対岸から声を上げた。

「大丈夫だ。ぼくが渡れたんだから、みんな渡れるはずだ」

 その理論はどうなのだろう、と詠子は思ったが、言わないでおいた。渡らないわけにはいかないのだ。宥介から離れてしまえば、このゲームをクリアすることは不可能だ。何が何でも宥介とは一緒にいなければならない。

「じゃあ次、あたし行くね」
「お、おい詠子、行くのか? 本当に大丈夫なのかよ?」

 弘はもう腰が引けていた。弘が渡るのはかなり時間がかかりそうだ。

「大丈夫だよぉ、宥介さんが渡れたんだからさ。じゃ、行くね」

 詠子は意を決して一歩目を踏み出した。ぎし、と橋が音を立てる。真下には勢いよく川が流れていて、落ちれば絶対に助からないといえる。そもそも首輪が水に濡れるだろうから、その時点で終わりだ。

 じりじりと進んでいく。橋は今にも崩れ落ちそうな音を立てながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。あと少し。詠子はゆっくりとした足取りで進む。

 詠子が最後の一歩を踏み出し、対岸に足を着けたところで、橋を支えていたロープがちぎれた。支えを失った橋は壊れ、川底へ真っ逆さまに落ちていく。詠子はバランスを崩したが、宥介がその身体を受け止めてくれた。

「詠子ちゃん、大丈夫?」
「は、はぁい、なんとかぁ」

 詠子が振り返ると、橋はもうなくなっていた。あと数秒遅ければ、自分は橋の崩落に巻き込まれていたことだろう。詠子は助かったことを神に感謝した。信心深いほうではないが、こういう時くらい礼を言っておくほうがよいと思った。

 これで宥介と詠子、弘と早苗に分断されてしまった。宥介は好都合だと思っているかもしれない、と詠子は感じていた。足を引っ張る存在がいなくなるのだから、西端の石碑を目指しやすくなるはずだ。

 宥介もそれを考えているのか、少し迷いを見せた。そして、宥介は言った。

「いったん別行動にしよう。どこかの小屋で落ち合おう」

 どこかの小屋。それは、いったいどこの小屋のことを指しているのだろうか。宥介は合流する気があるのだろうか。このまま、自分と二人でゲームを進めるつもりなのではないか? 詠子はそう思ったが、口を挟まなかった。宥介の考えに従っておくほうが、宥介の好感度を稼げると判断した。

「わかりました。わたしたち、川下の橋のほうに行ってみますね」

 早苗が応える。宥介は片手を挙げて応答すると、すぐに森のほうへと足を進めていく。詠子は心配そうに弘と早苗を見ながらも、宥介についていった。

 弘がいなくなった途端、宥介の歩く速度は上がった。詠子のことを気にしながら、どんどん先に進んでいく。やはり弘のことを気にしていたのだ。邪魔者がいなくなった今こそ、探索を進めることができる。

「宥介さん、やっぱり弘くんに合わせてたんですね」
「そうだね。チームである以上、いちばん遅い人に合わせなければならないだろう」
「ごめんなさい。彼女として申し訳ないです」

 心にもない謝罪だった。とりあえず謝っておけ、という程度のものだった。

 宥介にもそれが伝わったのか、宥介は表情を崩した。

「きみが謝ることじゃないよ。きみだってそう思っているだろう?」
「ありゃ、バレました? 宥介さん、鋭いですねぇ」
「詠子ちゃんは可愛いけれど、毒があるね」

 その言葉に詠子は動揺を隠せなかった。その動揺が宥介にも伝わるくらいに。

 まさか。いや、そんなはずはない。自分は徹底的に隠してきているはずだ。

(落ち着け。わかるわけがねえ。揺さぶられてるだけだ)

 自分の本性を隠すため、詠子は可愛く笑ってみせた。うまく笑えている自信があった。

「ええ? 毒なんてないですよぉ」
「弘くんの前だから自重していたんだろう? いいよ、ぼくの前ではそのままで」

 宥介は何でもないことのように言う。詠子は背中を嫌な汗が流れるのを感じていた。

 バレるわけにはいかない。葛城詠子は、毒気のない可愛い女の子であるべきなのだ。本当の葛城詠子が知られてしまったら、きっと誰もが軽蔑する。可愛いと思ってもらえなくなる。

 宥介が思っているよりも、詠子が持っている毒はずっと強い。宥介は包容力がありそうだが、それにしたって本当の葛城詠子を受け入れられるとは思えない。

(大丈夫。気づかれたわけじゃねえ。いくら宥介さんだってわかるわけがねえだろ)

「あたしはいつもありのままのあたしですよぉ。ちょこっと口は悪いかもしれませんけどー」
「ちょこっと、ね。まあ、そういうことにしておこうか」

 宥介はそこで引き下がった。明らかに納得していなかった。

「ところで宥介さん、あたしたち、西に行ってますよね?」

 詠子は露骨に話題を変えた。宥介は頷く。

「うん。西端の石碑を目指しているよ。何かおかしい?」
「だめですよ、早苗ちゃんと弘くんと合流しなくちゃ。二人を置いて西端に行くんですか?」
「ぼくはそのつもりだったけれど。きみは違うんだね」

 宥介は話しながらもずんずんと歩いていく。詠子は宥介の手を掴んで引き留めた。

「だめですって。ちゃんと合流しましょ」
「ゲームのクリアを考えるなら、このままきみと二人で行くほうがいい。そう思わないか」
「思いますよ。思いますけど、やっぱりだめです。彼氏を置いていくことなんてできません」
「彼氏。彼氏、ね」

 宥介は二度呟いて、深く息を吐いた。頭をがりがりと掻いて、宥介は言った。その呟きに込められた意味は、詠子にはわからなかった。

「わかった。じゃあ、合流しよう」
「いいんですか?」

 詠子が尋ねると、宥介は微笑んだ。

「きみがそう言うなら仕方ない。人数が多いほうが役に立つ時もあるかもしれないしね」
「ありがとうございます、宥介さん!」
「じゃあ川下の橋を目指そう。川沿いに歩いていったら見つかるはずだ」

 道を変更して、川の音を頼りにしながら川沿いを歩いていく。地図上ではさほど離れていないようだったが、なかなか橋は見えてこなかった。地図すら持っていない早苗と弘はどうやって橋を見つけることができるのだろうか。川沿いに歩く以外の方法はあるのだろうか。詠子は不安に思いながらも、宥介と二人で川沿いを進む。

 やがて、丈夫そうな橋が見えてきた。先程のすぐ崩れそうな橋とは違って、しっかりと整備された橋のように見える。複数人で同時に渡っても壊れなさそうな橋だった。

「これだね。早苗ちゃんたちも辿り着けているといいけれど」

 詠子と宥介は橋を渡り、対岸へと着く。しかし周囲を見回しても早苗や弘の姿はなかった。まだ到着していないのか、それとも別の道に行ってしまったのか、詠子たちには判断できない。

「どうしようか。どうやって合流する?」
「この辺りの小屋を探しましょう。もしかしたら二人で入ってるかも」
「ぼくたちも小休憩しようか。歩きっぱなしで疲れただろう?」
「そうですねぇ。小屋を見つけたら、今日はそこで休むほうがいいかもしれませんね。弘くんたちが後から来るかもしれませんし」
「わかった。そうしよう」

 宥介と簡単な作戦会議を済ませて、小屋を探して歩き回る。

 小屋は意外と簡単に見つかった。二人用の小さな一階建ての建物だった。ベッドが二つと、小さなテーブルが置いてあるだけの簡素な小屋だった。シャワールームは完備されていて、詠子は安心する。歩いて汗をかいた身体のまま眠るなんて嫌だ。

「じゃあ、今日はここで休もう。弘くんと早苗ちゃんが来てくれたらいいけれど」
「ほんとですね。あっ、あたし、シャワー浴びてきますね」
「うん。いってらっしゃい」
「覗かないでくださいよ?」
「大丈夫だよ。安心して」

 詠子の冗談に、宥介は笑って答えた。互いに相手の余裕を感じ取った。

(弘くん、大丈夫か? 早苗ちゃんに迷惑かけてんだろうなぁ)

 詠子はそう考えながら、シャワールームで汗を流すことにした。