夢を見ていた。何かから必死に逃げる夢。森の中を、足元を気にする余裕もなく、ただただ走っていく。何から逃げているのかはわからないけれど、とにかく何かから逃げている。捕まってしまったら最後、そう思っているのだけはわかる。

 目の前には宥介だけがいる。他の三人はどこに行ってしまったのだろうか。詠子は振り返ることもないから、他の三人が後ろにいるのかどうかもわからない。

 逃げなきゃ。早く、早く、逃げなくちゃいけない。その焦燥感だけが詠子の足を動かす。

 宥介が何かを叫ぶ。けれど、何を言っているのかは聞こえない。宥介に追い付いて、二人で並んで走り続ける。

 目の前に弘が立ちはだかった。弘は憤怒の形相をして、言った。

「この浮気者! 俺より宥介さんのほうがいいって言うんだろ!」

 弘の手には包丁が握られていた。違う、という詠子の声は音になっていかない。

 浮気するはずがないじゃないか。あたしの彼氏は弘くんなのだから。

「本当に?」

 早苗の声がした。振り返ると、早苗も包丁を持ってじりじりと近づいてきていた。

「本当に、弘くんを彼氏だと思っているの? あんな気弱で、役立たずなのに?」

 違う。違う、違う。あたしは、あたしは。

 暗転。

 詠子は飛び起きた。息は荒く、寝汗をびっしょりとかいていた。

 最悪の夢だった。一人部屋でよかったと心底思った。きっと寝言で何か呟いていたに違いない。いったい何をしたらあんな夢を見るというのだろうか。

 眠気は吹き飛んでいってしまった。二度寝をしようという気分にもなれなかった。備え付けられていたデジタル時計を見たら、時刻は午前四時過ぎと表示されていた。普段ならこんな早くに起きることはないけれど、あの夢を見た後に眠る気分にはなれなかった。

 弘は気弱で役立たず。詠子はそれに反論することができなかった自分がいることを知っていた。昨日の様子を見る限りでは、弘はこのチームの中で足を引っ張る存在だろう。あの気弱さがうまく噛みあって、チームのブレーキになればよいのだが、どうにもそういうわけにはいかなさそうだった。

 弘より宥介のほうがよいのだろう、という指摘にも、違うと言うことしかできなかった。弘が宥介よりも優れている点などあるだろうか。宥介はいつも落ち着いていて、チームを引っ張ってくれていて、頼れる存在だ。顔だって整っているほうだと思う。宥介と弘を並べたら、多くの人が宥介を選ぶだろう。

 浮気するわけではない。あたしの彼氏は弘くんだ。忘れよう、ただの夢だ。詠子は自分にそう言い聞かせて、水を飲むために部屋を出て一階のキッチンに向かった。

 一階は明かりが点いていた。最後の人が消さなかったのだろうか。菜美なら暗闇を怖がって消さないような気がする。

 しかし、詠子の推測は外れた。一階のダイニングテーブルに宥介が座って、コーヒーを飲んでいた。宥介は詠子が下りてきたことに気づくと、軽く片手を上げて挨拶した。

 詠子はキッチンでコップに水を汲みながら、宥介に話しかけた。

「宥介さん、寝てないんですかぁ?」
「寝たよ。睡眠時間は少なくて済むタイプなんだ」
「あっ、もしかしてショートスリーパーってやつですかっ?」

 世の中にはごく短い睡眠時間でも平気な人種がいる、ということを詠子は知っていた。噂話程度だと思っていたけれど、まさか実在するとは思っていなかった。

 詠子が若干の興奮とともに尋ねると、宥介は穏やかに笑った。

「そうだね。三時間も寝れば平気だよ」
「三時間ですかぁ。へええ、いいなぁ、あたしなんて八時間寝ても眠いですよぉ」
「その割には早く起きてきたね。眠れなかった?」
「いやぁ、なぁんか変な夢見ちゃってー。そのせいで目が覚めちゃったんですよねぇ」

 夢の内容は伏せておいた。宥介に、他人に話すような内容ではないと詠子は思った。宥介も深くは尋ねてこなかった。

「もう寝るつもりがないなら、コーヒーでも飲む? すっきりするかもしれないよ」
「宥介さん、もしかして淹れてくれるんですかぁ?」

 詠子が期待を込めた視線で宥介を見ると、宥介は苦笑して椅子から立ち上がった。電気ポットに水を入れて湯を沸かし始める。

「ありがとうございますっ。やったね、言ってみるもんですね」
「ただのインスタントコーヒーだけどね。味は悪くないよ」
「宥介さん、コーヒーはブラック派なんですね。大人ですねー」
「詠子ちゃんはブラックじゃないんだね。ミルクとガムシロップはいる?」
「どっちもください。あたし、甘くないと飲めないんです」

 これは嘘だ。詠子はブラックでも難なく飲むことができる。ただそれは可愛くないから、苦いブラックは飲めないということにしているのだ。コーヒーにはミルクとガムシロップを入れて甘くしたものを飲んでいるほうが可愛いに決まっている。

 湯が沸いて、宥介が詠子の分のコーヒーを淹れる。ミルクとガムシロップも持ってきて、詠子の前にマグカップを置いた。コーヒーの苦みを含んだ香りが詠子の脳をさらに醒ます。

「ありがとうございます、宥介さんっ」
「いや、いいよ。気にしないで」

 宥介には大人の余裕が感じられた。詠子がこれまで会ってきた高校生たちとは一線を画するような、余裕。これが大学生というものなのかもしれない。あるいは、宥介が特別なのかもしれない。今のこの状況でもゆったりとしていられるのはすごいと感じた。

 弘より宥介のほうがよいのだろう。夢の言葉を思い出してしまって、詠子はミルクとガムシロップを入れたコーヒーを口に含んだ。甘くて、ほんの少し苦みを感じた。

「詠子ちゃん、昨日は最後尾を務めてくれてありがとう。助かったよ」
「ああ、いいんですよぉ、そんなの。何かあったら叫ぶだけなんですから」
「今日もお願いしていいかな。きみが後ろにいると思うとぼくも安心できる」

(うわっ、マジかよ。昨日だけじゃねえのかよ。めんどくせえことになったな)

 詠子は驚きを心の中だけに留めた。一瞬だけ悩み、詠子は宥介の好感度を取った。最後尾でも可愛く見せる方法はあるはずだと思った。

「はぁい、わっかりましたぁ。宥介さん、どんどん先に行かないようにしてくださいね」
「気をつけるよ。きみから見て、誰に速度を合わせたらいい?」
「うーん、そぉですねー」

 詠子は悩むふりを見せた。ここで即答してしまうのは可愛くない。少し悩んでから、申し訳なさそうに小声で言うほうが可愛い。まして、それが自分の彼氏ならなおさらだ。

 昨日の様子を見る限り、いちばん足を引っ張っているのは弘だ。体力もなければ、運動神経もよくない。何度か木の根に躓いている姿を見た。菜美も遅いが、弘ほどではない。先頭が速度を合わせるのなら弘だろう。

 数秒悩む姿を宥介に見せて、詠子は声を潜めて答えた。

「弘くん、ですかねぇ。あたしの彼氏ながら、申し訳ないです」
「そうか。じゃあ、ぼくは弘くんに合わせて歩いたらいいんだね」

 宥介は何も思っていないようだった。ただ単に、誰が遅いのか知りたいだけだったようだ。

「宥介さん、すごいですね。自分で先陣切って歩くって、かっこいい」

 詠子が素直な気持ちを吐露する。宥介は恥ずかしそうに笑った。

「そうするしかないだろう? このチームはきみとぼく以外そんなに前に出てこないんだから」
「ええ? あたしだって前に出てないつもりなんだけどなー」
「はは、そうか。充分目立っているよ、きみは」

 由々しき事態だった。このチームのリーダーである宥介に気に入られようとしたら、可愛くない行動を取らなければならないのだ。でも自分は可愛く思われたい。宥介に嫌われないようにしながら、可愛く思われるには、どうしたらよいのだろうか。

 詠子はコーヒーを啜る。コーヒーの苦みが良案を浮かばせてくれることを願ったが、そんな効果はなかった。

「宥介さん、ひとつ聞いてもいいです?」
「うん。なに?」
「このゲームってどこまで本当だと思います?」
「どこまで、というのは?」

 詠子の質問の意図がわからず、宥介が訊き返した。詠子はまたコーヒーを啜る。

「源大くんは本当に死んじゃったんでしょうか。このゲームの中だけじゃなくて、現実世界で」

 詠子がずっと気になっていたことだった。早苗には、元気づけるために生きていると言い続けてきたが、そうではない可能性は否定できていなかった。だから、冷静な宥介の意見を聞いておきたかった。

 宥介は自分のコーヒーを飲み、それから詠子を見た。詠子はその瞳だけで答えを察することができた。

「死んだ、とぼくは思っている。ここでの死は、現実世界での死に繋がっている」
「どうして、そう思います?」
「アイが創り出したのは命がけのゲームだ。ここでの死が現実世界で何のペナルティもないのなら、それはアイが創りたかったゲームではない。だから、もしかしたら死なないのかもしれないけれど、ここでの死は現実世界で何らかのペナルティを起こさせるはずだ」

 詠子はアイの言葉を思い出す。これは命がけのゲームなのです。アイの言葉が嘘でないのなら、宥介の言う通り、ここでの死が現実世界の死に直結する。ということは、やはり源大は死んでしまったのだ。早苗にはこの事実を伝えないほうがよいだろうと思った。

「もう誰も死なないようにしなきゃいけませんね。水トラップとか、気をつけないと」
「そうだね。アイはぼくたちを殺しに来ると思っているほうがいい。詠子ちゃんは最後尾だからトラップに引っかかる心配はないだろうけれど、それでも気をつけて」
「はぁい。宥介さん、いちばん危ないポジションなんですから、宥介さんこそ気をつけてくださいね」
「ああ、うん。ぼくは自分よりも菜美と弘くんが心配だよ」
「あぁ、ねぇ、そうですねぇ」

 詠子は同意してしまう。この中でいちばんか弱そうな早苗よりも、菜美や弘のほうが不安だった。特に、弘にはしっかりしてもらいたかった。自分の彼氏が足を引っ張っている状況なんて見ていられない。

「ぼくたちは今どのあたりにいるんだろう。地図を見ても把握できないんだ」

 宥介はポケットから折り畳まれた地図を取り出し、広げる。当然ながら現在地が表示されるわけもなく、島の九割を占める森のどこかにいることしかわからない。スタート地点は島の南側の砂浜だったとしても、その範囲は広大で、どこかと当たりをつけることさえできなかった。

「詠子ちゃん、どう思う? どうにかして現在地を知りたいんだ」

 宥介は詠子に意見を求めてくる。ああ、可愛くない自分になってしまっている。それでも詠子は宥介の好感度のためだと自分を叱咤して、意見を述べた。

「ここ、見てください。東と西に石碑みたいなのがあります。そこに行くことができたら、わたしたちが今どこにいるかわかるんじゃないでしょうか?」

 地図には東端と西端にそれぞれ石碑のようなものが書かれている。それがただの石碑なのかはわからないが、少なくとも現在地の把握には有用そうだった。

 宥介は真剣な面持ちで地図を睨み、それから表情を崩した。

「そうだよね。どうにかしてどちらかに行ければいい、か」
「でも方角がわかんないですよね。方位磁針でもあればいいのに」
「朝に太陽が出ている方向に歩けば東に行くはずだ。それで代用するしかない」
「それだと徐々に南とか西に行っちゃいません?」
「じゃあ時計を持っていこう。それでどうにか方角を確認していくか」

 詠子は徐々に方向性が定まってきていることに安堵を覚えていた。盲目的にあの森林の中を歩いていくなんて狂気の沙汰だ。何も見つかるはずがない。ただ疲れてサイレンの時刻になってしまう。

 宥介は少し冷えたコーヒーを飲み、詠子に笑いかけた。詠子がどきりとするくらい、爽やかな笑顔だった。

「ありがとう、詠子ちゃん。これで今日の方針はまとまったよ」
「いーえ、あたしは何も。みんなが起きてきたら作戦会議ですね」
「そうだね。たぶん、みんな何も言わないと思うけれど」

 宥介は残念そうに言った。詠子のように意見を言ってくれる人を探していたのかもしれない。

 ああ、可愛くなかったなあ。どうやって宥介さんの前で可愛いあたしを演じたらいいんだろう。詠子は宥介に聞こえないように溜息を吐いた。