翌日、詠子と宥介は西端の石碑まで戻ってきた。時刻はまだ昼過ぎで、夕陽が差すような時間帯ではなかった。念のため周囲を調べてみたが、ウサギが置いてある様子はなく、水トラップも仕掛けられていなかった。
詠子と宥介は石碑の近くの木陰に座り、時間まで待つことにした。詠子の推測が正しければ、夕陽が差す時間帯になったらこの石碑にウサギが現れるのだ。今はそれを信じて待つしかなかった。
ただ時間が過ぎるのを待つのは退屈だった。景色が変わるわけでもなく、波が岩にぶつかる音だけが響いている。
「ゲームクリアしたら賞金とか貰えねえかな」
「何らかのお金は貰えると思うよ。迷惑料は請求したいところだね」
「宥介さん、金貰ったら何に使う?」
詠子が尋ねると、宥介はうぅんと唸って考え込む。
「何だろうね。金額にもよるけれど、貯金するような気がするな」
「うわ、夢がねえな。もっとぱぁっと使わねえのかよ」
「詠子ちゃんはどうする?」
「旅行行こうかなぁ。国内旅行に行けるくらいの金は欲しいよな」
詠子はこれでゲームがクリアできると信じていた。自分の推測が誤っているとは思っていなかった。夕陽が出る時間になれば、この石碑の近くのどこかにウサギが現れるのだと思っていた。
だから、がさがさという草木をかき分ける音がした時、詠子はにわかに緊張感を抱いた。
バケモノが出てくる時間帯ではない。今まで野生生物に遭遇したことはなかった。だから、その正体が何なのか、詠子には推測できなかった。
同じ音を聞いて、宥介も立ち上がって身構える。石碑を背にするようにして、詠子と宥介はその音の正体が現れるのを待った。
そして、その音の正体が現れた時、詠子は驚くことしかできなかった。
「さ……早苗?」
森の向こうから現れたのは、泥だらけになった早苗だった。あちこちに切り傷ができていて、ぼろぼろの状態だった。その瞳は憎悪に染まり、ただ一心に詠子を見つめていた。
「見つけた。やっと、見つけた」
早苗は掠れた声でそう言った。詠子も、宥介も、言葉を失っていた。
早苗は弘と一緒に死んだのではなかったのか。あの状況下で、生き延びることができたというのか。早苗の瞳はまっすぐに詠子を見つめて、睨みつける。
「どうやって生き延びた? 弘くんはどうした?」
宥介が早苗に問うと、早苗はその憎悪に染まった瞳を宥介に向けた。宥介は怯える様子もなく、その視線を受け止める。
「弘くんは死んだよ。バケモノに殺された」
「ならどうしてきみは生きている? きみはバケモノに狙われなかったのか?」
「さあ? バケモノはわたしも仕留めたと思ったんじゃない? いずれにしてもわたしは生き延びた。あの夜を越えることができた」
早苗は制服のポケットからナイフを取り出した。陽光を受けてナイフの刀身がぎらりと光る。
「思ったの。わたし、あなたたちを殺すために生かされたんじゃないかって」
「馬鹿なことはやめろ。このまま待っていればゲームはクリアできる。きみも元の世界に戻ることができるはずなんだ。今ここでぼくたちと争う意味なんてない」
「今ここでしかあなたたちを殺せないでしょう? 現実世界に戻ったら誰かに止められちゃうに決まっている。誰にも止められないここなら、あなたたちを殺すことができる」
早苗はナイフを構えてじりじりと近寄ってくる。
宥介はジャケットのポケットから水鉄砲を取り出して、詠子に渡した。そういえばこんなものを拾っていたことを詠子は思い出す。
「詠子ちゃん、ぼくが早苗ちゃんを押さえこむ。きみはその水鉄砲で早苗ちゃんを撃ってくれ」
「撃てって、お前が巻き込まれたらどうすんだよ」
「そこはきみの腕の見せ所だろう? 頼んだよ、相棒」
「くそ、厄介な役回りばっかり押し付けやがって。間違って水かかっても知らねえぞ」
詠子は水鉄砲を構える。どれくらいの飛距離があるのか、どれくらいの水が出るのかはわからない。早苗だけを狙う必要がある。チャンスがさほど多くないことは、詠子自身も理解していた。
「宥介さん、わたしが殺したいのは詠子ちゃんなの。詠子ちゃんだけ殺させてくれたら、宥介さんは助けてあげる」
「その交換条件は飲めないな。ぼくにとっても詠子ちゃんは大切な人だから」
「そう。じゃあ、まずは宥介さんから殺してあげる」
早苗はナイフを構えて突進した。宥介はかろうじてそれを避け、ナイフを持っていた早苗の手を掴む。揉みあいになり、ナイフの先端があちらこちらに揺れる。
この状況でどうやって早苗だけに水を掛けろというのか。早苗がこちらを向いたと思ったら、次の瞬間には宥介がそこに割り込んでくる。詠子は水鉄砲を撃つタイミングを探していた。
「詠子ちゃん、早く!」
「うるせえ! もうちょっと動かねえようにしろよ!」
宥介は早苗を投げ飛ばした。早苗の小さな身体は簡単に転がっていき、ナイフも地面に落ちる。早苗は俊敏な動作でナイフを拾うと、再び宥介に突っ込んでいった。
「殺してやる、殺してやる、殺してやるっ!」
宥介はまた早苗の手首を掴み、どうにか抑えようとする。しかし詠子が水鉄砲を撃てる決定的な隙は生まれない。
詠子は思考する。どうすれば早苗にだけ水鉄砲を当てることができるだろうか。
そして思いついた。これなら、確実に早苗だけに当てることができる方法。
「放して! わたしは、わたしはっ、弘くんの仇を取るんだからっ!」
「やめろ! そんなことをしたって何にもならないだろ!」
宥介が早苗のナイフを弾き飛ばして、地面に押し倒した。詠子は走って早苗に近づく。
「宥介さん、そのまま押さえてろ!」
詠子は早苗の首元に銃口を当てて、引き金を引いた。水がぶしゅっと発射されて、早苗の首輪が反応する。
「プレイヤー西原早苗。水濡れを確認。ゲームクリア失敗」
「あ……あ、ああ、あ…っ」
もがき苦しむようにしながら早苗は首を搔きむしる。そして、そのまま砂のようになって姿が消えていく。
後に残された詠子と宥介は顔を見合わせた。互いに言葉はなく、ただ早苗の怒りを噛みしめていた。
気づけば夕陽が差す時間帯になっていた。石碑に夕陽が当たり、影ができる。我に返った詠子が石碑の周りを調べると、石碑が少しだけ動き、下から銀色のウサギの像が現れた。
詠子はそのウサギの像を手に取る。しっかりとした重量感のある像だった。
「これが、ウサギか?」
「そのようだね。これでゲームクリア、かな?」
詠子と宥介はその時を待つ。そして、その時が来る。
「プレイヤー葛城詠子。プレイヤー大槻宥介。ウサギを獲得。ゲームクリア成功」
ざざっという雑音とともに、自分の意識が上に引っ張られる感覚に襲われる。現実世界に戻されるのだろう。ゲームクリアの余韻に二人で浸る間もなく、二人の意識は薄れていく。
ただひとつだけできたのは、手を繋ぐことだけだった。
あのラビットハントから半年が経った。
四人もの死者を出したあの事件以来、ラビットハントは休止している。再開の目途も立っていないそうだ。なぜAIが反乱を起こしたのか、どうすれば防ぐことができるのか、それが解決されるまでは、ラビットハントが再開されることはないだろう、と言われている。
生存者である詠子と宥介はメディアの取材を受けていたが、最近は過去の話となり徐々に風化しつつあった。それでもよい、と詠子は思っていた。
ラビットハントをクリアしてから変わったことがひとつある。宥介との関係性だ。
詠子は隣を歩く宥介と腕を絡めながら、上機嫌に歩いていた。
「宥介さん、あたし水族館なんて久しぶりですよぉ。イルカのショーとか見ましょうね」
「そうだね。あの水族館の名物らしいからね」
「あたし、水浸しになってもいい服着てきたんで。準備ばっちりですっ」
詠子がそう言うと、宥介はふっと笑った。詠子が好きな表情だった。
ラビットハントが終わって、二人はすぐに交際を始めた。言い出したのは宥介だった。詠子は、宥介が緊張した面持ちで好きだと言ってくれたことを昨日のように思い出すことができる。詠子の本性を知ってもなお、宥介は詠子が好きだと言ってくれた。それが詠子には嬉しくて、交際を始めることにしたのだ。
「詠子ちゃん、ぼくの前なんだから猫被らなくてもいいのに」
詠子は宥介と二人きりになった時だけ、本性を晒すようにしていた。外ではいつものように猫を被り、可愛い葛城詠子を演じている。そのほうが宥介にとってもよいと思うのだ。
「だめですよぉ、誰が見てるかわかんないんですからぁ。あたしは誰からも可愛く見られたいんですっ」
「本性のままの詠子ちゃんも可愛いと思うよ」
「や、あの、そーゆーのは、お部屋で二人きりの時に言ってください。恥ずかしいんで」
「そう。じゃあ、そうするよ」
宥介は笑って、二人で水族館への道を歩いていく。
詠子は宥介の手を握りながら、幸せを感じていた。
詠子と宥介は石碑の近くの木陰に座り、時間まで待つことにした。詠子の推測が正しければ、夕陽が差す時間帯になったらこの石碑にウサギが現れるのだ。今はそれを信じて待つしかなかった。
ただ時間が過ぎるのを待つのは退屈だった。景色が変わるわけでもなく、波が岩にぶつかる音だけが響いている。
「ゲームクリアしたら賞金とか貰えねえかな」
「何らかのお金は貰えると思うよ。迷惑料は請求したいところだね」
「宥介さん、金貰ったら何に使う?」
詠子が尋ねると、宥介はうぅんと唸って考え込む。
「何だろうね。金額にもよるけれど、貯金するような気がするな」
「うわ、夢がねえな。もっとぱぁっと使わねえのかよ」
「詠子ちゃんはどうする?」
「旅行行こうかなぁ。国内旅行に行けるくらいの金は欲しいよな」
詠子はこれでゲームがクリアできると信じていた。自分の推測が誤っているとは思っていなかった。夕陽が出る時間になれば、この石碑の近くのどこかにウサギが現れるのだと思っていた。
だから、がさがさという草木をかき分ける音がした時、詠子はにわかに緊張感を抱いた。
バケモノが出てくる時間帯ではない。今まで野生生物に遭遇したことはなかった。だから、その正体が何なのか、詠子には推測できなかった。
同じ音を聞いて、宥介も立ち上がって身構える。石碑を背にするようにして、詠子と宥介はその音の正体が現れるのを待った。
そして、その音の正体が現れた時、詠子は驚くことしかできなかった。
「さ……早苗?」
森の向こうから現れたのは、泥だらけになった早苗だった。あちこちに切り傷ができていて、ぼろぼろの状態だった。その瞳は憎悪に染まり、ただ一心に詠子を見つめていた。
「見つけた。やっと、見つけた」
早苗は掠れた声でそう言った。詠子も、宥介も、言葉を失っていた。
早苗は弘と一緒に死んだのではなかったのか。あの状況下で、生き延びることができたというのか。早苗の瞳はまっすぐに詠子を見つめて、睨みつける。
「どうやって生き延びた? 弘くんはどうした?」
宥介が早苗に問うと、早苗はその憎悪に染まった瞳を宥介に向けた。宥介は怯える様子もなく、その視線を受け止める。
「弘くんは死んだよ。バケモノに殺された」
「ならどうしてきみは生きている? きみはバケモノに狙われなかったのか?」
「さあ? バケモノはわたしも仕留めたと思ったんじゃない? いずれにしてもわたしは生き延びた。あの夜を越えることができた」
早苗は制服のポケットからナイフを取り出した。陽光を受けてナイフの刀身がぎらりと光る。
「思ったの。わたし、あなたたちを殺すために生かされたんじゃないかって」
「馬鹿なことはやめろ。このまま待っていればゲームはクリアできる。きみも元の世界に戻ることができるはずなんだ。今ここでぼくたちと争う意味なんてない」
「今ここでしかあなたたちを殺せないでしょう? 現実世界に戻ったら誰かに止められちゃうに決まっている。誰にも止められないここなら、あなたたちを殺すことができる」
早苗はナイフを構えてじりじりと近寄ってくる。
宥介はジャケットのポケットから水鉄砲を取り出して、詠子に渡した。そういえばこんなものを拾っていたことを詠子は思い出す。
「詠子ちゃん、ぼくが早苗ちゃんを押さえこむ。きみはその水鉄砲で早苗ちゃんを撃ってくれ」
「撃てって、お前が巻き込まれたらどうすんだよ」
「そこはきみの腕の見せ所だろう? 頼んだよ、相棒」
「くそ、厄介な役回りばっかり押し付けやがって。間違って水かかっても知らねえぞ」
詠子は水鉄砲を構える。どれくらいの飛距離があるのか、どれくらいの水が出るのかはわからない。早苗だけを狙う必要がある。チャンスがさほど多くないことは、詠子自身も理解していた。
「宥介さん、わたしが殺したいのは詠子ちゃんなの。詠子ちゃんだけ殺させてくれたら、宥介さんは助けてあげる」
「その交換条件は飲めないな。ぼくにとっても詠子ちゃんは大切な人だから」
「そう。じゃあ、まずは宥介さんから殺してあげる」
早苗はナイフを構えて突進した。宥介はかろうじてそれを避け、ナイフを持っていた早苗の手を掴む。揉みあいになり、ナイフの先端があちらこちらに揺れる。
この状況でどうやって早苗だけに水を掛けろというのか。早苗がこちらを向いたと思ったら、次の瞬間には宥介がそこに割り込んでくる。詠子は水鉄砲を撃つタイミングを探していた。
「詠子ちゃん、早く!」
「うるせえ! もうちょっと動かねえようにしろよ!」
宥介は早苗を投げ飛ばした。早苗の小さな身体は簡単に転がっていき、ナイフも地面に落ちる。早苗は俊敏な動作でナイフを拾うと、再び宥介に突っ込んでいった。
「殺してやる、殺してやる、殺してやるっ!」
宥介はまた早苗の手首を掴み、どうにか抑えようとする。しかし詠子が水鉄砲を撃てる決定的な隙は生まれない。
詠子は思考する。どうすれば早苗にだけ水鉄砲を当てることができるだろうか。
そして思いついた。これなら、確実に早苗だけに当てることができる方法。
「放して! わたしは、わたしはっ、弘くんの仇を取るんだからっ!」
「やめろ! そんなことをしたって何にもならないだろ!」
宥介が早苗のナイフを弾き飛ばして、地面に押し倒した。詠子は走って早苗に近づく。
「宥介さん、そのまま押さえてろ!」
詠子は早苗の首元に銃口を当てて、引き金を引いた。水がぶしゅっと発射されて、早苗の首輪が反応する。
「プレイヤー西原早苗。水濡れを確認。ゲームクリア失敗」
「あ……あ、ああ、あ…っ」
もがき苦しむようにしながら早苗は首を搔きむしる。そして、そのまま砂のようになって姿が消えていく。
後に残された詠子と宥介は顔を見合わせた。互いに言葉はなく、ただ早苗の怒りを噛みしめていた。
気づけば夕陽が差す時間帯になっていた。石碑に夕陽が当たり、影ができる。我に返った詠子が石碑の周りを調べると、石碑が少しだけ動き、下から銀色のウサギの像が現れた。
詠子はそのウサギの像を手に取る。しっかりとした重量感のある像だった。
「これが、ウサギか?」
「そのようだね。これでゲームクリア、かな?」
詠子と宥介はその時を待つ。そして、その時が来る。
「プレイヤー葛城詠子。プレイヤー大槻宥介。ウサギを獲得。ゲームクリア成功」
ざざっという雑音とともに、自分の意識が上に引っ張られる感覚に襲われる。現実世界に戻されるのだろう。ゲームクリアの余韻に二人で浸る間もなく、二人の意識は薄れていく。
ただひとつだけできたのは、手を繋ぐことだけだった。
あのラビットハントから半年が経った。
四人もの死者を出したあの事件以来、ラビットハントは休止している。再開の目途も立っていないそうだ。なぜAIが反乱を起こしたのか、どうすれば防ぐことができるのか、それが解決されるまでは、ラビットハントが再開されることはないだろう、と言われている。
生存者である詠子と宥介はメディアの取材を受けていたが、最近は過去の話となり徐々に風化しつつあった。それでもよい、と詠子は思っていた。
ラビットハントをクリアしてから変わったことがひとつある。宥介との関係性だ。
詠子は隣を歩く宥介と腕を絡めながら、上機嫌に歩いていた。
「宥介さん、あたし水族館なんて久しぶりですよぉ。イルカのショーとか見ましょうね」
「そうだね。あの水族館の名物らしいからね」
「あたし、水浸しになってもいい服着てきたんで。準備ばっちりですっ」
詠子がそう言うと、宥介はふっと笑った。詠子が好きな表情だった。
ラビットハントが終わって、二人はすぐに交際を始めた。言い出したのは宥介だった。詠子は、宥介が緊張した面持ちで好きだと言ってくれたことを昨日のように思い出すことができる。詠子の本性を知ってもなお、宥介は詠子が好きだと言ってくれた。それが詠子には嬉しくて、交際を始めることにしたのだ。
「詠子ちゃん、ぼくの前なんだから猫被らなくてもいいのに」
詠子は宥介と二人きりになった時だけ、本性を晒すようにしていた。外ではいつものように猫を被り、可愛い葛城詠子を演じている。そのほうが宥介にとってもよいと思うのだ。
「だめですよぉ、誰が見てるかわかんないんですからぁ。あたしは誰からも可愛く見られたいんですっ」
「本性のままの詠子ちゃんも可愛いと思うよ」
「や、あの、そーゆーのは、お部屋で二人きりの時に言ってください。恥ずかしいんで」
「そう。じゃあ、そうするよ」
宥介は笑って、二人で水族館への道を歩いていく。
詠子は宥介の手を握りながら、幸せを感じていた。