詠子と宥介の二人になれば、探索のスピードは格段に上がった。

 まず朝が早かった。詠子は朝のサイレンより前に起きてしまい、それから朝食を済ませて準備しても、それまでよりかなり早く小屋を出ることができた。夕方までの時間制限があるゲームにおいては、朝早く出られるというのは大きなポイントだった。

 そして、森の中を歩く速度も速くなった。宥介は詠子だけを気にしながら歩くことができるので、どんどん先へ進むことができた。二人は西端にあるはずの石碑を目指していた。

 詠子は足元に注意して歩きながら、宥介に話しかけた。

「まだ着かねえんだな。ったく、どんだけ広いんだよ」
「方向は合っているはずだよ。もう少し歩いたら着くんじゃないかな」
「もう少し、ねぇ。あとこれくらいですって誰か教えてくれりゃいいのに」
「そんな便利なシステムがあったらゲームが成立しないよ」
「そういや、これゲームだったな。とんでもねえクソゲーだよ」

 詠子は本性を隠すことなくさらけ出す。可愛い葛城詠子の仮面を外して会話できるのはとても楽だった。可愛くありたい、可愛くなければならないという呪縛から解放されるのはこんなにも楽なことだったのかと実感してしまった。

 でも、これは宥介の前だけだ。他の人の前では仮面を被らなければならない。可愛くありたいと思う自分がいなくなったわけではないのだ。宥介の、本性を知る人の前だけでは、本性を見せられるのだ。

 詠子の本性を知っても、宥介は何も変わらなかった。むしろ好意的に受け止めているようだった。詠子にとってはそれも喜ばしいことだった。本性を知って、怖がられたり軽蔑されたりするのがいちばん困る。宥介のように何も反応しないのが最良だ。

 森の中を進んでいくと、急に開けた場所に出た。波が岩にぶつかる音がする。崖の上に石碑が立っているのが見えた。

「お、着いたんじゃねえか?」

 おそらくあれが西端の石碑だろう。詠子が近づこうとすると、宥介が詠子の手を掴んで止めた。

「危険だ。何があるかわからない。慎重に行こう」

 菜美を失った時のことを言っているのだろう、と詠子は思った。あの時は菜美が不用意に近づいて水を浴びてしまった。今回もそれがないとは限らない。むしろ、何か仕掛けられていると踏んだほうが安全だろう。

 宥介と詠子はゆっくりと石碑に近づいた。石碑には何も書いていない。石碑というよりは墓標のようなものだった。ぐるりと一周回ってみても、何かが隠されている様子はなかった。

 ひととおり調べて、宥介は考え込む。当初の推測では、ここにウサギが隠されているはずだったのだ。しかし、ウサギどころか宝箱さえ落ちていない。ここではない、と考えるのが妥当だった。

「ここじゃないのか? だとしたら、夕陽を臨む石碑とは何だ?」
「ここ以外にも石碑があるんじゃねえの? 地図には載ってねえけど、あえて載せてねえのかもしれねえだろ」
「うん、そうかもしれない。とりあえずここにはもう用はない。動こう」

 詠子と宥介は西端の石碑から離れ、また森の中に戻る。歩きながら、詠子は宥介に尋ねた。

「どうやって探す? 西側にあるのは間違いなさそうだよな」
「崖沿いに歩いてみようか。もしかしたら石碑があるかもしれない。夕陽を臨むっていうことは、森の中にはないだろうしね」

 詠子は頷き、崖に沿って森の中を歩き始める。西端の石碑から南の方向へ進むことになる。

 宥介の後ろに続きながら、詠子は宥介に話しかけた。

「西端の石碑は何のためにあったんだろうな? フェイクか?」
「何の意味もないことはないだろうから、何か意味があるとは思う。けれど、今はわからない。今のぼくたちに必要なものなのかどうかもわからない」
「そーだな。歩き損じゃねえことを祈るよ」

 二人は他の石碑を探して南下する。しかし、石碑らしきものは見当たらなかった。時間だけが過ぎていき、二人の体力も削られていく。

 そして、夜を告げる一度目のサイレンが鳴った。探索をやめて、小屋を探す時間になる。幸いにも、今日はすぐに小屋を見つけることができた。詠子と宥介は見つけた小屋に入る。小屋は四人が泊まれるような広さで、備品も四人分用意されていた。

「今日はすぐに見つかってよかったね。もうバケモノから逃げるのは嫌だよ」
「だな。広い場所だし、ゆっくりと寛がせてもらうか」

 詠子はベッドに身を投げ出した。柔らかな布団が詠子を包み込んでくれる。

 詠子は嫌でも弘と早苗のことを思い出してしまう。あの時、切り捨てた自分は正しかったのだろうか。弘と早苗を救う手立てはなかったのだろうか。見捨てるのではなく、助けていたら、今頃はまだ四人だったのではないだろうか。

 いや、あれでよかったのだ、と詠子は自分を納得させた。自分が助かるにはああするしかなかった。四人で逃げ切ることなど不可能だった。

 宥介は電気ポットで湯を沸かし、コーヒーを淹れた。コーヒーのかぐわしい香りが詠子の鼻をくすぐる。詠子は身体を起こし、ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいる宥介のところに行った。

「ああ、詠子ちゃんもコーヒー飲む?」
「そーするよ。ああ、いいよ自分でやるから」

 動こうとした宥介を制して、詠子は電気ポットのスイッチを入れる。すぐに湯が沸いて、詠子はコーヒーを淹れた。カップを持って宥介の隣に座る。

「あれ、ブラックで飲むの?」

 宥介は詠子が何も入れないことに驚いたようだった。詠子はブラックコーヒーを口に含む。苦みが頭を冴えさせてくれる。

「ブラックで飲むより、ミルクとか入れたほうが可愛いだろ。だからだよ」
「ああ、なるほど。ぼくの前ではもう演じなくていいからね」
「演じてほしいなら演じてやるけど?」

 詠子が尋ねると、宥介はやわらかい微笑みを見せた。

「そのままのきみのほうが好きだよ。見た目と中身のギャップがあって」
「そーかよ。それ、見た目は可愛いってことか?」
「ああ、うん、詠子ちゃんは可愛いと思うよ」
「あたしより早苗のほうが可愛かっただろ。あたしはああいう女子になりたかった」
「そうかな。ぼくは詠子ちゃんのほうが好きだったけれど」

 宥介は何を思ってそんなことを言っているのか、詠子にはわからなかった。今のこの状況で詠子を褒めても、何の意味もない。まあ、ただの雑談程度なのだろうと詠子は軽く流した。

 わずかな沈黙が流れる。宥介は気にする様子もなく、この静かな時間を楽しんでいるようにも思えた。

「なあ、宥介さん」
「うん?」
「早苗と弘は生きてると思うか?」

 詠子が尋ねると、宥介は首を横に振った。

「生きていないだろう。あの状況で生き残れるとは思えない。バケモノに見つからないはずがないし、どこかへ移動できる状態でもなかった」
「あたしたち、これでよかったんだよな?」
「ゲームクリアのためなら仕方なかった。ぼくたちは全員生き延びることを目的としていない。あくまで目的はゲームクリアだ。あの場ではああするしかなかったとぼくは思う」
「そう、だよな。悪い、変なこと訊いて」

 詠子の中では罪の意識があった。自分が見捨てなければ、弘と早苗は助かったのではないか。助けられたのではないかという思いが詠子を苦しめていた。宥介の意見を聞いて、詠子の罪の意識は少しだけ和らいだ。

 そうだ。ああするしかなかったのだ。あんな浮気野郎のために自分を危険に晒す必要なんてない。詠子は自分を納得させて、コーヒーで嫌な思いを腹の中へ流し込んだ。

「詠子ちゃんは優しいね」
「なんだよ急に。気持ち悪い」
「ぼくは弘くんと早苗ちゃんを見捨てたことに何とも思っていない。ただついてこられなかったから切り捨てた、それだけだ。でもきみは違う。どうにかしたら助けられたんじゃないかって思っているんだろう?」

 宥介はコーヒーを啜る。詠子は宥介の顔をじっと見つめて、頬杖をついて言った。

「確かにそう思ってる。あたしが殺したようなもんだよなって」
「そうだとするなら、ぼくも同じだ。ぼくときみが殺した。ぼくもその罪を一緒に負うよ」
「ありがとな。元気づけてくれてんだろ?」
「そうだね。ぼくのパートナーだからね」
「でもあたしがついてこれなかったら切り捨てるんだろ? ゲームクリアのために」
「どうだろうね。詠子ちゃんは必要だから、どうにかして救う方法を考えるんじゃないかな」
「ええ? そーなの?」
「そうだよ。詠子ちゃんを失うわけにはいかない」

 意外な返答に詠子は戸惑った。宥介の中での自分は、どうやら高い位置にいるらしい。

 沈黙が流れた。宥介はコーヒーを口に運び、それから言った。

「夕陽を臨む石碑はどこにあると思う?」

 詠子は考える。夕陽を臨む石碑とは、いったいどこにあるのか。

「今日探した範囲にはなかったよな。ほんとにあるのか? 実は石碑なんてなくて、ただの石ころを石碑とか言ってるんじゃねえのか?」
「その可能性はある。ぼくたちが石碑だと思っていないものを石碑と表現しているのかもしれない」
「じゃあ見つけようがねえだろ。もっとどーんと目立つものにしてほしいよなぁ」
「どーんと目立つもの。やはり、あの西端の石碑か?」

 宥介が詠子の言葉を受けて話す。詠子は頬杖をついたまま、じっと考える。

 夕陽を臨む石碑。夕陽を臨む。

 まさか。詠子はそれに気づき、宥介の顔を見た。宥介は驚いた顔をしていた。

「どうしたの、詠子ちゃん」
「夕陽を臨むんだよ。あの西端の石碑で合ってたんだ」

 詠子の意図が伝わらず、宥介は首を傾げた。詠子はその勢いのまま、宥介に話す。

「夕陽を臨む時間帯だけなんだ。その時間帯だけ、ウサギが出てくるんだよ」
「……なるほど。確かに、ぼくたちが行った時間帯は昼だった。夕陽ではない」
「だから、夕方に行ってみよう。もしかしたらウサギがいるかもしれねえ」
「でも、賭けだね。夕方まであの石碑にいたとしたら、小屋まで戻ってくるには時間が足りない。もしこの推測が間違っていたら、バケモノから逃げることになる」

 宥介は冷静に分析する。あの西端の石碑の近くに小屋はなかった。見落としているだけかもしれないが、宥介が言うように、二度目のサイレンまでに小屋に辿り着くのは不可能だろう。

「片方は小屋にいて、もう片方がウサギを探しに行くっていうのはどうだ? 全滅は避けられるだろ」
「いや、二人で行こう。これでだめならそれまでだ」
「いいのか? ゲームクリアのためなら分かれたほうが安全だぞ」
「一人じゃできないことがあるかもしれないだろう。ウサギを取る寸前に水トラップがあるかもしれない。だから二人で行ったほうがいいよ」

 宥介の言うことも尤もだった。だから詠子は頷き、宥介の提案に賛成した。

「わかった。じゃあ明日は西端の石碑に戻るか」
「推測が合っていればいいけれどね。それを願うしかないか」
「だめだったら逃げるだけだ。大丈夫、何とかなるだろ」

 詠子が楽観的に言うと、宥介は笑った。

「そうだね。何とかなる。詠子ちゃんといるとそんな気がしてくるよ」
「そりゃどーも。宥介さんも、頼りにしてるぞ」

 二人で微笑を交わす。二人の間には確かな絆が生まれていた。