「りーつっ。おつかれ~」
「……おつかれさまです」
「なに?今日弁当じゃないの?」
「はい。朝起きられなかった」
「ありゃ。じゃあ食堂行けばよかったね」
「いや……食堂はちょっと」
この人はわかっていない。自分がどれだけ注目の的なのか。その隣に俺みたいなぬぼっとした奴がいたら、どうなるのかも。
「律は甘党?」
俺のかじったメロンパンを、横から一口かじられた。……俺のかじったメロンパンを、だぞ。なんでだ。
「甘いのも辛いのも好きです」
「そっか~。俺甘いのだめなの」
じゃあなおさらなぜメロンパン……俺のかじったメロンパンを……
「メロンパンは好きなんですか」
「いや?」
あああああ、もう!!
もうずっとこうだ。白岳山でこの奇妙な関係を提案された日から、ずっと。夏輝くんはやっぱりラブコメの住人だ。
お試し三か月の期間限定で、俺と夏輝くんはお付き合いをしているわけだが、正直友達といるのと大差ないだろうなと踏んでいた。俺には距離感の近い友達はいないから、そういう部分では新鮮みがあるかも、なんて思ってはいたけど、始まってみれば全然違った。
夏輝くんは圧倒的に彼氏だ。「毎日登下校一緒にしよ」とか誘ってくるし、それ断ったらかわりに毎週水曜日に放課後デートすることにされたり。
お昼も毎日一緒に食べようと言われたけど、さすがに無理と断って、なんとか週二回で落ち着いている。
俺にしてみればこれでもかなり…頑張っているほうだけど、たぶん夏輝くんは納得してない。だって昨日もおとといも、一緒にお昼食べたのに。また今日も誘われて、校舎裏に集合してしまってる。
「そういえば、今日バレーしてたの見ました」
「まじ?次の時間、律のクラスだったんだ?」
「はい。めっちゃ跳んでましたね」
「あっははは、そりゃそうでしょ。バレーボールだもん」
夏輝くんとお付き合い(仮)してわかったことのひとつ。笑顔の種類がえげつない。
今みたいな屈託なく笑うのも、爽やかな微笑みも、ふにゃっとしたゆるい笑い方も、能面のように表情筋のかたい俺には、到底真似できないやつだ。それを目にするたび、頭のなかが音で溢れる。
「律もバレーなんだっけ」
「はい……それしかできそうなのなくて」
「ええ?どういうこと?別に律、背高くない……」
この人、ほんっとたまに失礼なんだよな。身長は関係ないだろ。
「そうじゃなくてっ。ドリブルとかしなくていいじゃないですか」
「あ~そういう?」
だいたい、俺からすればドリブルするだけで大道芸なのに、トラベリングだのなんだのってルールがややこしいんだ。サッカーなんて足だぞ?考えられない。
「バレーは立ってればとりあえずいいし」
「それは語弊がありすぎるね」
「先輩は運動ができるから……、あっ」
「はい、罰金~」
やってしまった……。つい、言っちゃうんだよな。だって『先輩』じゃんか。学校にいるときはなおさらそうだ。どこにいたって『ナツ先輩』という言葉は耳に入ってくるんだから。
「……自販でなんか買ってきます。なにがいいですか」
「めっちゃ不服そう!」
「そりゃあ……!だって先輩は先輩ですし。ここ学校ですし」
俺がそう文句を垂れるのは、もう何度目だろうか。どうしても学校にいると『夏輝くん』と呼ぶことに抵抗がある。たとえ二人きりだったとしても、だ。でも夏輝くんは、それを許してくれない。俺が『先輩』と呼ぶたびに罰金が課せられる理不尽なシステム……。
「俺は名前で呼んでほしいんだけどな~」
「だからすみませんって」
「律には名前で呼んでほしい」
こういうときばっかり、長い前髪をかきあげたりする。夏輝くんの確信犯。俺がその目に逆らえないことを、たぶんこの人はもうわかっている。こんなおかしな提案をのんでしまった時点で、圧倒的に主導権は夏輝くんにあるんだ。
「……夏輝くん」
心のなかでは何度もそう呼んでる。でも声に出してしまうと、やっぱり慣れないし、変な気分になる。夏輝くんが、そんな満ち足りたような顔するから。
「ふふっ。はぁーい」
「……」
「今日はどこいこっか」
「……今日金曜ですよ」
「ばれたか」
まっっったく、この人は……!!
物心ついた頃から、運動は苦手だった。かけっこでゴールテープをきったことはないし、大玉ころがしですっころんで、なんでか下敷きになったこともある。中学のときの二人三脚なんて、地獄でしかなかった。
そんな俺が入学したこの高校にはスポーツ科があり、体育祭とか球技大会とか、異様に盛り上がってしまういや〜な風習がある。それは普通科の俺のクラスも、例外ではなく…。
「結木ぃぃ!逃げるなー!!」
「逃げてねーって……!」
「真正面で受ければいいんだよ、ほら!」
「ひぃぃぃ」
「なんだその声」
レシーブ練習?サーブ練習?練習でどうにかなるなら、とっくにやってる。ボールが飛んでくる瞬間、目をあけてることがまず無理。
「俺はいないものとしてやってくれよ」
「なーに言ってんだ。練習すればできるようになるから」
「ならねーんだって~……」
「なる!俺を信じろ!!」
バスケ部主将の友人、有馬は熱のこもった目で俺を見る。見るなそんな目で。あてにするな俺を。
「お前はどーしてそうかなぁ」
「人には得手不得手があるって知らないの」
「不得手にもほどがあるだろ」
「運動できるやつはみーんなそう言う」
「結木のピアノだってそうじゃんか、最初から弾けるわけじゃないだろ?」
ピアノは簡単だからな。スポーツと違ってそれこそやればできるようになるんだよ、指動かすだけなんだから。
「指なんて、練習すれば誰でも動くようになる」
「ほら!一緒だよ、バレーもそう!慣れ慣れ!」
はあ、もう……これだからスポ根とは一生平行線なんだ。
「ハイ、もう一回!優しく打つから!」
………あーあ、本当にさあ。なんでこんなに頑張るんだかなぁ。俺なんて放っておけばいいのに。どうせできるようにならないし、まして下手なことすれば、有馬たちの足を引っ張ることは、ほぼ間違いないっていうのに。
「声だしてこーっ!!」
「……はぁい」
俺ってひょっとして、押しに弱いんだろうか?
「じゃあ俺とも練習する?」
「いやいいです」
「即答〜」
一緒に帰る水曜日、夏輝くんの横顔は今日も完璧な造形だ。
「夏輝くんの手を煩わせるわけには…」
「自分がやりたくないだけだろーが」
「……いやいや」
「わかりやす~」
今日は俺が見たかった映画を一緒に見てくれる約束……「映画デートだ♡」なんて夏輝くんは言ってたけど。わかりやすく語尾にハートがついてた。
「まだ特典あるといいんですけど」
「特典?」
「はい。一週目の特典配布、明日までなんです」
「なに言ってるかわかんないけど、あるといいね」
「はい」
夏輝くん、俺が提案したとき特に何も言わなかったけど、もしかして……いやもしかしなくても、あんまり映画好きじゃなかったかな。ゾンビもの平気って言ってたけど、本当か……?
「先輩、ほんとに大丈夫ですか?」
「なにが」
「ゾンビもの、本当は得意じゃないとか……」
「全然?それよりポップコーン、キャラメル追加ね」
「え?」
「先輩って言ったよ〜」
まったく、この人は……。人が心配してるっていうのに。夏輝くんのことよく知ってるわけじゃないけど、なんとなく、いつもと雰囲気が違うような気がした。口調もなんかずっと平坦なトーンで、まるで俺みたいになってるし。
まあ、俺が気にしすぎてるだけかもしれない。球技大会の練習で過労なのかもしれないな。
「……買ってきます」
「よろ~」
しかたなく、キャラメルポップコーンの一番小さいサイズを買った。にしてもさっき塩味も買ったのに、二人でこんなに食べきれるのか?
キャラメルの甘い香りを鼻に感じながら、入場ゲートの前で待っていると言った夏輝くんの姿を探してみる。……いない。
もうすぐ予告が終わって本編が始まる時間だっていうのに。やっぱあの人、体調悪いんじゃ……、
「やだあ!!ナツ、変だよなにー!?」
……ああ、いた。
異常に人が集まっている、あそこ。よく見れば同じ学校の制服だし、見たことある人も何人かいる。いつも夏輝くんの近くにいる人たちだ。
……気まずいな。
俺が少し離れた場所で立ち尽くしていると、それが見えたんだろうか。輪の中から夏輝くんが現れて、手に持っていたキャラメルポップコーンを一つ口に投げ込んだ。
「うま。行こ~」
「……え、いいんですか」
「?なにが?」
なにがって、あの人たちだよ!すんごいこっち見てる。一応同じ学校の先輩だし、頭くらい下げておいたほうがいいか…?
「じゃな~」
「おう?え、だれ?」
「あっえっと」
「すみません急いでるので~」
「せんぱ……」
「はあ?おいナツ、誰なの!」
「今度な~」
あんまりにも流れるようなやりとりに、俺の出番は一切なかった。夏輝くんはいつもよりも少し早く歩いて、入場ゲートにQRコードをかざした。それで俺の肩は、その間ずっと、夏輝くんの腕に抱かれたまま。
「夏輝くん、ちょっと、いいんですか」
「いいっていいって。どうせ明日には忘れてるよ」
んなことあるか…!ていうかこの腕、なに。俺が歩くの遅いから?いや遅くはないよな、別に普通だ。俺が運動音痴だから?ポップコーン持ってこけるとか思った??
………いやいやいや、おい俺。肩を抱くじゃねえ、肩を組む、だろうが。なにをいちいちラブコメ変換してるんだ……!!
「それより、なんでまた先輩って言うの」
「え、言ってました?」
「言いかけてました」
肩に回された右腕から伸びる夏輝くんの長い指に、頬を軽くつねられた。……ちっとも痛くないけど。
「……言いかけならセーフですね」
「うわぁせこい~」
なのになんか熱い。じんじんする。やっぱり痛いのか……?
「本編間に合う?」
「大丈夫そうです、でも急ぎたい」
「はいはい、急ぎましょう」
なんかこれ、変だ。頭のなかの音が、聞こえなくなる。
ゾンビものだからなのか、平日の時間帯のせいなのか、俺が待ち焦がれたゾンビ映画『デッドオブ』の上映スクリーンには、ぱっと見二、三人しか着席している人がいなかった。
「人気だねえ」
「嫌味ですか」
『デッドオブ』はシリーズものだけど、制作発表で監督が言ってたんだ。初めて見る人でも楽しめるって。だからきっと、夏輝くんも……
「……夏輝くん…?」
「……ん?」
……ええ……この人、声、震えてない……?まだ開始五分だけど……。
「やっぱり苦手なんじゃ」
「違う。いーから見ときなよ」
「いやでも……、」
夏輝くん、目つむっちゃってるじゃん……!!
追加したせいで大盛りになったポップコーンに手も付けてないし、大きめな効果音が鳴るたびに、肩がびくっと反応してる。
やっぱりさっきの、気のせいじゃなかったんだ。なんで、言ってくれれば他の映画だってあったのに……。
「出ましょう」
「なに言ってんの、もったいないから無理」
「いやでも見てないじゃないですか」
「しーっ、迷惑になるよ」
はあ、と大きな溜息をつかれた。そりゃそうだ。
でも言ってくれなきゃわかんない……いや、俺がちゃんと聞かなかったのか。なにも言わないからいいんだろうって、勝手に解釈した俺のせいだ。ゾンビもの一緒に見てくれる人が少ないのなんて、わかってたはずなのに。
「夏輝くん」
「……」
「これ、よかったら使って」
俺は着ていた制服のセーターを脱いで、夏輝くんに渡した。手で顔を覆うより視覚が遮れるかなと思ったから。一応毎週洗ってるし、帰ったらスプレーしたり……しなかったりだけど、もうそんなに汗かく時期でもないし、きっと臭いも大丈夫……なはず。
「……ありがと」
こうやって俺が差し出したもの素直に受け取ってくれるところ、なぁ……。
………?
ゾンビの逆襲が始まって、大きな効果音の連続。夏輝くんはいつのまにか、びくっとしなくなっていた。たぶん寝てる。俺のセーターをぎゅっと抱きかかえたまま、うずくまって動かなくなっていた。長い脚が非常に窮屈そうだけど。
大きな効果音って、耳を通り越して頭に響くんだよな。だからさっきから、頭のなかの音、なんにも聞こえないんだよな?
「すみませんでした」
「なんで律が謝るの」
「だって俺がちゃんと聞かなかったから…」
「俺が悪い、いけるかなって思ったから言わなかったんだもん」
「結局いけなかったけど……」と肩を落とした姿は、白岳山での傷心中の姿を思い出させた。あのときは本当、今とは別人みたいだった。
でもさっきの上映中の姿も、少し雰囲気似てたかな。こう……放っておけないかんじ。
「次はちゃんと言ってください」
「はぁい」
「映画なんていくらでもあるんですから」
「……だってさ、気になるじゃん」
「ゾンビ映画ですか?ならもう少しライトなやつも、」
「じゃなくて」
俺の口にポップコーンがひと粒投げ込まれた。
「好きな子が好きなもの、気になるでしょ」
ん、塩味。
…………
………………好きな子……?
「……は、はあ。そうですか……」
「そうだよ」
「そう……なんですか」
好きな子、って言ったな、今。
えーーーっと、それはつまり、俺ってこと……?
ああまあ、そうか。だって彼氏だもんな。期間限定だけど、一応彼氏(仮)だもんな。……な!
「ほら、はやく食べちゃおうよ」
「ああ……はい」
「今日夜ご飯いらないね、お腹いっぱい~」
「はい……」
「律?聞いてる?」
……この人、本当ラブコメの住人すぎ。あんなことさらっと言うし、なのに、なんにもなかったみたいな顔して平然とポップコーン食べてんだよ、情緒やばくない??俺はもう、全っ然……
「食べらんない……」
「まじ?律って小食なんだね」
誰のせいだよ……っ!!
とうとうやってきてしまった、球技大会の日。朝、夏輝くんからは「がんばれ」とメッセージが届いていた。俺もそれに同じように返事を返して、できれば行きたくないけどしかたないので、学校へと向かう。
「結木、おは~」
「ああ、おはよう」
「ちゃんと来てえらいなっ」
有馬にそう頭をぽんぽんと二回叩かれたのは、かなり不服だ。なんだか手なずけられたみたいで。
「やめろ」
「今日は頑張ろうな!」
「……うん」
お前らの足を引っ張らないように、俺は頑張るよ……。
開会式のあとすぐ、抽選で組み合わせが決まった。俺たちのクラスは、スポーツ科の一年クラスとマッチするらしい。
「おいまじかよ~」
「いや!俺らには有馬がいる!」
「おう、任せろ、ついてこーい!」
「っしゃー!!」
「……」
いや最悪のシナリオじゃん……。っしゃー!!とかならない、ならない。
たしかに有馬はスポーツ科にいたっておかしくない才能の持ち主だ。本人は将来なりたいものがあるらしく、勉強優先で普通科に所属しているけど、実際全国常連のバスケ部の主将にまで上り詰めたわけで。たしかに頼りにはしている、が。
なんといっても、俺がいるんだぞ。
「詰み……」
「不吉なこと言うな!」
あーあ、嫌だなあ。ていうか痛そうだし。あーあーあー……。空、青いなぁ。山の紅葉、もう終わったかなぁ。見たいなぁあの景色。
「病んでますね?」
「うわっ」
ぼけっと中庭の芝生エリアに寝転がっていたら、上から降ってきた声はまさか夏輝くんだ。人気者が一人でこんなところ、なぜ。
「どうしたんですか、こんなところで」
「それは律もでしょ」
「俺は……現実逃避です」
「うける。俺も俺も」
嘘つけ。現実イージーモードの夏輝くんが、逃げたくなることなんてないだろ。
「夏輝くん、試合いつですか」
「ん?バレー?」
「バレーでもバスケでもサッカーでも」
「ああ、ふふっ。もうスケジュールぎちぎちよ」
第一試合はバスケ、第二試合はバレー、第三試合はサッカー。昼休憩のあとは、勝ち進めばまた試合があるらしい。
「もう、みっちりですね」
「そうなんだよ~ブラックすぎる」
「断ればいいのに」
「頼られると弱いのよ、俺」
隣にごろんと寝転がった夏輝くんは、長い前髪をくしゃくしゃっとして自分の目を覆っていた。奇妙な行動だ……。
「なんですかそれ?」
「んー?焼けるなって」
「ああ……?」
「……はー、ずっとこうしてたーい」
それはまあ、俺も完全に同意。みんなグラウンドの方にいるし、静かでゆっくり時間が流れてる。学校でこんな時間過ごせるのは、かなりレアだ。
「でもまあ、行ってきますわ」
「あ、はい」
「応援きてくれないの?」
「えっ」
「えってなんじゃ、えって」
くしゃくしゃの前髪の隙間から覗く、ふにゃっとした顔の夏輝くん。
この人今から、死ぬほどワーキャー言われるんだよな。たぶん俺が一生かけても浴びることのない量の視線を集めてさ。
「律が応援してくれたら絶対勝つのに~」
またそんな、調子のいいこと言う。俺なんかいなくてもふつーに勝つんだろ、どうせ。知ってるよ。
「バスケ、でしたよね最初」
「うん、そう。体育館」
「……体育館なら、行きます。俺も試合あるし」
まあ見れたらいいなって思ってたし。体育館なら移動しなくて済むし、な。
「っしゃー!がんばっちゃお」
あーあ、夏輝くんも「っしゃー」勢かよ。一生平行線の人類じゃんか。
「ねえねえナツ先輩いるっ」
「バスケ絶対うまいっしょ」
「背高いしね~っ」
「やばっ動画?動画でいく??」
浮足立つ女子たちの声。なんなら隣のコートで試合する人たちすら、夏輝くんに目を奪われてるし。相変わらず、すごい人気。
そうして始まった試合、相手はスポーツ科の三年クラス。かなり劣性なのかと思いきや、さすがだった。さすが人気者、みんなの憧れ、ラブコメの住人。
「きゃーっ!!ナツせんぱーいっ!!」
「いいぞナツー!!いけいけー!!」
「ナツくんやばい、ナツくんやばい!!」
『ナツ』という単語しか俺の耳に入ってこないようになっているのかと疑うくらい、夏輝くんの独壇場だった。ちょっとあたりが強かったりすれば、ブーイングの嵐。この人が一般人なことが不思議ですらある。
やっぱり、夏輝くんはすごい人だ。なんでもできちゃうんだな。ああでも、山登りはあんまりか。あとゾンビもだめだよな。
「あ、あぶない!」
そのとき、目の前にボールが見えて次の瞬間、バチンという鈍い音がした。
「あぶねー!セーフ?」
「すみませーん!!」
「有馬ごめ…っ!俺ぼーっとしてて……」
「いやいーよ、今のは予測不能だわ」
「手、大丈夫?」
「ん?おう、大丈夫大丈夫!」
有馬はそう言って手を振ったが、なんか嫌な感じがした。いつも快活っ!ってかんじの顔なのに、今はちょっと焦ってるかんじ。このかんじ、知ってる。
「一応保健室行こう」
「いや大丈夫だって!」
「一応!ほら!」
俺が差し出した手を渋々握った有馬の手の小指は、心なしか腫れ上がっているようにもみえた。それが保健室につく頃には、確信に変わる。色も紫味を増している。
「ごめん、ほんとごめん」
「いやいーって!てか小指とかまじ支障ないから!」
「なわけあるか」
保健医の先生は折れてはなさそう、と言ったが、終わり次第病院に行くようにとなにかの紙を渡していた。
俺がぼーっとしていたせいで、期待の星有馬に、こんなとんでもない怪我をさせてしまった。最低すぎる……。
「ごめん、どうしよう、ほんとごめんな」
「なんで結木がこの世の終わりみたいな顔してんだ!」
「だって俺のせいじゃん」
「違うだろ、俺が手出したんだから!」
「だってそれは俺のこと……、」
「だーっ!!もういいって!お前は本当にいっつもグチグチねちねち!」
ぐちぐちって……いや言い返せないか。割と本当のことだ。
「左手の小指だし、まじで大丈夫だよ。気にすんな!」
「……でも…」
「わかった、わかった。じゃあこうしよう」
「?」
「そんなに申し訳なく思うなら、お前も頑張れ」
「え?」
「結木、どうせ突っ立ってやり過ごそう~とか思ってんだろ、一年のときもそうだったもんな」
なんだよ、お見通しかよ。
「そうじゃなくて、とりあえずやってみようぜ。絶対できるから」
「できないって言ってるのに……」
「できる!俺、結木のピアノはじめて聴いたとき思ったもん」
そういや、有馬には聴かせたことあったんだっけ。ていうかこいつが勝手に、俺のオアシスに押しかけてきたんだけどな。
「なんかしらーっとしてるし読めない奴だなって思ってたけど、あれ聴いたら印象変わった」
「あんなのいまどき小学生でも余裕で弾けるって」
「いや難易度は俺わかんないけど。お前ちゃんと熱中できることあるんじゃんって思った」
熱中……?俺が?ピアノに?あるわけない、そんなこと。有馬と出会った頃にはもう、俺はただ指を動かすだけのマシーンだったはずだぞ。
「だから!結木は気持ち次第なんだよ!できるって思えば絶対できる!」
でたよ、スポ根……熱血すぎ。なんで俺にそんな熱があると思ってるんだかなぁ。なんにも考えてないし、なんにもできないゾンビ野郎だぞ俺は。
「……怪我させちゃったし、少しはやってみるよ。それでいいだろ」
「!!おう!頑張ろうな!!」
声でかっ。圧すごっ。これだからスポ根は…。はーあ……嫌だなぁ。でも俺、できないよって何度も言ったもんな。足引っ張っても俺のせいじゃないよな、俺は何度も言ったからな、有馬。
そりゃあ気持ち次第でどうにかなればいいけど、現実はスポ根漫画とは違うわけだ。案の定俺は、一年相手にひぃひぃ言わされている。
「もう……無理」
「結木ーっ!お前狙われてるぞ!」
わーかってるわ、そんなこと。くそっあの一年、一生許さん。
俺が圧倒的にへたくそだということは丸わかりなようで、頭を刈り上げた一年坊主は執拗に俺を狙ってジャンプサーブを打ってくる。なんとか腕に当ててみたって、ただ痛いだけだ。まともな方向になんて飛びやしない。
「結木、がんばれ!」
有馬がキャプテンらしくそう声をかけてくれる。……励ましはいいから、場所変わってくれ。
「がんばってるんですけど……」
「そうな!もう俺泣きそうだもん!」
「うるせえな」
あーあ、だから嫌なんだよ。痛いしださいし帰りたい。
バチン、と鈍い音がして、またボールははるか後方へと飛んでいった。
「交代ないの……」
「結木ぃぃ!!どんまいどんまい!!」
「いけるよーっ声だしてこーっ!!」
「っしゃー!!」
っしゃー!じゃねえのよ、もう終わらせてくれ……。てかあの一年も一年だ。先輩相手にここまでやるな、ばかが。
俺は途方に暮れ、もうこのままボッコボコにされて試合を終わらせようかと考え始めていた。練習とは違って、俺ちゃんとボールには触ってるし。ここまでやられたら誰も責めないだろ。
「……有馬、湿布とれてる」
「ああ、平気平気!あとでまた貼る!」
……平気じゃないよなぁ。ほんとにあれ、折れてないのか?ぱんっぱんに腫れてるぞ。なんでそこまで、頑張るかなぁ。たかが球技大会、賞金がでるわけでもないし、一週間学食タダとかそんなご褒美が用意されてるわけでもないのに。俺には全然わかんない。
夏輝くんだってそうだ。頼られたら断れないとか、そんな理由で頑張れちゃうの、俺には全然わかんないよ。
……夏輝くん、バスケ、頑張ってたな。最後まで見たかった。
「……あてる…?真正面……」
……真正面で受けろって、たしか有馬言ってたよな。真正面、真正面…。とりあえず前に飛ばせば、あいつらがなんとかしてくれんだろ。
シューズが体育館の床に擦れる音の次には、また鈍い音がして、凄まじいスピードでボールが目の前に飛んでくる。
ああ、いやだ。怖い。顔にあたったらたぶん、鼻の骨逝くわ。
ドスン
「!!っしゃー!!」
「結木ナイスーっ!!」
いっっっった……
「……なんっだこれ……」
今まで経験したどんな痛みよりも、鈍い痛み。じんじんする。心臓、動いてるか?とまっちゃってない??薄目をこらせば、あいつらが点を決めて喜ぶのがなんとなく見えた。
「結木ぃぃーっ!!!」
「ナイスナイスナイス!!」
「よく頑張ったなー!!」
「ああ……どうも……」
あー、いって。なんで俺がこんな目に。だからいやだ、スポーツは。
「ほらな!!結木、できただろ!!」
有馬は目を輝かせ、ハイタッチを要求していた。
小指、お前も痛いんじゃないのかよ。なんでそれで、そんな嬉しそうに笑えんだよ。よくわかんないな。
「……できたって言わないでしょ、胸だよ胸。レシーブじゃないし」
「なに言ってんだよ、知らない?ボールがコートに落ちなきゃ、バレーは負けないんだよ」
「お前それ、漫画の受け売りだろ」
「ははは!!結木も読んでんだ!!」
それからは怒涛の反撃だった。有馬が無双していた。「じゃあ、あの一年シメてくる」と言った有馬の後ろ姿、ゼッケン八番が、あんなにも頼もしく輝いて見えたのは初めてだ。やっちまえと思った。
「思い知ったか、後輩よ!!先輩を舐めんなよ!」
ああ、うん。なんとなくわかったかも。俺はもう絶対ごめんだけど、たぶんこういうのなんだろうな。誰かのために頑張って、誰かが自分のために熱をあげてくれるの、悪くないもんな。
……俺はもう、絶っ対、ごめんだけどな……!
「あら~ごめんなさいね、今ちょっと席埋まっちゃってるから、ベッドの方で座って待っててくれる?」
「ああ、はい」
試合はぎりぎりで勝ってしまい、俺と有馬はここでギブアップ。午後の試合は代打のクラスメイトが出てくれることになったから、ほんと助かった。
有馬はそのまま病院へ直行、俺はというと鎖骨の下あたりが青くなってしまい、担任に保健室に連行されてしまった。大袈裟だよ……。
「それにしても怪我人多いなぁ」
担任はのんきな顔で保健室に詰めかける生徒たちの顔を眺めている。他人事すぎ。
「先生も手伝ってきたらどうですか」
「うわ、相変わらず手厳しいね」
「俺ひとりで大丈夫ですから。ありがとうございました」
「はいはい……まったく結木はクールだなぁ。なにかあったらすぐ言えよ?」
「はい」
まあ氷で冷やしておけば、そのうち治まるだろ。もうほとんど痛みもな……
「っ!!」
袋に詰めた氷をあてたとき、じんっと痛みが広がっていくのがわかった。痛くないんじゃなくて、感覚が麻痺してたのか?
まったくたかがバレーボール、たかが球技大会で、なんでこんな怪我しなきゃならないんだ。こんなの母さんにばれたら、もう、面倒事に発展する未来しか見えないぞ……。
「律っ!!」
「うわっ」
半分だけ閉めていたベッドのカーテンを勢いよく開け放ったのは、やっぱり夏輝くんだ。というか学校で俺のことを「律」と呼んでくれるのは、夏輝くんしかいないし。
「なんでここ……」
「クラスの子に聞いた。やっぱアザになっちゃいそうじゃん」
いつもより血色のよくなった頬、こめかみを伝う汗。さっきまで試合してたんだもんな。なのに、来てくれるんだ……ふうーん……。
「ん?やっぱって?」
「最後の方見てたよ、試合早く終わったから」
見てた!?アレを!?
「はっ……ええ……ださすぎ……消えたい」
「なんで、かっこよかったじゃん」
「どこがっ!?」
この人、からかってるんだろ?アレがかっこいいわけないだろ、後輩にボッコボコにされて、あげくどうにか当てたのが胸って。
「だささの極みじゃん」
「そんなことないよ」
「夏輝くんに見られてたなんて最悪すぎる」
俺がどれだけの運動音痴かバレてしまったってことだよな?ああ最悪。最悪すぎる。
なんで試合早く終わってんだよ、延長でもしててくれよ……!
「律めっちゃやる気なさそうだったから、あのまま負けようとしてんのかなって思ってたよ」
いやまあ……考えてなかったといえば大嘘になる。
「でもちゃんと返したじゃん。すっげーかっこいいでしょ」
そう言いながら、俺の手から氷の袋をさらりと奪って、夏輝くんの手で胸にそれが押し当てられる。
「っ、つめた」
なのに、氷が当てられてるその場所以外、ぜんぶあつい。変だ。やっぱり夏輝くんといると、俺はおかしい。
「よくがんばったね」
頭を二回、ぽんぽんとされた。こういうの、好きじゃないだろ。今朝有馬にされたときも、いらっとした。手なずけられたみたいで、嫌なんだ。あと単純に背の高い奴にやられると、ばかにされてる気もするし。
「……超こわかった」
……どうやったら伝わるかな。やっぱり、ちゃんと言わなきゃだめかな。それは恥ずかしすぎるんだけど。
「ふはは、こわかったよね、相手スポーツ科だもんね~」
「……」
あれ、伝わった……?夏輝くんは、もう一度、今度はさっきよりも長く頭を撫でてくれた。夏輝くんの手、大きくて安心する。
「……いや、いやいやいや…」
「どした?」
「いやいやいや」
「イヤイヤ期だ」
いやいやいや、俺……!?なに甘えちゃってんだ!?手大きくて安心するってなんだ!!子どもか!!