『君が最後に聞いた言葉は』

    1

 宙を舞っていても、俺の目の前に走馬灯なんて映し出されやしなかった。
 ということは、まだ死ぬタイミングではないのだろう。確かに、突然左折してきたトラックに跳ね飛ばされたにしては、それほど痛みはない。今、こうして周りの景色が流れるように去っていくのも、時間にしたら、ほんの数秒なのかもしれない。
 そもそも、俺の人生はこれからが本番なのだ。
 テニスサークルで知り合った2つ年下の後輩のミーコ――来宮美沙子――との仲も順調だ。
 サークルの歓迎会で初めて会った時、この子だ! とある種の啓示を受けたような気持ちになった。身長170センチ俺と並ぶと、俺の口元あたりで長い黒髪がさらさら揺れた。端整な顔立ちの彼女は、高校時代もテニス部に所属していたという割には、日焼けとは縁遠い、透き通るような肌をしていたことをしっかり覚えている。ビールが飲めないということで、サワーのグラスを持つ彼女の指は、驚くほどほっそりしていた。
 他のメンバーに割り込まれないよう、苦心して二人だけの世界を作り上げ、夢のような飲み会が終わった時には、俺はミーコに夢中になっていた。さり気なくLINEを交換し、早速、翌日から俺は動き始めた。
 まずは、ダブルスでペアを組むことからだ。俺はそれまで組んでいたペアを速攻っで解消し(理由をいうことができないから、とても気まずかった)、ミーコがサークルにやってきた当日にペア組を申し込んだ。先輩相手に断ることができないかもしれないが、そんなことは関係ない。周りから白い目で見られながらも同意を得て、二人でそれなりの成績を残してきたから、今となって文句を言うやつもいなかった。
 その後は自然な形で食事に誘い、お互いにぎこちなくも、中学生のようなデートを重ね、気づいたら、もう四年が経っている。
 はじめのうちは、「新條先輩」「来宮」と呼んでいたが、それがいつしか「誠」「ミーコ」に変わっていった。そんな呼ばれ方は初めてだと、その時、彼女は恥ずかしそうに笑った。
 将来のことなど、それほど真剣に考えていなかった俺とは違い、外国語学科に通う彼女は、社会に出たら海外勤務するのが夢なのだと語った。その言葉通り、規模は小さいけれど、海外との取引や海外出張の多い商社から内定を得ると、英語力にさらに磨きをかけたいと、最近では頻繁に英会話スクールに通っている。そこで新たな出会いがあったらと考えると恐ろしくもあるが、ミーコにそんな心配は無用だろう。
 俺は、就職人気ランキングの上位に名を連ねる企業に悉く蹴られ、9月になってようやく、特に興味もない食品メーカーへの就職が決まった。ミーコと比べると、まったく目的意識のない選び方だが、世の中、誰もが目標に向かっているわけではない。彼女が遠くに行ってしまうかもしれないという不安が多少はあったが、そういうことも乗り越えて、いつかは結婚するのだと思っている。
 昨夜、長く続けているファミレスのバイトが終わり、スマホを見るとミーコからLINEがきていた。
〈結構、真面目な話があるので、明日会えない?〉
 スタンプも何もない短いメッセージを何度読み返しても、ミーコの言う〈真面目な話〉が何なのか、さっぱり分からなかった。ただ、就職も決まった今、俺たちの今後について、ミーコも考えてはいるだろう。もし、いつ結婚するの? なんて聞かれたら、どう答えよう。そんなことを思いながら、〈昼前に、いつもの喫茶店で待ち合わせ〉と、これまた、味もそっけもないメッセージを返した。チェーン店が嫌いなことは、俺たち2人の共通点だ。
 そして今日、目覚めるとすでに11時を回っていた。くだらない深夜番組なんか見なければよかったと、急いで着替えながら悪態をついた。
〈少しだけ遅れるかも〉
 ミーコにLINEを送って慌しく家を飛び出し、大通りの信号を渡ろうとしたところで、右腰に強い衝撃を受け、今にいたる。
 なぜか冷静にそんなことを思い、ふと目線を下げると、アスファルトが目前に迫っていた。「このまま頭ぶつけたら、痛いだろうな」と思ったが、腕で頭をかばう余裕もなく、俺は、地面に叩きつけられた。こんなことなら、昨日からのことを思い出さずに、初めから地面に落ちたときのことを考えていればよかったと、舌打ちしたい気分だった。

    2

 目覚めると病院にいた、なんてことはなく、俺は、辺り一面真っ白に輝く場所に立っていた。どうやら屋外のようだ。
「ここ、どこだ?」
 思わず口をついて出た言葉が、辺りに反響するように聞こえる。
 周りを見渡してみると、老若男女、多くの人たちが長い列をなしている。その先には何があるのか、俺がいる場所からは見ることはできなかった。恐る恐るその列に近寄り、優しそうな顔をしたおばあさんに問いかける。
「あの、何に並んでるんですか?」
 しかし、彼女は微笑むばかりで何も答えてくれない。ただ、列の後ろの方を指差すだけだ。最後尾に並べと言いたいらしい。一応、他の人にも聞いてみたが、誰もが同じ行動をとるだけだった。
 仕方なく、俺は最後尾を目指して歩き始めた。足元が少しふわふわするが、事故で頭を打ったのだから、そのせいだろう。途中、整列係などいないにもかかわらず、誰もが順番を守り、また、乱れることなく、列はまっすぐに伸びている。先頭が見えないのと同様、10分以上歩いているのに、最後尾には辿り着けない。
「もういい加減にしてくれよ」
 不思議と疲れは感じないが、遥か先まで続く行列を眺めていると、馬鹿馬鹿しくなってきた。
 そこで、少し列を離れ、真っ白な地面の上に腰を下ろした。いつもの癖でジーンズのポケットからスマホを取り出そうとして気づいた。
「何だ、この服?」
 家を出たとき、ダメージ・ジーンズに白いTシャツだったはずが、今は、麻らしき素材でできた長ズボンと長袖だ。
「ダサッ」
 自分の体を眺め回して、もう一度、長蛇の列に目を向けると、そこに並んでいる人たちは、みな同じ服装をしていることに気づいた。
「何で……?」
 頭は混乱するばかりだったが、物事を深く考えることが苦手な俺は、その場で横になった。
「スマホ、どこいったんだ?」
 悠長に横になっていたが、ミーコと約束していたことを思い出し、ガバッと起き上がる。
 これじゃあ、連絡もできないじゃないか。改めて辺りを見回したが、時計どころか、建物らしきものさえない。何より、音を立てるものがなかった。列に並んでいる人たちは、一言も発することなく、ひたすらに順番を待っている。列が進むにつれて、みんな少しずつ前に歩いているが、これほどの大人数だというのに足音さえもしない。
「何なんだよ、ここ……」
 人生で初めて、途方に暮れるという意味を知った思いだ。
「どうかしましたか?」
「うおっ!」
 突然、真横から声をかけられて、俺は文字通り飛び上がった。あまりの恐怖に思わず後ずさる。
「ごめんなさい、驚かせてしまいましたか」
 そこには、輝くばかりの金髪をなびかせた、色白で小柄な女の子が立っていた。真っ白な世界の中、彼女だけは深紅のワンピース姿だ。それとは対照的な青い瞳は謎めいて見えるが、話す日本語は流暢だ。
「こんなところで横になっていたので気になって……」
 一体、どこから見ていたのだろう?
 そんな疑問が湧いたが、どうでもいい。とにかくまともに話せる人が側にいるのだ。ひょっとしたら、いろいろ教えてくれるかもしれない。何より、可愛い。
「あの、ここどこ?」
 迷子になった小学生のような、馬鹿みたいな質問だ。
 しかし、その子は蔑むこともなく、いたって真面目に答えてくれた。
「天国です」

   3

 俺には、確かに〈天国〉と聞こえた。
 こいつ頭おかしいのか? 
 真っ先に浮かんだ疑問がそれだった。少し屈んで彼女の顔をまじまじと見たが、冗談を言っているようには見えない。
「天国?」
 もはや、俺に長い質問を考える力はない。
「天国というと、ちょっと違うかもしれませんけど、分かりやすく言うとそうです。正確には、人間界と天界の間ですね」
 そう言うと、彼女は先ほどの列を指差して言った。
「あれは、天国への入国手続きを待っている人たちです。天国でも最近は人手不足で、入国審査官は二人しかいないもので……」
 ほとんど妄想に近いが、辻褄があっているところが怖い。
「人間界では、戦争やテロが多発してるので、毎秒、並ぶ人は増える一方です。いくらやっても追いつかないですね。人事院も、もう少し現状を認識してくれないと、過労死する役人が出てきますよね。まあ、いまさら死にようはないんですが……。ちなみに、今から並んでも、登録までに最低でも1週間はかかります。さっきも申し上げたように、登録の列は毎秒、ものすごい単位で増えていきますから、早めに並んだほうがいいですよ。それに……」
「ちょっと待った!」
 滔々と続く彼女の説明を、思わず遮った。
「天界とか人間界とか、どうでもいいから! ここが天国でもどこでもいい。審査官が忙殺されているのは同情する。サラリーマンはどこでも大変だな。俺も自分の将来が不安になるよ。人事院も考えたほうがいいと思う。それはそれとして、お前は誰なんだ?」
 初対面の相手に、〈お前〉なんて呼ぶのは失礼だと分かってはいる。それでも、一刻も早く、このくだらない会話を打ち切り、ミーコのところに行かなきゃならない。
 そんな無礼な言葉遣いに気を悪くした様子もなく、彼女は静かに答えた。
「私は、天使です」
「…………」
「どうしました?」
 病んでる。聞いた俺が馬鹿だった。他に、まともな奴はいないんだろうか? ちょっと可愛いからって油断してしまった。
「もう、天国とか天使とか、どうでもいいから……」
 ため息をつきながら、憐れみを込めた目で彼女を見つめる。
「あんたも、早く病院戻ったほうがいいよ。家族や看護師さんが心配しているよ、きっと」
「病院って……」
「退屈だとは思う。つまらない検査なんかも続くんだろ? でも、それを乗り越えないと、まともな社会人にはなれないぞ。不治の病なんて、そうそうあるわけじゃないんだから、根気よく治療を続ければ、きっと良くなる。どこの病院か知らないけど、早く戻りなよ。応援してるから」
「応援……」
 こんな子がいるくらいだから、他にも話せる奴はいるはずだ。俺は、辺りに目をやった。
「あの……誤解しているようですから、説明させていただきたいんですけど」
「しつこいな。俺のことは放っておいて、病院戻れよ」
 さすがに苛々して、ちょっと突き放す言い方になってしまった。
 彼女は、しょんぼりと俯いたかと思うと、スッと近づいてくるなり、俺の目の前で話し始めた。
「新條誠さん、22歳。東明大学経済学部経済学科4年生。成績は可もなく不可もない。小学校から付き合いの続いている友人は二人。平松さんと井原さん。彼女の名前は来宮美沙子、略して、ミーコさんですね」
「何を言って……」
「今朝は寝坊して急いで出かけたんですね。せっかくお母様が朝ごはんを用意してくれたんですから、ちゃんと食べないと。大体、左右の確認をしないで信号を渡ろうとするから、車に気づかないんですよ。出かける前にトイレに行ってますが、そこを我慢して家を出れば、こんな事故に遭わずにすんだのに」
「何で、俺の……」
「信誠不動産にお勤めのお父様は、お母様からの電話を受けて、病院に飛んできましたよ。今回の不幸で、髪の毛がさらに後退するかもしれません。ちなみに、ミーコさんは、ずっとあなたを待っていましたが、連絡もないし、返信もないので、1時頃に自宅に帰られました。大事な話ができなかったことに、少しほっとしているようです」
 俺は言葉もなかった。俺の大学や年齢など、調べればすぐに分かるだろう。父親の仕事だってそうだ。ただ、大学の友達でさえ、俺が彼女をミーコと呼んでいることは知らない。二人だけのときにしか、そう呼ばないのだから。でも、それを認めれば、ここが天国ということに……。そして俺は……。
「必要なら、まだまだ説明はできますが、どうしますか?」
 俺は必死になって、反論の言葉を探していた。ミーコのことだって、興信所なんかを使えば、簡単に調べられるのかもしれない。
「さっき、天使って言ったよな?」
「はい。天使ですから」
「輪っかは?」
「は?」
「天使は、頭の上に輪っかを乗せてるだろ、宙に浮いてるやつ。あれがないじゃないか。それに、羽もないし……。大体、こんなラフな恰好してる天使なんて、いるわけねーだろ。大体、何だ、その金髪は? どう見ても、染めてんだろ!」
 あまりに、俺の個人情報がスラスラ出てきたから信じそうになったが、これほど、天使像からかけ離れている天使もいないだろう。しかし、少し勝ち誇ったような俺に向かって、彼女は冷静に答えた。
「どうして、天使が頭に輪っかを乗せなければならないんですか? それ、誰が決めたんですか?」
 そう言われて、俺は言葉に詰まった。
「人間界の人は、誰も天使なんか見たことないんですから、すべて想像ですよね? 羽だってそうです。天使は空を飛ぶから、羽があるだろうとの想像です。そもそも、天使は飛びませんから」
「飛ばない……」
「飛びません。ちなみに、ハートの矢も持っていません。それから、この髪ですが」
 そう言って、彼女は自分の髪をそっと撫でた。
「ずっと黒い髪だったので、初めて染めてみたんです。やっぱり似合いませんか……」
 捨てられた子猫のように切ない目で見つめられ、俺は胸を突かれた。
「いや、似合う、似合うよ。単に、俺が想像していた天使と、あまりにかけ離れていたから。ほら、君みたいに色の白い子は、黒髪だとちょっと重く感じるから、色を抜くとか、色を変えるのがいいと思う」
 もはや、自分が何を言っているのか分からないほど、俺はうろたえていた。それは、彼女の悲しげな表情のせいだけでなく、彼女が本物の天使だということを、認めつつあったからなのか。
 もし、彼女が天使だったとしたら、俺は死んだことになる。それを認めるなんてことは……。
「嘘だ!」
 知らず知らずのうちに、俺は叫んでいた。天使は驚いたのか、小さく声を上げた。
「どうして俺が死ななきゃならないんだ! まだ、人生これからじゃないか! これから社会に出るんだし、ミーコと結婚してないし、自分の子どもを抱きしめてもいないし、それに……」
 そこで言葉に詰まった。俺は将来何がやりたいんだろう。結婚して子供ができたらどうするんだ? そうは思うが、ここで死ぬというのは、やっぱり納得がいかない。
 天使は、途中で少し悲しそうな顔をしたが、すぐに元の表情に戻っていた。
「若くして、ここにいらした方は、みなさん同じです。中には、赤ちゃんだったり、小学校に上がる前で、親離れしていないお子さんもいます。そういう方の人生に終止符を打つという天使の仕事は、いつまで経っても慣れません。そんなストレス解消の意味もあって、髪を染めたんです」
「人生に終止符を打つって、具体的にはどういうことなんだ?」
 いつしか俺は、目の前の女の子が天使であることに疑いを抱かなくなりつつあった。それでも、どこかで〈信じたくない〉という気持ちは残っている。まずは、彼女から情報を引き出して現状を把握する必要があるだろう。もし、話のどこかに矛盾があったら、やはり彼女は俺を騙していることになる。それでも、俺を騙すことに、何のメリットがあるのかという疑問は残るが……。
「リストがあるんです」
 輝く金髪をいじりながら、俯きがちに彼女は言った。
「リスト?」
「ええ。あ、私が持っているんじゃありません。大天使様がお持ちのリストに、これから亡くなる方の名前が記載されているんです」
「大天使っていうのは?」
 だんだんとファンタジー色が強くなることに、若干の抵抗を感じる。
「私たちを司っている方です。大天使様の手元に、何万冊ものリストがあって、死亡する方の地域ごとに分類されています。それを、それぞれ受け持ちの天使たちにお渡しになるのです。私たちは、そのリストに沿って、亡くなる直前の人のところに向かうんです」
「だとしたら、世界中に天使が派遣されることになるよな。そんなに多くの天使がいるのか?」
「私たちも、総数を把握しているわけではありません。与えられたリストに書かれた人たちの面倒を見るだけで手一杯ですから」
「じゃあ、死ぬ間際の人間の元に行って、天使は何をするんだ? まさか、死神みたいに鎌で首を狩るわけじゃないよな」
 そう言うと、天使は悲しそうに首を振った。
「死神なんて存在しません。どうして人間は、そうした想像が好きなんでしょうね?」
「存在しない? だったら、誰が人の死を決めて、天国行きか地獄行きかを決めるんだ」
 彼女は、ますます寂しげな表情になり、ゆっくりと言った。
「人の死を決めるのも、天国か地獄かを決めるのも、すべて天使の役目です。もっとも、その人の死後のことは、リストに書いてあるので、その通りに仕事を進めるだけですけど……」
 順序だった説明を聞いていると、彼女の言葉を信じざるを得なくなってくる。妄想かどうかを別にすれば、筋道だけは立っている。矛盾を見つけようと思っていたが、なかなかに難しそうだ。それでも、まだ俺は大事なことを聞いていない。
「天使は……どうやって人間を殺すんだ?」
 そう聞いた途端、悲しげだった彼女は、打って変わって俺を睨みつけた。
「殺すなんて言わないでください! 私たちは、その人の寿命を知っているから、最期のお手伝いをしているだけです!」
 あまりの変わりように、俺は言葉を呑み込んだ。天使にとっても、人の人生を終わらせるという行為には、それなりの抵抗があるようだ。
「あ、ごめんなさい。殺すなんて言われたから、つい……」
 一転して彼女は縮こまるようにして小さな声を出した。
「いや、俺も悪かった。そういうつもりじゃなかったんだ。だから……その……どうやって人を人間界からこっちに連れてくるのかと思って……」
 殺すという言い方をしないで、質問するのはなかなか難しい。
「気を消すんです」
「気を消す?」
「ええ。人間は誰もが自分自身を包む気を持っています。オーラといった方が分かりやすいかもしれません。よく、紫のオーラは気品を表し、緑のオーラは穏やかさ、赤は激しさを表すといいますが、オーラそのものが、人間を人間たらしめているんです。そのオーラが消えたとき、人間は生の力を失って、人間界を去ることになります」
「どうやって、オーラを消すんだ?」
「聖なる泉の水をかけるんです」
「聖なる泉の水?」
「ええ。大天使様のお住まいになっていらっしゃる庭に、聖なる泉があります。リストを渡されるとき、その泉の水を汲んで、それを対象者の元に持っていくんです」
「でも、担当地域は決まっていても、そこで死ぬ人は多いはずだ。どうやって、そんなに大量の水を持っていくんだ?」
「大量の水なんて必要ありませんから」
「どうして?」
「聖なる泉の水が一滴あれば、一人のオーラを消すのに十分ですから」
「たった一滴で……」
「ええ。新條さんは、人が死ぬ瞬間に立ち会ったことがありますか?」
 突然の質問に戸惑ったが、その経験はあった。いや、あったというより、忘れられない経験になっている。それほど、衝撃的な経験だった。
「どうかしましたか?」
「あ、いや。ある。あるよ。俺の大好きだったおばあちゃんが死ぬときに、俺は家族と一緒にその場にいた」
「本当に息を引き取る瞬間を覚えていますか?」
 そこまで細かいことを聞かれるとは思わなかったので、その当時のことを思い出してみた。あれは、もう10年以上前だったと思う。それまで半年近く入院していた祖母は、自宅で最期を迎えたいという希望が容れられ、荻窪の自宅に戻ってきた。特段、大きな病気があったわけでもなく、まさしく老衰だった。
 俺の母と叔母は近所に住んでいたこともあり、何日かおきに交代で祖母の家に泊まりこんで面倒を見ていた。俺も会いに行きたかったけれど、母は頑なに拒んだ。今思えば、自分の母が死へ向かっていく姿を親子とはいえ、見せたくなかったのだろう。
 それでも、本当に最期が近いという日に、俺をはじめ、親戚が集められた。決して大きくない部屋で、前より一回りも二回りも小さくなった祖母が、柔らかなベッドの上に横たわっていた。ほとんど言葉を発することもできず、ただただ死を迎えようとしている姿が、俺は怖かった。あれほど可愛がってくれた祖母を直視することが、俺にはできなかった。
 早くこの時が過ぎ去ってほしいと、それだけを願っていた。それは、祖母の死を意味するとは気づきもしなかった。
 やがて、「お母さん!」という母と叔母の声が聞こえた。ふと見ると、それまで静かに横たわっていた祖母が、苦しそうに荒い息をしている。二人の姉妹は祖母を抱きかかえ、「もう、十分頑張ったからね」と涙ながらに優しく話した。
 すると、その声が聞こえたかのように、祖母の呼吸は穏やかになり、最期に大きく息を吐き出した。その吐き出す息は、永遠に続くかのようだった。そして、体中の空気が吐き出されたかと思ったとき、祖母は静かに息を引き取った。それが俺が見た、最初で最後の人の死だ。
「私たちは……」
 回想にふけっていた俺の前で、天使が声を発した。
「私たちは、寿命が尽きる間際に、その人の手のひらに一滴、聖なる泉の水を落とします。そうすると、その一滴が体中を巡り、その人を覆っていたオーラを消すのです。それまで、オーラの持つ熱量で生きていた人は、オーラが消されることで死を迎えます。オーラの熱で保っていた体温が、聖なる泉の水で冷やされていくと、人はすべての責任から解放されたように力を抜いていきます。これまでの人生で抱えていた肩の荷を下ろすことで、安心して長い息をつくのです」
 祖母が最期についた長い息は、すべてから解放される安心感がもたらしたものだったと知って、俺は嬉しかった。最期の最期に苦しんで死んだと思っていた分、祖母の人生が報われた気がして、思わず涙がこぼれそうだった。
「そうか……」
 もう、反論する気も起きなかった。目の前の女の子は天使で、俺は死んだんだと納得することができた。はっきりとした理由は分からない。それでも、彼女が言っていることに間違いはないと体で感じていた。
「本当に俺は死んだんだな」
「ええ。残念ながら……」
「俺の手に聖なる泉の一滴を落としたのもお前なんだな」
「はい……」
 彼女は申し訳なさそうに言った。
「見せてくれ」
「え?」
「俺の名前が記載されているリストを見せてくれ」
「それは……」
「いや、信じないわけじゃない。ここまで来たら、もう仕方ないと思ってる。でも、やっぱり、悔しいんだ。誰にも別れの挨拶をすることもなく、突然、死ぬなんて。お前が天使で、俺が死んだことも事実だろう。それでも、自分を納得させるために、そのリストを見て、自分の死を自分の目で確認したいんだ」
 往生際が悪いことは分かっていた。自分が死んだことを感覚としては理解することもできた。ただ、このままじゃあ、自分の人生が天使たちに振り回されたような感じが残る。何も知らずに遠くに見える列に並ぶ前に、この目でしっかりと自分の死を見つめなければ……。
「死んだ方に、これまでリストを見せたことはありません。そもそも、リストを見たいという人はいませんでした。ちょっと確認するので、お待ちいただけますか?」
 そう言うと、彼女は右手をそっと上げた。すると、その手には、燃えるような赤いカバーのかかった分厚い冊子が乗っていた。覗き見ると、表紙には〈天使マニュアル〉と書かれている。天国にはスマホのような便利なグッズはないのだろうか。彼女は、「Q&A、Q&A」と呟きながらページをめくっていく。どうやら、死者から質問があったときの対応策が書かれた箇所を探しているようだ。
「あ、ありました。ちょっと待ってください」
 かなり細かい文字で書かれているらしく、彼女はピンク色に輝く爪先で文字を追っていた。
「大丈夫ですね。本人が納得するまで現状を説明するのも天使の役目だとありますから」
 彼女が顔を上げたとき、すでに〈天使マニュアル〉は消えていた。その代わり、今度は真っ白なカバーの分厚い冊子を手にしている。表紙には、〈担当リスト エリー 2017年8月1日 ○○地区〉と書かれている。8月1日だけで、これだけの人が死を迎えるということだろうか。
「お前、エリーって言うのか」
「え? ああ、そうです。最初に自己紹介するべきでした。失礼いたしました」
「いや、それはいいんだけど……。俺のページを見せてくれないか」
「あ、そうですね。新條さん、し、し、しら、しろ……。あ、ありました。どうぞ」
「うっ!」
 彼女から受け取ったリストは、恐ろしく重かった。こんな重い本を軽々と……。
 俺はリストを地面に置いて、俺の名前を探した。1ページごとに横書きで膨大な数の名前が記されている。こんなに読みにくいとは思わなかった。目を細くして文字を追うと、ページの真ん中あたりに俺の名前を見つけた。
〈新條誠 22歳 8月1日午前11時26分 榎田交差点の横断歩道で交通事故〉
 死亡者リストに自分の名前を見つけるというのは、かなり衝撃的だ。これで、俺の死は確定したと思った。
「納得していただけましたか?」
 恐る恐るという感じでエリーが聞いてきた。
「……そうだな」
 声が掠れるのを抑えられない。自分の死の証拠を目の前にして、落ち着いていられるだけでも大したものだと思う。
「それにしても、ひどいな。死んでもランク付けされるのかよ」
 半ば自棄になって、苦笑交じりに言った。
「ランク……ですか?」
 エリーが怪訝な表情を見せた。この期に及んで知らないフリをしても意味はないのに。
「ああ。分かってんだろ。俺の欄の一番右に、しっかり赤で〈C〉って書いてあるじゃないか。他に、そんなマークがついてる奴なんてどこにもないのに。最期にクレームを言うことまで織り込み済みなんて、さすがだよ。うるさい奴は、Cランクってとこか」
 投げやりに言って、エリーを見ると、白い顔が一層白くなっている。いや、白というよりも青いと言ったほうがいいかもしれない。
「ち、ちょっと見せてください」
 エリーは俺からリストをひったくった。
「何だよ。見られていけないようなもんなら、消しとけよ」
 俺は先ほどの列に目をやった。相変わらず、先頭も最後尾もまったく見えない。これから、あそこに並ぶかと思うと気が重い。ただ、ここまで来たら、悩んでいてもしかたない。死んだことは確かだし、時間は余るほどあるんだから、のんびり待つとするか。
「なあ、いろいろ有難うな。これで俺も納得できたよ。心残りはあるけど、って言うか、心残りしかないけど、列の最後尾に向かうわ」
 俺は遥か遠くに霞む列を見ながらエリーに言った。ただ、しばらく待っても返事はなかった。おかしいと思って振り返ると、エリーはリストを手にしたまま震えていた。顔色は真っ青だ。
「おい、どうした? 具合でも悪いのか?」
 死人が天使の体調を気遣うのもどうかと思ったが、様子が尋常じゃない。
「おい。大丈夫かよ」
 肩に触れると、エリーは目を?いて、俺のことを見返してきた。
「な、何だ……。お前、怖いぞ……」
「し、新條さん……。ち、ちょっと、ここで待ってもらってもいいですか? すぐに戻ってきますから。いや、すぐじゃないかもしれないけど……。なるべく早く戻って来ますから」
 何を慌てているのか分からないが、急ぐ用事もない。
「ああ、大丈夫だ。列の最後尾に歩いてるから、用が終わったら声かけてくれ」
「ダメ!」
「ん?」
「いえ……まだ列に並ばなくていいです。というか、並んじゃダメだというか……。とにかく、ここにいてください! お願いだから動かないで!」
 エリーが必死の形相で迫ってくる。俺は、その迫力に思わず圧倒された。可愛い子は真剣な顔をすればするほど、美しさが際立つのかもしれない。
「動かないでって言ったって……」
 態度が急変した彼女を前に、俺はそれだけ言うのがやっとだった。俺の怯えが伝わったのか、彼女は「あっ」と呟いて距離を取った。
「ご、ごめんなさい。つい興奮してしまって……」
 先ほどまでの態度が嘘のように、しおらしく言った。
「新條さんがどこにいるかは、すぐに分かりますので、好きなところに行って大丈夫です。ただ、あの列には、まだ並ばないでください。何なら、ここを散策してもらってもいいですから」
 俺とはまったく目を合わせずにそう言うと、彼女は右手を前に出した。すると、掌の上に、赤い雲のようなものが漂い始めた。まるでトリックだ。彼女はその手を口の近くに持っていくと、俺の方に向かって、ふっと息を吹きかけた。すると、その雲のようなものは、ゆらゆらと流れはじめ、俺の服の胸元に吸い込まれていく。呆気に取られていると、服の上に赤く「PASS」という文字が浮かび上がった。
「これは……」
「これがあれば、私が戻ってくるまで、どこにでも行くことができます。地上では経験できないことも多くありますので、それほど退屈はしないかと……それでは」
 その言葉とともに、彼女の姿は煙のように消えた。慌しいこと、この上ない。
「散策ねえ……」
 俺はもう一度辺りを見回してみた。列に並ばないとなると、他には何があるのだろう。見渡すと、遥か彼方に何やら建物らしきものが見える。やることもなくなってしまった俺は、とりあえず、そこに向かって歩き始めた。
 30分以上歩いたところで、ようやく建物が近づいてきた。不思議なことに、疲れは一切感じない。これが死ぬということだろうか。
 建物は、横浜アリーナを一回り大きくした感じで、近づくと、〈本日の出演者〉と書かれたプレートが宙に浮いている。プレートが宙に浮こうが、象が空を飛んでいようが、もはや大概のことには驚かなくなっている。しかし、そこに書かれた名前を見て、俺は思わず声を上げた。急いで入場ゲートを探したが、それらしきものはない。もどかしい思いで建物に近づくと、何かが優しく俺の体を包んだ。それは、体中を通り抜けたかと思うと、瞬時に消え去っていった。すると、目の前の壁が音もなく開き、目の前にピンク色の炎が現れた。どうしたものか戸惑っていると、その炎はゆらゆらと動き始める。
「ついて来いってことか?」
 不安に思いながらついていき、2、3回角を曲がったかと思うと、突然、正面に大きな舞台が現れた。そこでは、しなやかな身のこなしで、ムーンウォークを披露するマイケル・ジャクソンがいた。
「本物だ……」
 YouTubeで見たことはあるが、目の前のマイケルの方が数段若い。それほど整形も進んでいないように見えた。
 俺は適当な席を見つけたが、誰もが立ち上がってステージを楽しんでいる。スーパースターは死んでもスーパースターなんだと、嬉しくなってくる。しばらくすると、特別ゲストということで、フレッドと呼ばれる男性が出てきた。マイケルの隣でタップダンスを踊り始めたが、その上手さに驚いた。その後も、俺の知らない人たちが出てきて、年配の観客たちは大盛り上がりだ。
 マイケルが舞台を降りたのをきっかけに、俺も外に出た。随分時間が経ったと思うが、空の明るさは、ここに入る前と変わりなかった。ずっと立って舞台を見ていたはずなのに、やはり疲れはない。死者にとって、肉体的な感覚はもちろん、時間の観念もないのだろうか。考えてみればお腹も空かない。そう思うと、生きているときよりも、楽しみが少ない。天国はいいところだという想像が、萎んでいくようだ。
 
     4

 エリーがいなくなってから、どのくらい経っただろう。時間の感覚がないので、一時間のようにも一週間のようにも思える。天国にいるスターたちの映画や舞台、ステージも飽き始めた頃、エリーは俺の前に姿を現した。
「大変お待たせいたしました」
 神妙に頭を下げるエリーの隣には、黒いスーツに身を包んだ男性が立っていた。その腹は見事に膨れ、身長もエリーとそれほど変わらない。少しだけ残った髪をきっちりと撫でつけ、脂ぎった赤ら顔に微笑を浮かべてはいるが、満員電車に乗っていたら間違いなく嫌がられるタイプだ。
「今回のことをどうするか、上司と相談していて遅くなってしまいました。あ、こちらは私の上司で、フランソワです」
「フランソワ?」
 あまりのミスマッチに思わず吹き出してしまった。この名前、本人は気にしていないのだろうか。そんな心配をよそに、フランソワは穏やかに言った。
「初めまして。エリーの管轄担当のフランソワです。このたびは、エリーがご迷惑をおかけしまして申し訳ありません」
 想像以上にバリトンの効いた声だったが、これほど容姿と声の似合わない男も珍しい。
「いや、迷惑というか……どういうことなのか……」
 目をやると、エリーは俯いたままだ。心なしか緊張しているようにも見える。
「この度のこと、私から説明させていただきます」
 バリトンが胸に響く。
「エリーからもご説明させていただいたとおり、我々には死亡予定者リストというものがあります。人間は生まれ落ちた瞬間から寿命が決まっていて、その時期と場所、死因に関する情報が、天国で管理している死亡予定者リストに随時書き込まれます。それを元に、エリーをはじめとした天使たちが死亡者を迎えに行くことになります」
 フランソワは淡々と説明するが、エリーは身じろぎもしない。
「ただ、ごく稀にですが、そこにエラーが生じる場合があります」
「エラー?」
「はい」
 そう言うフランソワの声が、少し固くなったように思うのは気のせいだろうか。
「エラーって何ですか?」
 フランソワの口調から、つい俺も敬語になっていた。
「例えば、死亡場所が予定より数センチずれていたとか、3本折れるはずの骨が5本も折れていたとか……」
「それって、そんなに重大なことですか?」
「とても重大です」
 フランソワはため息をつきながら言った。
「人の死を扱うのは、慎重の上にも慎重さが求められます。人ひとりが死ぬということは、本人だけでなく、その人に関わるすべての人に何らかの影響を及ぼすのです。それが身内だったら、なおさらです」
 まあ、確かに、旦那さんが死んだ場合、遺された奥さんや子どもにとって、その死因は大事だろう。死亡場所の数センチのずれなんて、誰も気にしないだろうが……。
「えーっと、で、俺とそのエラーとどう関係があるんですか?」
 そう言うと、エリーがびくっと体を震わせた。そんなエリーを一瞥した後、フランソワは重々しく口を開いた。
「先ほど、死亡者リストをご覧になっていますね?」
「ええ。俺が死ぬことがしっかりと書いてありました」
 多少の嫌味を込めて言ってみるが、フランソワは動じない。
「そうなんです。エリーはそのリスト通りに行動したのですが、一つ見落としがありまして……」
 これまでの落ち着いた口調が嘘のように、フランソワの歯切れが悪くなる。
「見落とし?」
「はい。新條さんのお名前の最後に書かれていた記号のことです」
 俺は、死亡者リストを思い返した。交差点で死ぬことが書かれた後に、ランク付けの表記が確かにあった。
「ああ、Cランクのことか」
「……そうです。新條さんは死者にもランク付けされるのかと思われたようですが、死んだ人間に優劣はありません。ここでは、誰もが平等に扱われます」
「じゃあ、あのCっていうのは?」
「……CANCELです」
「キャンセル?」
「はい。CANCELの頭文字のCです」
「キャンセルって……何がキャンセルなんですか?」
 そう聞くと、フランソワは見るからに言いづらそうに言葉を発した。
「新條さんの死亡です」

   5

 俺は耳を疑った。というより、意味が分からなかった。死亡者リストには、時々エラーが生じるらしい。それは偶然、俺の死亡についても起きてしまったようだ。そして、俺の死亡がキャンセルということは……。
「それって……」
「ごめんなさい!」
 突然、エリーが叫んだ。
「私がいけないんです。リストを最後までしっかり確認しなかったから。Cマークがつくなんて初めてのことだし、それに……」
「エリー!」
 俺まで震えるような、フランソワの一喝がエリーを襲った。
「言い訳はするな! お前の不注意のせいで、新條さんがどれほど迷惑していると思ってるんだ。お前は、取り返しのつかないことをしてしまったんだぞ!」
 激しい叱責に涙を浮かべたエリーを見ていると、気の毒になってきた。でも、人のことを気にしている場合ではない。
「それって……俺は死ななくてもいいってこと……?」
 フランソワは重々しく頷いた。
「そうです。新條さんの死亡はキャンセルされていたのです」
 頭が真っ白になるとは、こういう時のことを言うんだろう。フランソワの言葉は明快だが、それを受け入れる準備ができていなかった。というより、いまさらキャンセルと言われても……。
「俺は……どうなるんですか?」
「再び、人間界に戻ることになります。そして、これまでの生活を続けることになります」
 俺は大きく安堵の息をついた。フランソワの言う通りなら、まったく問題はない。俺は、あの日に戻って、ミーコとの待ち合わせ場所に向かうんだ。そして、今度こそ、〈真面目な〉話をしなくちゃいけない。ここに来たことで、生きていることの大切さを学んだように思うのは気のせいか? 
「なんだ。それならいいじゃないか。エリーも泣くなよ。ここに来たこと以外は、すべて元通りになるってことだろ? 俺にしたら、マイケルのライブも見れたし、少しのんびりしたと思えば、何てことないよ。ただ、ここでの出来事を話しても、誰も信じてくれないと思うと少し寂しいけどね」
 急に心が軽くなり、いつしか口調も気軽なものに変わっていた。
「じゃあ、早く元の世界に戻してくれよ。これから彼女に会わなきゃいけないんだから」
 そう口にしたところで、一つ気になった。
「でも、元の世界の、いつに戻るんだ?」
「死んだ後です」
 俺の勢いに元気づけられたのか、エリーがようやく口を挟んできた。
「死んだ体にもう一度入っていくイメージです」
「え? 俺、やっぱり死んだの?」
 その言葉に、エリーが少し悲しそうな顔をした。
「すみません。事故に遭ってここに来たことになってしまったので、それだけは覆せなかったんです。周りのみなさんは、死者が生き返ったと思ってびっくりするでしょうが、その後は、健康的な生活を送れます」
 そりゃあ、死人が起き上がったら、みんなびっくりするだろう。それこそ、死人が出るかもしれない。
「まあ……それならいっか。生き返った男っていうのも格好いいしな」
 幸か不幸か、俺の周りで死んでから生き返った奴はいない。これは、かなり特殊な体験になるはずだ。生き返る場面をスマホで録画している奴がいたら、それをインスタに載せた瞬間にフォロワー急増間違いなしだ。テレビの取材が来るかもしれない。
「よし、それじゃあ、早く帰してくれよ。エリー、すぐにできるんだろ?」
「はい!」
 エリーが笑顔で言った。これで誰も傷つくことはない。
「じゃあ、フランソワ。短い間だったけど、ありがとう。次に会うのは……」
「57年後です」
 フランソワが死亡者リストを見ながら、慎重に言った。さすがに二度目のミスは許されないのだろう。
「あ……そう。それは決まってるんだな……。じゃあ、57年後まで元気で!」
「あ、それから」
 今にも地上に戻ろうとしている俺に、フランソワが慌てて言った。
「生き返った瞬間に、ここに来た記憶は消えますので、人に言うことはできませんよ」
「なんだ、つまんないな。生き返った後に、もっと驚かしてやろうと思ったのに」
「まあ、みなさん、最期にはここに来ますから、そのうち会話は合いますよ」
 それが、フランソワなりのブラックジョークなのか判断はつかなかった。
「分かったよ。じゃあ、57年後にな!」
 俺はフランソワに手を振ると、エリーに向かって言った。
「復活だ!」

   6

俺は、空に立ち上る一筋の煙を呆然と見つめていた。
 脱力したまま隣を見ると、エリーがさっきよりも真っ青な顔をしている。天使でもここまで顔色が変わるのかなどと、どうでもいいことを考える。
「……どうすんだよ」
人間、本当に腹が立ったときは、恐ろしいほど低い声になるのだろう。自分でも信じられないくらいの低音が腹の底から出てくる。
「ど、どうすると言われましても……」
心細そうなエリーの声が、余計に俺を苛立たせる。
「エリーにも、あの煙が見えんだろ! 燃やされちまってるんだよ、俺の体が! これから、骨を拾われる男の気持ちが分かるか、えっ??」
怒りを鎮める方法も分からないまま、俺はフラフラと火葬場の待合室に漂って行った。生きた心地がしないとは、まさに今の気持ちを言うのだろう。
待合室には、両親をはじめ、親族や大学の仲間がそれぞれのテーブルに座って、ビールやソフトドリンクのグラスを手にしている。肉付きの良かった母の体は、この数時間で数キロも痩せてしまったかのように窶れて見える。隣に座る親父の目は真っ赤だ。
そんな姿を目にして、俺は本当に初めて、自分が死んでしまったことを意識した。数分前までは、元通りの体で社会人生活を始めるつもりだったのに、わずか二十数年しか動かさなかった俺の体は、すでにこの世にはない。
俺はゆっくりと母のそばに歩いて行った。
「なあ、母さん、聞こえるか? 俺だよ、誠だよ。信じられないかもしれないけど、天使の間違いで死ぬことになっちゃったんだよ。でも復活できるから待っててくれよ。そんな悲しい顔しないでさ。天国の奴らは、結構万能だから、俺の体も何とかなる……」
「ご準備ができましたので、みなさま、こちらへどうぞ」
誰にも聞こえない俺の言葉は、火葬場の担当者らしき人物の声に邪魔された。彼の言葉に従い、みんなが席を立ち、場合によっては、俺の体をすり抜けながら部屋を出て行く。自分の存在に誰も気づいてくれないということが、これほど辛いとは思わなかった。小学校のときに、つまらないことでクラスの人気者だった友達と喧嘩して、数日間みんなから無視されたことがあったが、今とは比べものにならない。彼らにとって、俺は本当に存在しないのだから。
誰もいなくなった室内で、俺は身動きできないでいた。圧倒的な死が俺を襲っていた。誰にも認識されることなく、肉体さえ失ってしまった俺は、これからどうしたらいいのだろう?
 遠くから、押し殺すような泣き声が聞こえ、俺はゆっくりと部屋を出た。今の気分とは正反対の透き通るような青空が、必要以上に磨かれた大きな窓から見える。室内の温かさを感じることもできない俺は、廊下の向こうに知り合いの姿を認めた。近づいてみると、彼らが取り囲んでいるのは、見事に焼き上げられた、真っ白な俺の骨だった。一人ずつ一本の長い箸を持ち、二人一組で俺の骨を拾っている。親父が母の肩を抱いて支えているのが見えて、いたたまれない気持ちになった。
 最後に火葬場の担当者が、銀のトレイに残った俺の骨を、ザラザラと骨壺に流し入れていく。細かい骨は、小さな箒のようなもので掻き出されている。
 ――そんな乱暴に扱うなよ。俺の大事な骨だぞ。
 あまりに現実離れしていて、思考が止まってしまったかのような感覚に陥る。
 ふと顔を上げると、俺の骨壺を見つめるミーコがいた。随分長い間、会っていなかったような気がする。隣に行って、そっと髪に触れてみる。俺はミーコの、柔らかい髪を撫でるのが好きだった。その感触も、今はない。俺の指はミーコの髪を通過して、力なく下に落ちた。
 その時に初めて悲しみが込み上げてきた。俺はもう、親と話すことも、ミーコと一緒に笑うこともできない。今、ミーコの頬を伝う涙を拭うこともできない。そもそも、この涙は、俺のために流されたものだなんて……。
 そのとき、ミーコの横から、紺のハンカチが差し出された。
 ――ああ、お前も来てくれたのか。
小学校時代からの親友の井原岳斗だった。ミーコと二人で飲んでいるときに、何度か呼び出したっけ。
――お前とも、もうくだらない話、できなくなっちゃったなあ。
高校から別々の学校に行ったのだが、何かと言っては予定を合わせ、深夜のファミレスなんかでいつまでも話していたっけ。やっと彼女ができたとか、ついにキスしたとか、そんな話だけで何時間も話したものだった。決してイケメンではないが、人柄は文句のつけようがない。誰にでも優しくて面倒見だけはいいので、それなりに女性には人気があるようだ。あんまり人と関わりたくない俺とは正反対だからこそ、妙に気があったのだろう。
ミーコは井原からハンカチを受け取ると、そっと涙を拭いた。その後、さりげなく井原はミーコの肩に手を添えた。
――井原! それはやりすぎだ。俺がまだいるんだぞ。
ミーコは、その手を優しく払うと、ハンカチを返して会場の出口に足を向けた。



フランソワは、エリーの報告を聞きながら、困惑の表情を隠せずにいた。
それはそうだろう。部下のミスで殺した人間が、帰るべき肉体を焼かれてしまったのだ。自分の悲劇はさておき、俺は思わずフランソワに同情しそうになった。フランソワの遥か後方では、予定通りに死んだばかりの人たちが、相変わらず長い列をなしている。
「……ということになってしまいました」
エリーの、たどたどしい説明が終わった後も、フランソワは口を開かない。いや、開けないのだろう。
「これから、どうすればいいんだよ」
フランソワのことを気にしている場合ではない。俺は被害者なのだ。帰る肉体を失った人間に、神は何を用意できるのだろう。と言うよりも、何としてでも解決策を提示してもらわなければ困る。俺の人生は、あと57年もあるのだ。
「体を焼かれる前まで時間を戻すことくらいできるんだろ?」
そう言うと、エリーが目を逸らした。まさか……。
「残念ながら、時間を戻すことはできません……」
フランソワが重々しく告げた。
「我々にできるのは、魂の移動に関することだけで、時間軸を変えることはできないんです」
「そんな……。じゃあ、俺はどうすればいいんだよ。そっちのミスで殺された上に、体まで焼かれて……。残りの人生、ここで過ごすのかよ!」
「それなら大丈夫です。ここなら、交通事故に遭う危険もありませんし、何をするにしてもお金を取ることは……」
「ふざけんな!」
隣でエリーが体を縮めるのが分かった。
「勝手なこと言ってんじゃねえぞ! 何で、お前たちのルールに従わなきゃならないんだ! 俺は、俺の体に戻って、今まで通りの生活を送るんだ。誰にも邪魔させないからな。こんなどうしようもない落ちこぼれの天使のせいで、俺の人生滅茶苦茶じゃないか! 責任取れよ! さっさと俺の肉体返せよ」
もう言葉が止まらなかった。これは俺だけの問題じゃない。母のげっそりした姿や、親父の泣きはらした目、骨壺を見つめるミーコ。みんなのことを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 こいつらのせいで、悲しまなくていいはずの人たちを苦しめている。就職が決まったときに、「まあ、これからしっかりやれよ。社会人にまでしたんだから、父親の役目は半分以上終わったな」と目を細めた親父や、「お給料もらったら、毎月3万は家にいれるのよ!」と嬉しそうに肩を叩いた母の姿が浮かんだ。
「天使っていうのは、愛を届けたりして人を幸せにするんじゃないのかよ。それなのに、勝手に命を奪ってくなんて、それじゃあ、天使じゃなくて悪魔だろうが!」
エリーが震えながら涙を流しているが、知ったことではない。本当に泣きたいのはこっちだ。痛ましげに俺を見るフランソワの顔が余計に俺を苛立たせる。
「こんな落ちこぼれを当てがった、お前の責任だぞ! 偉そうなことばかり言ってないで、早く体を返せ! お前たちのミスなんだから、上司に掛け合うとかして、解決策出せよ! こんなこと言ってるうちにも、どんどん時間が過ぎてんだよ!」
死んだ人間に責められたことなどないのだろう。フランソワの顔に朱がさした。
「分かりました。相談してきます」
憮然とした表情でそう言うと、フランソワはふっと姿を消した。後には俺と、俯いたままのエリーが残された。
「あの……」
 しばらくすると、意を決したかのようにエリーが口を開いた。
「本当にごめんなさい。時間のことは分かりませんが、何か方法を見つけてくれると思います。フランソワは、本当に優秀で、それに……」
「黙っててくれ」
 エリーと話す気にはなれなかった。エリーがアルファベットを見落とさなければ、俺がここにいることはなかったのだ。悪気はないにしても、とても許すことはできない。
俺の一言で、エリーは黙り込んだ。俺はやることもなしに、その場に寝転んで目を閉じた。
頭の中は不安でいっぱいだった。もし、フランソワの言う通り、肉体が戻らなかったら、どうなるのだろう。57年間も、ここで過ごすのだろうか。そして、地上では、やがて俺のことも忘れられてしまうのだろうか。何年か後に、親父や母をここで迎えるのだろうか。
 そんなことを考えていたら、体に震えが走った。死んでも意識のある状態が何十年も続くなんて、悪夢以外の何物でもない。
 俺は、何としてでも生きたかった。社会人になってから、どんなに辛いことが待っていようとも、死にたくはない。しかも、こんな馬鹿げたミスで……。
 エリーのフランソワ評を鵜呑みにするわけではないが、心のどこかで、きっとフランソワが何とかしてくれると信じていた。こんな目に遭いながら、フランソワに頼っている自分が不甲斐ない。でも、俺の体はもう……。
 堂々巡りする思考に活路を見出せないまま、俺は目を開けた。隣には所在なさげにエリーが俯いて立っている。俺を不幸のどん底に陥れた張本人ではあるが、考えてみれば、彼女は、〈C〉の文字を見逃したに過ぎない。普通の仕事だったら、大したことではないだろう。たまたま、人間の命を扱う仕事だったから、こんなに大事になってしまったのだ。そう思うと、少し気の毒に思えてきた。善意に溢れている天国だからだろうか、先ほどまでの怒りが薄らいでいるような気がする。このまま、ここにい続けたら、恐ろしいくらいにポジティブ思考になりそうだ。
「なあ」
突然声をかけられて、また怒鳴られると思ったのか、エリーは体を縮こませた。
「もう怒らないよ。怒ったって、状況が好転するわけでもないし……」
エリーは怪訝な表情を見せた。急に優しく接したから、身構えているのだろう。
「エリーは、どうやって天使になったんだ?」
雑談のつもりだった。自分ではどうしようもない状況に置かれて、あれこれ考えるのが嫌になってしまったのだ。しかし、エリーは思わぬ反応を見せた。
「それ、答えなければいけませんか?」
これまで聞いたこともないような陰鬱な声だった。そんな悪いことを聞いただろうか。エリーは、瞬きもせず、俺を見つめている。俺は取り繕うように早口で言った。
「いや、答えたくなかったらいいよ。ちょっと不思議に思っただけだから」
そう言うと、エリーは大きく息をついた。
「機会があったら、お話します」
俺たちの間に気まずい空気が流れた。こんなことなら聞かなきゃよかった。彼女を許そうとしていたのに、馬鹿みたいだ。
もう、俺からは口を開くまいと決めて、空を見上げた。しかし、そもそも天国にいるのだから、空なんてものは存在せず、ただ、真っ白な雲のようなものが広がっているだけだ。子供の頃に想像していた天国は、もっと素敵な場所だった。誰もが幸せに包まれ、悲しみも苦しみもすべて消え去った世界だ。
それが現実はどうだろう。天国にいるというのに、俺の心は、不安や怒り、悲しみでいっぱいだ。本当なら、来世に生まれ変わる姿に思いを馳せ、楽しく過ごしているはずが、焼けてしまった自分の体に戻る方法を考えている。天国まで来て、こんな思いをしているのは俺が初めてだろう。これに比べたら、普通に生きていた方が、よっぽど楽に思える。人間世界が天国より楽なんて……。
「アホらしい……」
思わず呟くと、エリーが不思議そうに俺を見たが、気づかない振りをする。
これから一体どうなるんだろうという、何度繰り返したか分からない疑問に苦しんでいると、ようやくフランソワが戻って来た。これまでと比較すると、かなり早く戻って来たと言っていい。彼は彼なりに責任を感じているのだろう。おれはポジティブに、そう考えることにした。ここで人を恨んでも仕方ない。神に酷い仕打ちを受けたにもかかわらず、悪意を抱いたら神の怒りに触れ、さらなる悲劇が襲ってくるのではないかという恐怖を、俺は感じていた。あまりに理不尽だ……。



「お待たせして申し訳ありません」
さっきの俺の態度を忘れたかのように、フランソワは、紳士的に振る舞った。
「初めてのことなので、評議委員の面々も対応に悩んでしまいまして……」
あまり申し訳なさそうもなく、フランソワは言葉を継いだ。
「だろうね。天使が誤って人を殺すなんてことが、そう頻繁にあったら、たまらない」
さっき、神からの仕打ちを恐れたにもかかわらず、皮肉を言わずにはいられなかった。
隣では、エリーが俯くが、知ったこっちゃない。フランソワの口元がひくつくのがわかった。
「それで、どうなったんだよ。俺の体に戻れるんだろうな?」
俺はなるべく感情を殺して聞いた。どんな答えを聞いても耐えられるように……。
「新條さんの体には戻れません」
俺は、その場に崩れ落ちた。最悪の状況を覚悟してはいたが、いざ、そう告げられると、それに耐えられるほど、俺の心は強くなかった。焼かれたはずの心臓が、ものすごい勢いで鼓動を始める。
「そんな……」
そう言うのが精一杯だった。これまでの思い出が、脳裏をよぎる。これが走馬灯というものだろうか。でも、死んだ後に走馬灯を見る奴なんているんだろうか。あまりに、信じられない事実に直面したとき、人はどうなるんだっけ? あ、新たな人格だ。新たな人格が登場して、つらい思いを受け止めてくれるんだ。それで、俺は安全で平和な場所に閉じこもるんだ。そうだ、俺はこれから多重人格者になるんだ。
そんなことを考えたが、俺の人格は分裂しなかった。想像以上に強い精神力だ。だったら、黙っていることはない。俺の中で、再び怒りがこみ上げて来た。
「ふざけんなよ! 結局、お前らは何にもできないじゃないか。人の命を勝手に奪っておいて、責任も取らないって、どういうことだよ! 時間ばかりかけやがって! どうにかしろよ! 俺を、元の世界に戻せよ!」
俺は、さっきと同じ言葉を繰り返すだけだった。俺は単に、元の世界に戻りたいだけなんだ。
「お戻ししますよ」
「早く戻せよ! 俺を元の世界に……ん? 今、何て言った?」
聞き違いか? 戻すと言ったような……。
「ですから、新條さんを、元の世界にお戻しします」
ずっと望んでいたことのはずなのに、実際にそう言われると、とても信じられなかった。
「本当に?」
半信半疑な俺を見て、フランソワはゆっくり頷いた。
「帰れるのか? 俺が生きていた場所に?」
「はい」
ここに来て、初めてフランソワが神に見えた。実際に神なんだが……。
「な、なんだよ、人が悪いな。俺の体に戻れないなんて言うから、混乱しちゃったじゃないか。こんなときに、ブラックジョークはやめてくれよ、なあ」
そう言ってエリーを見ると、心なしか顔が強張っている。これまでの会話で、おかしいところがあっただろうか。
「ジョークではありません」
フランソワが厳かに言った。はしゃいでいる俺が馬鹿みたいだ。
「え……だって、戻れるんだろ? そう言ったよな?」
理由の分からない不安が押し寄せて来た。フランソワは、何を言っているんだ?
「ええ、そう申し上げました」
「だよな? だったら何の問題もないじゃないか」
俺はフランソワの顔色を窺うように聞いた。
「戻れますが、新條さんには戻れません」
「禅問答かよ!」
 フランソワが俺をからかっているように感じて、思わず声を荒らげた。戻れるけど戻れないって何なんだ。
「順を追って申し上げます」
 フランソワは、俺の勢いに憶することなく冷静に言った。
「まず、新條さんは、元々生きていた世界に戻ることができます」
 その言葉を聞くと、改めて安堵の息が漏れた。これで天国とはおさらばだ。
「ただし、ご承知の通り、新條さんの体は燃えてしまっています。前にも申し上げました通り、焼けてしまった肉体を元に戻すことは、我々の力を以てしてもできかねます。この点だけは、本当に何とお詫びしていいか……」
「お詫びはいい! それで、俺はどうなるんだ?」
「本当に申し訳ありません。その代わり、新條さんには代わりの肉体を差し上げます」
「代わりの肉体……」
フランソワの言葉を理解するのに時間がかかる。代わりの肉体って……。
「……それは……他人の体ってことか?」
「そうです。多少の制約はありますが、新條さんは、こちらが提示した中から、好きな体を選択することができます」
フランソワの表情に変化はない。どうやら本気で言っているようだ。
「ち、ちょっと待ってくれ。ってことは、俺が他人の体を乗っ取って生きていくってことか?」
俺の頭の中では、幽霊に憑依されたシャーマンが浮かんでいた。本人の意志とは関係なく、他人の思い通りに動いてしまう体……。
フランソワは、混乱する俺を哀れむでもなく、淡々と話を進めていく。
「乗っ取るというのとは少し違います。すでにその肉体は意志を持っていませんから」
「意味わかんねー。もっと分かりやすく説明してくれ」
「新條さんに提示する肉体は、死期が迫っているものです。どちらにしても死ぬことが決まっているのですから、そこに意志は存在しなくなります」
「待て! 俺は死体に乗り移るのか?」
これならシャーマンの方がよっぽどましだ。昔、テレビで観たゾンビのようなものじゃないか。
「乗り移るというのも、ちょっと違います。新條さんは、その肉体に同化するんです」
「同化……?」
「そうです。つまり、その肉体の持ち主として生活することになります」
フランソワの説明は、混乱に拍車をかけた。質問を箇条書きにしたいくらいだ。
「でも……その肉体の中で、本当の持ち主と俺の意志が重なるじゃないか」
「いえ、今説明した通り、死ぬことが決まっている肉体ですから、意志が重複することはありません。完全に一人の人格として生きていくことができます」
フランソワの説明は、いまひとつ納得できなかった。元の人格はどうなってしまうんだ?
「まあ……元の体に戻れないってデメリットはあるけど、元の世界で生きていくには仕方ないと思うしかないか……」
自分でも驚くくらいに心が落ち着いていた。あまりに何度も、自分の体が燃えてしまったという言葉を聞いたので、どこか感覚が麻痺しているのかもしれない。もはや、こんな状態で俺がここにいることについて、エリーを責める気持ちも薄らいでいる。フランソワの説明に不安な部分がないわけではないが、どういう形であれ、元の世界に戻れるという事実が俺を元気づけていた。フランソワは、意外そうな顔で俺を見ている。これまでの態度から、また怒って文句を言われると思っていたに違いない。こうなったら、できる範囲での最良の方法を考えて、少しでも早く、元の世界に戻ってやる。
「それで……提示するっていうのは、どういう意味だ?」
さっきフランソワは、「こちらが提示した中から、好きな体を選択することができる」と言ったはずだ。しかし、そもそも、そんなに都合のいい肉体があるのだろうか。
「私からは、提供できる肉体のリストをお見せします。その中から、この肉体でなら、元の世界で生きてもいいと思えるものを選んでください。もちろん、女性を選んでも結構です」
フランソワは、冗談ともつかない口調で言った。おそらく本気だろう。そんなもん選ぶか!
「そのリストっていうのは、もう準備できてるのか?」
「もちろんです」
そう言って、フランソワが右手を目の前にあげると、そこには、恐ろしく分厚い、黒いカバーの本が載っていた。表紙には〈担当者全リスト 2017年8月〉と書かれていた。
「ここには、これから亡くなる方――すでに亡くなっている方もいますが……」
フランソワは、ちらっと俺を見た。
「いいから話を進めてくれ」
「これから亡くなる方がすべて記載されています」
フランソワが本を開くと、目も眩むくらい細かい文字で、びっしりと人の名前が書かれている。前に見た、エリーが担当している地区の人数とは比べものにならない。中には、英語で書かれているものもあった。
「こんなにいるのか!」
「それはそうです。寿命や病気で亡くなる方の他に、事故や事件に巻き込まれて亡くなる方もいらっしゃいますから」
「こんな多くの中から選ぶのかよ」
俺はフランソワからずっしりと重い本を受け取ると、パラパラとめくっていった。名前を見ていくだけで、何年もかかりそうだ。
「すべてを見る必要はありません。ある程度までは絞り込んでいきましょう」
「絞り込む?」
「ええ。新條さんは、男性と女性のどちらに生まれ変わりたいですか?」
「どっちって……」
頭の中では、昔観た映画が浮かんでいた。男女が入れ替わってしまい、女性の体に入った男の子が、自分の胸を揉んでいたっけ……。
視線が気になって横を見ると、エリーが心なしか冷ややかな目をしている。ひょっとして、想像を読まれたか。
「そ、そんなの、男に決まってるじゃないか」
本心ではあるものの、焦って言っている自分が妙に恥ずかしかった。
「では、年齢はいかがですか? 0歳から90代まで選べますが」
「老人は嫌だな。小学校からやり直したい気持ちはあるけど、やっぱり死んだ時と同じ年齢がいい」
「わかりました。とりあえずは、男性の20歳から25歳までに絞りましょう」
フランソワが宙に文字を書くように指を数回振ると、本の厚さが最初の半分以下になった。
慌ててページを開くと、本当にその条件に該当する人しか載っていない。
「あと、外人はやめてくれ。日本人のままがいい」
「わかりました」
再びフランソワが指を振ると、さらにページが減った。
「他にご希望はありませんか?」
何かあるだろうか。色々考えた末に、関東近県の出身者に絞った。今更、北海道や沖縄出身になっても文化が違い過ぎて、悩むこともあるだろう。
それでも、リストの一番最後には、823人と書かれていた。こんな人数の中から選べるだろうか。
「ちょっと多過ぎるな。俺と同じ年齢の人だけにしてくれ」
その結果、対象者は147人までに絞られた。
「少し加工しましょう」
フランソワがリストに手をかざすと、ページをまたいで、文字が動き始めた。
「おおっ!」
『千と千尋の神隠し』でしか観たことのない光景に、俺は息をのんだ。神は万能だ。
文字が収まると、職業でカテゴライズされたリストになっていた。しかも、職業も五十音順という親切さだ。
〈アスリート〉で始まるリストの冒頭には、オリンピックで銅メダルをとった選手の名前が書かれている。
「駒井選手、死ぬのかよ!」
「記載があるということは、そうなんでしょう」
 あんなに元気そうで、この間まではテレビのコメンテーターをしていたのに……。
〈俳優〉の欄には、ドラマやCMで売り出し中の若手の名前がある。その他、ドラフト一位で人気球団に入った野球選手や、チケットの入手が困難なアーティストの名前もある。週刊誌の記者が見たら、飛び上がって喜ぶような代物だ。
「……誰でもいいのか?」
「そうです。歌手になって注目を浴びることもできますし、役者になれば、女優と結婚できる可能性もあります。もちろん、普通の大学生や社会人も選択肢としてはありますが……」
〈学生〉の項目を見ると、様々な大学の学生が記載されている。俺と同い年で亡くなると思うと、いたたまれない気持ちになった。彼らは、俺と違って生き返ることはできないのだ。
そう思うと、切なくなり、すぐにその項目を飛ばした。
「たとえば、たとえばだぞ……」
人物を特定してしまうと、その場で決まってしまいそうな怖さがあり、俺は慎重に言った。
「ここにある俳優の沢田流星を選んだとする」
沢田流星は、ミーコのお気に入りの俳優だ。まさか死ぬとは誰も思わないだろう。
「そうしたら、俺は外見だけは沢田流星で、考え方とか、意識は俺ということになるのか?」
そうだとしたら完璧だ。ミーコの好きな顔を手に入れて、そのままこれまでと同じように付き合えるのだ。ミーコが、俺の顔ではなく、はるかに整っている沢田の顔を見ているということが気にはなるが……。
しかし、フランソワは、少し顔を曇らせた。
「そういうわけでは……」
これまで冷静に話してきたフランソワの口調が鈍った。こういう時は何かある。俺の中で、不吉な予感が膨らむ。それでも、これ以上、悪いことは起きないだろうという希望的観測はあった。
「フランソワ、正直に話せよ。もう、元の体に戻れないことがはっきりしてるんだから、これ以上、悪いことなんてないだろ」
俺はあえて明るく言った。そうだ。これ以上、嫌なことがあってたまるか。
あるのか……。
フランソワは、顎に手を当てて考えている。隣を見ると、エリーもフランソワを凝視している。彼女でさえ、何がフランソワの口を固くしているのか分からないようだ。
「そうですね。どちらにせよ、お伝えしなければならないことですから」
正直に話せと言っておきながら、聞きたくないと思った。今のフランソワのセリフに希望を見出すことはできない。それでも、自分の身に起きることなのだからと、気持ちを奮い立たせた。
「体及び外見は、亡くなる方――今で言うと、沢田さんのものになります。そこに新條さんが入っていくわけですから、新條さんの意識が残ります」
緊張感が抜けていくのがわかった。俺の意識があるなら、何の問題もないじゃないか。
「お、おどかすなよ。そんなに勿体ぶって言うことじゃないだろ」
エリーも深く息を吐き出している。さすがに責任を感じて、俺と同じ気持ちになってくれているようだ。
それでも、フランソワに躊躇いが見える。
「おい、何だよ、フランソワ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
「ええ。その……意識は残るのですが、それは一時的なもので……」
「一時的?」
フランソワの言葉が理解できなかった。では、その一時的な状態が過ぎたらどうなるんだ?
「わかりやすく言ってくれ」
こんなにも絶望を感じたのは初めてだった。俺は、おそらく、フランソワの言葉の続きに想像がついている。頭が、それを認めたくないだけだ。それでも、フランソワから聞くまでは信じたくなかった。この期に及んで、俺は微かな希望を持っていた。
「新條さんが自分の意識を保っていられるのは、5分間だけです」
「5分……その後は……どうなるんだ?」
声が掠れる。
「元の持ち主のものに統合されます」
エリーが息を呑むのがわかった。俺は息が止まった。
「時間になると……新條さんの意識は消えていきます」
「……消えるって……」
どう言っていいのかわからない。それは、俺が死ぬこととどう違うのだろう。俺の意識が沢田のものに統合されるということは、沢田が、そのまま生き続けるということじゃないか。
「待てよ……。沢田は死ぬんだろう。それなのに、何で意識が戻るんだよ」
「沢田さんは、このリストによりますと、車を運転中、交通事故で亡くなることになっています。見通しのいい道ですが、ちょっと携帯に目をやった後に前を見ると、小さな女の子が赤信号で飛び出してくるのです。その子を避けようとして大きくハンドルを切ったところ、ガードレールに衝突し、そのまま命を落とします」
ここまで死ぬことが決まっているというのも恐ろしい。具体的すぎて、かえって現実味が乏しいくらいだ。
「だったら、意識が戻ることなんてないじゃないか」
「いえ、新條さんは、沢田さんがガードレールにぶつかって、命を失った瞬間に、その体に入ることになります。その結果、沢田さんは一瞬にして命を受け継ぎ、何事もなかったかのように車から降りて、女の子の安否を気にすることになるでしょう」
「その時は、沢田の体に入った、俺の意識になってるんだろう?」
「そうです。ただ、外見的には、沢田さんは九死に一生を得たということになります。そう考えると、沢田さんは、沢田さんそのものでなくてはならないのです」
「でも、沢田は死んだんじゃないか!」
「私たちの感覚では、ということです」
フランソワは、言いづらそうに言葉を継いだ。
「新條さんは、沢田さんと同化して、沢田さんの人生を生きることになります」
「……でも、意識がないんじゃあ、死んだと同じじゃないか」
「それは……」
「それじゃあ、生き返ったことになんてならないじゃないか……」
さっきまでの俺だったら、フランソワを罵っていただろう。ただ、ここまで絶望的なことを言われると、怒る気すらなくなる。結局、エリーが間違えた時点で、どうやっても俺は死ぬ運命だったんだ。
その時、エリーが声をあげた。
「そんなのひどすぎます。どうにかならないんですか!」
フランソワが驚いてエリーを見た。あれほど、おどおどしていたエリーが文句を言うなんて……。
「新條さんが死んでしまったのは、私の責任です。その代わりの提案が、死ぬはずだった人に取り込まれてしまうようなものでは、あまりに申し訳なくて……」
エリーが泣いていた。でも、俺の心に、エリーの涙は響かなかった。エリーが記号を見落とさなければ、俺は今頃、ミーコと普通に話していただろうし、これから死んでいく人たちのリストを見ることもなかっただろう。エリーが怒ったり泣いたりする分、俺の心は冷静になっていった。
「新條さん、本当にこれしか方法はないんです。新條さんに戻る肉体がない以上、他の人の肉体を借りるしか」
「二度、死ぬようなもんだな」
「え?」
エリーが真っ赤な目で俺を見ている。
「だって、そうだろう。俺は一度死んでここにいる。二度目は、誰かの体に入って、意識を失う時だよ。なあ、今までに二回も死んだ奴なんているのかよ! しかも、痛みもなく、よその誰かに取り込まれた奴なんかよ!」
冷静になっていたはずの、俺の心の中で何かが弾けた。あまりに理不尽なことばかりで、これまでは感覚が麻痺していたとしか思えない。俺は、そんなに忍耐強い人間じゃないんだ。
「あんたたちの間違いのせいで、何で俺が二度も死ななきゃならないんだ! おい、エリー、元々はお前のせいだぞ! 申し訳ないとか言って泣いてんじゃねーよ! 泣きたいのは、俺の方だよ。お前は、すいませんって言ってればいいかもしれないけど、こっちは人生かかってんだよ。こんな情けない死に方なんてあるかよ。ふざけんなっ!」
俺は手にしていたリストを叩きつけた。それでも、天国の地面は柔らかく、ふわっと浮くような感じになっただけで、そのことが俺の怒りを増幅させる。
「大体、誰にでもなれるとか言って、意識がなけりゃ、意味ねーじゃないか! 結局は、死んだはずの奴が生き返るだけの話だろ。俺の命を、何で死ぬ奴にくれてやんなきゃならねーんだ。そんな体なんて、いらねーよ。沢田でも誰でも、運命に従って死ねばいいんだ。俺が命をくれてやる筋合いなんてないんだよ!」
そう言って、俺は二人に背を向けた。そのまま、振り向きもせずに、真っ白な世界をどんどんと進んで行った。頭の中では怒りが渦巻いていた。本当だったら、楽しく過ごしているはずの人生が、とんでもないことになった。それが、自分の不注意ならまだしも、天使に勝手に間違えられて、すでに還るべき肉体もない。生き返るには、他人の体が必要で、最終的には意識もなくなるなんて、残酷なことこの上ない。
一向に変わらない景色の中で、何か別の方法はないか、もっと納得できるやり方はないかと考えていた。しかし、こんな突拍子もないことを誰が信じてくれるだろうか。天使の間違いで死んでしまったなんて、誰が真面目に受け取って……。
そうだ。あいつがいた。あいつなら、きっと何とかしてくれる……かもしれない。
少しだけ希望が湧いて、俺はもう一度、来た道を引き返し始めた。



「生きている人に会いたい?」
「ああ。別に、そいつの体に入るわけじゃない。今の、このおかしな状況を説明して、解決策を考えてもらうんだ」
俺の言葉に、さすがのフランソワも戸惑いを隠せないようだ。
「……もし……もしですよ、そういうことが可能だとしても、新條さんの声は、その人には聞こえませんよ」
「いや、多分、聞こえる……はずだ……」
我ながら、自信をもって言えないところがつらい。しかし、こんなこと、誰も経験がないんだから仕方ないだろう。
「それに、もし、俺の声が聞こえなかったら、どうしようもないんだから、その時は大人しくここに帰って来るよ」
フランソワは眉間に皺を寄せている。もっと悩め。少しは、俺の苦しみを理解しやがれ。俺はいつになく攻撃的に考えていた。
「これだけ俺の人生を狂わせてるんだ。それくらい融通を利かせてくれてもいいだろう。何しろ、体まで燃やされちゃったわけだしな」
あえて、さりげなく言ってみる。こういう言い方の方が、フランソワには堪えるはずだ。俺は駆け引きを楽しみつつあった。いや、むしろ、サディスティックな気分が芽生えてきたと言った方がいいかもしれない。フランソワの苦しげな表情が、無性に愛おしい。エリーは、相変わらず、フランソワの隣で黙っている。ひょっとしたら、攻撃の矛先が自分に向くのを恐れているのかもしれない。
「分かりました。でも、これは特例です。今回限りということを約束してください」
フランソワが、苦虫を噛み潰したような顔で、声を絞り出した。久々に胸がすくような気分だ。こんなことで快感を覚えてしまっていいのだろうか。
「それから、地上で会う人は一人に限ります。接触する人間が増えれば増えるだけ、良からぬ噂が立つ可能性が高まりますから」
「SNSなんかにあげられたら洒落にならないからな」
軽い口調で言ったが、フランソワは神妙な面持ちで頷いた。本当は、真っ先にミーコに会いに行きたいところだが、俺の姿は見えないだろうし、まずは確実に俺を認識できる奴のところを優先するべきだろう。
「地上にいる時間は3日間です。また、エリーも連れて行ってください。何か間違いがあってはいけませんので」
「間違いがあって、俺はここにいるんだけどな」
このくらいの嫌味は許されるだろう。案の定、フランソワもエリーも無言になった。
「あと、もう1つ、条件があります」
 フランソワが威厳を保つように言った。
「条件?」
「はい。地上に戻ると、多くの人を目にすることになります。例の死亡者リストはエリーが持っていますので、3日の間に同化する相手を見つけてほしいんです」
「短か過ぎないか?」
「そうですが、どこかで期限を切らないと決められないでしょう。どうしても見つからない場合は、こちらで人選を行うことになってしまいます」
「強引だな……」
 そうは言ったものの、期限がなければ、いつまでも天国をぶらぶらしてしまいそうだ。
「わかった。なるべく見つけるようにするよ」
「……だ、誰に会うんですか?」
嫌々だろうが、俺について来ることになったエリーが、恐る恐る尋ねてくる。
「小学校からの友達で、そういうことには滅法詳しい奴だ」
というか、むしろ、そういうことにしか詳しくないのだが……。

「それで、どうやって地上に行くんだ?」
ようやく、フランソワとの打ち合わせを終えたエリーに声をかける。二人にしても初めてのケースだろうから、難しいこともあるのだろう。もちろん、そんなこと俺には関係ない。
「その前に、これを着てください」
フランソワの後ろから、綺麗に折りたたまれた黄色い布をエリーが差し出してきた。
「何だ、これ?」
広げてみると、ポンチョのような形で、頭からかぶるようになっている。どう見ても、小学校一年生の雨の日の格好だ。
「こ、こんなダサいの着れるかよ。コスプレか!」
思わず、エリーに突き返す。
「それは着てもらわないと困ります」
戸惑い気味のエリーに代わって、フランソワが言った。
「そうしないと、地上に戻った途端に、新條さんは消滅してしまいますから」
「消滅する?」
「ええ。今の新條さんは、いわば魂だけの存在です。ここにいる分には問題ないのですが、地上では、魂だけでは存在できません。もし、魂だけが地上に降りると、地上を覆っている神の網に異物として認識され、瞬時に消されてしまいます。この領布(ひれ)は、肉体代わりになってくれるものです。ですから、これを着ている間は安全です」
「じゃあ、もし、風なんかで吹き飛ばれたら、俺は消滅しちゃうのかよ」
「いえ、私たちが地上の現象に影響を受けることはありません。たとえ台風の日でも、私たちが風を感じることはないのです」
「そっか。死んでるんだもんな……」
安心すべきところだろうが、改めて死を意識しないわけにはいかなかった。
でも、ここで落ち込んでいるわけにはいかない。
「わかった。着ればいいんだろ」
俺は似合わないという思いを無理やり意識の外に追い払い、情けない格好になった。
「いいぜ、行こう」
その言葉に続いてエリーが俺の手を握ったかと思うと、俺は眩い光に包まれた。咄嗟に目をつぶったが、それでも目が痛いくらいだ。光が弱まったようなので、恐る恐る目を開けると、俺とエリーは渋谷のスクランブル交差点に立っていた。
「ここは……」
「どこに降り立てばいいかわからなかったので、メジャーなところにしてみました」
そこでは、いつものように大勢の人たちが行き交っていた。交差点の真ん中に立って。行き交う人を撮影する、邪魔なことこの上ない観光客の姿もある。人並が押し寄せてくるので避けようとしたが、彼らは俺とエリーの体をすり抜けて行ってしまった。
「あの……私たちは存在しないので、避ける必要はないんです」
エリーが、おどおどしながら言った。一応、納得はしたが、その後も反射的に避けてしまうばかりだった。
「人とぶつからないっていうのも、かえって歩きづらいな」
懐かしい場所に帰ってきて、俺は大きく息を吸い込んだ。だが、空気を吸い込んだ気がしない。不思議に思って何度も呼吸を繰り返すが、空気の流れは一切なかった。
隣を見ると、エリーが悲しそうな表情で見つめている。それを見て、存在しない以上、呼吸の必要もないんだと悟った。
「さて、行こうか……」
俺はちょっとした寂しさを悟られないように、明るく言った。そもそも、今回の目的は地上を満喫することじゃない。
「どこに行くんですか?」
「東中野だ」
「じゃあ」
そう言って、エリーが手をつなごうとした。
「おっと待った」
「はい?」
「せっかく地上に来たんだ。生きている時と同じように動きたい」
俺はそう言うと、渋谷駅に向かった。どうせ電車だってタダなんだ。
駅で時間を確認すると、午後2時だった。
「ところで今日は何曜日なんだ?」
「日曜日ですね。ちなみに、新條さんが亡くなってから3ヶ月経っています」
「3ヶ月?? この間、俺の体が焼かれるのを見たばかりじゃないか」
「天国と地上の時間の進み方は違います。地上では、天国の10倍の速さで時間が進むと考えてください」
「お前、そういうことは最初に言えよ」
冗談じゃない。うかうかしてると、知り合いがみんな老人になってしまう。不本意だが、解決策が見つからない場合は、早めに代わりの肉体を決めることになるんだろうか。

 東中野駅で降りて、裏寂れた通りをゆっくりと歩いた。嫌になるくらい歩いた道だが、今では無性に懐かしかった。
「あの……お知り合いの方ですが、土曜日のお昼過ぎに家にいるんでしょうか?」
「大丈夫だ。絶対にいる」
俺は自信満々に言い切った。そもそも、あいつが外出することをイメージできない。小学校の時は、野球部のキャプテンを任されていて、真面目に練習に参加しない俺を煙たく思っていたはずだ。ところが、同じ中学に進み、何かの拍子で話したことがきっかけで、いつしか仲良くなっていた。中学でも野球部に進んだあいつ――平松亘――と帰宅部の俺、そして俺の葬式にも来ていた井原の三人は、いつも一緒にいた気がする。性格は見事に違っていたが、それがよかったのかもしれない。
 色白だった井原はクラスの中心にいるようなタイプで、学級委員長などを任されても、そつなくこなしていた。いつも分厚い眼鏡をかけていたが、大学入学を機にコンタクトに変えて洒落っ気づいた。平松は相変わらずの坊主頭で、友達と話すときは黒目がちの瞳でじっと見てくるので、ちょっと怖いやつだと思われていたようだ。
 一方で、俺はあまりクラスに馴染めず、一人でいる方が格好いいと思っている風を装っていた。本当は友達の輪に入りたいのに、入れてほしいという言葉を口に出せないままだった。
 そんな俺たちだったが、不思議と話が合った。高校、大学とバラバラになってしまったが、いつも連絡を取り合い、何かあるとすぐに集まった。俺に日本酒の味を教えてくれたのは平松だ。
 しかし、そんな平松は、大学に入学してしばらくすると引きこもってしまった。ただ精神的に不安定になったとか、二次元の世界にはまってしまったというわけではない。
「世の中には、外にいたら分からないことが多いんだ。やるなら雑音を排除して、本気で取り組まなきゃいけない」
あいつは明るく言って、それを実行に移した。大学では学部に関係なく、興味のある講義だけを熱心に受けていた。だから、引きこもりと言っても、外部との連絡を遮断したわけではなく、たまに気晴らしに外で飲むこともあれば、買い物に行くことだってある。
「そういう意味では、俺は純粋な引きこもりじゃないんだ」
そう自慢げに言っていたことが思い出された。自分がはまっていることに、誰も理解を示してくれない中、堂々と言い切れるのは大したものだ。今回はそれが役に立つはずの初めてのケースだ。
「ここだよ」
俺はエリーに、目的の家を指差した。そこは古い一軒家で、一階には中華屋の薄汚れた看板がかかっている。小学校の時は、平松の両親が鍋を振っていて、随分繁盛していた。 
 息子の大学進学を機に、昼だけの営業に切り替え、故郷の松本との二重生活を送っているはずだ。その実、息子の奇矯な振る舞いに疲れ果て、故郷に引っ込む時期を模索しているのだと俺は疑っている。
厨房を覗くと、年老いたおじさんが汗だくで炒飯を作っていた。それを見て、俺は久々に食欲を覚えた。おそらく、もうすぐ焼きあがるだろう餃子は、強烈にニンニクが効いていて、一度食べたら忘れられない味だ。食べることのできない今となっては目の毒だろう。
ため息をつきながら、シャッターの脇にある茶色い木戸を横に引こうとしたが、触れることができなかった。
「そのまま歩けば大丈夫です。通過できますから」
エリーが横から教えてくれた。まるで映画の世界だ。
俺は恐る恐る木戸に手を伸ばした。すると、何の感触もなく、肘から先が木戸の向こうに消えた。思わず手を引いて眺めて見たが、何の変化もなかった。俺は死者だという認識を新たにして、覚悟を決めて頭から木戸に突っ込んでみる。一瞬、視界が遮られただけで、俺の頭は無事に木戸の向こうの世界に抜けて、二階へと続く鉄の外階段が見えた。
すり抜けた全身を確認していると、エリーが何事もなかったかのように俺の隣に立った。
「お友達は二階に住んでいるんですか?」
「ああ、そうだ」
俺は慣れ親しんだ外階段を登り始めたが、昔、よく聞いたはずの鉄の響きはするはずもなく、ふわふわした感じで、あいつの部屋を目指した。
靴を脱ぐ必要もないので、そのまま狭い靴脱ぎ場を過ぎ、部屋の前に立った。死んでから、初めて、自分の意志で友達に会えるかと思うと、少し緊張する。
「あの……この匂いは何ですか?」
「ああ」
慣れていたので感じなかったが、改めて意識すると、アジアンの濃厚な香りが漂っている。部屋の前でもこれほど臭うのだから、部屋に入ったらエリーは吐くかもしれない。天使が吐くかどうかは知らないが……。それにしても、風などの自然現象は感じないのに、匂いを嗅ぎ取ることができるのは驚きだ。
「平松」
聞こえるはずがないと分かるのに、少し時間が必要だった。そんなちょっとしたことが、思いの外、衝撃だった。エリーの心配そうな顔を横目に部屋のドアに頭から入っていく。
「これは……」
案の定、エリーは小さな手で口と鼻を覆った。そういう俺だって、この匂いには慣れることができない。しかし、人間の鼻は鈍感で、ものの数分で、この匂いを感じなくなることも分かっていた。
大学に進んだ平松は、暇さえあればアジア諸国をさまよい歩き、現地で扱われている匂いのする液体やら香木やらを大量に買ってきて、それらを調合するのを趣味にしている。本人はアロマだと思っているようだが、その理解者は、まだ現れない。それよりも、こんな匂いのするものを買ってきて、よくも税関で没収されないものだと、俺は常々不思議に思っている。
「個性的な部屋ですね」
室内を見まわしていたエリーが、ぼそっと呟いた。
平松の部屋は八畳ほどの和室で、道路に面した窓の前に妙にどっしりとした焦げ茶色の机が鎮座している。おそろしく奥行があるので、窓を開けることは叶わない。その上には、ページがよれた本が山のように積まれ、片隅には、最近は見かけることのないラジカセが置いてある。部屋に流れている何語だかわからない摩訶不思議な音楽は、平松が独自に編集した渾身のカセットテープによるものだ。
 部屋の両脇には、これも年代を感じさせる本棚があって、天井までの高さを誇っているので、凄まじい圧迫感だ。そこに並んでいるのは、『古代宗教に学ぶイタコの呪術』『ボールペンで描く魔法陣』『犠牲鳥の捌き方』など、普段の生活では目にすることのない、そして、とても役に立つとは思えない書籍ばかりだった。
 そんな息も詰まるような一室で、平松は窓に向かって胡座をかいている。
 どこで調達したのか、袈裟のようなものを身にまとい、手には黒光りする数珠が握られている。机の上には地球儀ほどの大きさのある水晶が、紫色の小さな座布団のようなものに載せられている。怪しげな物ばかりだが、こうした物に金を惜しまないのが平松だ。この水晶など間違いなく偽物だろうが、おそらく五十万ほどは出しているはずだ。購入費用がどこから出ているのかは、いまだに謎である。
 そんな男を前にして、エリーも少したじろいだのだろう。珍しく俺の横に張り付いて、平松とは距離を置いた。
「あの……この方は何をやっているんでしょうか」
「瞑想だ」
「瞑想……」
「目をつぶっているのは集中している証拠だから、しばらくこのままでいよう」
エリーは雰囲気に飲まれて囁くように聞いてきたが、俺もそれに負けないくらいの小声で言った。平松にとって、瞑想イコール死者の魂と交信できる貴重な時間なのだ。しかし、これまで死者と交信できたという話を聞いたことはない。俺との会話こそが、平松が長年憧れてきたものなのだ。
 俺は懐かしくなって、平松の隣に座った。かたく目をつむり、何やらブツブツ言っている。どうせ本棚にあった『霊界言語のABC』で覚えた念仏でも唱えているのだろう。
 こんなことを真面目くさってやっている変人だが、俺は昔からの仲間に会えて純粋に嬉しかった。整えられることもない剛毛と、薄汚い無精髭ではあるが、油断すると抱きつきたくなってくる。一緒に飲んだくれた頃を思い出しながら、平松の毛深い腕を見ていると、突然、机を叩いて立ち上がった。
 そして、くんくんと部屋の匂いを嗅ぐように頭を左右に振り始める。しかし、目をつぶったままだから、不気味なことこの上ない。
「この人、大丈夫ですか」
エリーが胡散臭そうな目で平松を見て言った。
「誰だ!」
平松が怒鳴った。
俺とエリーは固まった。こいつ、俺たちが見えるのか? いや、目は閉じたままだから、気配を感じたのだろうか。エリーを見ると、ただでさえ白い顔が?のようになっている。
「ふふん、臭うぞ。この匂いは女だな。それにしては、別の匂いが混じってるな。どこかで嗅いだことがある気がするが……?」
平松、お前は天才だ。いつしかおかしな宗教にはまってしまった可哀想な奴だと同情したこともあったが、まさか本物だったとは!
「彷徨いに彷徨って、ここに辿り着いたのだろうが、私は今、瞑想中だ。そのため、まだしばらく目は開けられん。その間、大人しくしていろよ」
平松は、目を閉じたままニヤリと笑うと、再び座り込んで呪文を唱え始めた。今では、その呪文さえ神々しく聞こえるから、不思議なものである。
エリーが、神経を集中して、やっと聞き取れるほどの小さな声で俺の耳元に囁いた。
「この方、私たちの存在が分かるんでしょうか?」
あのエリーでさえ、平松を〈この方〉と呼び始めた。
「その可能性はあるな。ちなみに、これまで、エリーの存在に気づいた人間っているのか?」
「いるわけないじゃないですか。そもそも……」
「やかましい!」
再び、平松が怒鳴った。
「私の瞑想の邪魔をするなら出ていけ。大人しくしているなら、あとで、しっかり成仏させてやる」
この囁き声すら聞き取るとは……。成仏させられては困るが、これで平松に俺たちの声が届いていることは確実だ。俺たちは、平松の有難い呪文が終わるのを静かに待つことにした。
驚いたことに、平松の瞑想はそれから一時間にも及んだ。幽霊を待たせることに、いささかも動じていないことがもはや頼もしい。
「怨霊退散!」という気合いとともに、平松の呪文は終わったようだ。いつしかカセットテープも終わったらしく、部屋には静寂が訪れた。エリーが背筋を伸ばすのが目に入った。
「さてと……」
平松はゆっくりとこちらに向き直ると、静かに目を開いた。俺は宣託を受けるかのように、平松の目を見つめる。視線が合った瞬間……。
「ぎゃーーーーーーー!!!!!」
平松の凄まじい絶叫が空気を震わせた。あまりの音量に古い窓ガラスが振動している。と同時に、
「きゃーーーーーーー!!!!!」
平松の叫び声に驚いたエリーの金切り声が響く。平松はエリーの方を向くと、大きく目を見開いた。
「だ、だ、だ、誰だ、おまえは!」
本物だ……。こいつには、俺たちが見えている。感動の再会だ。口を開こうとすると、平松が急にこっちを振り向いた。
「まあ、誠。わ、悪かった。俺が悪かった。葬式には行くつもりだったんだ。ただ、お前の不幸を聞いたのが、ちょうど旅行中だったから、すぐに帰れなかった。ほ、本当だ」
平松は、這ったまま手元にリュックを引き寄せて中を漁ると、香典袋を取り出した。
「ほ、ほら、ちゃんと用意してたんだ。ただ、何となくお前の家に行きづらくて……。だ、だから、頼むから呪わないでくれ。南無阿弥陀南無阿弥陀」
こいつ……。さっきまでの堂々とした雰囲気はどうした? 一瞬でも平松を信じた自分に嫌気がさした。それでも、今、頼りになるのは、この男しかいない。俺は笑みを浮かべて平松に近づいた。
「いや、平松、待ってくれ。実は……」
「く、来るなーーーーーーー!!!!」
平松は、後ずさりして思い切り机にぶつかると、そのまま机の上に乗って、窓を全開にした。
「おい、落ち着け。危ないぞ!」
部屋に引き戻そうと手を伸ばした瞬間、平松は窓の外に身を投げた。

    10

「この人、本当に大丈夫ですかね」
軽蔑したような眼差しを平松に向けて、ぽつりとエリーが言った。
二階の窓から身を投げたものの、今、平松は静かに自室の布団で眠っている。彼が身を投げた窓の下には小さなトラックが停まっていた。どうやら、お隣さんが引っ越すようで、軽トラを借りて家財道具を積んでいたのだ。ちょうど、ベッドのマットレスを積み込んだところだったらしく、平松は運良く、その上に落ちたのだった。
 まるでコメディドラマのようで嘘みたいな展開だが、天使が間違って人を殺している事実が起きている以上、人のことは言えない。
引っ越し作業中の住人も驚いたに違いない。大声で叫んでいるところへ、騒ぎを聞きつけた平松の親父さんが飛び出してきて、軽トラに積まれたマットの上に横たわる息子を見つけた。その後、意識を失っていた平松は自室に運ばれ、今、俺の目の前にいる。
「取り乱すのは、普通の反応なんだろうけど、その前が威厳たっぷりだったからなあ」
いくら霊界への興味が強いとはいえ、本物を見るのは初めてだろう。そう思うと気の毒ではあるが、会話すらできないのでは話にならない。
「こいつが目を覚ました時に話しかけても、さっきと同じ反応だろうなあ」
「そうですね。下手したら、今度こそ、あの世行きですね」
「こいつが驚かない方法を考えてくれよ」
「難題です。私たちから逃げるために、窓から飛び降りるくらいですから……。どこか、危険のないところで改めて話したらどうでしょう」
「危険のないところかあ」
命を危険にさらすことがなく、しかも、絶対に逃げられない場所。
「ひとつ、あるにはあるけど……、あんまり気乗りしないなあ」
「どこですか? 私ならどこにでも行きますよ」
「うーん。エリーはついてこない方がいいと思う」
「ここまで来て、除け者にしないでくださいよ」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「おかしな部屋で、気持ち悪い呪文唱えてるかと思えば、窓から飛び降りる変人ですよ。これ以上、何があっても平気ですから」
あまりの言われように親友としては心が痛むが、本当のことだから仕方ない。しかし、生きている人間で、相談できる相手と言ったら、今、目の前で寝ているこいつしかいない。
「まあ、変わってるのは事実だけど、俺の友達なんだから、そんなに悪く言うなよ。話すといいやつだから」
 エリーは疑い深そうな表情で俺を見たが、あえて無視する。
「……じゃあ、一緒に行こう。その時になって、気が変わったら言ってくれ」

ここはどこだ?
平松は、ゆっくりと体を起こした。
俺の部屋? 何で? そもそも、何で俺、寝てるんだ?
ゆっくりと記憶を辿ると、全身に悪寒が走った。慌てて部屋を見回す。しかし、そこはいつもと変わりのない、見慣れた自分の部屋だった。
「……そうだよな。誠、死んだんだもんな」
声に出してみると、三ヶ月前に連絡を受けたことが思い出された。タイにいたところ、井原から電話がかかってきて、誠の不幸を知ったのだった。取り乱す井原の声を聞いたのは、あれが初めてだったかもしれない。それにしても、誠もあんなに元気だったのに……。死ぬときなんて呆気ないものだ。タイの雑踏の中で、空を見上げたら涙が出てきた。長年、一緒にいた友達が、こんなに早く死ぬなんて、想像もしていなかった。その割に、数ヶ月経っただけで思い出すことも少なくなっている俺は、薄情な人間なんだろうか。こうして、いつかは忘れてしまうのだろうか。
「お前、冷たいよって、言いに来たのかな」
小学校中学校と同じ学校だったが、話し始めたのは、中学になってからだった。それまでは、どこか自分とタイプが違うやつだと思っていたのに、何がきっかけかは思い出せないが、気づくと誰よりも仲良くなっていた。
「就職も決まって、これからって時に……」
誠を轢いたのは、仮免許中の大学生だったそうだ。俺が葬儀に列席できていたら、『呪いのいろは』で習得した、最高難度の呪文を唱えてやろうと思っていたのに、後から井原に聞いたところ、さすがに顔は出さなかったようだ。警察にいたのかもしれない。
煙草に手を伸ばして火をつける。夢に出てきた誠があまりにリアルだったので、紫煙を吸って心を落ち着かせる。
肺に含んだ煙を吐き出すと、腹部に痛みを感じた。
「最近、胃の調子悪いなあ。医者にでも行くか」
俺だって、知らないうちに病気になってるかもしれないしな……。独り言ちると、腹痛が激しくなってきた。顔をしかめてタバコを灰皿で揉み消し、部屋の外にあるトイレに向かった。急いでベルトを外しながら、トイレのドアを開けて腰を下ろす。
「ふー」
顔を上げると誠がいた。
「ぎゃーーーーーー!!!!!!!」
腰を上げたくても、出始めたものは止まらない。
「く、来るな! 誠、血迷ったか!」
「……平松」
「わーーーーーー!!!!!」
「落ち着け! 何もしないから、話を聞け」
俺は無意識のうちに目を閉じて、悪霊退散の呪文を唱え、印を結ぶ。
「そんなおまじない無駄だって」
おそらく目の前にいるはずの誠が笑いながら言った。こんな時に、幽霊でも笑うということが分かって何気に嬉しい。そんなことを思っていると、不思議と心が落ち着いてきた。
このままでいても、誠は消えないだろう。恐る恐る目を開ける。そこには、困ったような顔をした誠がいた。
「お前の用を足す姿なんて見たくないから部屋で待ってるぞ。もう、大声出すなよ」
そう言うと、誠はドアをすり抜けてトイレから出て行った。
「やばい、本物だ……」

「叫び声、聞こえましたけど」
部屋に戻ると、エリーが嫌そうな顔で言った。
「まあ、しょうがないだろうな。それでも、もう落ち着いて、ここに戻って来るはずだよ」
エリーがトイレに同行するのを嫌がったので、平松との正式な顔合わせはこれからだ。
しばらくすると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「自分の部屋なのに、ノックするかね」
苦笑してドアを開けようと立ち上がったが、ノブに触れられないことを思い出して座り直す。
「平松、いいから入って来いよ」
そう言うと、ゆっくりと扉が開き、恐る恐るといった感じで平松が顔を覗かせた。
「久しぶりだな」
この世界では、数ヶ月ぶりの再会だ。自然と頬が緩む。
それでも、まだ警戒心が解けないようで、そろそろと部屋に入って来ると、俺とはかなり距離を置いて、例の大きなテーブルの前に座った。
「誠……なのか?」
ボサボサに伸びた髪の間から、平松は上目遣いで聞いてきた。
「ああ……」
言いたいことは色々あるのに、無性に胸が詰まってしまい、言葉にならなかった。
「彼女は?」
平松が、俺の横に座るエリー視線を移した。
「何というか……俺が地上にいる間のお目付役だ」
「初めまして。エリーです」
おそらく生きている人間と言葉を交わすのは初めてだろう。エリーは珍しく緊張しながら、異常に短い挨拶の言葉を口にした。
平松は、俺とエリーを交互に見ながら、難しい表情をしている。あまりのことに、何から聞いていいのか分からないのだろう。俺は、平松が再びパニックに陥らないように、これまでの出来事を順を追って説明した。
「……というわけで、お前に会いに来たんだ」
なるべく細かなところまで正確に説明していったので、気がついたら一時間近く経っていた。それでも、平松は難しい顔を崩さない。説明している俺でさえ、夢のような話だと思っているんだから、平松が納得しないのももっともだと思った。
平松は、「分からん」と呟いて、煙草に火をつけた。狭い部屋に紫煙が漂うのを見ながら、どうしたら上手く伝えることができるか考えたが、さっきの説明以上のことができるとも思えなかった。
誰も何も発することなく時間だけが過ぎていく。学生時代は、この時間が好きだった。平松と俺、そして井原の3人は、この部屋に集まってはくだらないことを話し、話すことがなくなると、黙って時計の音を聞いていたのだ。人と会っていて、話さなくてもいいという関係を築くのは、なかなかに難しい。どんなに気が合う仲間だろうが、それができた時に初めて心許せる仲になるのだろう。
「分からん」
俺の思いをよそに、平松は同じ言葉を呟いた。
俺は、やることもなく、ぼーっと本棚を見つめているエリーに話しかけた。
「おい、どうすれば、分かってもらえるんだよ」
「そんなこと言われても、私も初めてのことですし、そもそも、生きている人に理解してもらおうとすること自体が無理なんじゃあ……」
「悲しいこと言うな。何のために地上に来たと思ってるんだよ。元々はお前のミスなんだから、何か考えろよ」
「そんなこと言われても……」
思わずエリーに苛立ちをぶつけてしまったが、俺にはそれくらいしかできることがなかった。
すると、平松が急に立ち上がり、声を張り上げた。
「分からん!」
「いや、だから……」
改めて説明しようとしたが、すでに俺の声は耳に届いていないようだ。
「俺は今まで何をやっていたんだ!」
「ん?」
「親や友達との接触を限りなく減らして、霊との交流を求めて修行してきたんだ。何だったら、俺自身が霊になって人間と接触しようとさえ思っていたんだ。そのために、霊験あらたかなお札や水晶も買った。わかってもらえないだろうが、俺だって偽物だとは知っていたんだ。それでも、何かのきっかけになるかもしれないと思って買ったんだ。
 挙げ句の果ては、中国の奥地で安くはない龍の血を買い求めて、真夜中に炎を前にして呪文を唱えて飲み干した。あの生臭さといったら……。ペルーでは、子猿の脳味噌がいいと聞いて、野生の猿から子供を奪って……。カンボジアでは、生きた山羊の腹を掻っ捌いて、そこに自分の頭を……」
こいつは本物だ。普通の感覚でここまでできない。言っていることは気色悪いことばかりで、それこそ信じがたいが、平松は本当にやったのだろう。その証拠に、平松は色々思い出したのか、顔を真っ青にして嘔吐き始めた。見ているこっちが吐きそうだ。エリーは口を押さえて部屋の外に出て行った。天使の嘔吐シーンなんて、滅多に見られないのだが。
「俺が……俺がやったことは間違いだったのか。全部無駄だったのか。インドで牛とキスしながら舌を噛みちぎったことも、マレーシアで蛆がわくまで熟させたイグアナの肉を食らったのも、すべてが無駄だったのか……」
怒涛の勢いで捲し立てたかと思うと、平松は頭を掻きむしってうずくまった。驚いたことに涙まで流している。それを見ていると、これまで平松が歩んできた苦難の道のりが想像されて、思わずもらい泣きを……するわけがない。
「おい、この変態野郎! てめー、世界を回って、そんな気持ち悪いことやってたのか! 普通、そんなのまやかしだって分かるだろーが。何騙されてんだよ!」
未だうずくまっている平松に容赦のない言葉を投げつける。
「猿殺して脳味噌食わねーだろ。蛆が湧くまで待って食べるのは鴨だけにしとけ!」
さすがの平松も怒ったのか、泣き腫らした目で俺を睨みつけた。
「それが……それが、こんな、何も努力してない奴が……死んだと思ったら可愛い女の子と霊になって出てくるなんて、俺には分からん!」
そこか……。こいつは、トイレで話した時から俺の存在を認めてはいたんだ。ただ、俺が簡単に霊になって現れたこと、ましてや、エリーなんかと一緒に現れたことが気に食わないだけだったのか。一生懸命説明して損した。
「努力してないって……努力はしてないけど、死んだんだぞ。もう、何も触れないし、お前の親父さんが作る餃子も食べられないんだぞ! しかも、それが天国のミスで、地上に帰ろうとしても肉体もなくて……。そんなに俺が羨ましいか! だったら、すぐに代わってやるよ。さっさとお前の肉体よこせ! そうすれば、お前も晴れて霊の仲間入りだ!」
話しているうちに頭にきて、最後には怒鳴っていた。猿を食うのは個人の自由だが、俺は自分の意志とは関係なく死んだんだ。まだまだやりたいことがあったのに。
そう思っていたら、自然と涙がこぼれた。死んでから、涙を流すことなんてなかったのに、平松と会ううちに、もう二度と一緒に時を過ごせないんだと改めて実感していた。死ぬとは、こういうことなんだなと、しみじみと思った。
「ごめん」
俺の顔を見て、平松が謝ってきた。この素直さがこいつのいいところだ。
「そうだよな、死んじゃったんだもんな。葬式のことは井原から聞いて分かってはいるんだけど、こうして元気そうなお前を見てるとつい……」
「元気そうって、お前」
俺は思わず笑ってしまった。これまでに元気そうな幽霊なんていただろうか。
「元気なわけないだろ!」
そう言うと、平松も笑い出した。泣きながら笑う俺たちは、やっぱり親友なんだなと思った。

11

「それで、俺は何をすればいい?」
 以前のように打ち解けてくると、平松は真っ先にそう言った。心なしか嬉しそうに見えるのは、念願叶って霊と交信するどころか、協力できるからだろう。
「とにかく、お前の力が必要だ。お前ができなかったら、他に頼る奴はいないからな」
俺は少し大袈裟に言ってやった。案の定、平松はこれ以上ないくらい嬉しそうな顔をした。興奮で顔が赤く染まっている。単純な奴だ。それでも、平松以外に頼る人がいないというのは本当だった。霊媒師と呼ばれる人種や、テレビでよく見る霊能者なんて、胡散臭いことこの上ないし、そもそも接点すらない。
その点、平松は違う。方向性が間違っているとは思うが、これまで霊について真面目に取り組んできたのだ。こいつなら、何かしらの解決策を示してくれると俺は信じていた。
「復讐だな」
「は?」
「お前を撥ねて殺した運転手に復讐するんだろ? それだったら任せてくれ。確か、この辺りに……」
そう言うと、平松は本棚に手を伸ばし、中から一冊の書物を抜き取ると、そこに挟んであった、朱色の紙を取り出した。
「相手を呪うには、もってこいのお札があるんだ。驚くなよ。ミャンマーに世界最古と言われる仏閣があるんだ。そこには修行の場が併設されていて、半年間の修行に耐えた者には、その人の目的に適ったお札を一枚だけくれるんだ。俺の前に修行を終えた奴は、恋愛成就のお札をもらってたよ」
「何のお札でもいいのか?」
「ん? ああ。安産、就職祈願、交通安全と何でもありだ」
聞いていると日本の神社と大差ないが、こいつのことだから、必死に修行に励んだのだろう。しかし、厳しい修行の果てに手に入れたのが呪いのお札か。こいつ、何に使うつもりだったんだ?
「このお札の裏に、呪いたい奴の名前と住所を書き込んで、毎晩寝る前に枕の下に置いておくんだ。なるべく、そいつが不幸になるような想像を巡らせて眠りにつくと、効果が倍増するらしい。それを七十七日間続けると、願いが叶うんだ」
どうして願う期間がラッキーセブンなのかは謎だが、平松が信じているなら良しとしよう。そもそも、半年も修行してもらったお札を、惜しげも無く俺にくれようとしているのだ。その行為だけは有難く受け取ることにした。俺にはもう、眠るための枕なんてないことには気づかないようだ。
「お前を轢いた奴の住所は分かってるのか?」
平松はどこから取り出したのか、早くも墨をすり始めている。隣に置いた立派そうな筆には、「熊野」の文字が見えた。
「いや、平松、別にそいつを呪いたいわけじゃないんだ」
「え、そうなの?」
平松は墨をする手を止めて、俺を凝視した。妙に眼光が鋭くなっているのは、ある種のトランス状態に近くなっているからだろう。早く誤解を解く必要がありそうだ。
「ああ、特に恨んでる奴もいないしな」
「だったら、俺に何をしてほしいんだ?」
俺は、いまだに平松のことを胡散臭げに見つめているエリーを見やってから言った。
「俺の肉体を復活させる方法を教えてくれ」
「えっ!」
最初に声を上げたのはエリーだった。
「で、でも新條さん、新條さんの身体はもう……」
「分かってるよ。すっかり灰になって、骨しか残ってないんだろ。でもな、逆に考えれば、骨は残ってるってことだ。そうだとしたら、その骨を上手く組み合わせて、それに付随する肉体を復活させれば、俺は元の姿で蘇るってわけだ」
「理屈ではそうですけど……」
「俺が死んだ当初、フランソワも言ってたじゃないか。これは間違いだから、元の世界に戻れるって。俺の場合はタイミングが悪かったけど、誤って死んだとしても、まだ肉体が残っていたら、そこに戻ることができるはずだ。だとしたら、死んだ人間が生き返った場合、周りの人たちの記憶をお前たちは操作できるんだろう? フランソワは、死んだ人間が生き返るんだから、周りの人は驚くとか言ってたけど、いつもそんなにタイミングがいいわけないはずだ。どこかでタイムラグは発生するんだよ」
「……正直言って、私には分かりません。このようなミスは初めてなので……」
そう言うと、エリーは俯いて考え込んでしまった。この辺りの細かいことは、フランソワに直接聞くしかなさそうだ。
「なあ、平松、トンガとかネパールとかに、肉体を復活させる儀式みたいなのあるだろ?」
あえて気軽さを装って言ってみたが、平松の返事は芳しくなかった。
「肉体の復活か……。インドで聞いたことがあるような気もするけど……」
「おいおい、急に自信なさそうに言わないでくれよ。お前以外に、こういうことに詳しい奴いないんだから」
平松は腕を組んで目をつぶってしまった。エリーも自分の世界に入ってしまったし、こうなると、俺にできることは何もなかった。多少の心細さを感じ始めた時、平松がおもむろに口を開いた。
「今すぐには思い出せないけど、少し時間をくれないか。知り合いに聞いてみる」
「知り合いって、近くにいるのか?」
「いや、インドで修行してると思う」
「思うって……」
「俺がインドで修行中に知り合ったスリランカ人で、へーラムミンラーゲマーソリカって奴がいるんだけど、そいつは復活の呪文を研究してたはずだ」
さすが平松だ。やはり、そういう研究をしている変人はいるのだ。普段だったら、絶対に関わりあいたくない奴だが、今は、そのへーラム何とかと会いたくてたまらなかった。
「直接会って聞いた方が早いから、タイミングを見計らってインドに行くしかないな」
当然のように発せられたその言葉に、絶望感がこみ上げる。
「インドに行ってる時間なんてないんだよ」
「え?」
「俺が地上にいることを許された時間は、3日間だけなんだ。その間に自分の肉体に戻らないと、他人の生を生きなくちゃならないんだよ」
「ああ、他人の体に入って5分後にはお前自身の意識がなくなるってやつか」
平松は基本的に頭がよく、記憶力も確かだ。さっき説明した内容を、しっかり覚えてくれていたらしい。
「どうにかして、そいつに連絡取る方法ないのか? 携帯とか持ってるだろ?」
「いや、へーラムミンラーゲマーソリカは文明の利器を嫌ってるから、携帯なんか持ってない」
「じゃあ、どうやって……」
「念しかない」
「は?」
「これから数時間かけて、へーラムミンラーゲマーソリカに念を送る。心で交信して、肉体復活について聞いてみることにする」
こいつ大丈夫か。エリーの平松を見る目が一層厳しいものになった。
「で、でも、そんなのやったことあるのかよ」
「ある」
断言してくれたが、俺は不安が募るばかりだった。3日しかない貴重な時間の一部を、こんな詐欺まがいのやり方に託していいんだろうか。
「俺とへーラムミンラーゲマーソリカは、ソウルメイトのようなもんだ。何しろ、修行のために、そのインドの寺院に籠もったのは、俺とあいつだけだからな」
ニヤリと口元を歪めて言うが、一層不安になるだけだ。
「その時に、向き合って念を送る修行をしたんだ。当時は、3割の確率で成功したよ」
低いっ! 3割バッターに任せていいのか。
「他に方法はないのか?」
「ない」
「…………」
仕方ないか。3割とはいえ、頼りにできる奴がいるだけでも有難いと思わなくては。どうも、死んでからの俺は、妙に物分かりがよくなっている気がする。手違いではあったが、死んだはずが、もう一度この世に来て、友達と話せるようになっているのだから、それだけでも幸せだなどと、ちょっとだけ思い始めてもいた。
「わかった、お前に任せるよ。これまでの修行の成果を総動員して、俺を蘇らせてくれ。生き返ったら、焼肉でも奢ってやるよ」
「お、いいな。昔、よく行った三香園にしよう」
そう言うと、平松は本棚から、訳のわからない文字でタイトルの書かれた本を次々と机に置き始めた。俺に読む気はまったく起きないが、へーラム何とかと交信するための何かが書かれているのだろう。
 それにしても、死人と普通に会話するまでになっている平松の適応能力には驚くばかりだ。とても窓から飛び降りた奴と同一人物だとは思えない。それでも、死んだ後に、こうして友達として話してくれるのは、正直嬉しい。思わずお礼を言いそうになったが、照れ臭いからやめた。平松も、そんなこと望んではいないだろう。
「三香園も楽しみだけど」
机に置かれた本を手に取ったまま、平松が言った。
「肉体を復活させることができたとして、一番最初にしたいことって何だ?」
「そんなこと決まってるだろう」
俺は、そのために復活するのだ。
「ミー……いや、来宮に会いに行くよ」
ミーコと呼んでいいのは、二人だけの時と決めてある。知り合いの前でそう呼ばれることを、ミーコが恥ずかしがっていたから。
俺の言葉を聞いた平松は、本を机に置くと、真剣な顔で俺に向き直った。
「それは、やめた方がいいと思う」
「は?」
何言ってんだ、こいつは。一体、何のために、俺がこんなに頑張ってると思ってるんだ。さっきまでの優しい気持ちが、一気に消え失せていく。
「やめた方がいいって、何でだよ?」
俺は、なるべく冷静さを保って言った。それでも、声の調子から、俺が怒っていることは伝わるはずだ。それだけ、俺たちは付き合いが長い。
「何でって言われても……」
いつもは、何事もはっきり言う平松の歯切れが急に悪くなったことに一抹の不安を覚えた。何の理由もなく、こんなことを言う奴じゃないことは、俺がよく知っている。
「平松、隠し事すんなよ」
「いや、そういう訳じゃないけど」
 そう言いながら、激しく目が泳ぐ。
間違いない。こいつは、何か知っている。
「おい、何年付き合ってると思ってんだ? お前の目が泳ぐときは、決まって悪い話なんだ。そんなのには慣れてるから、早いとこ白状しろ」
「白状って……」
平松は落ち着きなく、目を彷徨わせた。
「まさか、お前……俺が死んだからって、来宮と付き合い始めたんじゃないだろうな?」
少しでも気を楽にしてやろうと思って笑いながら言ったのに、それを聞いた平松の顔が引き攣った。
「……そうなのか?」
「そんなわけないだろ!」
平松は思い切り首を振った。まあ、この部屋を見れば、女っ気のないことは一目瞭然だ。「だったら、何だよ」
俺はちょっとイラついて言った。ただでさえ時間がないのだから、こんなところで押し問答している場合じゃない。
「怒らないから、正直に言ってくれ。そもそも、怒ったって、今の俺には何もできないんだから」
そう言うと、しばらく黙った後で、平松は口を開いた。
「井原なんだ」
「ん?」
思わぬ名前が出てきて、俺は戸惑った。
「井原がどうしたって?」
「だから、今、来宮が付き合ってるのは、井原なんだよ」
何を言われているのか理解できなかった。最近、会う時間がなかったとはいえ、井原とは死ぬ前までLINEで連絡を取り合っていたし、ミーコとは俺が死ぬ日にも会う予定だったのだ。しかも、結婚まで考えていたのに。
「あのなあ、こんなときに冗談はやめろよ。笑えねーよ。俺が死んでから、まだ3ヶ月しか経ってないんだ。その間に、俺の友達とさっさと付き合うほど、来宮は軽くねーよ」
呆れて言ったが、平松は悲しそうな目で俺を見た。
「まったく気づいてなかったのか?」
「何を?」
「いいか。今さら隠しても仕方ないから言うけど、あいつらが付き合い始めたのは、お前が死んでからじゃない。就職活動前から、2人はそういう雰囲気になってたよ」
信じられない言葉に混乱した。ほとんど引きこもりになっていた平松は、どうして知ってるんだ?
「そんな訳ないだろ。来宮とは普通に過ごしてたし、俺が死んだ日だって、結婚の話をしようとしてたんだ」
「彼女の口から、結婚の話が出たのか?」
「ああ、真面目な話があるから会いたいって連絡があったんだ。待ち合わせ場所に向かう途中で、俺は事故に遭っちゃったけどな」
「それって、別れ話だったんじゃないのか?」
頭を殴られたようだった。結婚じゃなくて別れ話だって? 今まで、そんな素振り、まったくなかったじゃないか。しかも、俺の親友と、そんなことになるか?
俺は、最近のミーコとのことを振り返った。それなのに、ここ数ヶ月の間、ミーコと過ごした記憶がまったくなかった。慌ててエリーに問い質した。
「おい、死んでから復活するまでの間、記憶は失われていくのか?」
俺の問いに、エリーは悲しそうに首を振った。
「……お前、知ってたのか」
「私は……担当する人のすべてを知る必要があります。自分が死んでしまったことに納得できない人もいますから、説得するために、その人が過ごしてきた人生を理解するんです。そうすることで、その人が一番受け入れやすい言葉を選んだりできますから。基本的には、その人が生きていた時のことだけを調べます。ただ、新條さんの場合は、復活することが前提になってしまったので、現在の状況も少し調べておこうと……」
言葉もなかった。知らなかったのは俺だけか。それでも、まだ信じられない。いや、信じたくなかった。
よっぽどひどい顔をしていたのだろう。平松が声をかけてきたが、耳を素通りするだけだった。
俺はふらりと平松の部屋を出た。二人とも、ついてくることはなかった。

12

俺は百人町に向かう道をゆっくりと歩いていた。中学時代から通い慣れた道のはずなのに、まるで俺を拒否しているようだった。頭の中は平松から言われた言葉でいっぱいだった。
就職活動を始めた頃から、俺とミーコは会わなくなっていた。それは決して嫌いになったとかいうわけじゃなくて、お互いに忙しかったからだ。何十社もの面接や筆記試験をこなすためには、必死にならざるを得なかった。ミーコと会いたい気持ちはあったが、正直、それどころじゃなかった。親父が定年を二年後に控えた今、とても就職浪人を決め込む余裕はなかったし、俺の性格上、フリーターになってしまったら、そのまま正社員になることを諦めてしまっていただろう。
 それよりも、俺より早くに内定を取っていたミーコに、早く追いつきたいという気持ちが強かった。ミーコだって、彼氏が定職にも就かず、フラフラしていたら嫌だろう。社会人になって、しっかり自分の力で稼いでいる人たちの中で、自分の彼氏が時給900円のバイトをしている訳にはいかない。
 それなのに……。ミーコのためを思っていたはずが、そうじゃなかったのか?
 そういえば、面接試験でどう答えたらいいか、ミーコが何度か聞いてきたことがあったのを思い出した。あの時、何て答えただろう。他にも就職活動が終わったら、どこに行きたいと言ってたっけ。ミーコの誕生日の翌日に、俺の面接試験があったから、全部終わったら豪華にやろうなんて言ったけど、結局、そのままだったな。
 愕然とした。この数ヶ月、俺はミーコと向き合ってこなかったじゃないか。最後にいつ会って話したのかさえ思い出せない。でも、だからって……。
 そんなことを思っているうちに、いつしか見覚えのある一軒家の前にいた。昔ながらの表札には〈井原〉と書かれている。ここは、俺たちの通っていた中学からすぐのところにあるので、みんなの溜まり場になっていた家だ。溜まり場といっても、上がり込んで、くだらない話をするのは俺と平松が圧倒的に多かったが。
 玄関を通り抜けようとして躊躇った。もし、あいつの部屋にミーコがいたらどうする? 俺は、それを見ても冷静でいられるだろうか。いつも、ミーコが俺に向けていたあの笑顔を、井原に見せていることに耐えられるだろうか。
 俺は思春期の中学生のようにドアの前でうじうじと悩んでいた。井原とミーコが付き合っているなんて信じたくはないが、平松とエリーの言葉からすると嘘ではないのだろう。俺は振られたんだ……。感情に押しつぶされそうだった。どうして俺がこんな目に……。死んで以来、何度も頭をよぎった思いが膨れ上がる。
 俺は踵を返して、その家を離れた。無理して辛い場面を覗く必要なんてない。2人が付き合ってるんなら、それでいいじゃないか。どうせ、俺に戻れないんだから。
 井原の家に入らないと決めたら、行く場所がなくなってしまった。そもそも、おれは井原に会って、何をしたかったのだろう。ふざけんな、と怒鳴りつけようが、殴りかかろうが、あいつは何も感じないというのに。
 俺は百人町の公園を左手に見ながら歩き始めた。気のせいか、景色まで味気なく見える。そして、5分も歩くと、懐かしい中学校が姿を現した。グレーだった校舎の壁も、俺が卒業してから塗り直したのか、綺麗なクリーム色に変わっている。南京錠が掛かっているだけの黒い鉄門を通り抜けて校庭に入る。日曜日なので生徒の気配はどこにもなかった。俺は小さく感じるようになった校庭を一周走ってみた。かなりのスピードで走ったはずなのに、息切れすることもない。もちろん、汗なんて出なかった。
「普通にしてたことが、何にもできなくなっちゃったんだな」
俺は自嘲気味に笑った。
肉体はなく、好きな物も食べられず、走っても汗すらかかないくせに意識だけはしっかりしている。こんな残酷なことがあるだろうか。他人の体に入っても、5分後には俺の意識はなくなってしまう。だったら、このまま死なせてくれた方が、よっぽど楽じゃないだろうか。今まで生き返ることばかりに頭がいっていたので、エリーやフランソワに、このまま死ぬ方法を聞くのを忘れていた。死んだ人間を、もう一度死なせることができるのだろうか。
そんなことを考えていると、
「新條さん」
と声をかけられた。いつからいたのだろう、エリーが悲しそうな目で俺を見ていた。
「ここでさ……」
自分でも驚くくらい普通の声が出た。
「この中学で1年の時に、俺と平松と井原は一緒のクラスになったんだ。まだ小学生気分が抜けなくて、男も女も仲良くて、本当にいいクラスだった。中間試験の後なんか、みんなで会費集めて商品を買って、ボウリング大会とかやってたんだぜ。井原なんて、頭の上まで腕を振り上げるもんだから、周りの客がびっくりしてさ……」
あの頃を思い出すと、言葉が止まらなくなった。心配事なんて一つもなくて、明日は今日よりきっと楽しくて、すごい未来が待っていると信じて……。
「今は、あんなになってるけど、一番最初に彼女ができたのは平松だったんだぜ。目がクリクリした可愛い子で、何で平松と付き合うのか分からなかったなあ。デートが終わったっていうと、三人で平松の部屋に集まって、その日の出来事を細かく聞いて、ずっと話してたんだ」
次に彼女を作るのがどっちになるか、俺と井原は心の中で争っていた。平松に先を越されたのは心外だが、二番手は俺だと、お互いに思っていたはずだ。
「結構、人気あると思ってたんだけどな、俺。結局、二人とも彼女ができるのは大学まで持ち越しだったんだ」
「……そうですか」
校舎を見上げたが、かつての自分の教室がどこにあるのか、判断がつかなかった。それでも、教室の窓から、テニス部が朝練しているのを見ていたことだけは鮮明に覚えている。もちろん、コートなんかなくて、砂利が敷き詰められた校庭に、ネットを想定したポールを立てて打ち合っているだけだった。果たして、これが公式戦の役に立つんだろうかと、他人事ながら心配になったものだった。そんなどうでもいいことが、途轍もなく大事なことに思えて、俺は視線を落とした。
もう一度、校庭をゆっくりひと回りしてから、校門を出てグラウンドに向かう。この都会の真っ只中の中学では、十分な広さの校庭など望むべくもないので、敷地の外に大きなグラウンドを借りて、サッカー部や野球部が練習していたのだ。山梨出身のミーコは、何度説明しても、この狭さを想像できないようだった。こんなことなら、一度、連れて来てもよかったかもしれない。
誰もいないグラウンドに足を踏み入れる。天然芝の柔らかさも、俺の足は感じ取ることができなかった。こんなにも青々と茂っているのに。
「すぐにやめちゃったけど、俺、サッカー部に入ってたんだ。練習が嫌いでサボってばっかりだったけど、足だけは速かったから、フォワードで試合に出たこともあるんだ」
取り立てて熱心にやっていたわけでもないのに、ゴール前にボールを運んだことだけは忘れていなかった。どうしてシュートしなかったのか、それだけが今でも悔やまれる。
しばらくの間、俺とエリーは無言で、感じることのできない風に吹かれながら、広々としたグラウンドを見つめていた。
どのくらい経ったのだろう。何も考えずにいることが、こんなに安らぐものだとは思いもしなかった。平松と話しているときは、復活までの時間がないと焦るばかりだったのに……。
「なあ、エリー」
珍しく穏やかな声だったのだろう、怯えることもなく、エリーは優しげな顔を向けてきた。
「もう、どうでもよくなってきちゃったよ。平松がヘー何ちゃらと交信できる可能性は低いだろうし、そうなったら、自分の肉体に戻ることは完全に不可能だしな。他人の体に入ったとしても、どうせ意識がなくなっちゃうなら、俺の存在価値なんて、どこにもないじゃん」
そう言うと、エリーは表情を変えた。
「それ、本気で言ってるんですか?」
「本気も本気だよ。自分の意識が消えるのに、どうして死んでいく奴の寿命延長に貢献しなくちゃいけないんだよ。そんなの不公平じゃないか」
自分では平静を保っているつもりだったが、本音を口にすると、気持ちの昂りを抑えられなかった。
「俺は死ぬ予定じゃなかったのに、今こうしてここにいる。それなのに、死ぬ予定の奴は、死なずに残りの人生を生きるんだろ。だったら、俺は誰にも乗り移らずに、そいつと一緒に天国に行ってやるよ。俺のせいで、そいつは予定通り死ぬことになるんだ。何の不都合もないじゃないか」
嫌なことを言っている自覚はあった。死にそうな人を助けずに、死ぬのを黙って見ているということなのだから。それでも、誰だかよくわからない奴の肉体に乗り移るというおぞましさが、俺の中で急速に膨らんでいくのがわかった。
「……体験してみましょう」
エリーが固い表情で、しかし、はっきりと言った。
「体験?」
「ええ。実際に乗り移るのがどういうことか、知っておいた方がいいでしょう。一度経験しておけば、二度目からは落ち着いてできるはずですから。フランソワも地上にいる間に、乗り移る肉体を探すように言ってましたし……」
「俺の話、聞いてなかったのか? もう、誰にも乗り移らないんだよ。このまま、俺は死ぬの」
「私が言っていいことかわかりませんが、美紗子さんのことはいいんですか?」
エリーが呟くように言って目を伏せた。思わず言葉に詰まる。ミーコに会うために、肉体を取り戻そうとしていたのだから、このままでいいわけがない。それでも、井原とのことを思うと、会ってもつらくなるだけだろう。それに、誰かに乗り移って話しかけたって、俺だとわかるはずもないのだ。
 ……話しかける?
「エリー。もし、俺が誰かに乗り移ったとして、俺の意識がそいつに持っていかれるまでの時間は5分なんだよな?」
「はい……」
エリーが目を伏せて言った。しかし、こっちだって、聞きたくて聞いてるわけじゃない。
「だったら、その5分間は、俺の意識を持って、誰かに話しかけられるんだな?」
思わず勢い込んで問いかける。もし、その間だけは意識があるのなら、俺がある意味では生きてるってことをミーコに伝えられるじゃないか。
しかし、エリーの答えは、俺をがっかりさせるに十分だった。
「意識は急速に取り込まれていくので、話しかけることはできないと思います。取り込まれる過程では、魂に凄まじい負荷がかかるので、それに耐えるのが精一杯のようですから。もちろん、これはマニュアルには書かれていなくて、フランソワから聞いただけですが……」
俺のようなケースが初めてだったことを忘れていた。これから俺の身に起きることは、誰も経験したことがないのだ。この天使たちでさえ。
「やってみるか」
「何をですか?」
「何をって、エリーが提案したんじゃないか。乗り移りの体験だよ」

13

会場は熱気に包まれていた。開演まで、まだ2時間近くあるというのに、客席の8割方はすでに埋まっているだろう。物販コーナーには長蛇の列ができており、トイレも入り口に辿り着くまで、どのくらいかかるんだろうと思えるほどだ。
「さすがに凄いな」
「私も、こういう場所には初めて来ました」
エリーは、物珍しそうに、周りをキョロキョロと見回している。
「エリーが生きていたときは、コンサートとかには行かなかったのか?」
何気なく聞いただけだったが、エリーの顔が強張った。何かまずいことを聞いてしまったのだろうか。
「私は、1人でコンサートに行けるような年まで生きられなかったので……」
俺はエリーの顔をしげしげと見つめ、からかうように言った。
「いや、どう見たって、20歳は越えてるけどな」
「今の姿は24歳ですから、そう見えるんでしょうね」
「今の姿って?」
「私が死んだのは、4歳のときです。天使になるにあたって、あまりに幼すぎるということで、特例が認められました」
「特例?」
「ええ。天使になるには、18歳以上という決まりがあるんです。それより幼い私は、自分が生きていたと仮定して、18歳以上の、どの年齢のときの姿になるかを決めさせてもらえたんです。だから私は、5歳から23歳までの自分が、どんな顔つきや体つきをしていたか知らないんです」
何と言っていいのかわからなかった。おそらく、俺が考えている以上に、エリーの心の闇は深い。それなのに、まったく擦れたところもなく、天使の役割をこなしているのは見事だと言える。俺が言葉を探していると、
「ちょっと楽屋を覗いて見ましょう」
とエリーが言った。
「あ、ああ。実験する肉体を見ておかないとな」
話題を変えてくれて、ほっとしている俺がいた。

「だからさあ、もっと俺のソロパートを増やしてくれって」
楽屋に入った途端、これ以上ないくらい不機嫌な声が飛び込んできた。目の前にいるのは、若い女の子たちに絶大な人気を誇る5人組男性アイドルグループ、プラトニック・エリアのメインボーカル、中西達也だ。グループの中で一番人気だということは、あまり芸能に詳しくない俺でさえ知っている。テレビをつければ、必ずと言っていいほど、どこかの番組に出ていたのだから。
「竜になんて歌わせたら、いつ音程外すかわからねえじゃん。そうだろ?」
面と向かって非難された、ギター担当の赤沢竜は、苦笑いを浮かべたまま、一言も発しなかった。確かに赤沢の歌は、とても聞いていられないほどだが、こんなアイドルグループ内で歌が上手くたって、たいして歌唱力があるわけでもないということに、中西自身は気づいていないようだ。
「俺、全員のパート覚えてるんだから、お前らは楽器だけ弾いてりゃいいんだよ」
そういうと、胸ポケットから煙草を取り出すと、慣れた仕草で火をつけた。
「こいつ、未成年じゃなかったっけ?」
「ええ。今月、20歳の誕生日を迎えるはずです。今日のコンサートでは、誕生祝いのコーナーもあるみたいですよ」
その姿を眺めていると、リーダーの宇佐美研二が突っかかっていった。
「お前、1人でグループ背負ってると思ってんじゃねえぞ。歌ってるだけの奴が、そんなに偉いのかよ」
「なんだと?」
中西の顔が、さっと赤くなった。そういえば、彼が楽器を演奏しているところは見たことがない。
「楽器の一つも弾けない奴が、どんだけ偉いんだよ」
宇佐美は嘲るような表情で吐き捨てるように言った。
「てめえ、だったら、俺より上手く歌ってみろよ。この5万人もいる会場でソロで歌えんのかよ」
「そこまで言うんなら、演奏しないでやるから、アカペラで歌ってみろ。大した歌声じゃないってことが、すぐわかっちまうぜ。それはそれで、バースデー・サプライズだな」
「ふざけんな!」
中西が煙草を投げ捨てて、宇佐美に向かっていった。慌てて止めに入ったのは、ベースの蒼井流とドラムスの豊川俊明だ。キーボードの飯倉瞬は、スマホに目を落としたまま微動だにしない。きっと、いつものことなんだろう。
「実験とはいえ、こいつに乗り移るの、嫌になってきた」
「すぐに出てくるんだから、いいじゃないですか。ほんの数分の我慢ですよ」
さすがのエリーも、少しは同情してくれているようだ。何か汚いものでも見るように、中西に視線を投げかけている。
決して友達になりたくないタイプの中西は、今日のコンサートで死ぬ。さっき、エリーに見せてもらった死亡予定者リストに載っていたので間違いはない。横に「C」と書かれていないこともチェック済みだ。
「舞台装置の一部が落下してくるんだよな?」
俺は、中西の死因欄に書かれていたことを思い出しながら聞いた。
「ええ。今回のコンサートは、バースデーイベント以外にも、プラトニック・エリア結成5周年も兼ねているので、かなり大掛かりなんです。しかも、舞台の設営もほとんど終わった段階で、中西さんがクレームをつけたので、急遽、一部を組み直したんです。だから、安全確認をする時間が足りなくなったんじゃないでしょうか」
自分のわがままが、死に直結するわけだ。ふと見ると、蒼井と豊川に止められた中西は、新しいタバコに火をつけてふてくされている。
「しかし、結成して5年しか経ってないのに、ここまで険悪になるかね」
「ほんとですよね」
あと1時間もしたら、中西は死ぬ。自分勝手を通した上での死なんだから、同情する気はまったくないが、少なくとも5分近く、こいつの体に入ると思うと、不快さと同時に緊張感が襲ってくる。しかも俺は、その5分の間に、自分の意志で話すことができるか試すつもりだった。もし、1分でも話すことができるなら、別の奴に乗り移って、ミーコに俺の存在を伝えるんだ。その後、乗り移った奴に同化するかどうかは別の問題だ。死んでからというもの、すべてが天使たち任せで、自分では何も決められなかったが、ようやく自分の力で乗り越えられるかもしれない機会がやって来たのだ。このチャンスを逃す手はない。
「新條さん、何か生き生きしてますね」
エリーが怪訝な表情で聞いてきた。
「そんなわけないだろ、死んでるんだぜ」
俺は軽口を叩きながら、中西が死ぬ瞬間を心待ちにしていた。

集中しすぎて、激しい疲労を感じる。
平松は、一旦、へーラムミンラーゲマーソリカとの交信をとめた。とめたといっても、交信などはできなかったのだが……。
「おかしいな。間違いないはずなんだけど」
机の上に積み上げた、交信に関する書物に改めて目を通すが、おかしな点は見つからない。
「距離の問題かなあ。実際に交信できたのは、相手が目の前にいたときだしなあ」
しかし、ここで弱音を吐くわけにはいかない。何しろ、親友が霊になって目の前に現れたのだ。これまで心待ちにしていた瞬間が訪れたというのに、役立たずで終わるのはご免だった。
何とか役に立ってやりたいと思う一方で、平松にはためらいもあった。誠が復活するのは嬉しいが、その後のことを考えると憂鬱になる。来宮と井原が付き合ってるのは間違いない。誠が死んだあと、面と向かって井原が言ったのだから。
井原も、誠に隠れて来宮と付き合っていることに悩んでいた。きちんと伝えたいが、それがきっかけで誠との縁が切れてしまうのを恐れていたのだ。付き合っているくせに、何言ってんだとも思ったが、小学校からの友達を今になって失うのは、さすがにつらい。俺たちが、これから誰と付き合おうと、肉親以外では、俺たち3人の付き合いの長さには誰も勝てないのだ。
一方で、来宮のことも諦められないとも言っていた。ふざけた話だが、井原を憎む気持ちも起きなかった。誠には、どこか頼りないというか、ふらふらしているところがあるから、将来を考えたとき、来宮は少し不安を感じたのではないだろうか。そこに、堅実を絵に書いたような井原と話す機会が多くなったのだから、仕方ないといえば仕方ない。
唯一の誤算は、誠が死んでしまったことだ。生きていれば、それなりに言い訳も言えただろうし、最悪、殴られて解決という可能性もあった。しかし、相手が死んだとなったら、罪悪感しか残らないだろう。そう思うと、井原も気の毒だと思ってしまうのだった。
「どうしたもんかなあ?」
井原たちの関係についてか、はたまた、へーラムミンラーゲマーソリカとの交信が上手くいかないことに関してか、自分でもわからないまま、平松は大きくため息をついた。
これから交信を再開して、集中できるだろうか。あと3日のうちに、へーラムミンラーゲマーソリカと交信して、肉体の復活方法を聞き出し、それを実践して、誠を元の体に戻すなんてことができるだろうか。
平松は再びため息をついて、交信のバイブルと呼ばれている書物を手に取り、目次を追っていった。ヘブライ語で書かれた文字の横には、平松が何年もかかって翻訳した日本語が小さな文字で書かれている。
「……肉体の消滅、魂の復活、魂の浄化……ん? こんな項目あったっけか?」
目次の中ほどに書かれたタイトルに目が留まった。
「あいつ、他人に乗り移るって言ってたよな。ひょっとしたら、これは……」
平松は、へーラムミンラーゲマーソリカとの交信も忘れて、夢中でページをめくり始めた。

それまで明るかった会場の照明が一瞬にして落とされた。会場は、女の子たちの興奮した叫び声で満たされた。
「Here we go!」
メンバーの誰かの掛け声とともに、プラトニック・エリアがステージに踊りながら登場した。悪態をついていた中西は、どうやったら、ここまで変われるのかと思うくらい、最高の笑顔を振りまいている。ギターを弾いている宇佐美の肩に腕を回して、1つのマイクで2人で歌う姿は、数時間前を知っている俺にとってはまさに目を疑う光景だった。彼らを憧れの目で見ているファンの女の子たちは、想像すらできないだろう。
最初の曲から会場のボルテージは一気に上がり、隣にいるエリーと話もできないくらいだ。俺の隣にいる女子高生らしき子は、アップテンポの中西の歌に合わせて腕を振り上げている。
ここまで夢中になる姿を見ていると、これから中西に降りかかる出来事が嘘であってほしいとも思える。人間的には最低の奴だが、これだけ人を夢中にできるというのは、やはりある種の才能だろう。
トークも挟まずに歌い続け、5曲目のバラードに入った時には、隣の彼女は手を合わせて祈るように聴き入っていた。乗り移るために中西の死を待っている俺こそが、最低なんじゃないだろうか。
「それではここで、あれ、やっちゃいましょう!」
蒼井の合図で、会場の照明がすべて落とされた。会場がざわつき始めた頃、ステージの右手から、何本ものロウソクが立てられたケーキが現れた。正面の巨大モニターにも〝HAPPY BIRTHDAY,TATSUYA〟と書かれたカードが載っているケーキが映し出されている。
「達也、ハッピーバースデー!」
メンバーが口を揃えて叫ぶと、会場にバースデーソングのメロディが流れ、会場中が一体となって歌い始めた。
スポットライトに、たった1人照らされた中西は、うっとりとした表情で会場を見回している。今が、一番素直な顔なんだろうな、と俺は思った。楽屋ではあれほど険悪な関係だったが、人に祝ってもらえるというのは、中西だって嬉しいだろう。
 俺は、ミーコの誕生日を祝った日を思い出していた。
 2月生まれのミーコの20歳の誕生日は、朝から雪が降りしきり、電車も間引き運転をするほどだったが、予定より2時間も早く家を出て、予約していた恵比寿のイタリアン・レストランに向かった。予約の際に、彼女の誕生日だと伝えていたので、デザートの前になると、お店の照明が落とされ、シェフがロウソクの灯ったケーキを持ってきてくれた。従業員と一緒に、他のお客さんたちも歌ってくれたっけ。
「もう、急にびっくりするじゃない」
ちょっとしたイベントが終わった時、ミーコは照れながら言った。その時に、ミーコがずっと欲しがっていた腕時計をプレゼントしたが、まだ着けていてくれるだろうか。あの時計を買うために、バイトの時間を増やして大変だったことも思い出される。あの時は、このまま2人で過ごしていけると思っていたのに……。
「行きますよ」
ささやかな幻想から、俺を現実世界に引き戻したのは、心なしか緊張したエリーの声だった。
「行くって……」
「もう、時間ですから」
そう言うと、エリーはファンたちの体をすり抜けてステージに向かった。俺はやるべきことを思い出して、急いでエリーの後を追う。
ステージでは、バースデーソングを聴き終えた中西が、マイクを手にお礼の言葉を述べていた。
「みんな、本当に有難う。こんな大勢の人に祝ってもらえるなんて、すごい幸せです。俺、両親を小学生の時に亡くしてるんで、家族で誕生日を祝った経験ないんだよね。だから、こうやって、家族みたいなメンバーやファンのみんなに祝ってもらえると、今まで祝ってくれる人がいなかったことが帳消しになるっていうか……」
そこで中西は言葉に詰まった。俺は、あいつなりのパフォーマンスかと思ったが、どうやら違うようだ。他のメンバーも驚いた顔で中西を見ていたからだ。
「俺は楽屋とかでも、結構わがままで……。多分、メンバーにも迷惑かけてるんだろうなっていうのはわかってるんだ。でも、そうしないと話せないっていうか、素の自分を出すのが恥ずかしくて」
まじか! だからって、あそこまでひどいこと言えるか、普通。俺は中西の隣に立って、まじまじと顔を覗き込んだが、驚いたことに、中西は目に涙まで浮かべている。これが本音だとすると、乗り移るための実験台にするのが申し訳なくなってくる。まあ、実験台になろうがなるまいが、あと数分で死ぬのは間違いないんだが……。
「なので、今日の誕生日をきっかけに、俺は変わろうと思います。メンバーのみんな、今まで迷惑ばっかりかけてごめん。いっつも感謝してます。本当に有難う。これからもよろしく!」
思いも寄らない言葉に、メンバーたちも照れ臭そうにしている。すると、宇佐美が、
「達也、お前、恥ずかしいこと言うなよ。調子狂うから、いつものわがままな達也に戻ってくれよ」
と茶々を入れた。それが合図だったかのように、他のメンバーが中西の周りに集まったかと思うと、アカペラでバースデーソングを歌い始めた。ファンの中からは、すすり泣きが聞こえてきた。俺は、何だか安っぽい青春ドラマを見させられているようで、居心地が悪かった。エリーは、そんな彼らに見向きもせずに、ひたすら時計を見つめている。
すると、エリーがいきなり俺の右手を握った。
「ど、どうした?」
色々あっても、エリーが美少女なことに変わりはないので、俺は少し動揺して、声が上ずった。死んだ者同士だからか、エリーの手の温もりまで感じることができる。死んでいるのに手が温かいというのもおかしな話だが。
「もうすぐですから、準備してください。私の手を離さないで!」
普通に聞けば、なかなか味のある台詞だが、エリーの顔は真剣そのものだ。俺も、気を引き締めて、エリーの手を強く握り返した。中西たちは、それぞれのポジションに戻り、次の曲の準備を始めている。俺たちも、中西の隣に移動した。
「新條さん、乗り移ったあとも、なるべく意識を集中してください。自分を失わないで! 中西さんの魂は、必死になって新條さんの魂を取り込もうとしますから。どんなことがあっても、私の手を離さないでください」
「わかった」と言おうとしたとき、エリーの「来ました!」という叫び声とともに、俺たちの真上から鉄筋が落ちてきた。ふと横を見たが、中西は気づいていない。会場から、女の子たちの叫び声が聞こえたかと思った次の瞬間、中西は鉄骨の下敷きになっていた。
会場全体から悲鳴が上がり、メンバーや裏方のスタッフが、こちらに走り寄ってくる。
「新條さん、今です。この体に乗り移ってください」
エリーが早口でまくし立てる。
「乗り移れって、どうやって……」
俺は緊張で、喉がカラカラに乾いていた。パニックになっている会場の雰囲気に飲み込まれそうだ。
「左手で中西さんに触れてください。そうすれば、そのまま乗り移れますから、体の中を体験したら、同じように左手を外に出してください。入ったときと同じように出て来られます」
「でも……」
俺は頭から血を流し、ぐったりしている中西を見下ろした。周りからは「救急車呼べ!」という叫び声が聞こえる。
「中西さんに乗り移るなら、今しかないですよ。別の体で試しても構いませんが、どの状況も、それほど変わりはありません」
それはそうだろう。人が死ぬとは、こういうことなのだ。周囲が騒がしいだけで、本人はすでに別の世界に行っているのだから。俺のときも、きっと同じだったのだろう。そう思うと、中西の体を実験台にするということへの罪悪感が薄れた。これは単なる肉体なのだ。
俺はゆっくりと左手を中西の胸に伸ばした。胸に手を当てるようにすると、俺は一気に中西の体に吸い込まれた。

14

中西の体の中は、この上なく不快だった。俺の五感は失われているはずなのに、腐った肉の匂いがするかと思うと、頭の中いっぱいに不協和音が鳴り響き、それは途絶えることはなかった。頭の血管が激しく脈打ち、立っていられないくらいの頭痛が襲ってくる。
辺りは真っ暗闇で、自分がどこにいるかすらわからない。かと思うと、体が急に捻じ曲げられ、すさまじい吐き気が襲ってきた。思わず膝を突いて嘔吐くが、口からは何も出て来なかった。
頭痛と吐き気と激しく響き渡る音に、俺はどうすることもできず、その場にうずくまって頭を抱えた。一瞬でいいから、この音が消えないだろうか。そう思っているうちに、再び吐き気に襲われ、俺は嘔吐きながら暗闇の中を転げ回った。
涙と鼻水にまみれた顔を上げると、はるか向こうから、かすかな光が差し込んでいる。柔らかな優しい光で、それを見ているだけで気分がよくなってくる。
「あ、あそこに行って休憩しよう」
俺は誰にともなく呟くと、割れそうな頭を抱えて、光に向かって歩き始めようとした。しかし、俺の右手が誰かに握られていて、進むことができない。
「何だよ、邪魔すんなよ!」
俺は握ってくる手を振りほどこうとしたが、思わぬ力で握られていて、外すことができなかった。頭痛に耐えながらも必死になって抵抗したが、そうすればするほど、俺の手を握っている白い手には力が込められてくる。
朦朧としながらも、どうするべきか考え始めた時だった。先ほどの柔らかな光とは正反対の方向から、どす黒い風が巻き起こったかと思うと、瞬く間に俺の体を包み込んだ。そして、風が湧き出てきたところに、俺の体を引き込もうとするかのように、猛烈な力が俺をひっぱりはじめた。引っ張るというより、吸い込むと言った方が合っているかもしれない。俺がその場に踏みとどまれたのは、やはり、俺の手をしっかり握りしめる白い手のおかげだった。
それでも、俺を吸引する力は弱まるどころか、ますます強くなる一方で、危うく白い手を放しそうになる。さっきまでは、振りほどこうとしていたのに、今では、この手だけが、俺の命を繋ぎとめてくれるもののようだった。
その時、俺の頭の中に、見たこともない景色が映し出された。
俺を優しく見つめる若い男女、幼稚園の園庭らしきところで走り回る男の子。クリスマスのプレゼントを開けて、ギターを取り出して喜ぶ少年。葬儀の場で呆然と突っ立っている姿。公園のベンチで、可愛い女の子に弾き語りで歌っている青年。バンド仲間との出会い。オーディションに落ちた悔しさ。デビューが決まった時の興奮。俺は、自分の人生を振り返っているのだと思った。この仲間たちと、これからも音楽を続けていきたいという気持ちが強くなってくる。
そんな幸せな気持ちになりつつあるとき、頭の奥で女性の声が響いた。
「新條さん、戻って来てください。もう時間が……」
俺は最後まで聞いていなかった。こんな気持ちいい時間を邪魔する奴は許さない。いつしか、頭痛や吐き気も治まっていて、俺は今まで経験したことのない快楽の世界に身を置いていた。
「あと1分もありません。早く戻ってきて!」
しつこい奴だ。早くステージに戻らなきゃいけないのに。
「うるせー! 俺のことは放っておいてくれ!」
そう叫んだ瞬間、ものすごい勢いで、俺の右手が引っ張られた。
俺は飛ぶように暗闇の中を移動した。ちょっと前に感じていた激しい頭痛や吐き気に襲われたが、それもほんの一瞬のことだった。
気づいたとき、俺の横には、倒れたままの中西の姿があった。
「これは……」
そう呟いたとき、激しい衝撃が俺を襲った。
「な、なんだ!」
見ると、エリーが俺の体に抱きついていた。
「なかなか戻って来ないから、どうしようと思ったじゃないですか!」
エリーは、ポロポロ涙を零しながら、俺の背中に片手を回している。左手は俺の右手を握りしめたままだ。
ああ、この手だったんだな。
俺は全てを理解した。
「危ないところだったんだな……」
俺は泣き続けるエリーをあやすように言った。
「……もう、数秒しか残ってなかったんです。だから……」
「私が呼び出されたというわけだ」
迫力あるバリトンにギョッとして振り返ると、俺の後ろには、いつも通りスーツで決めたフランソワが立っていた。
「エリー、そろそろ抱きつくのをやめてもらえるかな。見ているこちらが恥ずかしくなる」
ちっとも恥ずかしそうではない表情でフランソワが注意すると、エリーは慌てて俺から離れた。もうちょっと、このままでもよかったのに、フランソワの奴。
「ご、ごめんなさい! ほっとしたら、つい……」
顔を真っ赤に染めながら、エリーが早口で言った。
「私1人の力では、新條さんを引っ張ることができなかったので、すぐにフランソワを呼んだんです。2人がかりでも、こっちの世界に戻すのは大変でした」
こっちの世界が、死後の世界というのも不思議なものだが、とりあえず、俺は中西の体に取り込まれなくてすんだようだ。
「中西の体に入った途端、俺はそれまでの記憶をなくしていたよ。中西の記憶が俺の頭の中に入り込んできて、俺がまるで本人かのように錯覚してた。エリーの言った通りだった。これじゃあ、他人の体に入って、俺の言葉を語らせるなんて無理だな」
そうは言ったものの、寂しさが募ってきた。これで、俺はミーコと話すこともできず、いつしか他人の体に乗り移り、そのまま取り込まれてしまうのだろう。もちろん、俺が乗り移ることを決めたらの話だが。
「ほんと、上手くいかないな」
俺はため息混じりに言うと、中西を見下ろした。救急車の到着を待っているようだが、もう息をしていないのは明らかだった。俺が体から出てきたことで、彼の死が確定したのだろう。会場は大混乱に陥っていて、係員の誘導に従って、ファンたちは規制退場させられている。プラトニック・エリアも今日で解散だ。
俺はフランソワとエリーに背を向けると、泣き叫ぶファンの声に包まれている会場を後にした。

何も考えずに歩いているつもりが、気づいた時には、俺の通っていた大学の前にいた。数ヶ月前までは元気に通っていたのが嘘のようだ。この時間まで残っている学生はおらず、辺りはひっそりと静まり返っている。
このキャンパスをミーコと一緒に歩き、同じ授業を受けていたんだ。学食に行けば仲間がたむろしていて、くだらない話をいつまでも続けていたものだった。
俺は誰もいないキャンパスの芝生の上に寝っ転がって空を見上げた。誰にも気づかれずに1人でこんなことをすることになるなんて、あの頃は想像もできなかった。目をつむると、楽しみに満ち溢れた日々が思い出される。俺はため息をついて目を開けた。
「うわっ!」
真上から俺の顔を覗き込んでいるエリーがいた。
「びっくりさせるなよ。声ぐらいかけろ」
力なくそう言うと、俺はゆっくりと体を起こした。
「気分はどうですか?」
「中西の体にいた時と比べるなら最高、今の気持ちを言ってるなら最悪だ」
エリーは何も答えずに、俺の隣に座った。
「中西の体に入る前は、何でもできるつもりだったし、それなりに期待もあったんだけどな……。あそこまでとは思わなかった」
俺は乗り移った時の不快さを思い出してぞっとした。
「これで、誰かに乗り移って、限られた時間の中で俺の意志で話すことは無理だとわかったし、肉体の復活も無理。あーあ、もう、どうでもいいや」
もう考えるのが面倒だった。どれほど悩んで考えても、解決策などないのだから。
「なあ、エリー。前にちょっと言ったことだけど、誰にも乗り移らないで、このまま死ぬことってできるのか?」
そう言うと、エリーは俯いたまま、何も言わなかった。
「もういいよ。疲れた。乗り移ったとしても、また気持ち悪い思いをするだけだろ。それを乗り越えたと思ったときには、俺の意識はないわけだし。何で知らない人を生かすために、そんな思いしなくちゃならないんだ?」
いっそ、天国に行ったときに、それが間違いだったとわからない方がよかった。「C」マークに気づいてしまった自分が恨めしい。気づかなければ、俺はそのまま死ねたわけだし、エリーだって、俺に何度も嫌味を言われることもなかったのだ。こんな失態を犯したのだから、天国でのエリーの評価も下がっていることだろう。
「ちょっと1人にしてくれないか。頭ん中整理したいし」
「でも、この世界にいられるのは、あと2日しかありませんよ」
エリーがちょっと寂しそうな顔で言った。
「分かってるよ。それまでに死ぬかどうか決めればいいんだろ」
「いえ、そういう意味じゃあ……」
「そういう意味でいいよ。それに、俺が1人でふらふらしてても、どうせどこにいるかなんて分かるんだろ」
何も答えないのは、その通りだからだろう。俺が思っている以上に、神たちは万能だ。それでも時に、今回のような単純なミスを犯す。取り返しのつかないような……。
俺はエリーに背を向けると、誰もいないキャンパスを後にした。

15

翌朝は憎らしいくらいの晴天だった。昼前に新宿の大手家電ショップに掲げられた巨大モニターを見ると、今日は35度以上の真夏日になるらしい。このときだけは、温度を感じない体に感謝した。
エリーと別れても、俺にはやることはなく、眠くもならないものだから、オールナイトの映画を観たりしたが、ストーリーは全く頭に入らなかった。スクリーンに映る、余命いくばくもない病気の彼女を看病する男を見ても、心を動かされることは、これっぽっちもなかった。むしろ、悲しんでくれる人がそばにいて、しかも、きちんと死ねるんだから幸せだと思ったくらいだ。
あまりに病気や死を美化している映画に嫌気がさし、俺は歌舞伎町を奥へと進んだ。深夜2時を過ぎているにもかかわらず、素足を限界まで晒した女子高生が広場でスマホをいじっている。朝までの時間潰しに、危害を加えそうもなく、しかも奢ってくれそうな男に声をかけられるのを待っているのだろう。お前の無駄に生きてる時間を俺にくれよ、と言いたくなる。生きているときには、それ自体が奇跡だということに気づかないのだ。俺だって数ヶ月前までそうだったのだから、偉そうなことを言えた義理ではないが、どうしても愚痴っぽくなる。
歌舞伎町は、あらゆる人種が揃っていた。シャンパンを喉に流し込んではトイレで戻し、再び浴びるように飲むことを繰り返すホストや、終電を逃した中年に片言の日本語で誘いをかけるフィリピーナ、見るからにその筋の男を囲むように歩く目つきの鋭いチンピラたち。鼻血を流しながら、警官に引っ張っていかれる男。こんな時間に何してんだとも思うが、誰もが必死に生きている人生の一部なんだろう。
陽が昇っても、俺はこれからどうすればいいのか決めかねていた。むしろ、結論は考えないようにしていた。
昨日、エリーにはああ言ったものの、死んだ身だとはいえ、もう一度死ぬのは怖いし、だからと言って、他人のためにこの身を差し出すのも気が進まない。しかも、あんな気持ち悪い思いまでして……。
交差点で信号を渡っていると、誰もがスマホに目を落としていることに、今さらながら気づいた。友達と一緒でも、彼女が隣にいても、視線の先にあるのは小さな画面だ。
そうして、ふと思った。俺もそうだった。せっかく予定を合わせて会っているのに、喫茶店でもレストランでも、知らず知らずのうちにスマホをいじっていたんだ。顔を上げると、いつでもミーコは、俺を見ていたっけ。俺は何のためにスマホを見ていたんだろう? そういうことが重なって、ミーコは……。
気づくと、俺は交差点の真ん中で大きな声で叫んでいた。
「お前ら、大事な人が隣にいるのに、スマホいじってんじゃねーよ! もっと話すことあるだろ! LINEやゲームなんて、家に帰ってもできるんだよ。この大切なときを、そんなことに使うなよ!」
俺は、すれ違う人たちの手から、スマホを取り上げようと手を伸ばしたが、何度やっても空を切るだけだった。夢中で指を動かす男の前に立って、大声で怒鳴っても、俺の声が伝わることはなかった。1人で踊っているような動作を繰り返した後、虚しさがこみ上げてきて、俺は歌舞伎町を後にした。
陽が暮れた頃、俺は新宿御苑の芝生に寝転がっていた。
「最近、芝生にいてばっかだな」
自嘲気味に笑って、俺はようやく静かに考え始めた。
 俺の寿命を与えてもいい奴なんて出てくるんだろうか。しかも、選択肢にある人間は、死亡予定者リストに載っている奴だけだ。見も知らぬ相手に乗り移るなんて、正直気が進まない。俺の大事な命を渡したくない。これは、わがままなのだろうか。
「何だかなー」
俺が間違って死んでしまったのが運命なのだとしたら、死亡予定者リストに載ることも運命だ。俺がこのまま死んだとしても、誰にも文句を言われる筋合いはないはずだ。
このまま死んでしまおう。
葬式も終わっているし、悲しむ人は、とっくに悲しんでくれたはずだ。乗り移っても、俺が蘇るわけではないし、数分の間に俺の存在を伝えることができないことも分かった。
「悩むこともなかったな」
もっと早くに結論を出すべきだった。肉体が消滅したとわかった段階で、答えは決まっていたんだ。俺は俺でありたいし、他人になるつもりはない。もう死んだはずの人間が、そのまま消滅したって、誰に迷惑をかけることもないのだ。
そう決めると、少しだけ気分が楽になった。死んだ人間もストレスだけは感じるということか。ストレスって、すげーな。
そんなことを考えながら、閉園後の公園で、俺は芝生に寝転んだまま、いつまでも星空を見つめていた。

16

この世にいられる最終日。誰にも乗り移らずに死ぬと決めた俺の気分は上々だった。
あとは、静かに死ぬ方法をエリーに聞いて、タイミングを見計らって実行すればいいだけだ。やることが決まっているのが、こんなにも安心感を与えてくれるものだとは思わなかった。
そんな俺が最後に足を向けたのは、やはり中学校だった。
彼女を親友に取られようが、肉体復活が上手くいかなかろうが、懐かしい場所であることに変わりはない。
日が西に傾き始める頃、思い出を噛み締めながら、のんびり歩いていると、目の前にエリーが立っていた。
「お前、脅かすなって言ったろ。急に目の前に現れるのはやめとけ」
そう言う自分の口調が柔らかなのに気づいた。人間、死ぬ間際になると心穏やかになるのだろうか。もう死んでるけど……。
「エリー、俺、やっぱり誰にも乗り移らないで……」
「新條さん……」
俺に最後まで言わせずに、エリーは真剣な表情で見つめてくる。こうされると、俺を殺した張本人だが、可愛いと思わずにはいられない。
俺は何か悪いことでもするような気がして、エリーから視線を逸らした。
「分かってる。助けられる命があるとか、自分の命を有意義に使えとか思ってるんだろ。でもな……」
「新條さん……」
思いつめたようなエリーの声に気づいた。
「どうした?」
エリーはまっすぐに俺を見つめている。
「何か、また悪い話でもあるのか?」
エリーは、しばらくの間俯いていたが、顔を上げると、両手を俺に突き出してきた。そして、小声で何か囁くと、彼女の手の上には、ワインレッドの見慣れた冊子が乗っていた。
「死亡者リストか」
俺の名前を見つけた時のことを思い出す。名前の横に書かれた「C」の文字を指摘したことから、俺の人生が変わったのだ。
「エリー、もういいんだ。自分で死ぬことに決めたから、今さら、こんなリスト見ても意味ないんだよ」
「見てください」
珍しく頑なにエリーは言った。それでも俺はリストを見る気にはならなかった。
「気持ちは分かるけど、もうやめよう」
「見ないと後悔します」
「後悔?」
「はい。先程、新たにリストが追加されました。だから……」
「もう、いいんだよっ!」
もう我慢ができなかった。
「お前は、うるせーんだ! 一晩考えて、ようやく自分で死ぬって決めたんだ。そんな俺の気持ちが分かるか? どんな思いで死のうとしてるのか分かるのかよ! 死ななくてもよかったのに、今は自分で死ぬことを選んでるんだぞ。本当は……本当は、死にたいなんて思ってないんだ」
ようやく本音が言えた気がした。
「分かるか? 怖くて仕方ないんだよ。事故に遭ったときは、死ぬなんて思わなかったし、どういう状況かを考える余裕なんてなかった。だから、たとえ、本当にあのまま死んでいたとしても、恐怖なんか感じる暇はなかったんだ。でも、今は違う。死のうが、乗り移ろうが、俺自身は、必ず今日中に世界から消えるんだ。自分の意識が薄れていく瞬間。周りが見えなくなっていく瞬間。体の自由がきかなくなっていく瞬間。そういうのを想像すると、怖くて堪んないんだよ。こんな思いはしなくてすんだはずなのに……」
 これまで心の奥底にあって、自分でも整理のつかなかった思いが、初めて言葉となって堰を切って溢れ出てくる。俺は死というものを恐れていたんだ。
「どうなるか不安なんだよ。今、こうして色々考えたり、言葉にして怒鳴ったりできているのに、数時間後には何もできなくなるんだぞ。今まであった感情も何も消えてしまうと考えるだけで怖いんだ。死んだ瞬間、俺はどう思うんだろうとか考えちゃうんだよ。矛盾してるだろ? 意識なんてないはずなのに、そんなことまで考えるんだ。エリーにとっては、死亡者リストにあるうちの、たった1人かもしれないけど、俺にとっては大変なことなんだ。人がこの世から消えるって、そういうことなんだよ!」
 思いをすべて吐き出した俺は、虚ろな気持ちだった。死にゆく恐怖を口にしただけで、少し楽になったような気もしていた。
 俺が投げつけた言葉を聞いて、エリーは俯き、唇を噛み締めて黙ってしまった。今さらエリーを責めるつもりはないが、俺を殺したのはエリーなのだから、責任を感じているのは間違いない。
「……たった1人なんて思ってません」
 顔を上げたエリーは、驚いたことに涙を流していた。
「この仕事を続けていく中で、死に慣れるなんてことはありません。確かに、新條さんの場合は、すべての責任は私にあるわけですから、それについては、お詫びのしようもありません。でも、日々、死んでいく人を、こちらの世界に案内していくことは、それぞれの方の思い出をも引き受けることになるんです。小さい子供を置いてこっちに来てしまったお母さんもいるし、中には殺されてしまった若い女性もいます。そういう人たちに、向こうの世界に置いてきた気持ちにけじめをつけてもらって、すべてを脱ぎ捨てて、こちらに来てもらうんです。それは、いつまで経っても慣れないし、慣れてはいけないことだと思ってます」
 エリーの一言一言が胸に響いた。たとえば、100歳を超えて大往生した老人や、死ぬことによって病気の苦痛から逃れられた人もいるだろう。そういう人を別にすれば、無念を残して死んだ人と毎日接するのは想像以上に辛い仕事に違いない。エリーのミスのせいでここにいるのに、彼女に同情している俺がいた。
「……いや、エリーを責めてるわけじゃない。乗り移らないで死ぬと決めたとはいえ、実は、気持ちの整理ができてないってことだ」
 言い訳のように言ったが、それは俺の本心だった。
「気持ちの整理をつけられる人なんて、いないんじゃないでしょうか」
 エリーが寂しそうに言った。
「私、時々思うんです。どうして、人は子供を産むんだろうって。昔は家を継ぐとか、子孫繁栄とか理由をつけてたみたいですけど、産むってことは、死ぬ運命が待っている人を作り出すことですよね。産まれた子供は必ずいつか死ぬんですから。それって、かなり罪深いことなんじゃないかって。自分の子供に死という運命を背負わせるんですよ。なんか‥‥残酷です」
 考えたこともなかった。子供が産まれれば、親はもちろん、祖父母だって喜ぶし、おめでたいことに違いない。でも、見方を変えれば、エリーの言う通りなのかもしれない。じゃあ、俺たちは、何のために生まれてきたんだ? 生きていたって、いいことなんて、1つもないじゃないか。
 きっと、何か理由があるはずなのに、俺はエリーの疑問に対する答えを持ち合わせていなかった。そんなこと、考えたくもなかった。だから俺は話題を変えようと、エリーが握っている死亡者リストを手に取った。
「何が、後悔するって?」
 エリーが、我に返ったように目を見開いて、俺を見つめた。
「大体、お前は大袈裟だからな。俺は、自分が誤って死んだことになったんだから、ちょっとやそっとのことじゃ驚かないぞ」
 俺は分厚い表紙のリストを開いた。一番上から見ていくが、芸能人や著名人の名前は1つもなかった。俺はリストを追いながら言った。
「エリー、何のこと言ってたんだ? ここにあるのは、知らない奴ばっかりじゃないか。こんなの見たって、後悔なんてするわけが……」
 ページをめくった俺は目を疑った。
「何だ、これは……」
 名前の右側を見ても、Cのマークはない。
「おい、エリー、これ、どういうことだよ!」
 名前の横には、脳溢血と書かれている。
「体調が悪いなんて聞いたことねえぞ。これ何かの間違いだろ?」
 エリーは何も答えなかった。そのことが、かえって疑いのない事実だと告げているようだ。
 俺は呆けたように、いつまでもリストに書かれた名前を見つめていた。

17

「場所は! 場所はどこなんだ??」
「し、新宿です。東口にある如月書店のエスカレーターの前で、18時32分に発症します」
「今、何時だ?」
「17時39分です」
 時間がない! 
 俺は校門に向かって走り出した。すぐ横をエリーがついてくる。
「新條さん! 私の手を握ってください」
「馬鹿! こんな時に言う台詞じゃないだろ!」
 エリーが呆れたように俺の顔を見つめた。
「そうじゃなくて、急いでいるなら、走るより遥かに早いですから」
 そう言って、エリーは俺の手を取った。
 次の瞬間、俺は如月書店の前に立っていた。
「……これは?」
「私たちは、想像するだけでどこにでも移動することができます。今までは、生きているときのように行動したいという新條さんの気持ちを優先してきましたが、緊急事態ですから」
 そういえば、電車に乗りたいと言ったのは俺だったと思い返した。
「本当に、何でもできるんだな」
 だとしたら……。
「平松に連絡をとってくれ」
 生きている人と話をするには、あいつに頼るしかない。どれほど変わっていようが、今は、俺たちと接触できる唯一の男だ。
 するとエリーは再び俺の手を取った。そのまま、俺の手をエリーの額に当てると、
「平松さんに呼びかけてください」
 と言った。テレパシーか? 平松が聞いたら、泣いて喜びそうだ。こんなことできるんだったら、平松が交信している何ちゃらって奴に連絡を取ってくれればよかったのに、という言葉は飲み込んだ。俺は素直に平松に呼びかけた。
「平松! 俺だ、誠だ。お前、今どこにいる?」
〈ひぃっ!〉
 平松の情けない声がはっきりと聞こえた。まあ、突然、俺の声が聞こえたら、誰だって驚くだろう。それでも、今はそんなこと気にしている場合じゃない。
「大丈夫だ、驚くな。今、エリーの力を借り話しかけてる。お前、いまどこにいるんだ?」
〈す、すごいな、映画みたいだ。どうやったら、そんなことできるんだ?〉
「いいから答えろ! どこにいる?」
〈家だよ。家の厨房にいる。誠、お前こそ驚くなよ。俺は遂に……〉
「お前の話は後でゆっくり聞いてやる。いいか、よく聞け。今すぐ新宿の如月書店前に来い。タクシーでも何でも、とにかく20分以内に来い!」
〈急すぎるだろ。俺はお前のためを思って、いろんな資料を漁って……〉
 ダメだ、完全に独特の世界に入っているようだ。そうだ!
「平松、20分以内に来たら、エリーが何でも一つ、お前の願いを聞いてくれるって言ってるぞ」
 隣でエリーが目を瞠った。何かを言いかけたが、それは平松の興奮した声にかき消された。
〈すぐ行く! その時に、お前に渡すものがあるから楽しみにしてろ!〉
 その言葉を最後に、食器のようなものを重ね合わせるようなガチャガチャした音が響き、ドアの閉まる激しい音が聞こえた。これで、あいつは来る。間違いない。
 ふと見ると、エリーが俺を睨みつけていた。
「しょうがないじゃないか。あいつを呼びつけるためだ」
 エリーは深いため息をついて下を向いた。珍しく怒ったようだ。
 どうしたものかと思い、視線を転じたところで、俺は固まった。
 俺の目の前にミーコが立っていた。

 平松は、出前用のバイクで小滝橋通りを疾走していた。これまで求め続けていた死後の世界の美女が、俺の願いを叶えてくれるというのだ。頭の中は、どの願いにするか決めることでいっぱいだった。
 これまで諦めずにいてよかった。これまでの思いが報われる日が、ようやくやって来たのだ。しかも、後ろの岡持ちには、誠のために調合した秘薬が入っている。それの効果も実証できるのだ。間違いなく、今日は最高の日だ。
 大ガード下を左折して、新宿通りに入る。見上げると、電光表示の時計は、18時10分を少し回ったところだった。20分以内とはいかなかったが、これくらいは誤差だろう。
 如月書店前にバイクを停める。後ろから激しいクラクションの音が聞こえるが構うものか。これからの楽しみを思うと、駐禁くらい、どうってことない。
 誠の姿はすぐに見つかった。平松は笑みを浮かべて秘薬を手にすると、誠のもとに向かった。
「誠!」
「平松君?」
「ん?」
 何で来宮がここにいるんだ? 
 隣を見ると、来宮を見つめる誠の姿があった。
「どうしたの、こんなところで?」
「どうしたって……来宮こそ、どうしたんだ?」
「私は井原君と待ち合わせしてるから」
「そっか……」
 視界に悲しそうな誠の顔が映る。こんなところで会うなんて、ついてないな、誠。
 平松は誠に同情したが、違和感を覚えた。偶然じゃないのか……。
 そもそも、ここに俺を呼びつけたのは誠なのだ。だとしたら、来宮や井原がいることを知った上で? 今日で、この世にいられるのは最後なのに、一体、何を考えてるんだ。
「おい、誠。どういうつもりだ?」
 気づいたときには、誠に話しかけていた。
「来宮がいるって知ってたのか?」
 誠は、どこか虚な表情でこちらを見返してきたが、何も言おうとはしなかった。
「どうしたんだよ? 何か用があったんじゃないのか」
 不安になってエリーを見たが、彼女も硬い表情のままだ。
「まったく……どうなってんだよ」
「平松君、誰と話してるの?」
 来宮が強張った表情で聞いてきた。
「誠って……そういう冗談やめてくれる」
 普段は穏やかな来宮が、冷たく言い放った。その時になって初めて、彼女に誠たちの姿は見えないのだと気づいた。その前で、死んだ彼氏の名前を出しているのだから、彼女の怒りはもっともだった。それでも、隣に誠がいる今、そんな言い方はしてほしくなかった。その冷たさが悲しくて、平松は思わず口走った。
「冗談で、そんなこと言うかよ」
 言い始めたら止まらなかった。
「来宮には見えないかもしれないけどな、ここに誠がいるんだよ。2日前に俺の前に姿を現した。自分が死んだのは、天使の間違いだっていう話だ。だから、復活するために戻ってきたんだけど、あいつの肉体は火葬場で……」
「やめてっ!」
 周りにいる人たちが動きを止めるほどの鋭い叫び声だった。
「平松君、よくそんなこと言えるね! 新條君は死んだんだよ。車に撥ねられて‥‥私はお葬式にだって行ったの。ご両親も泣いてたわ。みんな、それを乗り越えようとしてるのに、今になって、そんなこと言わないでよ。あんなに仲よかったのに、ひどいよ……」
 最後は消え入るような声だった。来宮は、そのまま俯いて肩を震わせた。
「……友達だからだよ」
「え?」
 顔を上げた来宮の目は赤く充血していた。
「友達だから、あいつの助けになってやりたいんだ。20年ちょっとの人生なんて寂しすぎるじゃないか。あんな目に遭った誠が、俺を訪ねてきてくれたんだ。できることは、やってやりたいじゃないか。ほら、見ろよ。誠だって、来宮を見てる。優しい言葉くらいかけてやれよ。誠、お前も……」
「いい加減にしてっ! もうやめてよ! そんなこと言って、何が楽しいの? 頭おかしいんじゃないの。だったら新條君が、ここにいるって証明してよ! 私の隣になんて誰もいないし、声なんてかけられない。気持ち悪いこと言わないで!」
「だからっ!」
「どうしたんだ?」
 その声に平松が振り返ると、ジーンズに黄色いTシャツというラフな格好の井原が立っていた。

18

「平松、何でここにいるんだ?」
 井原が心底不思議そうに聞いてきた。
「いいの、井原君、行こ」
 来宮が会話を遮ってくる。
「いや、だって……」
「いいの。平松君、具合が悪いみたい。さっきから、おかしなことばかり言うから、今はあんまり話したくない」
 来宮は井原の腕を取って歩き出そうとした。
「おい、ちょっと待てよ……誠! お前、このままでいいのかよ」
「誠?」
 井原がぎょっとした顔で聞いてきた。
「もういいよ。こんなこと言ってばっかりだから」
 来宮が苦々しい顔つきでこちらを睨んでくる。
「来宮、お前さっき、誠がいることを証明しろって言ったよな?」
 平松が睨み返しながら言うと、来宮は目を見開いた。
「証明してやるよ。待ってろ」
 平松はそう言うと、困った顔でこちらを見ている誠に言った。
「誠、これを飲め」
 平松はそう言って、手にしていたガラスの容器を差し出した。
「……これ何だ?」
 平松の手には、マグカップくらいの大きさのガラス容器が握られている。ラップで口を覆われた容器の中には、赤黒い液体が入っている。
「家でいろんな文献を調べたんだ。残念ながら、へーラムミンラーゲマーソリカとは交信できなかったからな。そうしたら、マヤ文明の時代に魂復活の儀式をやっていると書かれたものがあった。解読するのに一晩かかったよ」
 やっぱり交信できなかったのか。それにしても、マヤ文明の文献って、何語で書かれているんだろうか。
 さっきまでは、緊張しながら2人のやり取りを見ていたが、いつもの平松に戻ったことで、気持ちがほぐれた。
「これは、そこに書かれていた秘薬と同じものだ。親父に調理場を借りて作ってみた。材料は多分、聞かない方がいい。俺でさえ、こんなことがなければ絶対に触りたくない類のものばかりだ。これを飲んで、俺の体に入れ」
「お前の体に?」
「ああ、心配いらないぞ。これを飲んで、3分の間だけは、お前は自分の意識を持って行動できるし、発言もできる。気分が悪くなる心配もないし、俺の体に取り込まれる心配もない」
「そんなことが……」
「できるんだ。この秘薬の成分が、お前の魂を包み込むことによって、外部からの影響を受けないようにしてくれる。お前が俺の体に入っている間は、俺とも交信できるという優れものだ」
 俺には信じられなかった。しかし、この手の話で平松が嘘をつくとは思えない。他に頼るものがないなら、この話には乗るべきだろう。
「おい、平松、誰と話してるんだ?」
 美沙子を引き留めながら、井原が聞いてくる。こいつにとって、今の平松の行動は理解の範疇を超えているだろう。
「井原、ちょっと待ってろ。これから、すげえもん見せてやる」
「すげえもんって……。またお前、変なものにはまって……」
 最後まで言わずに、井原がその場に倒れた。
「井原君!」
「井原、どうした?」
 平松が驚いて立ち尽くしている。
「平松! その秘薬を寄越せ!」
「あ、ああ。こ、これは、どうなってるんだ?」
「死亡者リストだ!」
「え?」
「今日、エリーが持ってきた最新リストに井原の名前が載ってるんだ!」
「何で……」
「病気だよ。時間がないから急ぐぞ。エリー、時間を計って、10秒ごとに教えてくれ」
 俺はそう言うと、倒れ込んだ井原に縋り付いている美沙子に語りかけた。
「待ってろよ」
 俺の決断は間違ってはいない。
「平松、秘薬だ」
「ああ、これを」
 平松が差し出したガラス容器を、俺はしっかりと受け取った……はずだった。
 ガシャン!
 ガラス容器から平松が手を放した途端、それは俺の手をすり抜けてコンクリートの地面に落ちて、粉々に砕け散った。

19

 俺と平松は固まっていた。普通に話していたから、俺は自分がこの世に存在しないということを忘れていた。
「あ、集めなきゃ……」
 平松が地面に這いつくばって、ガラスの破片に混じったどす黒い液体を手でかき集め始めた。粘度があるらしく、ある程度の塊にはなるが、かなりの量が地面に吸い込まれているし、何より、すべて集められたとしても、それを入れるための容器がなかった。
 俺は、平松が必死に液体をかき集める姿を、ただ眺めているだけだった。上手くいかない時は、こんなもんなんだろう。そんな諦めにも似た気持ちを抱き、まるで他人事のように地面に這いつくばる平松を見ていたのだ。
 やがて、両手を赤黒く染めた平松が、ゆらりと立ち上がった。こんなに悲しそうな顔を見るのは初めてかもしれない。俯いたまま、俺と目を合わせようともしなかった。
「誠、ごめん。俺……」
 泣いている平松を見るのは、それこそ初めてだった。唇を噛み締めて、ポロポロと涙を零す姿に俺は動揺した。生きているときは、くだらないことで笑い合っていたのに、今は俺のために泣いてくれている。いまや秘薬の効果を疑うつもりはないし、その気持ちだけで十分だと思った。
「救急車! 救急車を呼んで!」
 美沙子の叫び声で、俺は我に返った。美沙子の横では井原が蒼白な顔をして倒れている。
 救急車を呼んでも助からない……。
 美沙子の必死な表情を見ていると、とても、そんなことは言えなかった。
 俺が、ここに存在していることを美沙子に伝えたかった。もう一度でいいから、言葉を交わしたかった。そして、俺のこれからの行動を……。
 秘薬を飲めなくなった今、俺がやるべきことは1つだけだ。
「エリー」
 そう声を掛けたとき、彼女は地面に溢れた秘薬をじっと見つめていた。
「エリー?」
 これまで見たこともないような思い詰めた表情だ。
「どうした?」
 エリーの隣に立つと、彼女はしっかりと俺の目を見つめて言った。
「ずっと考えてきたんです。どうやったら、新條さんの役に立てるのか。新條さんが死んでしまったのは、間違いなく私のせいなんですから。だから……」
「もういいって」
 みんなが俺のために色々と手を尽くしてくれた。エリーだって、間違えたくて間違えたわけではないのだ。平松の涙を見て以来、俺はすべてを許す気になっていた。それとも、どのような形であれ、俺が死ぬことは確定しているのだから、これ以上文句を言うのも情けないと、自分自身、感じていたのかもしれない。何より、これからの行動を決めたときから、生に固執するのをやめていたのかもしれない。
「今までありがとう。エリーにあたってばかりでごめんな。死んだ奴の愚痴だと思って許してくれ。それで……最後に頼みがある。俺は……」
「ちょっと待ってください。新條さんの頼み事は、もう少し後で聞きますから」
 そう言うと、エリーは秘薬が飛び散った場所に立ち、両手を輪のようにして自分の胸の前で組んだ。
「フランソワには、怒られちゃいますけど、私にはこれしかできないから……」
 次の瞬間、エリーの体が金色の光を放った。光の粒が体を覆っているようだ。
「……エリー、これは……」
「誠っ!」
 平松の叫び声に振り向くと、震える指先で地面を指している。その方向に目を向ける。
 これがエリーの力なのか……。
 そこでは、ついさっき粉々に砕け散ったガラス容器がゆっくりと宙に浮き始めていた。小さな破片が少しずつ寄り集まり、やがて、元の形に戻っていく。
 俺と平松は、呆然と、その光景を見つめていた。
 井原の体を揺すっていた美沙子の声も聞こえない。全くの静寂の中、ガラス容器は輝きを取り戻していた。
 やがて、地面に溢れた秘薬が一滴ずつ、ゆっくりと浮かび上がる。平松の手に付いた液体までもが、一ヶ所に集まり始めた。それは、少しずつガラス容器に入っていく。やがて、ガラス容器は赤黒い液体で満たされ、それと同時に都会の喧騒が戻ってきた。
「私にできるのは、ここまでです。あとは、平松さんの秘薬に期待するしかありませんね」
 少し恥ずかしそうに言ったエリーは、ガラス容器を俺に差し出した。
「新條さんが持っても大丈夫ですよ」
 俺は恐る恐る、ガラス容器に手を伸ばした。指先にガラスの冷たさを感じてから、ゆっくりと容器を手に取る。
美しく輝くエリーから渡された神聖な秘薬のはずなのに、そこからは凄まじい異臭が漂ってきた。
「こっ、これは……」
 そう言えば、材料は聞かない方がいいと言っていたか。
「誠!」
 真っ赤な目をして平松が叫ぶ。
 飲むのか? これを?
「エリー、井原はあと、どれくらい保つんだ?」
「6分36秒です」
「平松! これを飲んだあとは?」
「全部飲み込んだら、指先から俺の口に入ってこい!」
「何??」
「全身が俺の体に入ってから3分間は、誠の意志で話すことができるから」
「何で口から……」
「平松君! 早く救急車呼んで!」
 美沙子が必死の形相で叫んでいるのを見て覚悟を決める。
「いくぞ!」
 俺はドロドロした粘着質の液体を口に含む。粘り気が強く、飲みにくいことこの上ない。鼻を突き抜けるような異臭と、舌が痺れるような刺激に吐き気が込み上げる。
 ここで躊躇ったら、絶対に飲めない。
 俺はガラス容器を傾けて、一気に飲み込んだ。一瞬、目の前がブラックアウトした。
「来い!」
 視界が戻ると、平松が大きく口を開けて待っていた。おぞましい光景だが、やるしかない。かなり強烈なニンニク臭を放つ平松の口に、指先から飛び込むように入っていく。平松が、このためだけに、実家の餃子を食べてきたことを確信した。本当に口から入る必要があったのだろうか。
 それでも、それは一瞬のことで、すぐに全身が平松の体に収められた。体の中は靄がかかっているような仄白い状態だったが、空間が歪んできたり、吐き気を催すことはなかった。改めて、秘薬の効果を実感する。
「どうだ、誠?」
 かなりクリアに平松の声が聞こえる。いや、聞こえるというより、内側から響いてくるようだ。
「気分は悪くない。お前の口臭に吐きそうになったよ」
「くくっ、それだけ言えれば上等だ。どこかから明るい光が出ていないか?」
「明るい光?」
 俺はぐるりと周囲を見渡した。そして、ふと見上げると、上の方に2つの穴が空いているような場所を見つけた。俺は泳ぐようにして、そこにたどり着いた。
 すると、そこからは外界が映し出されていた。平松の瞳を通じて見ることができるらしい。
「ここまで同一化できるのか」
「すごいだろ。と言っても、俺にはどんな感じか分からないけどな」
「30秒経過です」
 エリーが俺たちの会話に割って入った。
 そうだ、のんびりしている暇はない。まずは3分以内に、平松の体から出なくてはならない。
 井原に泣きすがる美沙子に向かって足を踏み出す。驚いたことに、平松の体が俺の意志によって動いている。
 近づいていく俺に向かって美沙子が言った。
「何、1人で話してるのよ。自分で救急車呼んだから!」
 俺は話しかけようとして踏みとどまった。何て声を掛ければいいんだろう。死に別れた元の彼氏としての振る舞いが分からなかった。そもそも、俺には別れたという感覚がないのだ。
「1分経過」
 エリーの声が俺の気持ちを逸らせる。急いで全てを解決しなければ……。
 俺は勇気を振り絞って声を出した。
「……来宮、ちょっと聞いてくれ」
 付き合っていた女性に話しかけるのに、声が震える。
「平松の格好をしてるけど、本当は俺なんだ」
 美沙子が怪訝な表情でこちらを見つめる。
「何言ってるの?」
「いや、警戒するのはもっともなんだけど、今の俺は平松じゃないんだ」
「1分30秒」
 遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
「俺なんだ、誠なんだ」
 美沙子の瞳に怒りが浮かんだ。
「平松君、さっきから、その変な冗談やめてくれる! 今、井原君が大変なの。見ればわかるでしょ。そんな悪趣味な演技に付き合ってる暇ないの!」
「それでも……」
 井原のためを思い、気持ちを惑わすようなことを言い続ける俺を睨んでくる彼女の目をみていると、その後に続ける言葉が出てこなかった。
「2分」
 黙り込んだ俺を一瞥して、彼女は井原の隣に座り込んだ。
「誠、最後だぞ。しっかり伝えろよ」
 体の中から平松の声が聞こえる。
「時間がない。お前たちしか知らないような思い出話とかしてみろ」
 平松が必死に励ましてくれるが、俺には説得の言葉がなかった。
 このままでいいのかもしれない。俺はこんなになってしまったけれど、彼女にとっては、俺はもう過去の人間なのだ。
 そのとき、救急車が到着した。機敏に動く救急隊員に、彼女がこれまでの状況を戸惑いながらも伝えている。
「平松……」
「ん?」
「寂しいなあ。本当に寂しいよ」
「だったら……」
「でも、もういいんだ」
「誠……」
「2分30秒」
 俺は井原を介抱する彼女を見て、ここまでにしようと決めた。
「じゃあな、ミーコ」
 そう呟いて、エリーに話しかけようと振り向いたとき、背後で息をのむ声が聞こえた。
「平松君、今、何て言ったの?」
 彼女が真剣な顔をして立ち上がった。
「……何って……」
「今、私のこと、何て呼んだの?」
「……ミーコって……」
「それって……」
「悪い、誠、もうダメだ!」
 体の中から、平松の苦しそうな声が聞こえた。
「すまん!」
 そう言うと、平松は激しく嘔吐した。その瞬間に、俺は平松の体から出たことに気づいた。
 一気に視界が明るくなり、屈み込んで嘔吐く平松の姿が目に入る。
 これで、俺の声で話しかけることもできなくなったわけだ……。俺は、冷静にそんなことを考えていた。ミーコは、呆然として平松を見つめている。
「新條さん」
 隣から、エリーの優しい声が聞こえた。
「本当に、最後の最後のプレゼントです」
 そう言うと、エリーはそっと俺を抱きしめた。
「ち、ちょっと、エリー、こんな時に何を……」
「誠?」
 横を見ると、ミーコが目を見開いて俺を見ていた。
「え?」
「本当に誠なの?」
「見えるのか?」
 慌てて書店のガラスに映る自分の姿を確認する。そこには、金色の粒に彩られた俺自身がいた。
「こ、これは……」
「最後の1分間だけ、本来の新條さんの姿が見えるようにしました。後悔しないように、すべてを伝えてください」
 エリーが俺を見て微笑んでいた。ふと周りを見ると、俺たち以外、みんな動きを止めていた。
「何でもできるんだな……。エリー、ありがとな」
 俺は信じられない顔をしているミーコに向き直った。
「ミーコ、久しぶり。嘘みたいな話だけど、俺なんだ」
「そ、そんなこと……」
「うーん、何か色々あって、俺はこの世にいられなくなった。でも、3日間だけ、地上に降りられるようにしてもらったんだ」
「で、でも……」
「信じられなくて当たり前だよな。でも、それは、もういいんだ。それより、時間がない」
「時間って?」
「井原だ」
「井原君?」
 救急隊員が井原に話しかけている姿で固まっている。
「はっきり言うぞ。このままだと井原は死ぬ」
「そんな!」
「いいから聞け! 本当に時間がないんだ。俺は死んだ後に、自分の肉体に戻ろうとしたけど、もう焼かれていて、それは叶わなかった。代わりに、死ぬ予定になっている人の体に入って生き残る道があると教えてもらったんだ。でも、他人の体に入ってから5分後には俺の意識は消えるらしい」
「何言ってるのか、よく分からないよ」
「ああ……そうだよな。とにかく、俺は誰かを生かすために、この命を使えるんだ。そのために、数分後には、俺自身は消滅する」
「どうして、誠が……」
「それは……」
 さっきまで優しい笑顔を浮かべていたエリーが、切なそうに俯いた。
「何か、生きてる間の行いがいけなかったらしい。そもそも、死ぬことも前から決まってたみたいだしな」
 俺は努めて明るく言った。これ以上、誰かの悲しい顔を見るのは嫌だった。
「でも、最後にミーコに会いたいって言ったら、エリーが……って言っても分からないよな。えーと、エリーって言う名前の天使が、俺のわがままを聞いてくれたんだ」
 エリーが、はっと顔を上げた。俺はエリーに微笑んでから、話を続けた。
「それで、ミーコに会えたんだから、もう思い残すことはなくなった。だから……」
 エリーを見ると、ポロポロ涙を零しながら頷いた。もう、分かっているのだろう。
「俺ができるのは、これだけだ」
 俺はゆっくりと、倒れている井原に向かって歩き出した。
「誠!」
 平松が汚れた口を拭いながら近づいてくる。
「平松、いろいろサンキューな。お前の薬は大したもんだよ。お前を頼ったのは正解だった。ただ……」
「何だ?」
「本当は、お前の体に口から入る必要はなかったんだろ」
「何だ、バレてたか」
「わざわざ、自前の餃子食べてきやがって」
 平松はニヤニヤしながらも泣いていた。
「でも、助かったのは確かだ。ありがとう。向こうの世界で待ってるから、早く来い」
「ああ」
「エリー」
「新條さん、私は……」
「もう泣くなって。ここまで良くしてもらって嬉しいんだ。こんなこと、やっちゃいけないんだろ。フランソワの怒る顔が目に浮かぶよ。でもな……エリーは最高の天使だったぜ」
 そう言うと、エリーは子供のように声を上げて泣き始めた。
「ま、これからは、リストの右側に注意しろよ」
 軽く言ってから、もう一度、ミーコに向き直る。
「ミーコ、井原と幸せにな。俺はミーコが好きだった。大好きだったよ。でも、井原も俺に負けてないみたいだ。だから……」
 急に涙がこみ上げてきたが、ここで泣いちゃダメだ。俺は腹に力を入れると、はっきりと言った。
「だから、俺の貴重な命は井原のものだ」
 俺は、平松、エリー、ミーコの順に、ゆっくりと視線を巡らせた。この3人の顔だけは、しっかりと目に焼き付けたかった。
「みんな、ありがとう。じゃあな!」
 そう言って、井原の横にしゃがんだ。
「あ、そうだ。エリー、おかげで生きる意味が見つかったよ」
 泣きじゃくるエリーの声が聞こえる。そんなんじゃ、天使失格だろ。俺は笑いながら、そっと井原の左腕に触れる。
 その瞬間、周囲の喧騒が戻ってきた。時間が動き始めたらしい。
 俺は未練がましくないように、もう振り向かなかった。体が自然と、井原の中に吸い込まれていくようだ。しかしそれは、前に乗り移る練習をした時のような気分の悪いものではなく、優しく暖かいものに包まれていく感覚だった。
 最後に、ミーコが何か言うのが聞こえたが、はっきりとは聞き取れなかった。

20

「あれ? 俺、どうしてたんだ?」
「井原君!」
 突然、意識を取り戻し、むっくりと起き上がった井原に、救急隊員が驚きの声を上げた。
「さっき急に倒れて、救急車呼んだの」
「救急車?」
「君、大丈夫なのかい?」
 救急隊員の1人が心配そうに聞いてくる。
「大丈夫かって……」
 ふと周りを見て、多くの人たちが心配そうに見つめているのに気づいたようだ。
「あ、大丈夫です。すいません、大騒ぎになっちゃったみたいで。本当に、もう大丈夫ですから」
 ゆっくりと井原が立ち上がるのを見て、彼らも安心したらしい。一応、ペンライトで瞳を覗いたりしていたが、別状はないと分かると引き上げていった。
「何か、知らない間にすごいことになってるなあ。あ、平松、まだいたんだ?」
「あ……えーと、井原だよな……」
「当たり前だろ、何言ってんだよ。あれ、何で2人とも泣いてるんだ? 俺なら大丈夫だぞ」
「え……いや……」
「そんな心配だったのかよ。ちょっと頭が痛かっただけだよ。大袈裟だなあ」
「井原君……だよね?」
「来宮まで何言ってんだよ。他に誰がいるんだよ。2人とも、ちょっと、おかしいぞ」
「そ、そうだな」
 明るく答えてはいるが、平松の顔はどこか寂しそうだった。
「よし、来宮、ご飯行こ」
「え、あ、うん……」
「平松も来るか?」
「いや、俺は帰るよ。ちょっと考えたいこともあるから」
「ふーん。じゃあ、今度、お前の中華屋に食べに行くよ」
「餃子!」
 平松と来宮の声が重なった。
「あ、ああ、そうだな。あのニンニクの効いた餃子食べに行くよ」
「そうか……そうだな、絶対来いよ。待ってるからな」
 力強くそう言って、平松は停めてあるバイクに向かった。
「何か、頭が少しぼーっとするなあ。ん? 俺の顔に何かついてる?」
「あ、ううん。……井原君」
「ん?」
「私の名前言ってみて」
「名前?」
「……うん」
「変なこと聞くなあ。来宮だろ?」
「……そうだよね」
「だから、どうして泣いてるんだよ」
 井原は戸惑ったように尋ねている。
「ううん、何でもない。ただ……」
「ん?」
「お願いがあるんだけど……」
「何?」
「……今日から私のこと、ミーコって呼んでくれない?」
「ミーコ?」
「うん。前にね、私のすごい大切な人が、そう呼んでくれてたの。だから、井原君にも、そう呼んでもらいたいなって」
「そっか。俺も、いつまでも来宮って呼ぶのもどうかと思ってたんだ。よし、じゃあ、行こっか、ミーコ」
「……うん」
 2人が手を繋いで歩いていくのを、エリーは静かに見守っていた。

 2人の姿が見えなくなった頃、平松が戻ってきた。
「あの、エリーさん……」
 まだ私の姿が見えるのかと驚いたが、彼の能力は、この数日でよく分かった。誰もいない場所に向かって話しかける彼のことを、胡散臭そうに迂回する人たちを気にしていないということも……。
「平松さん、本当にありがとうございました。私だけだったら、あそこまでできませんでした」
「そんなこと……。秘薬を戻してくれたし、誠の姿だって……」
 ついさっきまでのことを思い出したのか、平松は少し涙ぐんでいた。それでも、すぐに気を取り直したようだ。
「あの、何でも願いを聞いてくれるって……」
 迂闊だった。新條が彼を呼び出すために言ったことを、しっかり覚えていたとは……。
「俺、いろいろ考えたんですけど……」
「でも、平松さん、もう叶えたじゃないですか」
「えっ、何を」
「さっき平松さんも言ってたじゃないですか。秘薬ですよ。きちんと元に戻したでしょ」
「あれって、願いになるんですか……」
 平松は、可哀想なくらいに肩を落とした。それでも、顔を上げた彼の顔は明るかった。
「そっか、そうですよね。まあ、それでいいか! あれで誠も願いが叶ったわけだし」
 そんな平松が不憫になって、一応聞いてみることにした。
「ちなみに、平松さんのお願いは何だったんですか?」
「え? ちょっと恥ずかしいんですけど……」
「いいですよ。言ってみてください」
 正直なところ、魔術などに嵌っている彼が何を願っているのか興味もある。
「それじゃあ。僕も、そのうち死ぬ日が来ると思うんです。多分、1人で孤独に死ぬと思うんですけど……。その時になったら、エリーさんに迎えに来てほしいなって……」
「そうですねえ……」
「無理ですか?」
「いえ、いいですよ。必ず私が迎えに来ます」
「本当に? おー、死ぬのが楽しみになってきた。まあ、こんな不健康な生活してるから、そんなに遠い未来じゃないと思いますけど……」
「そんなことないですよ。次に平松さんにお会いするのは、あと63年後ですから」
「ろ、63年後! 俺、そんな生きるのか……。1人でそれは寂しいなあ」
「平松さんはね、3人のお孫さんに囲まれて過ごしますから、全然寂しくないですよ」
「3人の孫かあ。えっ! 孫ってことは、つまり……」
「まあ、細かくは言えませんが、部屋にこもってばかりいないで、そろそろ外に出るようにした方がいいですよ。特に、今度の日曜日にこの近くの公園で読書なんかしてみるといいかも……」
「公園で読書……。今度の日曜日ですね!」
 平松の顔が喜びで輝いた。
「頑張ってください。また、遠い将来、お会いしましょう」
「エリーさん、本当にありがとう。誠も喜んでると思う。あいつの最期、格好よかったもんなあ。あいつに負けないように頑張らなきゃ」
 そう言って手を振ると、今度こそ、バイクに跨って平松は去って行った。

「ちょっと教えすぎじゃないか」
 声のする方を向くと、フランソワが立っていた。
「すみません。仲間意識が芽生えたというか、少しだけでも役に立ちたいなと思ってしまって……」
 新條に協力したことなどを叱責されると覚悟していたが、フランソワが怒ることはなかった。
「お前もいろいろ学んだということだ。最初のミスは許されることではないが、結果的には一番いい形で収まった。上層部の管理官からは、何らかの処分が下されるだろうが、私もフォローするから心配ない」
 意外な言葉に驚いたが、頭を下げるにとどめた。
「さて、そろそろ戻るか。仕事が山積してるぞ」
「はい」
 ゆっくりと舞い上がる中で思い出されるのは、来宮が新條に言った最後の言葉だった。あの言葉は、新條に届いたろうか。
 届いていることを願いながら、エリーは白い光の中に溶け込んでいった。
          
                                    (終)