靴を履き替えたとたん雨が降り出した。優斗は二人が濡れずに駅まで着けたか気にかかった。
「北極、おまえの兄さんたち、傘持ってたっけ」
「…………」
「北極?」
またフリーズしている。北極はぬいぐるみの入った袋を持ち上げたり下げたりしていたが、結局、下げた。
「オレはセンパイに謝らないといけないことがあります」
「……なに?」
「いやさっき実際にやったからセンパイももう気づいてると思うんですけど」
「だから、なんだよ。ハッキリしろ」
この時点で優斗は、またどうせ下らないことだろうと決めつけていた。前にも靴脱ぎ場であせらされた覚えがある。北極はその時も『言わないといけないことがある』と言っていたのだ。
北極は肩を怒らせて、肺に思い切り息を吸い込んだ。そこまでして出てきた言葉はとても小さかった。
「挨拶のハグは、ふつう十秒もしません」
優斗は、頭が真っ白になった。
「いや、もちろん、国によって違うし、うちも祖母ちゃんのやり方に従ってハグしているので、正しいやり方がどうとか、よくわかってはないんです、けど」
北極はつっかえながら靴箱に縋っていた。優斗はお調子者の瀬野がいつかのように乱入してくるんじゃないかと思った。『ポンちゃん、お帰り!』とか『明日の宿題みせて!?』とか『七夕の準備終わったよー!』とかなんとか。全部ただの願望だ。ただひたすら、誰かが強制的に北極が「あんなネッチョリしたハグするのはたぶん恋人同士くらいだと思う」などと抜かすのをやめさせてくれないかと思った。優斗は怒鳴った。
「なんでおまえはそれを早く言わないんだよ!?」
「……センパイが毎回十秒、きちんと数えてくれるから、言い出せなくて」
「…………!」
初めてハグした時、北極は寝落ちした。優斗はそれで完全に誤認していた。寝るまで抱きしめているものだと思っていた。そんなわけはない。優斗は先ほど北極の兄姉からハグを受けた。二人合わせて五秒もかからなかった。
「言わなきゃって思って、でも、センパイが可愛くて、ゆーとさんのこと十秒も独占できるのが幸せで……だけど、もし外国の人とハグすることあったら、大変なことになるかもしれないですよね。だから」
「おまえ、それ……わかってんなら言えよ早くっ」
「言う前に、センパイに彼女がいるってわかったから」
「は?? カノジョ!?」
パニックを起こす頭の中を、瀬野が非常口のポーズで駆け抜けて行った。
「おまっ……俺、あの時ちゃんと否定したよな!? 妹と付き合うとかありえねえって、ハッキリ言っただろ!」
「…………」
「意味わからん! なんで俺が違うって言ってるのに、瀬野なんかの言うこと真に受けるんだよ!」
「センパイは……」
ぽつんと靴脱ぎ場のスノコに雫が落ちる。うつむいた北極の青い目には、涙が浮かんでいた。
「センパイはカッコよくて、優しくて、しかもすごく可愛いから。そんなの、彼女いるに決まってるじゃないですかぁ……」
驚いたことに、北極は本気でそれを言っているらしかった。優斗は立ち尽くした。優斗に恋人がいると思い込んでいる。ということは、よそに恋人がいるだろう相手に、恋人みたいなハグを仕掛けていた。どんな神経をしていればそんな芸当ができるのか、まだ誰とも付き合ったことのない優斗には想像もつかない。
だが確かに優斗はそれをされていた。
身動きをとれないほど固く抱かれ、撫でさすられる。恥ずかしいくらいに北極の呼吸を感じた。震えながら受け入れていた。
寮友会役員などという建前からは遠く離れたところで。
「オレは、サイテーの、悪いヤツです……」
北極は標語を読み上げるように言った。
「センパイが女の子とつきあってるんだって思った途端、なんかタガが外れちゃって。じゃあもういいじゃんって。センパイの気づかないところでオレが勝手に好きでいるだけなら、誰にも、なんにも迷惑かからないし。とか言って結局、センパイにこうやって迷惑かけてる、ほんとに」
頭を振って「でももう、悪いことはおしまいです」と微笑った。役を終えた演者かのようにぺこりと優斗に頭を下げる。
「ごめんなさい。オレなんかにぬいぐるみ買ってくれて、ありがとうございます。……もう、ちゃんと一人で寝られますから、センパイはもう、オレみたいなヤツに関わらなくていいんです」
「北極、おまえの兄さんたち、傘持ってたっけ」
「…………」
「北極?」
またフリーズしている。北極はぬいぐるみの入った袋を持ち上げたり下げたりしていたが、結局、下げた。
「オレはセンパイに謝らないといけないことがあります」
「……なに?」
「いやさっき実際にやったからセンパイももう気づいてると思うんですけど」
「だから、なんだよ。ハッキリしろ」
この時点で優斗は、またどうせ下らないことだろうと決めつけていた。前にも靴脱ぎ場であせらされた覚えがある。北極はその時も『言わないといけないことがある』と言っていたのだ。
北極は肩を怒らせて、肺に思い切り息を吸い込んだ。そこまでして出てきた言葉はとても小さかった。
「挨拶のハグは、ふつう十秒もしません」
優斗は、頭が真っ白になった。
「いや、もちろん、国によって違うし、うちも祖母ちゃんのやり方に従ってハグしているので、正しいやり方がどうとか、よくわかってはないんです、けど」
北極はつっかえながら靴箱に縋っていた。優斗はお調子者の瀬野がいつかのように乱入してくるんじゃないかと思った。『ポンちゃん、お帰り!』とか『明日の宿題みせて!?』とか『七夕の準備終わったよー!』とかなんとか。全部ただの願望だ。ただひたすら、誰かが強制的に北極が「あんなネッチョリしたハグするのはたぶん恋人同士くらいだと思う」などと抜かすのをやめさせてくれないかと思った。優斗は怒鳴った。
「なんでおまえはそれを早く言わないんだよ!?」
「……センパイが毎回十秒、きちんと数えてくれるから、言い出せなくて」
「…………!」
初めてハグした時、北極は寝落ちした。優斗はそれで完全に誤認していた。寝るまで抱きしめているものだと思っていた。そんなわけはない。優斗は先ほど北極の兄姉からハグを受けた。二人合わせて五秒もかからなかった。
「言わなきゃって思って、でも、センパイが可愛くて、ゆーとさんのこと十秒も独占できるのが幸せで……だけど、もし外国の人とハグすることあったら、大変なことになるかもしれないですよね。だから」
「おまえ、それ……わかってんなら言えよ早くっ」
「言う前に、センパイに彼女がいるってわかったから」
「は?? カノジョ!?」
パニックを起こす頭の中を、瀬野が非常口のポーズで駆け抜けて行った。
「おまっ……俺、あの時ちゃんと否定したよな!? 妹と付き合うとかありえねえって、ハッキリ言っただろ!」
「…………」
「意味わからん! なんで俺が違うって言ってるのに、瀬野なんかの言うこと真に受けるんだよ!」
「センパイは……」
ぽつんと靴脱ぎ場のスノコに雫が落ちる。うつむいた北極の青い目には、涙が浮かんでいた。
「センパイはカッコよくて、優しくて、しかもすごく可愛いから。そんなの、彼女いるに決まってるじゃないですかぁ……」
驚いたことに、北極は本気でそれを言っているらしかった。優斗は立ち尽くした。優斗に恋人がいると思い込んでいる。ということは、よそに恋人がいるだろう相手に、恋人みたいなハグを仕掛けていた。どんな神経をしていればそんな芸当ができるのか、まだ誰とも付き合ったことのない優斗には想像もつかない。
だが確かに優斗はそれをされていた。
身動きをとれないほど固く抱かれ、撫でさすられる。恥ずかしいくらいに北極の呼吸を感じた。震えながら受け入れていた。
寮友会役員などという建前からは遠く離れたところで。
「オレは、サイテーの、悪いヤツです……」
北極は標語を読み上げるように言った。
「センパイが女の子とつきあってるんだって思った途端、なんかタガが外れちゃって。じゃあもういいじゃんって。センパイの気づかないところでオレが勝手に好きでいるだけなら、誰にも、なんにも迷惑かからないし。とか言って結局、センパイにこうやって迷惑かけてる、ほんとに」
頭を振って「でももう、悪いことはおしまいです」と微笑った。役を終えた演者かのようにぺこりと優斗に頭を下げる。
「ごめんなさい。オレなんかにぬいぐるみ買ってくれて、ありがとうございます。……もう、ちゃんと一人で寝られますから、センパイはもう、オレみたいなヤツに関わらなくていいんです」