バッドボーイズ、グッドスリープ

 優斗の日常はにわかに様変わりした。それまで夜は早々と寝るほうだったのに、毎晩消灯間際まで起きている予定ができてしまったのだ。最初は談話室のテレビドラマ視聴勢に加わったり、遊戯室のビリヤードを見に行ったりして時間をつぶしていたが、それも消灯一時間前には追い出されてしまう。そのうち瀬野が「ポンちゃん、マジで悩んでるんか」などと言いはじめたので、大人しく部屋で自習をするようになった。

(ねむ……)

 夜更かしも毎晩となると堪える。ついウトウトして、教科書の字が霞みだす。本当は仮眠をとって消灯前に起きられればいいのだが、うっかり寝過ごすのが怖かった。北極が飼い主を待つ犬みたいに自分を待っているとわかるからだ。

(……あいつ、俺が行かなかったら泣くのかな)

 西階段で見た泣き顔が頭に浮かんだ。端正な顔が暗がりで青白く見えた。ほっそりとした輪郭を透明な雫が伝う。それが、雨を受けてうなだれる花みたいに綺麗だった。見ていて胸が痛むのに、びっくりして目を逸らせなかった。

「…………」

 このままでは本気で寝てしまいそうだ、優斗は勉強机のわきに置いている古語辞典のカバーを手に取った。このカバー、実はカモフラージュで中には辞典ではなく上下巻の少女マンガが入っている。マンガの持ち込みは別に禁止されていないが、万が一にも人に見つかったら恥ずかしいのでこうして隠しているのだった。

 いつ見ても綺麗な絵だ。驚いたことに掲載紙の対象年齢は小学生らしい。主人公も小学六年生の女児。グループ学習のために訪れた霧の立つ丘で、少年少女は美しくも儚い女性と出会う。なんと彼女は幽霊で、恋人の帰りをずっと待ち続けていたのだ。彼女を気の毒に思った小学生たちは手分けして彼女の恋人を探すことになる――。

 人気作品で実写化もしているが、優斗は原作マンガのほうがずっと好きだ。寮へ入るにあたりマンガはすべて実家へ置いてきたのだが、この作品だけは手放せなかった。男子寮に少女マンガを持ち込むなんて、我ながら恥ずかしいと思うのだが。

(北極も、どっちかっていうとこういう絵柄(・・)だよな)

 色白で線が細く、瞳が大粒の宝石みたいに輝いている。実物は目力が強すぎ、笑顔も少ないので近寄りがたい印象になっているが、結局のところ顔が良くてカッコいいのだった。優斗は(ケッ)と毒づいた。自分みたいなタイプは絶対にこの手のマンガで活躍しないとも思った。

(そりゃそうだ。俺だって小6女子だったら北極とつきあいたい)

 ふとそう思ったあと、仮定の気持ち悪さにめまいがした。優斗は小学6年生でも女子でもなんでもない。そもそも自分向けじゃないマンガにのめりこんでいるのがおかしい。

 ぶんぶん頭を振って正気に戻った優斗は、時計を見て「うわ」と声を上げた。いつの間にか良い時間になっていた。

 優斗の部屋は二階、北極の部屋は三階のはじにある。人気のない廊下を足音を忍ばせて歩き、名前表示を確かめる。
 ノックすると隣室に音が響いてしまうので、いつもドアの表面を爪で引っ掻くようにして来訪を知らせることにしていた。次の瞬間にはもうドアが開く。

「センパイ」
「ん……」

 優斗はむず痒かった。北極は毎晩ドアのすぐそばに待機しているらしい。寮内では誰も見たことがないだろう笑顔を優斗にだけ向けて、手を握り、部屋の中へと招き入れる。音を立てないように用心しているはずなのに、ドアの閉まるカチャッという音が、やけに耳に残った。優斗は自分がこんなに悪いやつだなんて知らなかった。寮則を破っているくせに、なぜか浮き足立ってしまっている。

 北極の声は優しかった。

「今日はもう来られないのかと思った……」
「うるせえな。俺だっていろいろ忙しいんだよ」
「あ……。面倒かけて、すみません……」
「は!? 別に謝れなんて言ってないだろ……!」

 やりづらいことこの上なかった。ちょっと言い返しただけで北極はすぐ落ち込んでしまうのだ。

「いいから。したいなら、早くすれば……」

 自分から腕を広げるのは少し恥ずかしいが、そうすると北極は懐っこい犬みたいにすぐ来る。広い胸に視界を覆われ、優斗は目を細めた。優しく全身をすっぽりと包まれる感覚は意外と悪くなかった。忘れかけていた眠気が戻ってくる。北極の胸元はいつも干し草のような匂いがして落ち着くのだった。

 逆に北極のほうは落ち着かないらしい。抱きついてしばらくはモゾモゾしている。優斗が「早くしないとカウント始めるぞ」と脅してようやく身じろぎをやめる。

「ん、」

 腰に手を置かれ、優斗は息を詰めた。不可抗力だと思って気にしないことにしている。実際、身長差のせいで手のやり場に困るのだろう。優斗のほうはなんとなく北極の肩甲骨の下あたりを両手で触っているが、それも恥ずかしいことには変わりない。

「じゅう、きゅ、はち、なな」

 なるべく早く済ませるため、ハグは10秒だけと決めていた。それも緊張でつい早口になる。鼻にかかったような囁きになってしまうのが我ながら恥ずかしい。

「ろく、ご、よん……」

 いつも5秒前くらいで北極の腕の力が強くなる。
 一秒でも長く自分を捕まえておこうとする必死さを感じて、優斗の息は細くかすれた。

「さん、に、いち、」

 酸欠で頭がぼうっとする。優斗は気が変になりかける。自分の表面的な立場、つまり寮友会役員だとか高校2年生だとかそういう情報が、頭の中からバラバラと剥がれ落ちて、ただただ北極とハグするために生きているみたいな気がした。

「ぜろ……」

 無論、一瞬のことだ。北極の腕が離れ、締め付けられていた体に血が巡るに従い、優斗は自分の立場を思い出す。しかしそれまでに若干のタイムラグがあった。くったりと北極の胸に頬を預け、浅い呼吸を繰り返す。
 北極はそっと言った。

「……すみません。俺の力、強いですよね」
「別に……」
「本当? でも、どっか痛くしてるんじゃ」
「しつこいなっ。どこも痛くねえよ」
「だって震えてる」

 北極の手が優斗の頬に触れていた。
 どくん、と耳の奥が脈打つ。北極の言っていることはどうやら本当らしかった。息がいつまでも整わないはずだ。唇が小刻みに震えていた。胸も、膝も。まるで北極に縋らないと立っていられないみたいに。

「…………!」

 自分の体が自分の思い通りにならない。小動物のように震え続ける優斗の顔を、北極は申し訳なさそうに覗き込んだ。

「……やっぱり、嫌ですよね」
「え……」
「こんな変な習慣に付き合わせちゃって、ホントすみません」

 見上げる北極の瞳は青くて綺麗だった。優斗はまるで少女マンガみたいだと思った。今のこの状況自体がそうだった。優斗は毎晩この男の部屋にせっせと通い詰め、なんと抱き合っている。ここから心ときめく物語の一つや二つ始まりそうだ。

 あくまで優斗が、見目麗しくて性格の良いオンナノコだったらの話なのだが。

 優斗は一瞬黙った後「それがわかってんなら、さっさと普通に寝られるようになってくれ」と鋭く言い放った。思ったことを口に出しただけだが、そう言ったとたん心がどんどん冷えていくのがわかった。のんびりつかっていた湯舟から急にお湯がなくなってしまったみたいに。

 ぐうの音も出ない様子の北極に、優斗はぷいっと背を向けた。押し開けたドアをくぐってすぐ、閉まるドアを北極に向かって雑に押しやる。

 自室へ向かって足早に歩くうちにどんどんムカついてきた。まとまりのない怒りが頭の中でポコポコと泡を立てて沸騰している。何を後輩相手に。別に震えたくて震えたんじゃない。あんなふうに謝るくらいなら初めから頼んでこなければよかったのに。こんなことのために夜更かしするなんて、我ながらバカすぎる。

(あいつが俺がいいって言ったんだ。俺がいいって言ったくせに、なんだよ、急に日和りやがって……!)

 怒っているのに視界が勝手に潤んでくる。震えもひどくなるいっぽうだ。心の中の天秤みたいなところに大きな怒りと悲しみの塊が載っていて、互い違いにぐらぐらと揺れていた。優斗は複雑な感情を自分でも上手く処理しきれなかった。怒っているのと同じくらい悲しい。いや、もしかするとその二つの感情は相反しているようでいて、まったく同じものなのかもしれなかった。

 部屋に戻ると机の上にあのマンガが出しっぱなしになっている。もう何も考えたくなかった。マンガを元通りにカバーの中へしまい、ベッドに横になる。自分で思った以上に気疲れしていたのだろう。その晩は泥のように眠った。

 明け方、雨が窓を叩く音で目を覚ました。(なんだよ)と思って再び目を閉じる。誰かがドアをノックしているのかと思ったのだ。誰が。たとえば北極が、昨夜の物言いを反省して、朝早くから謝りに来たんじゃないかと期待した。

『センパイ、生意気なこと言ってごめんなさい』

 大きな体をしょんぼりと縮めて謝る北極を、優斗はがみがみ怒った。そうだぞ。俺はおまえが来て欲しいって言うから仕方なくつきあってあげてるのに余計なこと抜かしやがって、もう二度とハグしに行かない。これからは自分のことは自分でなんとかするんだな。

『ええっそんなの困る。センパイ、お願いですからハグさせてください』

 夢の中の北極は現実よりもかなり可愛げがあった。しかも本物の北極以上に優斗のことを好きらしい。本当だ。なにしろ本人が『実はオレはセンパイのことがダイスキなのです!』と言い切った。

(うおっ、すげー!)と、夢の中の優斗は思った。なんだか無性に嬉しかった。同性の後輩から告白されている点についてはなんの疑問も持たない。(なんだ、よかった)と思った。(やったー!)とも思った。大きな花束でももらったような気分だった。

『ああセンパイ、愛していますっ』

 身も世もなくしがみついてくる北極を、優斗はわあと言って受け止めた。あまり経験がないので知らなかったが、ひとから本気で好かれるというのは、得も言われぬほど気分の良いものだった。ことに自分よりも背が高くて綺麗な顔の後輩から慕われるのは最高だった。今ならなんでもできる気がする。北極はギュッと抱きついて甘えてきた。

『センパイ……』

 なんだよ甘ったれ、と優斗は偉そうに返した。
 表向き怒ってみせているが、内心ではもう北極が喜ぶならなんでもしてやる気でいた。

『オレ、センパイがほしいよ』

 急に腕の力が強くなった。逃げようとしたが上も下もない謎の空間で背中から覆いかぶさられ、優斗はワーワー言った。後ろから抱きしめられているのに、自分が何をどうされているのかハッキリと客観的にわかる。北極は優斗の胸に腕を回し、左のこめかみから耳たぶにかけて唇を落とした。背筋がゾクッと粟立ち、下半身がギュンと反応する。これは恥ずかしい。やだ、やだ、とかぶりを振って抵抗するのだが、北極は言うことを聞かなかった。それどころか『うそつき』などと人聞きの悪いことを言う。

『本気で嫌がってないですよね、センパイ……』

 優斗はぎくっとした。自分でも気づいていた。口から洩れる声が嫌がっているというより猫の鳴き真似みたいでなんか変だった。それに、恥ずかしいのは確かなのだが若干気持ちよさみたいなものも同時に感じている。やだとは言いつつ、やめられたら逆にふざけんなとキレてしまいそうだ。そういう不安定なわだかまりが体の中心にもやもやと溜まり、内圧が高まる。北極の手がどんどん胸から上へ上がってくる。

『だって、ふるえてる』

 大きな手を、頬にひたりと当てられた瞬間、爆発した。
 目覚まし時計の音で二度寝から目覚めた優斗は、衝撃のあまり動けなかった。

(は!?)

 優斗は夢精していた。

 夜に少女マンガを読んだせい。夢の内容はそれで説明がつくとしても、現実に起こってしまったことはもうどうしようもない。優斗は呻きつつ、下着の汚れ具合を手で確かめた。幸いシーツにまでは染みていないが、動き方次第で面倒なことになりそうだ。ひとまず最悪の状況を脱するため、優斗は上を向いたままじりじりとティッシュへ手を伸ばした。

 その日、雨は一日中降り続いた。五月も最終週に入り梅雨が近づいているらしい。空に渦巻く灰色の雲はカタツムリのカラを横倒しにしたような奇妙な色をしていた。全体に黄みがかっているのにところどころ紫っぽく、フッと雲の隙間に陽が射す時には全体が眩しいくらいに白くなる。

 校舎の周りを囲む木々が雨に濡れて枝葉の色を濃くしている。風が起きるたびに一斉に頭を振り、窓に雫を浴びせた。鬱陶しい雨だ。帰りには止むんじゃないかと淡い期待をしていたが、降り続いている。優斗は傘を差すのも億劫で寮まで五分の道のりを濡れて歩いた。

 もう少しで屋根の下にたどりつくというところで、後ろから傘をさしかけられた。

「センパイ、濡れますよ」
「…………」

 北極だった。
 無言で行こうとすると「待って」と追いかけてくる。優斗はまともに北極を見られなかった。

 北極は自分よりも優斗を傘の内に入れようとするので、寮の正面口へ着くころには傘と同じくらい濡れていた。靴脱ぎ場でも、聞いてもないのに「北海道ってちゃんとした梅雨がないんですよ」などとよくわからない世間話を繰り出してくる。

(なんだ、こいつは)

 そう思って北極を見た優斗は、ハッとした。
 濡れてひとまわり小さくなった北極は、主人の機嫌をうかがう犬みたいにいたいけな目をしていた。

「ごめん」

 思わず謝ると、北極は驚いた顔をした。

「えっ、なんでセンパイが謝るんですか」
「…………」
「違う。謝るのはオレのほうですよ……ずっとセンパイに甘えっぱなしで……」

 優斗はなんと言ったらいいのかわからなかった。いつもは考えるより先に言葉がぽんぽん飛び出してくるのに、こういう時に限って舌が固まったように動かない。

 北極の瞳は優しい光を放っていた。

「こっちほうこそ昨日はすみませんでした」
「…………」
「……オレが卑怯な言い方したから、嫌だったんでしょう」

 虚を突かれた優斗に、北極は「オレ、センパイに大丈夫って言わせようとした」と小さな声で言った。

「本当は無理強いしてるってわかってるのに、センパイに許してもらおうとしたんです」

 優斗は瞬いた。雨の音がやけに大きく聞こえ、靴脱ぎ場の埃っぽい匂いを濃く感じる。
 北極は「なんか……なんでしょうね」と頭を掻いた。

「いつも堂々としててかっこいいセンパイが、オレなんかのとこに毎晩来てくれるってなったから、つい調子に乗っちゃって。センパイ、いつもすごい恥ずかしそうにオレの腕の中で震えてるじゃないですか。ダメだダメだって思うんですけど、それ見てると胸がぎゅーってなって。……センパイがかわいく見えて仕方なくて。だから、本気で嫌がられてるってわかってても手放したくなかったんです、」

 緊張しているのか北極の声はひどく乾いていた。そのうえ語順が乱れていて、ぽそぽそと聞き取りづらい。しかし優斗は雨音の中で彼の言葉を一言一句正確に聞き取っていた。頬が熱くなる。集中しすぎて瞬きも忘れていた。

(かわいい、って……)

 怒るべきだ。しかし頭に湧いたあらんかぎりの罵詈雑言は、ことごとく口の中で溶けてしまう。やけに、甘い。

「…………」

 赤面する優斗に、北極は心苦しそうに「今日、高校で聞いてみたんですけど」と言った。

 北極のぬいぐるみはまだ見つからないらしい。件のボランティアサークルは今、電波が届かない山奥にいるそうだ。廃校予定の小学校に泊まり込みでイベントの手伝いをしているという。学校側は関係者に連絡をとろうと試みているが、情報の遅延状況からみてサークルがまず人里に戻ってこないことにはどうにもならない、と。

「なので……センパイ、迷惑かけてほんとすみません。オレもう変なこと言わない。考えもしないように気をつける。だからもうちょっとだけ、ガマンして付き合ってくれませんか?」
「わ……」

 北極は優斗に向かってグッと身を寄せてきた。靴箱に追いつめられたうえなぜか手まで握られている。近づいてわかる睫毛の長さと量に優斗は息を飲んだ。髪と同じ、白に近い灰色が薄青い瞳を縁取っている。泣きそうに潤んだ瞳は天使みたいに綺麗だった。
 優斗は慌てて下を向いた。

「いやっ、別にいいけどっ? こっちは、だって、最初からそのつもりだったし」
「でも、オレのこともう、嫌になったんじゃ……」
「~~~っ、だから、俺はおまえをイヤだと思ったことは一度もねえよ! なに一人で余計な心配してんだバカッ」

 そう怒鳴りつけたとたん、北極は急に泣きそうな顔になった。あろうことか抱きついてくる。
 今ハグすることを許可した覚えはない。

「おい、こら……!」

 怒ろうとしたのだが、北極から「ごめんなさい、センパイ」と言われると逆らえない。
 気の弱い後輩が何かを必死に言おうとしているのがわかった。

「オレ、センパイにずっと言わないで、黙ってたんですけど……」

 優斗は縮みあがった。(まさか今朝見た夢が現実になるのか)と思い(いや、そんなバカなことあるわけない)と自分で否定する。しかしそうでないとしたら、なぜこんなに北極の体が熱くなっているのだろう。触れあう肌から伝わってくる脈の打ち方は激しかった。つられて胸を高鳴らす優斗に北極は囁きかけた。

「あの、実は……っ」
「ポンちゃーん、カノジョから手紙だよーん!」

 北極の小さな声は、ポストのほうから歩いて来た瀬野に搔き消された。靴脱ぎ場で鉢合わせた三人の反応は三者三葉だった。優斗はパニックのあまり叫び、瀬野は手に持っていた郵便物を取り落とし、北極は床に落ちた封筒に目をやる。差出人の名前は信楽 美夜。妹から、二通目の手紙だった。

「フギャー!!」

 優斗は目にもとまらぬ速さで封筒を回収し、瀬野の襟首を揺さぶった。

「な、な、なにがカノジョだっ。ただの妹だって前にも言っただろうが!」
「ふぇ」

 優斗の機敏すぎる動きは、瀬野の視界にサブリミナル的効果をもたらしたらしい。ほんの一瞬目に映った光景――北極に迫られた格好の優斗――に目をパチクリさせている。優斗は瀬野を力強く揺さぶって今見たものを忘れさせようとした。

「だいたいなんでおまえが俺宛ての手紙持ってんだよっ」
「いや……うちのポストに紛れ込んでたのよ。お隣さんだから」

 ポストは出席番号順に設置されている。瀬野はふと面白がるような目つきになって「そんなに否定するほうがアヤシイな」などと言った。瀬野は美夜の手紙を見たことがあった。前に同じようなことがあった時、宛名をよく見ずに封を開けてしまったからだ。

「写真も見たけど、妹チャンって美少女だしさ。血はつながってないんだろー?」
「なっ何言ってやがるっ」
「可愛い義妹と一つ屋根の下で暮らしてさ、何も起こらないわけなくないか? 俺が紹介してって頼んでも拒否るしさ」
「うおおお瀬野っテメー!!」

 後ろで北極が聞いていると思うと、優斗は気が気ではなかった。

「違うから! あいつとはそういうんじゃないからっ、マジでありえないからっ!」

 大きな声で全力で否定するのだが、瀬野はかえって「ふうーん」と笑みを深くする。

「まっ、別にいいけど。なんだよー、元気になったみたいでよかったじゃーん」

 口でわからないなら腕力に物を言わせるほかない。真っ赤になって拳骨を振り上げる優斗から、瀬野はげらげら笑って逃げた。

「…………」

 静かになった靴脱ぎ場で、優斗はおずおずと北極を振り返った。北極はその場に立ち尽くしている。青い瞳の揺れ方に、優斗はどきんとした。まっすぐ見られると怖くなって、思わず顔を伏せてしまう。

「えっと……なんだっけ。さっき、なんか言いかけてただろ」

 下を向いたままそう言って、優斗は自分で自分を(俺のほうが北極よりずっと卑怯だ)と思った。夢の中みたいに北極が自分を好きだと言ってくれるんじゃないかと期待している。それも自分の気持ちはまったく明らかにしないままで。

 北極はしばらく口ごもったあと「いえ、なんでもなかったです」と言った。落ち着きなく前髪をいじる手に汗が光っていた。北極は気が弱い。急に大きな声を出されて怖かったのだろう。

「ごめん。うるさくしたな」
「いえ、全然……あの、俺のほうこそすみません。なんか一人で勝手にカン違いしてたみたいで……」
「……なんだよ。昨日のことまだ気にしてんのか?」

 優斗は軽く笑い、憂鬱そうな北極の胸を手の甲ではたいた。

「じゃ、また夜にな」
「!」

 北極が目を見開く。一瞬、断られるのかと思うような間が空いたが、彼はうなずいた。「待ってます」と言った。
 梅雨入りした。
 ついこの前、ゴールデンウィークのお土産を交換し合ったばかりのように思えるのに、クラスメイトたちはもう夏休みの予定について話している。優斗は心の中で(その前に七夕だろ)とボヤいた。

 寮友会では寮生の親睦を深めるために季節イベントを用意している。今月は七夕だ。内容としては笹に願い事を書いた短冊を飾るだけの小規模なものだが、この後に控えているのが『納涼祭』というちょっと手の込んだ縁日風のイベントで、人手と予算をそちらのほうへ大幅に持っていかれている。結果、七夕担当の優斗は忙しかった。

 昼休みだというのに教室の机でチョキチョキと笹飾りを量産しているのも、そんなしわ寄せを受けてのことだった。色紙が湿気で手に付くし、出来上がった飾りがたまに空調の風で飛ばされる。優斗はハサミを動かしながらイラついていた。一緒にやるはずの瀬野が作業をサボッているせいで二倍働かなくてはならない。

(クソ、あいつ人の足元見てきやがって……)

 美夜から手紙が来た件で、瀬野は優斗の弱みを握ったと思っているらしい。仕事しろと催促したところ、悪びれずに『じゃー美夜ちゃんのこと紹介してよ』などとせがんできた。優斗はこんな雑用のために義妹を売りたくはなかった。

(瀬野め、美夜がどんなやつか知りもしないで勝手なことを……)

 美夜は繊細なのだ。瀬野のようなお調子者とはどう考えても相性が悪い。口も重いほうで、話すより書くほうが気楽らしい。手紙についても一通書いて満足せず二通目を送ってくるようなところがある。

(……その点、北極とは相性がいいのかもな。なんかすぐ仲良くなりそう)

 作っていた網飾りを開きながらそう思った。

 北極は靴脱ぎ場での一件以来、なんだかずっと緊張しているようだった。ハグをする時も、前までは腕を広げれば即座に抱きついてきたのに、最近はじれったいほどゆっくりと来る。そのくせ、腕の力は初めの頃よりずっと強かった。優斗が身動き取れないくらいに頭と腰を固く抱いてくる。昨日は髪をうなじまで撫でられた。優斗はもちろん恥ずかしいのだが、口に出したらますます恥ずかしい気がして指摘できなかった。北極も黙っていた。重い沈黙と濃厚な抱擁を共有しながら、優斗はやけに心細くてたまらなかった。北極が何を考えているのかわからない。尋ねることもできない。

(……美夜なら、もっと上手くできんのかな)

 美夜は思慮深い。受け答えはゆっくりだが、優斗と違っていきなり怒ったりせず、最後までよく考えて話す。北極の本質もきっとすぐに見抜くはずだ。そして美少女の美夜を嫌う男などこの世に存在しない。北極は当たり前のように美夜を好きになる。

 まるで少女マンガの主人公と相手役のように二人は惹かれ合い、結ばれる。

 優斗は自分で妄想して自分で嫌になった。なんで会ったこともない二人のことをくっつけようとしているのか、我ながら意味がわからない。

 ただ、美夜と北極が仲良くなったら自分なんかもうこの世にいらない気がした。

「のぁっ」

 空調の風が急に強くなった。作り終えた飾りが教室のはしからはしへ飛んでいく。戸口に立っていた男が顔の前に手をかざしてキャッチした。優斗は渋面を作った。ニヤッと笑って優斗を手招いたのは、寮長の山本だった。

 廊下で、山本は優斗に飾りを返してくれた。

「はかどってるらしいな」
「どうも、おかげさまで……」

 七夕の準備にかかる手が足りていないのを知って様子を見に来たらしい。山本は三年。夏には柔道部最後の大会を控えているうえ受験生でもある。この気の回りようが優斗は若干怖かった。北極の部屋にいたことを言い当てられてからというもの、なんだかずっと見張られている気がする。

「たしか瀬野と分担してるんだろう。あいつは何やってんだ」
「あー、えーっと……」
「なんだ。ケンカか?」
「イエー、別にそーいうわけではー」

 告げ口したと思われたくはない。悟られまいとするあまり思いっきり棒読みになる優斗に、山本はふっと口元を緩めた。

「ったく。おまえってヤツはホントに……」

 そのまま優斗の髪を撫でようとしたようだ。優斗は、大きな手の平が自分の頭に向かってくるのをスローモーションに感じた。いつもなら反応する間もなく頭を掴まれるところだ。ところが今日は違った。つむじの毛がピンとアンテナのように立ち、はっきりと(嫌だ)と思った。昨夜、北極の手が頭の後ろを優しく撫でおろした記憶が、肌に鮮明に残っていた。

(イヤだ、北極じゃないヤツに触られたくない!)

 気がついた時にはもう遅かった。パシッと乾いた音が立つ。
 優斗は反射的に山本の手を払いのけていた。

「あ、っ……」

 山本の目が繊月のように細くなる。優斗は咄嗟に頭をよぎった考えを反芻し、真っ赤になった。北極以外の誰にも触られたくなかった。優斗は、先輩としてたった10秒ハグしているだけの相手にこだわって、山本を敵に回した。

「……っ!」

 柔道部主将・山本の大外刈りはさすが堂に入っていた。両袖を掴んで引き倒し、上半身の重心を崩させたところへ一気に刈り足で引き倒す。教室からどよめく声が聞こえたが、いきなり固い廊下に倒された優斗は痛みのあまり声も上げられなかった。

「化けの皮が剥がれかけてるぞ」

 山本は優斗を組み敷いた格好のまま、低い声で呟いた。

「なんだそのあからさまな雌顔は。うっかり技かけちまっただろうが」
「!?」

 雌顔。
 山本らしからぬ下品な物言いに、優斗は言葉を失くした。次いで猛烈に恥ずかしくなって言い返す。

「りょ、寮長、気でも狂ったんですかっ。何を変なこと言って……」
「しらばっくれるな。おまえ俺に隠れてまた悪さしてるだろう」
「…………!」
「わかるさ。ずっと見てんだから」

 その声はうんざりしているように聞こえた。

「寮生活やってれば、おまえみたいにトチ狂うやつは一定数出てくる」

 山本が体重をかけてくる。優斗は押しつぶされ、力比べするみたいに手に手を重ねられてもなにも抵抗できなかった。顔にかかる山本の息は燃えるように熱い。

「男ばっかの閉鎖環境で性欲こじらせて、一過性の感情で人生を棒に振る。こんなにつまらんことないだろうが。あぁ?」

 優斗はゾッとした。完全に見抜かれている。

「お、俺、ちがう、ちがいます。これには事情があって……」
「わかってねえなあ。誰もおまえの事情になんか興味ねーよ」
「は……!?」
「バレた時、周りがどんな目で見てくるかって話だ」

 山本はそれとなく周囲を顎で示した。その場に居合わせた生徒が、みんな固唾を飲んでこちらを見ている。中にはスマホを構えている者さえいたが、山本は落ち着き払った様子で言葉を続けた。

「たとえばの話だ。俺が可愛い後輩に心底イカれたとする。お互いのためにずっと黙っているつもりでいたが、そいつがぽっと出の変なヤツとよろしくやってると知った。そこで嫉妬と性欲にトチ狂った俺がいったい何を考えるかというと」

 山本は大仰に首をかしげて考えるそぶりを見せた。

「『こんなことになるくらいなら俺が先に食っちまえば良かったじゃないか。イヤまだ遅くはない。今夜あいつの部屋へ押し入って想いを遂げてやろう』と、こうくるわけだ。バカバカしい。んなもんやっちまうのはカンタンなことだが、失うものは大きい。わかるな? 退寮になるのはもちろん柔道部の活動も丸ごとおじゃんになる。頭の古い身内からは死ぬまで腫物扱い、うちの母親なんかデリケートにできてるからな、下手したら首吊るかもしれん」

 ほとんど唇を動かさずにそれを言う山本は一度も瞬きせず、優斗を見つめ続けていた。それから将棋の駒のように角ばった顎をかすかに傾けたかと思うと、勢いをつけて優斗の上半身を起こさせた。

「!?」

 気がつくと優斗は倒された時と同じく、立つ気もないのに立ち上がらされてしまった。

「ケガはしてないようだなあ、ポンタロー」
「……!」
「俺がおまえに言いたいことは二つある」

 山本は優斗の顔に向かって、右手の指を二本立てた。

「下手な火遊びはやめろ。まだ続ける気なら俺が本気で潰す。以上」

 最後には立てた指をグッと拳に握り込んだ。優斗は触られてもいない喉を絞められた気がした。
 予鈴が鳴る。
 廊下を歩いてきた教師たちは他学年の階にいる山本を訝しんだ。しかし山本は「後輩指導につい熱が入ってしまって」とはにかんだ笑みを浮かべてみせ、「お騒がせしてすみません」と一礼した。

 柔道家らしい美しい一礼に、スマホカメラのシャッター音が鳴った。授業が始まる直前で教室に生徒が集まっていたせいもあるのだろうか、優斗に技をかけた時よりもずっと注目を浴びている。

(きっと俺のほうが悪いことしたと思われてるんだろうな)

 優斗は他人事のように思った。北極ほどではないが優斗は友だちが少ない。もし善悪が多数決で決まるとしたら学校でも寮でも評価の高い山本のほうが圧倒的に正しいことになるだろう。背中が痛かった。山本が長々と語ったことは例えが突飛すぎてほとんど頭に入って来なかったが、自分が糾弾される立場であることは身に染みてよくわかった。

(いや潰すってなんだよ……意味わからん。俺、もしかして殺されんの……?)

 山本の目は本気だった。
 この法治国家で、学生の身分で、まさかそんなことできるわけがないと頭でわかっていても、優斗は怖かった。
 夜、優斗はいつもより早い時間に北極の部屋へ行った。いないかもしれないと思いつつドアを軽く引っ掻いてみると、かすかに椅子を引く音がして、ドアが開いた。

「えっ。センパイ……うわっ」

 いきなり胸に飛び込んできた優斗を、北極は驚いたように抱き止める。優斗は山本が極秘裏に雇ったヒットマンがどこからか自分の頭を吹っ飛ばすのをじっと待ったが、そんなことは一つも起こらなかった。ただ北極がわたわたと自分の部屋に優斗を引き入れ、そっとドアを閉めただけだった。

「いったい、どうしたんですか……?」
「…………」

 優斗は数も数えず、額を北極の胸につけたままじっとしていた。今やハグされているのは北極ではなく優斗のほうだった。先輩として引き受けた役目も果たさず、バカみたいに北極に抱きついている。

(どうせ殺されるんなら、この体勢がいい)

 優斗は身勝手に思った。この状況で死んだら真っ先に犯行を疑われるのは北極だろう。もしかしたら山本はそんな優斗の思考さえ読んで、こうするよう仕向けたのかもしれない。疑心暗鬼に駆られて震え出す優斗を、北極は「ちょっと」とか「あの」とか言いながら抱きしめ続けていた。

「センパイ、ダメですよ……オレなんかにこんなことしちゃ……」

 優しく髪を撫でおろされ、優斗は我知らず目を閉じていた。山本に痛めつけられている間中、自分はずっとこうされたかったのだと気づいた。北極の背中を抱いて、北極に頭と腰を抱かれていたかった。こうしている間だけ、優斗は自分が無敵になったような気がするのだ。何も怖くない。北極に求められて、自分も北極を求めて、二人で作った完全な円の中に守られているような気持ちになる。

 優斗は、北極のことが好きだった。

「きたぎめ、」

 胸からゆっくりと頭を起こす。北極の青い瞳に優斗の顔が映っていた。『雌顔』ってもしかしてこれか、と優斗は思う。我ながら恥知らずな表情だった。ただでさえ垂れ目がちな顔が物欲しげにいっそうとろんとしている。頬は紅潮し、息が上がっている。品というものがまるでない。絶対に理性的ではない。マンガみたいにずっと見ていられるような綺麗な顔ではない。ただ間違いなく優斗の顔ではあった。優斗は自分の目ではっきりと見た。涙ぐみ、汗をかき、どもりながら必死に求めようとしている。

「きたぎめ、俺、おれさあ、おまえのことが……」
「ダメだって言ってるじゃないですか!」

 北極に怒鳴られた時、優斗は目の前でシャボン玉がはじけたような気がした。
 急に焦点が合った北極の顔は、優斗と同じくらい真っ赤になっていた。

「あ……」

 優斗は反射的に、北極から一歩距離をとった。視界がぐらぐらと揺れる。北極は自分でもびっくりしたみたいに口をおさえていた。こんな大きな声が自分の口がら出ると思っていなかったに違いない。

 優斗は慌てて「あ、そう」と口走った。なんとかして自分がこの場を収めなくてはならないと思った。

「ま、まあ、俺は別にいいけど……なんだよ、そんな怒鳴ることないだろ。ば、ばか」
「!?」

 北極が信じられないものを見る目でこっちを見ている。優斗は目に盛り上がってきた涙を瞬きで吹き飛ばし、優斗は「バカ」ともう一度言った。調子が出てきたので、奥歯を噛みしめて口の両端を無理やり持ち上げてみせる。

「ちょっとふざけただけだろ。冗談のわかんないヤツだな、まったく」
「じょ、じょ、じょうだん……!?」
「そだよ。当たり前だろ。ワハハ、ばーか」

 目をシロクロさせている北極に向かって、優斗はズッと洟を啜った。

「それでさ、寮長にバレてどやされたから、もう俺、ここ来ない」
「……は!?」
「ああ、いや、でもほら、明日とか日曜だし」

 優斗は完全にテンパッていた。なんとか北極を納得させなければならない。先輩として後輩を安心させてやる必要があるし、恥ずかしいから何事もなかった風を装いたい。冷静に。喋りながら頭をフル回転させる優斗は、体の前で落ち着きなく手を動かしていた。

「オーケィ、俺が言いたいのはつまりこういうことなんだぜ。北極、明日おまえには俺の買い物につきあってもらう。荷物持ち役だ。できるな?」
「え? ええと、はい」
「俺の代わりになるぬいぐるみか抱き枕を探そうぜ」
「エッ!?」
「……っ、だからっ。おまえは俺の代わりになるぬいぐるみか抱き枕を探すんだよっ、一回でわかれバカッ」

 優斗はガマンできずにキレてしまった。自分でも言っていて恥ずかしい。話の流れでだいぶ変なことを言っている気がする。いつになく横暴な優斗に、北極は目を丸くした。

「ちょ、ちょっと待ってください。話が急すぎて……えっ。センパイがオレのせいで詰められたってことですか?」
「そうだよっ。さっきからそう言ってるだろうがっ」

 北極の目がぎらっと光った。ドアノブに猛然と手をかけるので、優斗は慌てて止めた。

「おい、なに考えてんだよ」
「そいつ殺してオレも死にます」
「なっ……おいマジでなにを考えてんだよっ、やめろバカ!」

 廊下に飛び出して行こうとする北極の背中に、優斗は飛びついた。北極の戦闘力は見た目だけだ。山本に立ち向かったらただでは済まない。ところが北極は思いとどまるどころか、かえって怒った。

「なに考えてんだはこっちのセリフです。怒られたひとがなにをノコノコとオレのとこ来てんですか」
「……!」
「なんでなんにも悪いことしてないセンパイがっ、当たり前みたいにオレの代わりに責められてんですかっ」

 緊張している時と同じだった。北極は怒れば怒るほど無表情になる性質らしい。だが、その怒りは持続しなかった。優斗が震えて立っているのを見ると目を伏せ、「ああ、もう……」とため息をつく。

「センパイ、泣かないでよ……」

 優斗は涙で北極の背中を濡らしていた。北極が殺すとか死ぬとか、簡単に言うからだ。『なんにも悪いことしてない』とか言うからだ。そんなこと全然ないのに、山本より優斗のほうが正しいと思っているみたいに。

(こいつ、オレのことほんの十秒前にフッたくせに。俺の一世一代の大告白を、まるで聞きたくないみたいに遮ったくせに)

 なぜか、北極まで泣きそうな顔をしている。

(あ……)

 北極がくるりと身を翻す。優斗に向き直ると、優しく抱擁した。「いいよ。わかりました」とかすれた声を漏らす。

「荷物持ちですか? センパイが買い物するなら、オレ、喜んでお供するよ」
「う……」
「ぬいぐるみのことは……まぁ、見てからでいいじゃないですか。ねえ」

 後輩に慰められる恥より、好きなひとに抱きしめられる喜びが勝った。優斗はゆっくりと瞬きして「うん」と素直にうなずいた。そのあと急に羞恥心がぶり返してきて「わかればいいんだ、わかれば」と北極の背中を強く叩いた。
 高校から徒歩で駅前へ向かい、そこからショッピングモール行のバスに乗る。所要時間は三十分ほどだ。日曜のバスは混むので座れればラッキーと言われている。優斗は奇跡的に空いているはしの席に、北極を無理やり押し込んだ。

「センパイ、オレが立ってますからセンパイが座って……」
「いいから座れ。おまえは立ってるとデカくて邪魔なんだ」
「……!?」

 ショックを受けている。口を開けたまま固まってしまった北極の頭に、優斗は自分の被っていたキャップを被せた。乗り合わせた客を怯えさせないための配慮だ。北極は身長が高い以上に目力が強いのだった。

 北極の髪に、黒いキャップはよく映えた。

「おまえ、ずるいわ。なんでも似合う」
「……え、と。そんなことは別にないですけど……」
「うるさい。先輩の言うことに口答えするな」
「わあ」

 キャップのつばを思いっきり下げてやる。北極は間抜けな声を上げてされるがままになった。自分の変なノリに付き合ってくれているんだと、優斗もうっすら気づいていた。今日、買い物につきあってくれること自体、そうなのだ。

(……こいつ、俺とハグしないでももう眠れるんだろうな)

 昨夜ぬいぐるみを買わないでもいいと言ったということは、そうだった。実際、北極は四月中はハグもぬいぐるみもなしで眠れていたのだ。寮生活に慣れて、ホームシックも多少は和らいだに違いない。優斗は(今日あたりハグなしで寝かせてみるかな)と思った。もしダメだったとしても誰かに起こしてもらえるよう頼んでおけばいいのだ。寮友会の役割とは本来そういうものだった。

「……センパイ?」

 北極が心配そうに優斗を見上げる。バスが動き出し、優斗は軽く肩をすくめて見せた。

(ほんと変なやつだな。フッた相手と休みの日に出かけようとか、よく思えるもんだ)

 それはきっと自分たちが男同士で、先輩と後輩の関係だからなんだろう。優斗はバスの大きな窓の向こうに菓子工場の煙を見た。地元では名の知れた工場だ。甘くてほのかに苦い匂いを嗅いだ気がした。立って見ていると、煙突から立ち上る煙が曇り空に色をつけているみたいで少々シュールな眺めだった。

「北極、今、外さあ……」
「え?」

 言っている間に通り過ぎた。優斗は「なんでもない」と言って、ふすふすと笑った。北極ががぜん気にして「なんですかっ」と声を上げる。優斗は口を結んで答えなかった。二人で過ごす日曜日は、まだ始まったばかりだった。
 ショッピングモールに着いた二人は、まず鏡文字のブランドロゴが有名な玩具量販店に行ってみた。海外資本の店だからかオモチャもぬいぐるみも原色のカラフルなものが多い。親子連れでいっぱいの店内を掻き分けるようにしてあちこち見てみた結果、優斗は「どれも北極には小さすぎるな」という結論に至った。北極は大きな体を縮めて恥ずかしそうにうなだれていた。初めからわかっていたことだが、子供向けの店なのだった。

 途中にある雑貨屋や服屋に寄り道しつつ、次に向かったのは人をダメにすることで定評があるビーズクッション専門店だ。こちらも海外資本、ソファ代わりに使える大きなクッションが売られている。

「ふおお……」
「あぁーっ、センパイ……!」

 試しに腰を下ろしてみた優斗はものの三秒でダメになった。北極も見かねて助けに入るがミイラ取りがミイラになる。ダメになってしまった二人は、商品の値札を見て正気に返った。想定していた値段よりゼロが一桁多かった。

「くそっ。どいつもこいつも一長一短すぎる!」

 考えを整理するために入ったコーヒーショップで優斗は管を巻いた。
 北極は苦笑した。

「でも、こういう買い物ってちょうどいいもの見つけても、それはそれでなんか物足りない気がしないですか。なんでなんだろう」
「…………」

 優斗は小さなテーブルに頬杖をついて北極を見つめた。(こいつ、マジで探す気ねーだろ)と思う。それはそれで悔しいのだった。アイスコーヒーにストローを刺す手つきが妙にスマートなのも気に食わない。

 この態度を見ているだけで、きっと北極は泣き虫の見掛け倒し野郎ながらそれなりの数の女の子たちとデートしたことがあるんだろうと察しがついてしまう。特に興味のない買い物につきあったり、重い荷物を持たされたりすることも日常茶飯事だったに違いない。優斗と違って。

 優斗は、このショッピングモールには何度も来たことがある。実家にいた頃は家族みんなで車に乗って来た。寮に入ってからも、寮友会の仕事や友達付き合いで利用している。ただ、好きなひとと一緒に買い物に来るのはこれが初めてだった。

 服屋で相手の目線に気づいても、いつもなら「着てみれば」とかわざわざ言ったりしない。試着室の前でドギマギして待ったりしない。思ったよりも全然似合っていなくてコメントに困ったりしない。北極相手だから変にはしゃいで、浮かれて、その実、根っこの部分ではずっと緊張していた。全然いつも通りにふるまえないのだ。寮の外で見る北極は見ていて不安になるくらい魅力的で、絶対に嫌な思いをさせてはいけない気がした。

「……センパイ」
「ん、」

 アイスコーヒーのカップ表面から結露が垂れていた。トレイに敷いてあるチラシがよれてしまっている。優斗はぼんやりしていて、すぐに返事できなかった。その間に北極が「生まれてきてすみません」と震え声で謝ってきた。

「うん!?」
「い、いや……オレ、たまに言われるんですけど、一緒に買い物するにはつまんないヤツらしくて」

 呆気にとられる優斗の前で、北極は暑そうにキャップを脱いだ。

「こういう時、全然リードとかできないんですよ……だからさっきからセンパイに道案内とか任せっぱなしで……そのうえ面白いことも言えないし……オレは、もう、ダメです……」
「……北極」
「ハイ……」
「ついこないだ北海道から出てきたばっかのヤツに道案内されるほど、俺は方向音痴じゃねーんだよっ」
「あ。それは、そうかも……」
「あとおまえに面白さとか求めてないから!」
「そ、そっか。そうですよね。すみません。すみません」

 よく見ると、白い頭から湯気が立っている。「退屈させてると思うと申し訳なくて」と言われ、優斗はバツが悪くなった。自分の緊張が北極にまで伝わっている気がした。

「まず、おまえが俺のこと楽しませる必要ねーだろ。ガキじゃあるまいし」
「いやっ、でも……オレとしては、なんか……なんかしてあげたいです。センパイには」
「はあ。してあげたいとはまた、ずいぶんと上から」
「!? え、いやっ、決してそんなつもりじゃ……!」

 耳の中がくすぐったい。優斗は何度も首をひねった。首も背中も熱くて、頭がのぼせる。目の前で北極が必死に釈明してくれているのがなんにも耳に入って来ない。変なことを言われたせいで、ただでさえおかしかった調子が完全に狂ってしまったようだ。北極の顔を見るだけで胸がどきどきして、嬉しすぎて、なんだか泣きたいような気までしてくる。

 仕方ないので、優斗はいったんぬいぐるみ探しを中断することにした。文房具屋に用があると言うと、北極は二つ返事でついてきた。目当ては店先に展開されているポストカードだ。北極は物珍しそうに売り場を見回した。

「部屋に飾るんですか?」
「いや、家に送る用」
「えっ」
「おまえも北海道に手紙出せば? いちおう現状は伝えたほうがいいだろ」
「……いえ。うちは、毎日電話してるので……」
「毎日って……どんだけ仲いいんだよ」
「……っ、セ、センパイのほうこそっ、妹さんと毎日電話しないんですかぁ!?」

 それを言う北極の声は、甲高く裏返っていた。急な人見知り発動は今に始まったことではないので、優斗は鼻で笑った。

「北極、普通の男子高校生は寮暮らしだからって毎日実家に電話しないんだよ。どうだ知らなかっただろう」
「いや、家っていうか。だって、」
「? 俺は妹と電話とかしない。親が嫌がるし」
「!!!」

 北極が驚愕の表情を浮かべる。(なるほど、こいつは家に電話すると喜ばれるんだな)と優斗は思った。今どきそっちのほうが珍しい気もするが、住んでいる世界のレイヤーが違うのかもしれない。説明が面倒で「色々と気を遣うんだよ」とだけ言った。

 優斗は柴犬の写真がついたポストカードを買った。笑っている(ように見える)柴犬の顔の横にぶっとい筆文字で、なぜか『ドコサヘキサ塩酸!』とプリントしてある。意味がわからないうえまったく趣味ではなかったが、罪のない明るさが用途に合っていた。
 会計を済ませたあと、通路の壁を机代わりに宛名書きまで済ませてしまう。メッセージ欄には悩んだ挙句『元気にやってる』とだけ書いた。

 背後では、北極が優斗のカバンを手に待っていた。なにか釈然としない顔をしていたが、優斗はそのまま地下一階の郵便局まで行った。窓口で所定の料金を支払い、用事は片付いた。その頃には優斗の気分も落ち着いていた。北極の顔を見ても(こいつ可愛いな)としか思わない。それはそれで異常な気もするが。

「待たせたな」
「待っては、ないですけど……」

 お預けを食らった犬のような顔をしている。優斗は見ていて、今日どうしても北極にぬいぐるみを買い与えたい気がした。今夜から北極は、優斗を十秒ハグする代わりに、そいつと一緒に同じベッドで眠りに就くのだ。きっと毎晩。寮にいる間はずっと。
 それは自分をフッた北極への意趣返しとしては悪くない気がした。

「あー……最初に行ったオモチャ屋に戻ってもいいか?」

 北極はもちろん嫌と言わなかった。
 二人はここまで来た道を戻り、店に入った。商品を目立たせるためなのだろう、群青色に塗られた壁がそのまま棚になっていて、各種ぬいぐるみがギュッと並べられている。優斗の小遣いでも買えるような量産品だが、目の位置や腕の広げ方にちょっとずつ差があった。

「どれか選べよ」

 優斗が顎で差すと、北極はようやく抵抗らしきものを示した。

「いやセンパイ、ほんとにいいって……」
「早く選べって言ってんの」
「だって……」

 選べと言っているのに、北極は棚を見ずに優斗のほうを向いている。優斗は歯噛みした。気に入らないのはわかる。どれも子供用で、北極が抱いて寝るにはサイズが小さい。しかしベッドに置いておくにはちょうど良さそうだった。

 優斗に睨みつけられて、北極は泣きそうな顔になった。情けない声で「センパイが選んでください」と言う。

「はっ? なんでオレが」
「そんなの……だってオレ、センパイが選んでくれたやつがほしいよ」
「フーン!? これでもいいのかっ?」

 優斗は売り場を間違えているとしか思えない不気味なブードゥー人形を掲げた。北極はビクッと肩を震わせたが、殊勝にも「センパイが気に入ったなら」と呟いた。覚悟は固いらしい。

 優斗は仕方なく、もう一度棚に向き直った。ぱっと目を惹くのはクマだが、確か北極が家族に買ってもらったのもクマのぬいぐるみだったはずだ。比較されるのも癪だし、また泥棒されたら困る。かといってウサギや犬はちょっと子供っぽすぎる。うっかり人に見られてからかわれたら気の毒だ。かと言って、サメやティラノサウルスとなると気の利いたインテリアのようで腹が立つのだった。となると意外とブードゥー人形というのもアリな気がしてくる。いや、しかし・・・。

 十分後、優斗はへちゃむくれたアナグマのぬいぐるみを会計して北極の元へ戻ってきた。

「なあ、びっくりした。こいつタヌキじゃなかった!」
「やっぱり。アライグマですよね」
「それも違う」
「……!?」

 二人は店の外でレシートを見て驚き合った。試しにスマホで画像検索をかけてみると、ハクビシンという全く違う動物がひっかかる。優斗は正直わけがわからなかったが、北極が謎のぬいぐるみを見てニコニコしているので一旦よしとした。ショッピングモールの白っぽい照明の下で見る北極の笑顔は花みたいに綺麗だった。

 バス停に向かう途中、ほかの寮生たちと遭遇した。生活圏内が同じなのでこういうことはよくある。普段と違ったのは三輪田含む一年生三人組が優斗に助けを求めてきたことだ。

「ポンタ先輩、たすけてぇ!」

 一人は買い物しすぎてバス代がない。もう一人は本を大量に買ったら袋が破けて身動きがとれない。最後の一人はなぜかさっきからスマホが見つからないらしい。人見知りを起こして固まっている北極をおいて、優斗はひとつひとつ問題を処理した。余っていた買い物袋に本を詰め替え、バス代を立て替え、リュックの中で水筒の下敷きになっていたスマホを見つけ出す。

「おまえら、遠足来た小学生じゃねーんだからよ……」
「すみません、すみません」
「楽しくなっちゃって、つい……」
「ポンタ先輩も今から帰るんですかっ。よかったら一緒に……」
「……信楽センパイは、オレと帰るから」

 北極が急に後ろから会話に割り込んできた。妙な威圧感に三人は固まる。同じ一年同士、北極のことは知っているのだろう。なんとなく優斗の脇にくっついてきて「なんですか、あいつ」「ポンタ先輩、日曜まで面倒見てやってるんですか」などと口々に言う。

(北極のやつ、ホントに人間関係作れてないんだな)

 優斗は入学した頃の自分を見ている気がした。そう思うと同じ一年でも北極のほうを優先して見てやったほうがいいように感じる。

「おまえら三人で帰れるだろ」
「えー!」
「すみません。わかりました……」

 口をとがらせる二人を三輪田が大人しくさせる。ちらっと優斗を心細そうに見たのは、一年生だけで帰るのが不安というよりも、優斗を心配していたのだろう。風呂場で目撃された一件がある。気にするな、という意味を込めて優斗が口のはしを持ち上げてみせると、三輪田はホッとした様子で離れて行った。

「……で、おまえはなんで急に機嫌が悪いんだよ」
「べつに……」
「別にじゃねーだろ! 姿勢悪いぞ!」

 北極は背中を丸めていた。唇は二次関数でいう下に凸のグラフを描き、顎に力がこもっているのが見てとれる。やっと口を開けたと思ったら「ポンタ先輩ポンタ先輩って、あいつら一体なんなんですか?」と言った。

「はぁ?」
「なんであんなフザけた呼び方させとくんです」

 優斗は衝撃を受けた。山本に聞かせてやりたいセリフだ。が、この場では「山本寮長サマの有難いご厚意だからだよ」とお茶らけるほかないのだった。北極は納得できないらしい。

「寮長に変なあだ名つけられるのが有難いことなんですか」
「……そーだよ。おまえもつけてもらえば? もうちょっと打ち解けやすくなるかも」
「オレ、嫌だ。なんでセンパイのことをあのひとが勝手に決めるんですか」

 北極の言い方は子供みたいに意固地だった。優斗の手をぎゅっと握って「変ですよ」ときっぱり言う。

「一人で勝手に呼んでるならともかく、みんなが、一年とかまで一緒になってセンパイのこと変な呼び方してんのは絶対おかしい。なんで寮長がセンパイのことをそこまで支配するんです」

 支配という言葉は耳慣れなかった。優斗は瞬いた。山本に支配された覚えはなかったが、北極が真剣なのは確かだった。北極はまだ一年生で、北海道から出てきたばかりで、寮生活のことも山本のことも何もわかっていないくせに、真剣に優斗の側に立とうとしていた。

「……別に。おまえが怒るようなことじゃないだろ」

 優斗が身じろぎすると、北極は大人しく手を離した。優斗は北極の青く澄み切った眼差しを真正面から受けることになる。なんだかこの場から逃げ出したい気がした。この場からだけではない。寮の門限や明日の学校や、七夕の準備、夏休みにしなければならない帰省、それらすべてを全部なかったことにして、北極と二人きりでいたいと思った。

「じゃ、北極は俺のこと好きに呼んでいいよ」
「……!」
「フン。つーかおまえ、偉そうなこと言ってるけど俺の名前知ってんの?」
「えっ……」
「知らねーだろ」
「し、知ってますよ。さっき、しがらきセンパイって」
「へー、下は?」

 真面目で素直、気の弱い北極は、意外なことにこの挑発に乗ってきた。「ゆ、」と言う。青い目が揺らぐ。恥ずかしがって横を向く。「ゆーとせんぱい」と言った。咳払いすると、急に真顔になって優斗を見下ろしてきた。

「しがらき、ゆうとさん」
「……おう」

 優斗は氏名を呼ばれた手前うなずいた。「よく知ってんね」とコメントしたのに、北極は熱暴走を起こしたロボットみたいに「ゆーとさん、ゆーとさん、ゆーとさん」としつこく言ってくる。優斗は両手で強く胸を押して黙らせた。北極に呼ばれると自分の名前じゃないみたいで恥ずかしかった。
 四時近く、再び駅前へ戻った。北極はバスに乗る前までは異様なほどテンションが高かったのに、下りる頃にはなぜかしょぼくれていた。歩みも遅いので寮までなかなか歩き着かない。優斗は牛を牽く牧人のように北極を引っ張った。

「早くしろよ。門限に遅れたらどーすんだ」
「だって……」
「だってじゃねえよ。しっかりしろ!」
「はい……」

 帰りたくないらしい。北極も楽しかったのかと思うと、優斗はそれ以上怒れなかった。

「近所にあるんだから、また遊びに行けばいいだろ」
「えっ! また連れてってくれるんですか!?」

 優斗は苦笑した。自分をフッた相手と何度も遊びに行けるほど、心は強くなかった。

「オレじゃなくて、友達つくって自分で行け。おまえはもっと同学年と仲良くしろよ」
「…………」
「難しいなら、みんなで行けるようにセッティングしてやるから」

 思い返せば、優斗も最初のうち山本にあちこち連れだされた記憶がある。寮長引率・一年生買い物ツアー。初めは幼稚園児の遠足じゃあるまいしと思っていたが、そのうち瀬野が『ポンちゃんって意外とノリいいのなっ』とか言って来て、なんとなくほかの寮生とも会話するようになった。寮友会の役員になったのもそんな経験があるからだ。ひとには内申点のためだと言っているが、与えてもらったものを誰かに返ししたい気持ちが確かにあった。

 北極はとぼとぼと歩き始めたが、やがて「そうですよね」と呟いた。

「センパイはお仕事だから、オレにもこんな優しいんですもんね」
「あ……?」
「他の一年が困ってても、すぐカッコよく助けに行くし……」
「そんなの当たり前だろ。俺は先輩なんだから」
「…………」
「俺は俺の先輩からそうしてもらった。おまえもおまえの後輩にそうしろ。そうしないほうがおかしい」

 二人は歩道橋にいた。背後にはコンビニがあり、正面には寮の西壁が見えた。横に立つ北極の顔は逆光でよく見えなかった。日が落ちる。道沿いの街灯が一斉に灯った。足元の二車線道路を車が忙しなく行き来する。北極の声はエンジン音に紛れてしまいそうなほどか細かった。

「オレだけのセンパイなら良かったのに」

 優斗は聞き違いかと思った。そんなことを北極が言うのは明らかにおかしい。しかし聞き返すより先に目に飛び込んでくるものがあった。西門から寮の中を覗き込んでいる男女の二人組がいる。その出で立ちが見るからに怪しかった。

(なんだ? 観光客?)

 ダークグレーのジャケットにパンツスーツ、しかもサングラス。
 手に持ったアタッシュケースの角が、西日を反射して鈍い光を放っていた。

「えっ!?」

 北極の大声に、その二人はパッと顔を上げた。外したサングラスごと手を振って「(アキ)ちゃーん!」などと呼んでいる。北極は優斗と二人の顔を交互に見て「オレの兄ちゃんと姉ちゃんです」と説明した。

「仕事でこっちに来ることになったから、寄ってみたんだ」
「ギリギリまで黙ってることにしてた」
「そう、驚かそうと思って!」
「それでいざ電話してもアキちゃん全然出ないから」
「心配したよねー」
「いや私はぜんぜん心配してなかったよ! 日曜日だもん、友達と遊びに行くに決まってる」

 北極の兄と姉は双子らしかった。北極によく似たシベリアンハスキー顔で、お互いにお互いの言葉を補い合うような喋り方をするので、優斗は聞いていてめまいを覚えた。こちらをちらちらと伺う目は、北極と同じく薄青かった。北極はなんとなく優斗を肩で庇うようにしながら「スマホ見てなかった。ごめん」と謝った。しかし二人は弟が隠そうとすればするほど優斗のことが気になるらしい。飛びつくのをガマンする犬みたいに、目がわくわくしている。

「ねえ、お友達? ですか?」
「違う。センパイだよ……」
「やっぱり!」
「電話で言ってた子だ!」
「こんにちは!」
「ねえ挨拶してもいい? いいですか?」

 優斗は勢いに流されてうなずいてしまった。北極がしまったという顔になる。

「うわ」

 優斗は初めて挨拶のハグというものを受けた。アイコンタクトをとって肩の上に腕を回す。片側の頬同士を軽く触れさせ、それを反対側でもやる。兄とも姉とも同じようにして離れる。ほんの数秒のハグだ。優斗はどっと疲れたが、二人は嬉しそうだった。

「いやー本当に会えてよかった!」
「ねえ、佐々木さんだっけ? 中に入ったら会えるかな」
「ぬいぐるみの件について、一言言ってやりたいんだ」

 矢継ぎ早に話しかけられて優斗は立ちすくむ。北極は慌てて優斗から二人を引きはがした。

「それはいいよ、本当にやめたほうがいいよ!」
「そう?」
「そうだよ……来てくれたのは嬉しいけど……」
「でも、大丈夫?」
「大丈夫だよ!」

 弟の力強い一言に、兄と姉は顔を見合わせた。言葉なしで意思疎通できるらしい。小さくうなずきあうと「じゃあ帰るよ」とあっさり言った。二人が代わる代わる広げる腕に、北極は自然体で身を任せた。優斗は瞬いた。

(本当に子供の頃からの習慣なんだな)

 祖母はドイツ人だという。北極は日本語と簡単な英語しか喋れない男子高校生だが、容姿と習慣に血筋は残っている。北極家とはまったく無関係なはずの優斗もその余波を受けているのかと思うと、不思議だった。
 靴を履き替えたとたん雨が降り出した。優斗は二人が濡れずに駅まで着けたか気にかかった。

「北極、おまえの兄さんたち、傘持ってたっけ」
「…………」
「北極?」

 またフリーズしている。北極はぬいぐるみの入った袋を持ち上げたり下げたりしていたが、結局、下げた。

「オレはセンパイに謝らないといけないことがあります」
「……なに?」
「いやさっき実際にやったからセンパイももう気づいてると思うんですけど」
「だから、なんだよ。ハッキリしろ」

 この時点で優斗は、またどうせ下らないことだろうと決めつけていた。前にも靴脱ぎ場であせらされた覚えがある。北極はその時も『言わないといけないことがある』と言っていたのだ。

 北極は肩を怒らせて、肺に思い切り息を吸い込んだ。そこまでして出てきた言葉はとても小さかった。

「挨拶のハグは、ふつう十秒もしません」

 優斗は、頭が真っ白になった。

「いや、もちろん、国によって違うし、うちも祖母ちゃんのやり方に従ってハグしているので、正しいやり方がどうとか、よくわかってはないんです、けど」

 北極はつっかえながら靴箱に縋っていた。優斗はお調子者の瀬野がいつかのように乱入してくるんじゃないかと思った。『ポンちゃん、お帰り!』とか『明日の宿題みせて!?』とか『七夕の準備終わったよー!』とかなんとか。全部ただの願望だ。ただひたすら、誰かが強制的に北極が「あんなネッチョリしたハグするのはたぶん恋人同士くらいだと思う」などと抜かすのをやめさせてくれないかと思った。優斗は怒鳴った。

「なんでおまえはそれを早く言わないんだよ!?」
「……センパイが毎回十秒、きちんと数えてくれるから、言い出せなくて」
「…………!」

 初めてハグした時、北極は寝落ちした。優斗はそれで完全に誤認していた。寝るまで抱きしめているものだと思っていた。そんなわけはない。優斗は先ほど北極の兄姉からハグを受けた。二人合わせて五秒もかからなかった。

「言わなきゃって思って、でも、センパイが可愛くて、ゆーとさんのこと十秒も独占できるのが幸せで……だけど、もし外国の人とハグすることあったら、大変なことになるかもしれないですよね。だから」
「おまえ、それ……わかってんなら言えよ早くっ」
「言う前に、センパイに彼女がいるってわかったから」
「は?? カノジョ!?」

 パニックを起こす頭の中を、瀬野が非常口のポーズで駆け抜けて行った。

「おまっ……俺、あの時ちゃんと否定したよな!? 妹と付き合うとかありえねえって、ハッキリ言っただろ!」
「…………」
「意味わからん! なんで俺が違うって言ってるのに、瀬野なんかの言うこと真に受けるんだよ!」
「センパイは……」

 ぽつんと靴脱ぎ場のスノコに雫が落ちる。うつむいた北極の青い目には、涙が浮かんでいた。

「センパイはカッコよくて、優しくて、しかもすごく可愛いから。そんなの、彼女いるに決まってるじゃないですかぁ……」

 驚いたことに、北極は本気でそれを言っているらしかった。優斗は立ち尽くした。優斗に恋人がいると思い込んでいる。ということは、よそに恋人がいるだろう相手に、恋人みたいなハグを仕掛けていた。どんな神経をしていればそんな芸当ができるのか、まだ誰とも付き合ったことのない優斗には想像もつかない。

 だが確かに優斗はそれをされていた。

 身動きをとれないほど固く抱かれ、撫でさすられる。恥ずかしいくらいに北極の呼吸を感じた。震えながら受け入れていた。
 寮友会役員などという建前からは遠く離れたところで。

「オレは、サイテーの、悪いヤツです……」

 北極は標語を読み上げるように言った。

「センパイが女の子とつきあってるんだって思った途端、なんかタガが外れちゃって。じゃあもういいじゃんって。センパイの気づかないところでオレが勝手に好きでいるだけなら、誰にも、なんにも迷惑かからないし。とか言って結局、センパイにこうやって迷惑かけてる、ほんとに」

 頭を振って「でももう、悪いことはおしまいです」と微笑った。役を終えた演者かのようにぺこりと優斗に頭を下げる。

「ごめんなさい。オレなんかにぬいぐるみ買ってくれて、ありがとうございます。……もう、ちゃんと一人で寝られますから、センパイはもう、オレみたいなヤツに関わらなくていいんです」
(は?)

 北極が自分のすぐ脇を通り過ぎていくのを感じて、優斗はぞっとした。

(もう関わらないでいい、って)

 そりゃないだろうと思う。本気なのか。優斗を見るだけで嬉しそうにしていた北極が、自分から背を向けてスタスタと廊下を歩いていく。『センパイがいい』と言ってはばからなかった北極が。夜が来るたびに物も言わずに優斗を抱き締めていたくせに。

(そんなのダメだ。なんでだよ。ちゃんと違うって言ってるのに、なんでオレの言うこと信じてくれないんだよ)

 優斗と美夜がつきあっているわけがない。妹だ。血のつながりがないとしても、今でも優斗が家族でいられるように手紙と写真を送ってくれる。どんなに鬱陶しくても気まずくても、長期休暇には帰省している。

 家族だから。

 実家が近いのに寮にいる。優斗の状態は、確かに人の目には変に映るに違いない。瀬野からもその点をつつかれて『妹ちゃんのことをセイテキに意識しちゃうんだろ~』とか言われた。下種の勘ぐりも甚だしい。理由は確かにあったが、それは優斗が勝手に口にしていいようなことではなかった。

 優斗は背後に美夜が立っている気がした。震えながら、優斗の背中をひっしと掴んでいる。美夜といることを選べば、北極を追いかけられない。逆に北極を追いかければ、美夜と一緒にはいられない。

「…………!」

 その時、優斗の背中を押したものはなんだったのだろう。引っぱたかれるような痛みを感じた。積み重ねてある手紙の山が崩れ落ちる音を聞いた気がする。あるいは少女マンガの折り癖のついたページに、こんなセリフが書いてあった。『自分で叩かないドアは、ずっと開かないんだよっ!』。

 優斗は走った。息せき切らして階段を駆け上り、北極の背中を廊下のはしに見つけ、彼が自室の部屋に入る、そのドアが閉じる寸前に隙間に向かって指と膝とを捻じ込んだ。痛みを感じるよりも先に北極と目が合った。

「……えっ」

 北極が血相を変えてドアを大きく開く。優斗は痛む指に力を込め、強引に部屋へ乗り込んだ。バタンと閉まったドアにそのまま鍵をかけてしまう。部屋に押し込まれた北極は絶句していた。

「北極」
「は、はい……!」
「おまえは秘密を守れるんだろうな」
「……!?」
「俺が今からする話を、墓まで持ってく覚悟はあるんだろうなっ」

 北極は呆気にとられていた。今後関わることはないと思っていた相手が追いかけてきて、急に鬼軍曹みたいな態度をとる。優斗だったら怒って追い返すところだ。しかし北極は薄く開けていた口を結び、うなずいた。

「オレ、言わないよ……。センパイがそうしてほしいなら、絶対。誰にも」

 優斗は、本当はわかっていた。秘密というのは、口に出した瞬間からもう秘密ではなくなってしまうのだ。そしてどんなに隠してもいつかは暴かれる。自分にとっても、今日がその日だったということなのかもしれなかった。

 優斗は北極を初めて部屋まで送り届けた時のように、ベッドに腰を下ろした。

 いざ口を開こうとして、迷った。

「……俺、この話は一度もひとにしたことないんだ。だから、順番とかけっこうめちゃくちゃになるかもしれない」
「いいですよ」
「っていうか、まず……どこから話したらいいんだか……」
「えっと……いつ頃あった話なんですか?」

 中学の頃。
 しかしその前に、優斗がまだ生まれたばかりの頃、両親が離婚をした。父親の女癖の悪さが原因で、母はずいぶんと悩んだのだが、最終的には別れる決断を下した。しばらく母ひとり子ひとりで暮らしていたが、仕事先で思わぬ出会いがあり、優斗が小学生の時に再婚することになった。

 実のところ優斗は当時の記憶がかなり曖昧なのだが、節約家の母が珍しく高級レストランに連れて行ってくれたことはよく覚えている。ちゃんとした服を着て店に入ると、母が予約したはずのテーブルに、なぜか知らない男と可愛い女の子が座っていた。母の恋人と、その娘・美夜。なんとなく状況は飲み込めたものの、優斗は一緒に食事していて面白くなかった。同じテーブルで、母もその男も美夜のことばかりチヤホヤと構うからだ。

 一緒に暮らすようになってから、美夜の本当の母が病死していると知った。忘れ形見である美夜を義父は目に入れても痛くないほど可愛がっている。母も当然、血のつながらない美夜に気を遣う。レストランのテーブルの延長線上のような生活。ストレスは多かったが、それでも一つだけ良いことがあった。

 小遣いがもらえるようになり、マンガを買えるようになったのだ。それも、二倍。
 きっかけは美夜が優斗の少年マンガに興味を示したことだった。読みたそうにしていたので許可すると、美夜も代わりにといって自分の少女マンガを貸してくれた。(いや、妹の読むようなマンガなんか……)と思っていた優斗が一瞬で手のひらを返したことは言うまでもない。優斗は少女マンガの世界観にすっかり魅了されてしまった。美夜のほうも兄のマンガのほうが好みに合ったらしい。

 それで月に一度は一緒に本屋へ行くことにした。二人でごにょごにょと相談して、お互いの読むマンガを買い合ってトレードする。ひとに見られたとしても、それぞれ『妹に頼まれて買った』『兄に頼まれて買った』と説明すればごまかしやすい。親には言えなかった。優斗は少女マンガを読んでいるのが自分でも恥ずかしかったし、美夜は美夜で父にとって望ましい娘を演じなくてはならないという気負いがあったようだ。

 美夜はよく『私がお義兄ちゃんなら良かったのになあ』と言った。

『……いや、それはおまえ、俺というものをナメてるよ。こっちはこっちで大変なんだから』
『でもお義兄ちゃんは、私より自由だと思う』

 優斗は否定できなかった。美夜は確かに義父の愛を一心に受けているが、その代わり強い束縛を受けていた。一人で出かける時はいちいち行先を伝えなければならず、それも場所によってはダメだと言われる。優斗はその点どこで何をしていたところで、誰からも文句をつけられなかった。少女マンガにハマッていた優斗は(でも、美少女に生まれるほうが得だ)と思っていたのだが。

 中学に上がった頃、優斗はよく不良に絡まれるようになった。目つきが気に入らないとか尻がプリプリして生意気だとか、変な因縁をつけられるのを嫌った優斗は図書室へ逃げ込んだ。放課後は委員の仕事をこなしつつ、図書室でギリギリ一般書に見える少女小説を読む。そして家へ帰ったら心置きなくマンガを読む。そんな平和なループは、ある日いきなり断ち切られた。

 帰宅すると、自分以外の家族三人が神妙な顔でリビングのテーブルについている。夕飯の支度もまだらしい。怪訝に思ってテーブルのほうへ行くと、優斗の席にエロマンガが置いてあった。ドピンクな表紙で成年向けと書いてある。

『???』

 優斗は大いに困惑した。義父から『美夜のカバンからこんなものが出てきた』と言われて、もっと困惑した。しかし義父が怒っていることは見てとれたので、うかつに口を挟めなかった。

『美夜は知らないと言っている。気づいたらカバンに入っていたそうだ。君が入れたんじゃないのか』

 身に覚えがなかった。こういうマンガが存在していること自体はもちろん知っているが、読みたいと思わない。それは、異性にまったく興味がないかと言うと嘘になるが、優斗は綺麗なすっぱだかの女性よりも綺麗な服を着た女性のほうに憧れる。クラスの男連中にさえ『レベルたけー』と言われるシュミを、その場で義父に理解してもらうのは不可能だった。

 優斗は財布を出すよう言われた。義父は書店のレシートを探しているらしい。優斗は大人しく従いながら、ずっと不思議だった。

(でも、いったい誰が美夜のカバンにこんなもん入れるんだ? 痴漢か? まさか、いじめ?)

 それで美夜のほうを見たら、向こうがバッと顔を伏せた。それで優斗は理解した。
 美夜が自分で買った。
 よくよく見てみると表紙の絵柄に既視感があった。美夜が好きな少年マンガの作者は、別名義でエロマンガも書いている。それで買った。義父にうっかり見つかった。しらを切るしかない。現在に至る。

 現在に至る。
 話している途中で口を閉じた優斗に、北極は尋ねた。

「……それで?」
「俺が道で拾ったことにした。買ったとか言ったら、本屋に怒鳴り込みに行きそうだったから」
「…………」
「そして俺は、拾ったエロ本を義妹のカバンに入れる変態兄貴の称号を得たわけだ」

 優斗は自分で言いながら笑ってしまった。

「さすがにキモぎるし、そりゃ義父は怒るよな。ただそれ以上にうちの母親のほうがキレちゃって」
「お母さん庇ってくれないんですか!?」
「なんで庇うんだよ。ああ……いや、ていうかそれ以前に俺、実の父親に顔がそっくりらしくて」

 性的にだらしない男の息子が、とうとう本性を現したと思ったのだろう。優斗はノーマークだった相手にどつきまわされ、死ぬかと思った。それを見た美夜が泣き出して。やり返さなきゃと咄嗟に思った結果、一時は警察を呼ぶほどの騒ぎになってしまった。

「……まあ今は、全然そんなことなくて、帰省すれば一緒にメシも食うし、テレビ見て笑ったりもするよ」
「それ……妹さんは今でも親に、なんにも言わないんですか」
「言うって、何を?」
「何を……!? 自分のしたことをですよ!」

 優斗は瞬いた。(なんでコイツにまで怒られなきゃならないんだよ)と思う。怒られるのはもう嫌だった。怒られたくて話したわけじゃないのだ。美夜に今になって恥をかかせたいわけでもない。ただ、北極にわかってほしかった。

「だから俺はっ美夜とつきあってなんかねえよ……!」

 今になって、いきなり涙が出てきた。昔の話だ。別に悲しいわけでも怒っているわけでもないのだが、もっと強い言葉を使わないと全然わかってもらえない気がして、言った。

「あ、あんなむっつりスケベのクソ女、ただ妹だから庇ってやってるだけだよっ。別に好きでもなんでもない、俺は、俺が好きなのは、ずっと……!」

 優斗は変だった。北極と知り合ったのはつい最近のことなのに、自分がそれよりもずっとずっと昔から、北極に恋していたような気がするのだ。少女マンガを読んでる時とか。雨上がりに虹が出た時とか。駅でキスしてるカップルを見た時とか。なんでもない風を装いつつ内心では(うおおおおおお)と吠えていた。わけもわからずずっと待たされていたのだ。そして今こうして隣に座っていると、自分がもう何年も前から待ち侘びていたのは他の誰でもない北極だったんだとハッキリわかるのだった。

「俺、北極のことが好きだ……」
「は……え……」

 当の北極には待たれていたという自覚がない。優斗がベッドシーツに手をつき、自分に向かって身を乗り出してくるのを見て、頬を赤らめた。優斗の肩に両手を置き「いや落ち着いてください」と言う。

「違うから。いくらなんでも、それはないから」
「何がだよ。違わねえよ……」
「……ほらっ、もう! なんでまたオレみたいなのがカン違いするような言い方しちゃうんですかっ」

 しかし北極は口ではそう言いつつ優斗の肩に向かって体重をかけてきた。反応に困った優斗はただ押し倒される。肩を掴んでくる力は、もしかして怒っているのかと思うほど強かった。

「ダメですよっ、オレはセンパイに言われたらなんでも本気にするんです。こんなことされたら嫌でしょう。ね!」

 嫌じゃなかった。
 優斗は答える代わりに、そっと目を閉じた。北極は急ブレーキみたいに甲高い声で吠えた。

「そうやってっ、またオレのことからかって……!」

 北極が自分に向かって覆いかぶさってくるのを、優斗は目を閉じたまま感じた。ベッドが深くきしんだ後。唇は思いがけず目尻に触れた。涙を吸われているとわかり、ひどく恥ずかしくなる。呼吸する間があり、北極は同じところに今度は音を立ててキスした。それでも優斗がじっとしているのを見て、やっと「ほんとに……?」とかすれた声を漏らす。優斗は業を煮やして自分から顔を傾けた。唇に唇を受け入れ、強く吸う。火が水に落ちるような、じゅっと低い音が立った。

「あ……」

 漏れ出す優斗の声を、北極は飲み干してしまった。優斗はやりかえそうとしたが、上に乗っている北極は簡単に逃れて「センパイ、すき」と言ってくる。

「すき、あいしてる、すき。すき、すき、ゆーとさん、ゆーと、すき……!」

 とんでもなかった。もしかして人語を喋る犬に襲われているのかと思う。優斗は北極の頭を撫でてやり、腰にあるはずの尻尾を探したが、どうしても見つからなかった。北極は嬉しそうに喉を鳴らし、優斗に向かっていっそう深く身を屈めた。

 ダンダンと部屋のドアを激しく叩く音がしたのは、その時だった。優斗と北極はギクッと身を固くした。絶えず続くノックの音に混ざり、抑揚のない声が響いた。

「すみませーん、寮友会の者ですがー」
 山本だった。
 身を起こそうとする北極の腕を、優斗は掴んで止めた。山本は呼びかけを止めない。

「ぬいぐるみの件で来ましたー。ここ開けてくださーい。すみませーん」

 そういう怪異現象かのように三回同じ文言を繰り返し、ピタリとノック音が止む。
 優斗は身を震わせた。ドアの向こうで山本と瀬野が話をしている。

「瀬野、カギ」
「え。開ける時って佐々木さん呼ぶんじゃ……」
「三回の警告義務は果たした。中で死んでたら大変だろ」
「いや、それは……」

 このままでは優斗は見つかる。部屋で何をしていたのかと問い質されることだろう。寮友会役員のくせに寮規違反を重ねていることが明らかになればきっとただでは済まない。だが今出て行けば、北極だけは助かる可能性があった。ここは北極の部屋で、今のところルールを破っているのは優斗ひとりだからだ。
 瀬野は鍵束の中から目当ての鍵を取り出すのに手間取っている。行くなら今だ。
 しかし北極は優斗の体を押さえつけて囁いた。

「布団かぶって隠れててください。外で話すように持っていきますから、隙を見て逃げて」
「……!?」

 優斗の頭に布団をかぶせてくる。北極は「なんでひとの部屋に入っちゃいけないのか、オレ、もうわかります」と言った。「普通にダメに決まってますね」と笑った。

「こんなに可愛くて、無防備なセンパイがいるんだから」

 ドアが開いた時、北極は部屋の真ん中に立っていた。山本は目をすがめ「なんだよ」と吐き捨てる。

「死んでないじゃねーかよ。あーあ」
「……出てってください」

 北極は強気に応じた。大股で山本に近づき、ドアを押さえようとする。山本はそんな抵抗はものともしない。

「冷たいじゃねーか。こっちはおまえが寂しがってるだろうと思ってわざわざ届けに来たのに」
「は?」
「おら、お友達だぞ」

 山本が部屋に投げ込んだ何かが、ベッドの前に落ちる。ふわふわの毛並みに大きなボタンの瞳。きっと大人が見てもちょっとテンションが上がるような、可愛くて大きなぬいぐるみだったに違いない。今は土にまみれ、首がとれかかり、お腹からワタも出てしまっているけれど。

「……!?」
「ああ悪い悪い、汚したのは俺じゃないんだぜ」

 山本はまったく悪びれずに両手を広げてみせた。北極の注意がそれたのをいいことに、ズカズカと部屋に乗り込んでくる。

「持ってかれた先で、ちびっ子にちょーっとヤンチャされたらしくてな」
「……なんで、あなたがこれを持ってるんです」
「俺が持ってくるのがスジだろう。寮長なんだから」

 山本が拾い上げると、ぬいぐるみの首はぷらぷらと揺れた。

「そもそもなんでこんなことが起こった? このぬいぐるみがちびっ子に大ウケだったからか。ボランティアサークルが間違えて持っていったからか。佐々木さんがぬいぐるみを倉庫に置いたからか。違う違う、そうじゃないだろう。そもそも北極の抱えている問題を寮友会側が把握してなかったからだ。発覚が遅れ、報告もなく、結果なにもかもが後手後手に回った。……俺は情けなかったぜ。北極の事情を知ってて俺に黙ってたヤツがいるんだ」

 北極の布団の中にうずくまりながら優斗は泣きそうだった。山本が怒っている。ベッドをがつんと蹴った。
 伝わってくる衝撃の凄まじさたるや恐ろしかった。瀬野の焦った声が聞こえてくる。ひとりだけ廊下に残っているようだ。

「りょ、寮長、あの、ひとの部屋に入っちゃいけないんじゃ……」
「ああそうだな瀬野、俺もおまえと全く同意見だ」

 そっと掛け布団のふちがめくられた時、優斗はいっそ自分から出て行こうかと思った。謝ってしまったほうが楽だからだ。事実、優斗は寮則違反をした。するべきだとわかっていて寮友会に報告しなかった。間違ったことをしたと認めて、謝ってしまえばいい。山本はきっと許してくれるだろう。山本はいつも正しい。寮でもずっと優斗のことを気にかけてくれていた。

 北極は、山本とベッドの間に肩で割り込んだ。

「オレのものに勝手に触るな!」

 岩みたいにでかい山本が、その体当たりで呆気なくよろめいた。優斗は驚いた。山本も驚いたようだった。

「あ……?」
「触るな、って言ってんです。汚い手でベタベタと気持ち悪い!」

 北極が吠える。優斗は、ブチッという鈍い音を聞いた。山本がキレる音だった。
 物も言わずに北極の襟を掴む。北極はその瞬間、山本の顎を頭突いた。飛んできた拳を山本が掴む。にぎにぎと弄びながらせせら笑った。「ケンカ慣れしてないだろ」と嬉しそうに言って、腰を引く。北極の腹を膝蹴りした。

「北極!!」

 優斗はもう隠れていられなかった。布団から飛び出して北極を庇う。
 山本は二人を見下ろして立っていた。

「おい。なにやってんだ。ポン」
「も、もう、やめてくださいよ……いいでしょう、もう十分じゃないですか、北極はまだ一年生なんですよ、それなのにこんな」
「そんなヤツのことはどうだっていい! おまえはなにやってんだって聞いてんだよ!」

 雷が落ちるような怒鳴りつけ方だった。何をやっているのかと聞かれても、優斗は困った。恐怖のあまり北極にしがみついている。膝蹴りをされた腹に手を当てている。当の北極は泣くことも謝ることもなく沈黙していた。

 奇妙だった。痛めつけられた北極のほうが、むしろ堂々と勝ち誇って見える。
 そして一人で立つ山本ときたらなぜか蒼褪めて、かすかに震えてさえいた。

 混乱する優斗をよそに、バタバタと走ってくる音がした。山本が舌打ちする。
 瀬野が、寮監を連れて戻ってきた。