夜、優斗はいつもより早い時間に北極の部屋へ行った。いないかもしれないと思いつつドアを軽く引っ掻いてみると、かすかに椅子を引く音がして、ドアが開いた。
「えっ。センパイ……うわっ」
いきなり胸に飛び込んできた優斗を、北極は驚いたように抱き止める。優斗は山本が極秘裏に雇ったヒットマンがどこからか自分の頭を吹っ飛ばすのをじっと待ったが、そんなことは一つも起こらなかった。ただ北極がわたわたと自分の部屋に優斗を引き入れ、そっとドアを閉めただけだった。
「いったい、どうしたんですか……?」
「…………」
優斗は数も数えず、額を北極の胸につけたままじっとしていた。今やハグされているのは北極ではなく優斗のほうだった。先輩として引き受けた役目も果たさず、バカみたいに北極に抱きついている。
(どうせ殺されるんなら、この体勢がいい)
優斗は身勝手に思った。この状況で死んだら真っ先に犯行を疑われるのは北極だろう。もしかしたら山本はそんな優斗の思考さえ読んで、こうするよう仕向けたのかもしれない。疑心暗鬼に駆られて震え出す優斗を、北極は「ちょっと」とか「あの」とか言いながら抱きしめ続けていた。
「センパイ、ダメですよ……オレなんかにこんなことしちゃ……」
優しく髪を撫でおろされ、優斗は我知らず目を閉じていた。山本に痛めつけられている間中、自分はずっとこうされたかったのだと気づいた。北極の背中を抱いて、北極に頭と腰を抱かれていたかった。こうしている間だけ、優斗は自分が無敵になったような気がするのだ。何も怖くない。北極に求められて、自分も北極を求めて、二人で作った完全な円の中に守られているような気持ちになる。
優斗は、北極のことが好きだった。
「きたぎめ、」
胸からゆっくりと頭を起こす。北極の青い瞳に優斗の顔が映っていた。『雌顔』ってもしかしてこれか、と優斗は思う。我ながら恥知らずな表情だった。ただでさえ垂れ目がちな顔が物欲しげにいっそうとろんとしている。頬は紅潮し、息が上がっている。品というものがまるでない。絶対に理性的ではない。マンガみたいにずっと見ていられるような綺麗な顔ではない。ただ間違いなく優斗の顔ではあった。優斗は自分の目ではっきりと見た。涙ぐみ、汗をかき、どもりながら必死に求めようとしている。
「きたぎめ、俺、おれさあ、おまえのことが……」
「ダメだって言ってるじゃないですか!」
北極に怒鳴られた時、優斗は目の前でシャボン玉がはじけたような気がした。
急に焦点が合った北極の顔は、優斗と同じくらい真っ赤になっていた。
「あ……」
優斗は反射的に、北極から一歩距離をとった。視界がぐらぐらと揺れる。北極は自分でもびっくりしたみたいに口をおさえていた。こんな大きな声が自分の口がら出ると思っていなかったに違いない。
優斗は慌てて「あ、そう」と口走った。なんとかして自分がこの場を収めなくてはならないと思った。
「ま、まあ、俺は別にいいけど……なんだよ、そんな怒鳴ることないだろ。ば、ばか」
「!?」
北極が信じられないものを見る目でこっちを見ている。優斗は目に盛り上がってきた涙を瞬きで吹き飛ばし、優斗は「バカ」ともう一度言った。調子が出てきたので、奥歯を噛みしめて口の両端を無理やり持ち上げてみせる。
「ちょっとふざけただけだろ。冗談のわかんないヤツだな、まったく」
「じょ、じょ、じょうだん……!?」
「そだよ。当たり前だろ。ワハハ、ばーか」
目をシロクロさせている北極に向かって、優斗はズッと洟を啜った。
「それでさ、寮長にバレてどやされたから、もう俺、ここ来ない」
「……は!?」
「ああ、いや、でもほら、明日とか日曜だし」
優斗は完全にテンパッていた。なんとか北極を納得させなければならない。先輩として後輩を安心させてやる必要があるし、恥ずかしいから何事もなかった風を装いたい。冷静に。喋りながら頭をフル回転させる優斗は、体の前で落ち着きなく手を動かしていた。
「オーケィ、俺が言いたいのはつまりこういうことなんだぜ。北極、明日おまえには俺の買い物につきあってもらう。荷物持ち役だ。できるな?」
「え? ええと、はい」
「俺の代わりになるぬいぐるみか抱き枕を探そうぜ」
「エッ!?」
「……っ、だからっ。おまえは俺の代わりになるぬいぐるみか抱き枕を探すんだよっ、一回でわかれバカッ」
優斗はガマンできずにキレてしまった。自分でも言っていて恥ずかしい。話の流れでだいぶ変なことを言っている気がする。いつになく横暴な優斗に、北極は目を丸くした。
「ちょ、ちょっと待ってください。話が急すぎて……えっ。センパイがオレのせいで詰められたってことですか?」
「そうだよっ。さっきからそう言ってるだろうがっ」
北極の目がぎらっと光った。ドアノブに猛然と手をかけるので、優斗は慌てて止めた。
「おい、なに考えてんだよ」
「そいつ殺してオレも死にます」
「なっ……おいマジでなにを考えてんだよっ、やめろバカ!」
廊下に飛び出して行こうとする北極の背中に、優斗は飛びついた。北極の戦闘力は見た目だけだ。山本に立ち向かったらただでは済まない。ところが北極は思いとどまるどころか、かえって怒った。
「なに考えてんだはこっちのセリフです。怒られたひとがなにをノコノコとオレのとこ来てんですか」
「……!」
「なんでなんにも悪いことしてないセンパイがっ、当たり前みたいにオレの代わりに責められてんですかっ」
緊張している時と同じだった。北極は怒れば怒るほど無表情になる性質らしい。だが、その怒りは持続しなかった。優斗が震えて立っているのを見ると目を伏せ、「ああ、もう……」とため息をつく。
「センパイ、泣かないでよ……」
優斗は涙で北極の背中を濡らしていた。北極が殺すとか死ぬとか、簡単に言うからだ。『なんにも悪いことしてない』とか言うからだ。そんなこと全然ないのに、山本より優斗のほうが正しいと思っているみたいに。
(こいつ、オレのことほんの十秒前にフッたくせに。俺の一世一代の大告白を、まるで聞きたくないみたいに遮ったくせに)
なぜか、北極まで泣きそうな顔をしている。
(あ……)
北極がくるりと身を翻す。優斗に向き直ると、優しく抱擁した。「いいよ。わかりました」とかすれた声を漏らす。
「荷物持ちですか? センパイが買い物するなら、オレ、喜んでお供するよ」
「う……」
「ぬいぐるみのことは……まぁ、見てからでいいじゃないですか。ねえ」
後輩に慰められる恥より、好きなひとに抱きしめられる喜びが勝った。優斗はゆっくりと瞬きして「うん」と素直にうなずいた。そのあと急に羞恥心がぶり返してきて「わかればいいんだ、わかれば」と北極の背中を強く叩いた。
「えっ。センパイ……うわっ」
いきなり胸に飛び込んできた優斗を、北極は驚いたように抱き止める。優斗は山本が極秘裏に雇ったヒットマンがどこからか自分の頭を吹っ飛ばすのをじっと待ったが、そんなことは一つも起こらなかった。ただ北極がわたわたと自分の部屋に優斗を引き入れ、そっとドアを閉めただけだった。
「いったい、どうしたんですか……?」
「…………」
優斗は数も数えず、額を北極の胸につけたままじっとしていた。今やハグされているのは北極ではなく優斗のほうだった。先輩として引き受けた役目も果たさず、バカみたいに北極に抱きついている。
(どうせ殺されるんなら、この体勢がいい)
優斗は身勝手に思った。この状況で死んだら真っ先に犯行を疑われるのは北極だろう。もしかしたら山本はそんな優斗の思考さえ読んで、こうするよう仕向けたのかもしれない。疑心暗鬼に駆られて震え出す優斗を、北極は「ちょっと」とか「あの」とか言いながら抱きしめ続けていた。
「センパイ、ダメですよ……オレなんかにこんなことしちゃ……」
優しく髪を撫でおろされ、優斗は我知らず目を閉じていた。山本に痛めつけられている間中、自分はずっとこうされたかったのだと気づいた。北極の背中を抱いて、北極に頭と腰を抱かれていたかった。こうしている間だけ、優斗は自分が無敵になったような気がするのだ。何も怖くない。北極に求められて、自分も北極を求めて、二人で作った完全な円の中に守られているような気持ちになる。
優斗は、北極のことが好きだった。
「きたぎめ、」
胸からゆっくりと頭を起こす。北極の青い瞳に優斗の顔が映っていた。『雌顔』ってもしかしてこれか、と優斗は思う。我ながら恥知らずな表情だった。ただでさえ垂れ目がちな顔が物欲しげにいっそうとろんとしている。頬は紅潮し、息が上がっている。品というものがまるでない。絶対に理性的ではない。マンガみたいにずっと見ていられるような綺麗な顔ではない。ただ間違いなく優斗の顔ではあった。優斗は自分の目ではっきりと見た。涙ぐみ、汗をかき、どもりながら必死に求めようとしている。
「きたぎめ、俺、おれさあ、おまえのことが……」
「ダメだって言ってるじゃないですか!」
北極に怒鳴られた時、優斗は目の前でシャボン玉がはじけたような気がした。
急に焦点が合った北極の顔は、優斗と同じくらい真っ赤になっていた。
「あ……」
優斗は反射的に、北極から一歩距離をとった。視界がぐらぐらと揺れる。北極は自分でもびっくりしたみたいに口をおさえていた。こんな大きな声が自分の口がら出ると思っていなかったに違いない。
優斗は慌てて「あ、そう」と口走った。なんとかして自分がこの場を収めなくてはならないと思った。
「ま、まあ、俺は別にいいけど……なんだよ、そんな怒鳴ることないだろ。ば、ばか」
「!?」
北極が信じられないものを見る目でこっちを見ている。優斗は目に盛り上がってきた涙を瞬きで吹き飛ばし、優斗は「バカ」ともう一度言った。調子が出てきたので、奥歯を噛みしめて口の両端を無理やり持ち上げてみせる。
「ちょっとふざけただけだろ。冗談のわかんないヤツだな、まったく」
「じょ、じょ、じょうだん……!?」
「そだよ。当たり前だろ。ワハハ、ばーか」
目をシロクロさせている北極に向かって、優斗はズッと洟を啜った。
「それでさ、寮長にバレてどやされたから、もう俺、ここ来ない」
「……は!?」
「ああ、いや、でもほら、明日とか日曜だし」
優斗は完全にテンパッていた。なんとか北極を納得させなければならない。先輩として後輩を安心させてやる必要があるし、恥ずかしいから何事もなかった風を装いたい。冷静に。喋りながら頭をフル回転させる優斗は、体の前で落ち着きなく手を動かしていた。
「オーケィ、俺が言いたいのはつまりこういうことなんだぜ。北極、明日おまえには俺の買い物につきあってもらう。荷物持ち役だ。できるな?」
「え? ええと、はい」
「俺の代わりになるぬいぐるみか抱き枕を探そうぜ」
「エッ!?」
「……っ、だからっ。おまえは俺の代わりになるぬいぐるみか抱き枕を探すんだよっ、一回でわかれバカッ」
優斗はガマンできずにキレてしまった。自分でも言っていて恥ずかしい。話の流れでだいぶ変なことを言っている気がする。いつになく横暴な優斗に、北極は目を丸くした。
「ちょ、ちょっと待ってください。話が急すぎて……えっ。センパイがオレのせいで詰められたってことですか?」
「そうだよっ。さっきからそう言ってるだろうがっ」
北極の目がぎらっと光った。ドアノブに猛然と手をかけるので、優斗は慌てて止めた。
「おい、なに考えてんだよ」
「そいつ殺してオレも死にます」
「なっ……おいマジでなにを考えてんだよっ、やめろバカ!」
廊下に飛び出して行こうとする北極の背中に、優斗は飛びついた。北極の戦闘力は見た目だけだ。山本に立ち向かったらただでは済まない。ところが北極は思いとどまるどころか、かえって怒った。
「なに考えてんだはこっちのセリフです。怒られたひとがなにをノコノコとオレのとこ来てんですか」
「……!」
「なんでなんにも悪いことしてないセンパイがっ、当たり前みたいにオレの代わりに責められてんですかっ」
緊張している時と同じだった。北極は怒れば怒るほど無表情になる性質らしい。だが、その怒りは持続しなかった。優斗が震えて立っているのを見ると目を伏せ、「ああ、もう……」とため息をつく。
「センパイ、泣かないでよ……」
優斗は涙で北極の背中を濡らしていた。北極が殺すとか死ぬとか、簡単に言うからだ。『なんにも悪いことしてない』とか言うからだ。そんなこと全然ないのに、山本より優斗のほうが正しいと思っているみたいに。
(こいつ、オレのことほんの十秒前にフッたくせに。俺の一世一代の大告白を、まるで聞きたくないみたいに遮ったくせに)
なぜか、北極まで泣きそうな顔をしている。
(あ……)
北極がくるりと身を翻す。優斗に向き直ると、優しく抱擁した。「いいよ。わかりました」とかすれた声を漏らす。
「荷物持ちですか? センパイが買い物するなら、オレ、喜んでお供するよ」
「う……」
「ぬいぐるみのことは……まぁ、見てからでいいじゃないですか。ねえ」
後輩に慰められる恥より、好きなひとに抱きしめられる喜びが勝った。優斗はゆっくりと瞬きして「うん」と素直にうなずいた。そのあと急に羞恥心がぶり返してきて「わかればいいんだ、わかれば」と北極の背中を強く叩いた。