梅雨入りした。
 ついこの前、ゴールデンウィークのお土産を交換し合ったばかりのように思えるのに、クラスメイトたちはもう夏休みの予定について話している。優斗は心の中で(その前に七夕だろ)とボヤいた。

 寮友会では寮生の親睦を深めるために季節イベントを用意している。今月は七夕だ。内容としては笹に願い事を書いた短冊を飾るだけの小規模なものだが、この後に控えているのが『納涼祭』というちょっと手の込んだ縁日風のイベントで、人手と予算をそちらのほうへ大幅に持っていかれている。結果、七夕担当の優斗は忙しかった。

 昼休みだというのに教室の机でチョキチョキと笹飾りを量産しているのも、そんなしわ寄せを受けてのことだった。色紙が湿気で手に付くし、出来上がった飾りがたまに空調の風で飛ばされる。優斗はハサミを動かしながらイラついていた。一緒にやるはずの瀬野が作業をサボッているせいで二倍働かなくてはならない。

(クソ、あいつ人の足元見てきやがって……)

 美夜から手紙が来た件で、瀬野は優斗の弱みを握ったと思っているらしい。仕事しろと催促したところ、悪びれずに『じゃー美夜ちゃんのこと紹介してよ』などとせがんできた。優斗はこんな雑用のために義妹を売りたくはなかった。

(瀬野め、美夜がどんなやつか知りもしないで勝手なことを……)

 美夜は繊細なのだ。瀬野のようなお調子者とはどう考えても相性が悪い。口も重いほうで、話すより書くほうが気楽らしい。手紙についても一通書いて満足せず二通目を送ってくるようなところがある。

(……その点、北極とは相性がいいのかもな。なんかすぐ仲良くなりそう)

 作っていた網飾りを開きながらそう思った。

 北極は靴脱ぎ場での一件以来、なんだかずっと緊張しているようだった。ハグをする時も、前までは腕を広げれば即座に抱きついてきたのに、最近はじれったいほどゆっくりと来る。そのくせ、腕の力は初めの頃よりずっと強かった。優斗が身動き取れないくらいに頭と腰を固く抱いてくる。昨日は髪をうなじまで撫でられた。優斗はもちろん恥ずかしいのだが、口に出したらますます恥ずかしい気がして指摘できなかった。北極も黙っていた。重い沈黙と濃厚な抱擁を共有しながら、優斗はやけに心細くてたまらなかった。北極が何を考えているのかわからない。尋ねることもできない。

(……美夜なら、もっと上手くできんのかな)

 美夜は思慮深い。受け答えはゆっくりだが、優斗と違っていきなり怒ったりせず、最後までよく考えて話す。北極の本質もきっとすぐに見抜くはずだ。そして美少女の美夜を嫌う男などこの世に存在しない。北極は当たり前のように美夜を好きになる。

 まるで少女マンガの主人公と相手役のように二人は惹かれ合い、結ばれる。

 優斗は自分で妄想して自分で嫌になった。なんで会ったこともない二人のことをくっつけようとしているのか、我ながら意味がわからない。

 ただ、美夜と北極が仲良くなったら自分なんかもうこの世にいらない気がした。

「のぁっ」

 空調の風が急に強くなった。作り終えた飾りが教室のはしからはしへ飛んでいく。戸口に立っていた男が顔の前に手をかざしてキャッチした。優斗は渋面を作った。ニヤッと笑って優斗を手招いたのは、寮長の山本だった。

 廊下で、山本は優斗に飾りを返してくれた。

「はかどってるらしいな」
「どうも、おかげさまで……」

 七夕の準備にかかる手が足りていないのを知って様子を見に来たらしい。山本は三年。夏には柔道部最後の大会を控えているうえ受験生でもある。この気の回りようが優斗は若干怖かった。北極の部屋にいたことを言い当てられてからというもの、なんだかずっと見張られている気がする。

「たしか瀬野と分担してるんだろう。あいつは何やってんだ」
「あー、えーっと……」
「なんだ。ケンカか?」
「イエー、別にそーいうわけではー」

 告げ口したと思われたくはない。悟られまいとするあまり思いっきり棒読みになる優斗に、山本はふっと口元を緩めた。

「ったく。おまえってヤツはホントに……」

 そのまま優斗の髪を撫でようとしたようだ。優斗は、大きな手の平が自分の頭に向かってくるのをスローモーションに感じた。いつもなら反応する間もなく頭を掴まれるところだ。ところが今日は違った。つむじの毛がピンとアンテナのように立ち、はっきりと(嫌だ)と思った。昨夜、北極の手が頭の後ろを優しく撫でおろした記憶が、肌に鮮明に残っていた。

(イヤだ、北極じゃないヤツに触られたくない!)

 気がついた時にはもう遅かった。パシッと乾いた音が立つ。
 優斗は反射的に山本の手を払いのけていた。

「あ、っ……」

 山本の目が繊月のように細くなる。優斗は咄嗟に頭をよぎった考えを反芻し、真っ赤になった。北極以外の誰にも触られたくなかった。優斗は、先輩としてたった10秒ハグしているだけの相手にこだわって、山本を敵に回した。

「……っ!」

 柔道部主将・山本の大外刈りはさすが堂に入っていた。両袖を掴んで引き倒し、上半身の重心を崩させたところへ一気に刈り足で引き倒す。教室からどよめく声が聞こえたが、いきなり固い廊下に倒された優斗は痛みのあまり声も上げられなかった。

「化けの皮が剥がれかけてるぞ」

 山本は優斗を組み敷いた格好のまま、低い声で呟いた。

「なんだそのあからさまな雌顔は。うっかり技かけちまっただろうが」
「!?」

 雌顔。
 山本らしからぬ下品な物言いに、優斗は言葉を失くした。次いで猛烈に恥ずかしくなって言い返す。

「りょ、寮長、気でも狂ったんですかっ。何を変なこと言って……」
「しらばっくれるな。おまえ俺に隠れてまた悪さしてるだろう」
「…………!」
「わかるさ。ずっと見てんだから」

 その声はうんざりしているように聞こえた。

「寮生活やってれば、おまえみたいにトチ狂うやつは一定数出てくる」

 山本が体重をかけてくる。優斗は押しつぶされ、力比べするみたいに手に手を重ねられてもなにも抵抗できなかった。顔にかかる山本の息は燃えるように熱い。

「男ばっかの閉鎖環境で性欲こじらせて、一過性の感情で人生を棒に振る。こんなにつまらんことないだろうが。あぁ?」

 優斗はゾッとした。完全に見抜かれている。

「お、俺、ちがう、ちがいます。これには事情があって……」
「わかってねえなあ。誰もおまえの事情になんか興味ねーよ」
「は……!?」
「バレた時、周りがどんな目で見てくるかって話だ」

 山本はそれとなく周囲を顎で示した。その場に居合わせた生徒が、みんな固唾を飲んでこちらを見ている。中にはスマホを構えている者さえいたが、山本は落ち着き払った様子で言葉を続けた。

「たとえばの話だ。俺が可愛い後輩に心底イカれたとする。お互いのためにずっと黙っているつもりでいたが、そいつがぽっと出の変なヤツとよろしくやってると知った。そこで嫉妬と性欲にトチ狂った俺がいったい何を考えるかというと」

 山本は大仰に首をかしげて考えるそぶりを見せた。

「『こんなことになるくらいなら俺が先に食っちまえば良かったじゃないか。イヤまだ遅くはない。今夜あいつの部屋へ押し入って想いを遂げてやろう』と、こうくるわけだ。バカバカしい。んなもんやっちまうのはカンタンなことだが、失うものは大きい。わかるな? 退寮になるのはもちろん柔道部の活動も丸ごとおじゃんになる。頭の古い身内からは死ぬまで腫物扱い、うちの母親なんかデリケートにできてるからな、下手したら首吊るかもしれん」

 ほとんど唇を動かさずにそれを言う山本は一度も瞬きせず、優斗を見つめ続けていた。それから将棋の駒のように角ばった顎をかすかに傾けたかと思うと、勢いをつけて優斗の上半身を起こさせた。

「!?」

 気がつくと優斗は倒された時と同じく、立つ気もないのに立ち上がらされてしまった。

「ケガはしてないようだなあ、ポンタロー」
「……!」
「俺がおまえに言いたいことは二つある」

 山本は優斗の顔に向かって、右手の指を二本立てた。

「下手な火遊びはやめろ。まだ続ける気なら俺が本気で潰す。以上」

 最後には立てた指をグッと拳に握り込んだ。優斗は触られてもいない喉を絞められた気がした。
 予鈴が鳴る。
 廊下を歩いてきた教師たちは他学年の階にいる山本を訝しんだ。しかし山本は「後輩指導につい熱が入ってしまって」とはにかんだ笑みを浮かべてみせ、「お騒がせしてすみません」と一礼した。

 柔道家らしい美しい一礼に、スマホカメラのシャッター音が鳴った。授業が始まる直前で教室に生徒が集まっていたせいもあるのだろうか、優斗に技をかけた時よりもずっと注目を浴びている。

(きっと俺のほうが悪いことしたと思われてるんだろうな)

 優斗は他人事のように思った。北極ほどではないが優斗は友だちが少ない。もし善悪が多数決で決まるとしたら学校でも寮でも評価の高い山本のほうが圧倒的に正しいことになるだろう。背中が痛かった。山本が長々と語ったことは例えが突飛すぎてほとんど頭に入って来なかったが、自分が糾弾される立場であることは身に染みてよくわかった。

(いや潰すってなんだよ……意味わからん。俺、もしかして殺されんの……?)

 山本の目は本気だった。
 この法治国家で、学生の身分で、まさかそんなことできるわけがないと頭でわかっていても、優斗は怖かった。