新入生にシベリアンハスキーみたいなやつがいるのは知っていた。目力が異様に強い美形で背が高い。脱色した灰色の髪がいかにもヤンキーっぽい。苗字も変わっていた。北極と書いてキタギメと読む。
北極 晶。
自分より頭ひとつぶん背の高い後輩を前に、信楽 優斗はため息をついた。怖くないと言われれば嘘になるが、こういう場面は初めてではなかった。男子寮の寮友会役員というのは185名ものむさ苦しい男どもを仕切る立場であって、いちいちビビッていては仕事にならない。
時刻は22時。ほかの寮生たちが消灯に向けて自室で過ごすこの時間、二人は男子寮西階段の踊り場にいた。
正面口につながる東階段と違い21時には灯りが消えるので、薄暗くて人気がない。後輩を説教するにはもってこいの場所だ。
「なんで呼び出されたかわかってるか。北極」
「……」
無視。
優斗は短い黒髪をがしがしと掻いた。
むろん北極のほうがガタイはいいが、まだ一年生。数か月前まで中学生だった。ナメられていい相手ではない。
(……身長はともかく、ガラの悪さなら俺も負けてないよな)
人からはよくタヌキに似ていると言われる。垂れ目なうえ苗字からあの置物を連想するのだろう。ぎょろっとした三白眼で、首をかしげるクセがあった。高校ではなぜか『ポン』とか『ポンタ』とかカッコ悪いあだ名をつけられているが、自分としてはそこまでマヌケなキャラじゃないと思う。優斗は咳払いして続けた。
「北極、ゴールデンウィーク明けから、ずっと朝の点呼に遅刻してるよな」
「…………」
「おまえはまだ一年だからよくわかってないのかもしれないけど、こういうの寮則違反って言う。違反すると点数がつく。累積するとこんなふうに寮友会役員が指導しないといけなくなるわけ」
「…………」
優斗は壁に向かって話しかけている気がした。点呼表を留めたボードを顔の前で軽く振ってみせるが、北極は形のよい唇を結んだまま微動だにしない。
(ツラが良くてうらやましいね)
美形は無表情で立っているだけで凄みがある。先輩の威厳を保とうと必死に肩をそびやかしている優斗より、見下ろすだけの北極のほうが強そうなのだから癪だった。優斗は聞えよがしに舌打ちした。
「……うちの寮は自主性を尊重する。要は何があっても自己責任ってことだ。まずは寮友会からの指導、明日も遅刻するなら寮監に報告するし罰則もあるから」
「…………」
「最悪、退寮だから」
ここまで言ってなお、北極は沈黙していた。
(こいつ、なめてんな……)
指導というのは上級生が相談に乗る意味合いもある。集団生活だ。どうしても自力で朝起きられないなら周囲を頼るべきで、たとえば隣室の寮生に声かけを頼むとか色々と手段はある。そういった気配りも役員の仕事だが、さすがに意思疎通できないやつの世話は焼けない。寮監に任せるのが慣例となっていた。
(……いくらヤンキーでも一年に佐々木サンの相手はきついだろうと思って呼び出してみたけど、余計な世話だったな)
寮監の佐々木は優斗などよりずっと厳しい。
優斗はフンと鼻を鳴らして「じゃ、まあそういうことだから」と言い放った。
「明日の朝、点呼に遅刻したらおまえ終わりだからな。オヤスミ」
とんだ無駄足だった。さっさと立ち去ろうとしたその時、左腕に痛みが走った。Tシャツの袖口から覗く腕を、北極が思いっきり掴んでいる。のみならず後ろに引っ張られ、優斗は一気に頭に血が上った。
「んだよ。やんのかコラッ!」
体格差に負けじと凄んだ瞬間、優斗はぎょっとした。
北極は、泣いていた。
「……え。」
声もなく、ぽろぽろとこぼす涙が優斗の頬に降りかかる。踊り場の小窓から、コンビニの看板の光が射していた。北極の潤んだ瞳はシベリアンハスキーさながらに薄青い。生意気にカラーコンタクトでも入れているのかと思っていたが、どうも自前らしい。驚愕のあまり硬直する優斗の前で、北極は「うっ」と嗚咽を漏らした。空いている手で顔を覆い、北極は泣きじゃくった。
「う……うぇ、……せ、せんぱい、ご、ごぇんらひゃ、う……うーっ……!」
「ま、待て、泣くなっ。おい、落ち着け!」
寮でのケンカは厳禁。いじめなど以ってのほかだ。下級生を泣かせたとなったら優斗のほうが厳罰に処されてしまう。
(ともかく人目につくのはまずい。えーと……)
泣き止まない北極に、優斗は「おまえ、部屋どこ?」と尋ねた。寮では原則ひとの個室に入ってはいけないことになっているが、今回は緊急事態だ。「ちょっと座って話そう。な。」となだめると、北極は洟を啜ってうなずいた。
寮室は六畳のワンルーム、家具も備え付けだ。勉強用のデスクとベッド、ハンガーラック。自宅からカラーボックスや本棚を持ち込む者も多いが、北極の部屋は段ボールがいくつか置いてあるきりで殺風景なものだった。
「……少しは落ち着いたか?」
「はい……」
その声も見た目に似合わずか細い。アッシュグレーヘアのヤンキーが枕を抱いてベッドに座る図に、優斗は改めて頭がクラクラした。立ったまま額を押さえる優斗に、北極はぐすぐすと謝った。
「……取り乱してすみません。オレ、図体がでかいだけで、ほんとこういうのだめで……」
「おう……」
「か、髪もよく、染めてるのって言われるけどちがくて。うち、ばあちゃんがドイツ人で」
「あー……」
「それで……うっ、うぇええんっ」
「あ、あぁあ……わかったから、泣くなって……」
ヤンキーどころか気が弱くて泣き虫らしかった。強面の先輩に夜、急に呼び出されて怯え切っていたところに退寮だなんだと脅しつけられたのがトドメになったらしい。そのうえ。
「なに? ホームシックで夜眠れないだと?」
「だって、オレ……寮って、こんな独りぼっちになると思わなくて……」
北海道の実家では、ドイツ人の祖母を中心にスキンシップが多かったらしい。朝起きればおはようのハグ。家を出る時には行ってきますのハグが当たり前。家で一人になることはほとんどなかった。寝室は兄弟同室、勉強などもリビングのテーブルでしていたという。北の大地でのびのび暮らしていたが、家から通える範囲に高校がなかった。道内で寮付きの高校を志望していたのだが、試験間際にインフルエンザにかかってしまったのだという。
「昴星附属は中学の先生に勧められて念のためのすべり止めで受けてたんです。でもまさか、こんな遠いと思わなくて……」
「……そうだな。北海道は遠いな」
優斗はため息をついた。私立昴星大学付属高校は鎌倉にある。学校側は地方出身の男子学生を囲い込む気満々らしく、高校では珍しいサテライト受験が可能、さらには一定条件を満たせば作文課題と書類のみで合否が決まる取り組みもなされている。
実際寮生を見ても、地方出身者は多い。県内に実家がある優斗などはかなり珍しい例だ。同級生には群馬や茨城、京都から来ている者もいる。それでも北海道からという話はなかなか聞かないけれど。
北極が作文と書類のみで通過した特別枠と知って、優斗はカクッと肩を落とした。
(こいつ、この見た目で優等生なの……?)
優斗は専願でも受験に苦労した。内申点も低かったのでそのあたり反省して、高校では寮友会の役員などを務めているわけなのだが。北極はティッシュで目を擦りながらつづけた。
「それでも四月いっぱいはなんとかがんばったんです。連休に帰省して……親に相談したら、夜に寂しくないようにって、こんな大きいクマのぬいぐるみを持たせてくれました……でも、そしたら佐々木さんが……っ」
没収されたのだと、優斗は聞く前からわかった。寮内に持ち込める物品のサイズは決まっている。大きすぎると寮監の許可を得る必要があった。
『いったい何に使うつもりなんですか?』
北極はぬいぐるみの使用目的なんて考えたこともなかった。おたおたしているうちにぬいぐるみを没収されてしまい、気がついたら寮監室の前にひとり立ち尽くしていたという。それで休暇中に実家で癒したはずの心がポッキリと折れてしまった。夜は眠れず、朝方になってようやくまどろむと点呼にはもう間に合わない。反動で授業中は寝てしまい、クラスでも孤立してしまっているらしい。
「うーん……」
箱ティッシュが切れた。優斗は北極に手持ちのポケットティッシュを渡してやった。
「運が悪かったな。過去に色々あって、ぬいぐるみの持ち込みはやたら厳しいんだ」
「いろいろ……?」
「ぬいぐるみの腹にタバコとか隠すヤツがいたらしいよ」
「えぇっ……」
「まぁ、あちこちから色んなヤツが来るからさ。……横、いいか」
優斗は顎でベッドを示した。さっきから遠慮していたが、立ち話が続いて足が限界だった。北極が大人しくわきにずれるとドサッと腰を下ろす。
「さて、どーするか……」
「え……?」
「おまえのことだよ。要はホームシックで五月病なんだろ……」
少し考えて、優斗は「よし」と膝を打った。
「明日、スクールカウンセラーに相談してみるか。行ったことある?」
「いえ……」
「まず保健室で予約をとるんだ。一人でできるか?」
「えっ?」
「だから、自分でちゃんと相談できんのかって。おまえ階段いた時もずっと黙りこんでただろうが」
「……え、先輩が一緒に来てくれるんですか?」
会話が噛みあっていない。優斗はカチンと来て怒鳴った。
「できねーってんなら他にどうしようもないだろっ。どっかの誰かが図体のくせにビビリの泣き虫で、朝起きねえんだからよっ」
狭い部屋に声が響く。優斗は咳払いした。夜中に後輩の部屋で大声を出すのはよろしくない。
「すみません」と小さくなって謝る北極に、優斗はなるべく優しく言った。
「いいんだ。とにかく保健室で話してみろ。そしたら佐々木サンにも事情が通じて、デカいぬいぐるみも返してもらえるだろ」
「あ、なるほど……」
「問題は明日の朝か……」
寮則違反の累積があるのは事実なので、制度的には次の遅刻でアウトになる。佐々木は厳格なので優斗の口から事情を伝えたところで話が通じない可能性が高い。となると明日の点呼係に事情を伝えに行きたいところだが、消灯時間が迫っている。頼みの綱の隣室からは高らかなイビキが聞こえた。部屋の前を通った時にネームプレートを確認したが、確か朝練のある野球部員だったはずだ。一方的な頼み事のために起こすのも忍びない。
「俺が起こしに来るか? って、そしたら俺が間に合わなくなるか……」
「だ、大丈夫です。今夜は一晩中起きてます!」
「…………」
北極は本当に眠れていないのだろう。顔が青白かった。血の気のなさがいっそうスカした印象を醸しているのはもう気の毒としか言いようがない。優斗は頭を掻いた。
「……なんか、ぬいぐるみがあればちゃんと寝れるわけ? どっかから借りてきてやろうか」
「いや……別に、そういうわけじゃ……」
「じゃ、緊急ってことで寮監からスマホを返してもらおうぜ。寝る前に親と話せば少しは……」
「そうじゃ、なくて……っ」
「んだよハッキリしろよ、イライラするやつだなっ」
「オレは寝る前におやすみのハグしてもらわなきゃ眠れないんですっ」
「……!」
高校生にもなって、おやすみのハグ。優斗は思わず赤面した。
「おまえ、言ってて恥ずかしくないのかよ……!?」
「仕方ないじゃないですか……生まれた時からそれが当たり前だったんだから……!」
その声が潤んでいるのは、顔を伏せていても察せられた。相手は寝不足で情緒不安定。絶対に冷静ではない。北極が、抱きかかえていた枕を床へ放り出す。優斗の心臓は小動物のように跳ねた。
「ま、待て、なんでにじり寄って来るんだ。離れろ、バカ。落ち着くんだよ」
「だって、センパイすごく優しくて……」
「ふざけんなっ、俺が優しいわけないだろっ」
毛を逆立てて威嚇したが北極は聞かなかった。ガタイが違いすぎる。本気で来られたら敵わない。
しかし予想に反して、肩に縋ってくる北極の手は非常に弱弱しかった。
「センパイ、たすけてぇ……」
泣いて懇願されると、拒めない。
優斗にも身に覚えがある。眠らないといけないのに眠れないのは、死ぬほど辛い。
背中に回る北極の腕を大人しく受け入れる。服越しに、骨ばった輪郭が伝わってきた。北極は見た目からは想像できないほど痩せていた。朝夕の食事は寮で出るが昼は学校で済ますことになる。友達もおらず、ろくに食べていないのだろう。優斗はかわいそうな後輩の背中をポンポンと軽くはたいた。
北極がほうっと安心しきった息を漏らす。次の瞬間、ズシッと抗いようのない重みが優斗を襲った。
「むぎゅう」
耐えきれず後ろに倒れる。(ふざけてんのか!?)と思った優斗は怒って抗議した。
「おい重いだろうが! どけコラッ」
ベシベシと背中を叩いて訴えるが、反応はない。優斗は呆然とする。北極はハグしたまま寝落ちていた。
朝の点呼は7時と決まっている。点呼放送時、寮生は階段近くの廊下に整列し、点呼係から顔と名前の確認を受ける。その後、寮友会役員は一階大食堂で点呼表のチェック。欠席理由が不明な寮生がいた場合は安全確認を行う。
一般寮生の朝食開始は7時半から。その前に朝食を摂ることを許可されている寮友会役員は食堂で各自業務に追われることになる。
「三階の点呼表オッケーです!」
「はい、どうもー」
「野球部は朝練でしょ。早出届も確認してるから加点はナシ」
「なー、七夕の準備どうなってる? そろそろ笹の手配しないとヤバくない?」
朝食は和食か洋食が選べる。優斗はコッペパンを咥えながら点呼表にチェックをつけていた。チェックはミス防止のために二人体制。計算し終えたものは同じ二年の瀬野へ回す。瀬野は仕事が早いというか、雑だった。表にサッと目を通しただけでもうペンを置き、優斗に向かって身を乗り出してくる。
「ポンちゃん、例の件ありがとなっ」
「なに。いま集中してるから話しかけるな」
「わかってるくせに。北極のことだよ~」
コッペパンが喉につかえる。ただでさえ面倒なところに、一年の三輪田まで口を挟んでくる。
「えっ。ポンタ先輩、北極に指導してくださったんですかっ」
「そーだよー。ほらっ、おかげで北極のやつ、今朝はきちっと点呼に出てきたらしい」
「おい、やめろよ」
優斗は止めたが、瀬野がチラつかせた点呼表に三輪田は飛びついた。
「ひゃあ、ほんとだーっ。すみません、ホントは僕が注意しないといけないのに……」
「あぁ……いや、別に……」
銀縁メガネの奥で、三輪田のドングリ眼が輝いている。口ごもる優斗と反対に、瀬野は筆で書いたような公家顔をほころばせた。
「気にすることないって。北極はマジでやばいやつだし、ポンちゃんに任せたほうがいい」
瀬野は寮の廊下で北極と肩がぶつかったことがあるのだった。
「俺はフレンドリーなセンパイだからさっ。いちおう『イターッ骨折したかもー!』ってリアクションとったわけ」
「それのどこがフレンドリーなんだよ……」
ひと笑いとろうとしたらしいのだが北極の反応は予想と違っていた。氷のように冷たい瞳をぎょんと見開き、こちらを凝視してくる。
「あの目、カラス避けの風船みたいでさあ、怖すぎてしばらく夢でうなされたよ……」
優斗もその話は瀬野から何度も聞かされた。北極と話した今は真相がわかる。
「それはおまえが出会いがしらに変な冗談言うから、咄嗟に反応できなかっただけだろ」
「でも人にぶつかったら普通は何かしら言うでしょ。あんな呪い殺すみたいな目つきで睨んでくるのはオカシイ!」
「いや、だからそれは誤解で……」
「三輪田くん、結局ねえ、俺らみたいないい子ちゃんが指導したところで従うような相手じゃないんだよ。怖い顔には怖い顔で対抗するんだっ」
「おまえひとの話聞けよ!」
「……でも、ポンタ先輩。ホントにありがとうございます」
三輪田は嘆息した。
「北極のやつ、クラスでも浮いてるんです。僕も何度か話しかけようとしたんですけど、基本寝てるし、起きてても無視されるし、もうどうしたらいいのかわからなくって」
「単に人見知りしてるだけだって……」
「えっ?」
三輪田が目をパチクリさせる。優斗は口ごもった。本当にこの場で言っていいことなのか、急にわからなくなる。見るからにガラの悪い北極が本当は泣き虫のビビリだなんて話したところで信じてもらえる気がしないし、言い方を間違えれば陰口になってしまう。優斗は咳払いして、遠回しにフォローした。
「……いや。俺も話してみたけどさ、別に悪いヤツじゃなかったよ」
「そうなんですか?」
「三輪田くん、つまりポンちゃんはこう言いたいんだよ。『今後も北極の世話は俺に任せろっ』てさ!」
「は!?」
勝手なこと言うな、と優斗は思った。北極はただでさえ誤解を受けやすい。今後のことを考えれば同学年の三輪田と打ち解けておいたほうがいいに決まっている。しかし三輪田はすっかり瀬野に乗せられて「信楽センパイ、神すぎます!」と拝んでくる。
ひとり唸る優斗のつむじに、ズシッと大きな手が乗った。
「はかどってるか。ポンタロー」
「ひゃあ、山本センパイ!」
「おはようございます、寮長!」
三輪田と瀬野が口々にあいさつするが、優斗は真上から押さえつけられて返事できなかった。
三学年の山本は寮長と柔道部主将を兼ねる。去年のインターハイには男子個人73キロ級で出場したツワモノだが、優斗のことは肘置きかなにかだと思っているらしい。一年の時からやたらと押しつぶそうとしてくるのだった。
「寮長、ちょっと……」
「うん?」
優斗は身をよじったが、頭をガシッと掴まれてしまうと振りほどけない。
(クソッ、なんでこんなダルい絡み方してくるんだ)
思えば高校で優斗のことを『おまえ子ダヌキみてーだな』と言ったのも山本だった。ポンだのポンタローだの、ポンポンポンポンひとをポップコーンみたいに呼ぶうえ、ほかの寮生にもそう呼べと言うから始末が悪かった。後から他の先輩に『おまえが一年のくせに無愛想で孤立してるから、山本がそうやっていちいち気にかけてたんだよ』と聞かされたが、優斗からすると余計なお世話としか言いようがない。変なあだ名が定着したおかげで、何をしてもマヌケなタヌキのイメージが付きまとうようになってしまったのだ。それは確かに、柄が悪いからと一方的に距離をおかれるよりはマシだったのだが。
「あのっ……朝から勘弁してくださいよっ」
「うん」
「うんじゃなくて、俺の頭から手を離してくださいっ。後輩に示しがつかんでしょうがっ」
「そう思うなら寝ぐせどうにかしろ」
「えっ」
掴んでいた頭を唐突に放される。優斗はびっくりして山本を振り仰いだ。山本は、何か見透かしたような目をしていた。獅子鼻をスンと鳴らし「みんなも聞いてくれ!」と、食堂のテーブルを見回す。
「GW明けから寮則違反が増えた。平たく言えばたるんでるってことだ。で、ここにいる面子も例外じゃない」
鋭い眼光に晒され、場の空気が引き締まる。
「何度も口うるせーことは言いたくない。一回で決めろ。各自、寮則を見直すこと。五分前行動は守れているか? 夜中にひとの部屋に押しかけて騒いでないだろうな。佐々木サンに手間かけさせるようじゃ、俺らが足元すくわれっぞ。返事!」
ハイ!と大きな声が揃う。優斗は口を開けはしたが、うまく声を出せなかった。自分のことを言われているとわかった。昨夜、北極の部屋で大声を出したのがバレている。
山本はどこまで知っているのだろう。寝入ってしまった北極の下からなんとか抜け出して自室へ戻ったことは? 昨夜、優斗はうまく寝付けなかった。いつもは直すような寝ぐせに気づかなかったのもそのせいだ。
(うわっ、ゴリラ山本、こわ……っ)
頭の中をウホウホと覗かれている気がして、優斗は怖気を振るった。柄にもなく親切心を起こして北極に構ったのが間違いだった。びくびくしながら(いや、まあ昨日一晩のことだし……)と自分に言い聞かせる。
(教師に相談して、無事にぬいぐるみが返ってくれば北極の問題もカタがつくだろ。後のことは俺の知ったこっちゃない。寮友会の仕事しただけだっ)
歩いて五分の高校で授業を受ける頃には、そんなこともすっかり忘れていた。午後の教室移動で生カウンセリングルームのそばを通りがかってようやく思い出した。
(……あいつ、ちゃんと相談したかな)
北極の泣き顔を思い出すと、足が止まってしまった。一緒にいた瀬野に「なに?」と聞かれて生返事を返す。その時ちょうど生徒相談室の引き戸が向こうから開いた。出てきたのは北極とは似ても似つかない、オリーブ色のロングカーディガンをまとった女性だ。
スクールカウンセラーの羽飼だった。
「あら、どうかした?」
「あー、いや……」
北極が来たか確かめようとして、優斗は思いとどまった。スクールカウンセラーには守秘義務がある。誰が何の相談に来たか、聞いたところで羽飼は答えられないだろう。この場で事情を伝えようにも瀬野が邪魔だ。沈黙する優斗の前に出て来て、瀬野はおちゃらけた。
「羽飼せんせー、今日もお綺麗ですねー」
「まあ、ありがとう。瀬野くんオシャレだから、褒められると嬉しいわ」
「イェイ!」
「…………」
舌を出して片目をつぶる瀬野から、優斗は露骨に距離をとった。瀬野は北極の悪評を寮中に言い広めた前科がある。もしかしたらホームシックについても面白おかしく吹聴するかもしれない。
(……俺から相談するのは無理だな)
軽く挨拶しただけで羽飼から離れる。瀬野は「ヘイヘーイ」と体当たりしてきた。
「ポンちゃん、どしたん。悩んでるなら話聞こか?」
「うっせ、ザコ、ボケ、カス、消えてしまえ」
「あーん、ひどーい」
罵倒を笑って受け流せるのは一種の才能だが、今は神経に障る。優斗はむっつりと押し黙って考えた。
(北極のやつ、昼メシちゃんと食ったかな……朝は話せなかったけど……)
思い出してしまうと生物の授業はもう身が入らなかった。微生物のプレパラートを作成して顕微鏡で動きを観察するのだが、気泡が入ってしまって何がなんだかわからない。教科書を頼りにもやもやした像をスケッチする。その不確かさが今の状況を表しているかのようで嫌だった。
帰りがけ、一年生の教室に寄ろうかとも思った。あれこれ悩むより本人を捕まえて話を聞いてしまったほうが早い。が、やめた。山本に釘を刺されたばかりだ。わざわざ自分から面倒ごとに首を突っ込むのもバカバカしい。
(北極から頼ってくるなら別だけど……いや、こっちだって忙しいんだ。必要以上に構うのはよそう)
寮に帰ると、実家にいる妹から手紙が届いていた。封筒の分厚さに優斗は眉根を寄せた。離れて暮らしていても家の様子を伝えようと、折に触れて手紙をよこしてくる。たいてい写真も同封されていた。メールで済ませればいいものをわざわざ、手紙で。(なんだよ鬱陶しい)と思った。
(こんなのもらったって困るんだよな。捨てるわけにもいかないし。向こうだって……)
いちおうは、家族だから。義務感でつなぎとめようとしているのだと思うと胸がずんと重くなり、無性にイライラしてくる。自室に戻った優斗は制服も着替えないままベッドに倒れこんだ。昨夜遅かったせいか、眠気は自然と襲ってきた。
そのまましばらく眠っていたらしい。ドアをノックする音で目を覚ました優斗は、枕元の時計を見て舌打ちした。17時。邪魔さえ入らなければ、夕食まであと一時間は眠れたはずだ。
ドアスコープ越しに客の顔を確認して「げっ」と声が出た。ドアの前に無表情に立っていたのは、北極だった。
「んだよ、いったい」
「あ、センパイ」
ドアを開けたとたん、北極の表情がパッと明るくなる。優斗は面食らって黙った。
(なんだよ……人見知りが、俺を見るなり嬉しそうにしやがって……)
北極は緊張すると無表情になってしまう性質らしい。優斗は、なかなか心を開かない大型犬に懐かれたような気がした。聞きたいことは色々とあったが、いったん腕組みしてドアに寄りかかる。心配していたと悟られたら先輩の沽券に関わると思った。
「何の用だよ」
優斗はただ聞いただけなのに、北極は急にしょげてしまった。
「あの、昨日はすみませんでした」
「……まったくだ。おまえってやつは、ひとにしがみついたまま寝やがって」
「えっ!?」
「いいよ、それはもう! なんなんだよ。なんで俺の部屋を知ってる」
「あっ、瀬野センパイに聞きました……!」
「瀬野!?」
「はいっ」
声のボリュームが急に常人並みになったのは、褒めてもらえると思ったからなのだろう。北極は犬なら尻尾をブンブン振っているだろうテンションで言った。
「オレ、なんか今日すっごい調子よくって……! 東京来てから初めて、自分から人に話しかけられましたっ」
言っていることは幼稚園児レベルだが、シベリアンハスキーじみた目力と勢いで迫ってくるので若干コワイ。この目がトラウマになっている瀬野は辛かっただろう。あまり同情する気にはなれないが。
「……で? 例の件は相談できたのか」
「それが……」
話を続けようとした時、北極がビクッと肩を震わせた。寮生が階段を上がってくる気配がする。そのまま口をつぐんでしまうところを見るとまた人見知りが発動しているのだろう。優斗はコキッと首を鳴らした。
「おまえ、もうフロ入った?」
「……えっ。いえ、まだ……」
「そりゃよかった。悪いけど俺、頭カユいんだわ。支度したら風呂場の前で集合な。話はそこで聞くから」
強引に決めてしまうと、北極は慌てたようにうなずく。準備のために廊下を引き返すのを確認して、優斗は自室に戻った。寮の大浴場は早い時間はシャワーのお湯がぬるくて人気がない。裸の付き合いなら北極の緊張も多少はほぐれるだろう。
そう判断して決めたことだが、十分後、優斗は脱衣所で赤面していた。
「センパイ……?」
優斗と同じく、腰にタオルを巻いただけの恰好の北極は、フィットネスジムのチラシから抜け出たみたいに引き締まった体をしていた。横に立たれると自分との差が浮き彫りになって恥ずかしい。
「おまえ、細いくせに意外と鍛えてんだな……」
「えっ……。いえ、こっち来てから全然動かないから、筋肉はかなり落ちたんですよ」
「筋肉落ちてその状態なのか!?」
抜き身の刃のように痩せているのに腕はたくましく、腹筋に至っては六つに割れている。本人は「田舎でチャリこいでたら誰でもこうなる」と言うが果たして本当だろうか。優斗のほうは背は低いし全体的に丸っこくてダメだった。背丈のわりに骨が太い。腰回りがやけにムチッとしていて、なんだか本当にタヌキみたいだ。優斗は恥ずかしまぎれに毒づいた。
「バカなやつだ。男子校にさえ来なきゃモテただろうに」
「いや、そんなことないですよ、ほんとに……」
「ないわけねーだろ。ふざけてんのか」
優斗はプンプン怒って言った。
「少女マンガだって正統派の王子様より、ワルそうな影のある男に女の子はなびくモンなんだよっ。※ただし背の高いイケメンに限る、だ! 俺みたいなポンポコピーは論外だ。はームカつくっ」
「いや、別にそんなことはないと思う……」
「うっせえ、バーカ!」
「ホントですって。それにオレの場合、見かけで寄って来る子はすぐ離れていきますから……」
「……ああ。そっか」
優斗が納得すると、北極は力なく笑った。その笑い方は短くとも豊かな彼の女性経験を物語っているようでもあった。
「センパイ、少女マンガとか読むんですね」
「……ほんとうるさいヤツだな。俺にも色々あるんだよ。色々」
狙い通り、大浴場は無人だった。濛々と湯気が立ち込めるなか優斗は洗髪洗身を済ませ、広い浴槽に浸かる。一番風呂は良かった。シャワーがぬるかったぶん湯舟が熱くて気持ちいい。優斗は目を糸のように細め、ため息をついた。
「ふわぁ~……」
「……センパイ、フロ好きなんですか?」
「はぁー? フロが嫌いなわけねーだろ……」
「ふふ……」
笑われるのは気に食わないが、北極もリラックスできたらしい。
優斗は湯舟のふちに肘を預け「で、首尾は?」と、切り出した。
「北極クンはセンセーにちゃんと相談できたわけ」
「あ、はい……」
北極は今朝、高校に着くなり保健室に直行したらしい。養護教諭にスクールカウンセリングの予約を取ってもらい、昼休みには羽飼に話をすることができた。羽飼は寮監の佐々木に連絡をとったが、そこで少し問題が起こった。
「オレのぬいぐるみ、大きいから学校の倉庫に置いてたらしいんですよ。なんかそこで行方不明になってて」
「はぁ!?」
「どうも手違いで、大学のほうに行っちゃったかもしれないです……」
「えーっ……」
私立昴星大学と附属高校(とその寮)は一部の施設を共有している。体育館や図書館、倉庫がそうだ。出入りは警備員が管理しているが、大学のボランティアサークルが大きなぬいぐるみを持って出て行った可能性があると言う。
「そのサークルが今、ボランティア活動に行ってるらしいんですね」
「おまえそれ、ドロボーじゃん!」
「そう、なんですよね……。でも警察呼ぶわけにもいかないし。いちおう大学のほうからサークルの代表者に連絡してくれてるんですけど、なかなかつかまらないみたいで……」
優斗は鼻を鳴らした。学校側は事件を大ごとにしたくないのだろう。
(……こいつの感じからして、緊急性が伝わってるかも怪しいよな)
羽飼はプロのカウンセラーだが、一晩よく寝てスッキリした顔の北極と、ホームシックの症状は容易に結びつかないだろう。軽く話を聞いただけの優斗でも、対応が後手に回っているのはわかる。
「いやおまえが納得しててどーすんだよ。ちゃんと訴えないとぬいぐるみ戻ってこないぞ」
「え? でも、オレにはセンパイがいるし……」
「は!?」
「えっ。あっ」
しまった、とでも言うように北極が口を押さえる。話の流れを察した優斗は湯を跳ね散らかして立ち上がった。北極が慌てて引き留めようとするが聞く耳持たない。こちらの意志も確認せず、勝手に当てにされては困る。
(冗談じゃない。これ以上つきあってられるか!)
脱衣所に逃げ込もうとして、優斗は濡れた床に足を滑らせた。体勢を崩したところに北極が追いついてくる。
「危ない!」
裸の後輩に後ろから抱きしめられる。背中に触れる北極の胸は広く、生温かい。状況に頭が追いつかない。腕を振りほどいて逃げるべきだ。頭ではそう思うのだが、びっくりしすぎて身動きをとれなかった。広い浴室に、湯の流れる音だけが響く。
やがて北極は、「すみません」と謝った。
「改めてお願いしなきゃと思ってたんですけど、切り出すタイミングがわかんなくて……」
カッと顔が熱くなる。気を遣って風呂にまで連れてきた自分がバカみたいだ。優斗は「離せよ、気色悪い!」と身をよじった。
「だって……離したら逃げますよね」
「たりめーだろっ。てめーの甘ったれにひとを巻き込みやがって! ハグがどーとか知ったことかっ。別のヤツに頼めよ!」
「で、でも、オレ……センパイが良くって……」
「ふぇっ!?」
腕が回っているのは胸なのに、首を絞められたみたいな声が漏れる。北極は構わずに畳みかけてきた。
「オレ、寮に入ってから、いや、今まで生きてきたなかで昨日が一番よく眠れたんです。おかげで授業中も寝なかったし、なんていうか、世界が輝いて見えるっていうか」
「おおおおまえアタマおかしいぞ!」
「そ、そうかも……でもオレ、それでも、センパイがいいよ……」
「……っ」
「今も。こうしてるだけでスゲー気持ちよくて……」
強く抱き寄せられると、自分の輪郭を生々しく意識させられる。北極の手が、優斗のぽてっとした下腹部に触れていた。優斗は見下ろす自分の体が紅葉するかのように朱に染まっていくのを見た。恥ずかしすぎて、いっそ死にたい。
「や、やめろよ……! こんなのマジでダメだって、離せって……」
「センパイ……すみません、なんかオレ……ガマンできないかも……」
「は!? なにバカなこと言って……」
後ろに体重をかけられ、優斗は思わずギュッと目をつぶる。その耳元に北極はあろうことか「ねむくなっちゃう……」とつぶやいた。マヌケな物言いにずるっと踵が滑る。北極は優斗を抱いたまま「わっ」と尻もちをついた。
「ひゃあー!」
その甲高い悲鳴を上げたのは優斗ではなかった。ハッと視線を上げると、脱衣所の戸が開いていて、三輪田がわなわなと震えている。
「だ、だ、だれかたすけてえ! 北極がポンタ先輩をシメようとしている!」
そう誤解されても仕方のない体勢ではあった。キョトンとしている北極の腕を逃れ、優斗は三輪田に走り寄った。悲鳴を聞きつけて山本や佐々木が来たらいよいよ大変なことになってしまう。
「違う、誤解だっ。三輪田、俺は大丈夫だから!」
「えっ。えぇっ……!?」
「北極は転びそうになった俺を助けただけだからっ。は、恥ずかしいからひとに言うなよ、ホントに!」
「え。え、でも……」
「北極! おまえはボサッとしてないではよ来い!」
「あ、はいっ」
なんとか事態に収拾をつけ、優斗は北極と脱衣所に出た。キリのいい時間だったのだろう、ほかの寮生たちも続々と来る。脱衣所はもう話ができる雰囲気ではなかった。追い立てられるように着替え、空いたロッカーを譲る。ふっと北極のほうを見ると、向こうもこちらを見ていた。無表情なのは眠いからなのか、それとも不安がっているからなのか、優斗にはわからなかった。
「……行くぞ。ほら」
北極のTシャツの裾を、優斗ははっしと掴んだ。そのまま引っ張って浴場の暖簾をくぐる。地下一階の変なモニュメントの前を突っ切り、東階段を上って地上階に出る。そのまま階段を上っていこうとする北極を、優斗は強引に人通りの少ない西階段へと誘導した。自分でもどうかしていると思った。こんな厄介な後輩、さっさと放り出せばいいのに人目を避ける方に歩いている自分がいる。引っ張られるまま無言で従う北極も、変だ。
(……さっき、俺がいいって言った。北極は、俺がいいって……)
思い出すだけで胸がばくばくと高鳴る。ただでさえ息の上がる階段で、優斗は苦しかったが立ち止まれなかった。
本当は、自分がどう動くべきなのかわかっていた。
寮友会役員の間で北極のことを共有して、協力を仰げばいい。瀬野あたりは大笑いして話に乗ってくるだろうし、山本と北極のハグなんか絵面のやばさで見物人が集まるかもしれない。三輪田に口止めする必要だって別になかった。事情を知れば一年生同士打ち解けることもできるだろう。そのほうがよっぽど北極のためになる。
考えれば考えるほど自分が間違っている気がして、優斗はとうとう階段の真ん中で立ち止まった。
「北極……」
「……はい」
「さっき、俺がいいって言ったよな」
「うん。言いました」
北極の返事は小学生みたいだった。うつむいたままの優斗に、後ろから重ねて「オレはセンパイがいいんです」などと言う。優斗は昨夜、階段で腕を掴まれたことを思い出した。北極は泣きながら食いつくみたいに優斗から手を離さなかった。
今もそうだ。ビビリのくせに我が強く、先輩に遠慮するとか譲るとかいう発想があまりないに違いない。
「……おまえ、どうせ末っ子だろ」
「!? なんで知ってんですか」
「見りゃわかるよ……」
優斗は振り向き、北極を見た。段差のおかげで背の高い後輩も見下ろせる。しかし目が合うと気まずかった。ぷいと横を向き「消灯前に俺がおまえの部屋に行きゃいいのか」と尋ねる。北極が何か言うより先に「十秒くらいなら付き合ってやるよ」と先回りした。
「……えっ。いいんですか」
「ぬいぐるみが見つかるまでの間だけだからな」
「センパイ、やっぱ優しい……!」
「だからっ。違うからっ」
本当に違った。自分でもなんでそんなふうに思うのかよくわからないのだが、北極とハグする役割をひとに譲るのが惜しくなったのだ。優斗は怒りっぽく、およそひとから好かれる性格ではない。容姿も良いとは言い難い。もしもこの機会をフイにしたら、こんなこと、自分の人生にはもう二度と起こらない気がした。
そう思うと自分のほうこそ何かしてもらう側のように感じて、声が小さくなってしまう。
「……じゃ、夜にそっちの部屋行くから」
「えっ。オレがそっち行きますよっ。さすがに申し訳ないです」
「…………」
優斗は言葉に迷ったが「ひとの部屋に入るのって、原則ダメなんだよ」と言った。入寮前に必ず説明されることだが、北極はちゃんと聞いてなかったらしい。
「え、でも昨日は……」
「うるせえ。昨日のことは昨日のことだ。忘れろ」
「そんな……でも、なんでダメなんですか……?」
困惑しきった声を聞いて、優斗は顔から火が出た。寮でなぜひとの部屋に入ってはいけないのか、北極はまったくわからないらしい。優斗はぼそぼそと遠回しに答えた。
「……だから、なんか変な気起こすやつがいるからだろ」
「変な……?」
「あーもーうるせーなっ。ガキじゃねーんだから自分のアタマで考えろっ」
𠮟りつけて、優斗は北極の鼻づらに人差し指を振りかざした。
「ルール違反で怒られたら、おまえ絶対ぴーぴー泣くだろっ。だから俺がそっち行くって言ってんの。わかったか!」
「そしたらセンパイが怒られるんじゃ」
「は? 一年がなにナマイキ言ってんだ。ばーか」
「でも……いてっ」
指で額を弾いてやると、北極は驚いたように黙る。優斗は噛んで含めるように言った。
「俺が行ってやるから、おまえは大人しく待ってろ」
「……」
北極は手で額を押さえた格好のまま固まった。いつかのような無反応ぶりに、優斗は「おい」と声を荒げる。
「あっ。はい」
「聞いてんのか? また泣き出すんじゃねーだろうな」
「いや……そうじゃないですけど……」
優斗に睨まれ、北極はおずおずと言葉をつづけた。
「……センパイがかっこよくて、見とれてました」
「!」
優斗は一瞬ドキッとして、それから正体不明の苛立ちに襲われた。北極に褒められて、嫌だった。見る目がなさすぎて気に入らなかった。不純な動機でやっていることを、かっこいいとか言われるのは絶対に間違っている。優斗は「バカじゃねえの」と吐き捨て、北極の額をもう一度小突いた。しかし一回目ほど強い力は出なかった。
優斗の日常はにわかに様変わりした。それまで夜は早々と寝るほうだったのに、毎晩消灯間際まで起きている予定ができてしまったのだ。最初は談話室のテレビドラマ視聴勢に加わったり、遊戯室のビリヤードを見に行ったりして時間をつぶしていたが、それも消灯一時間前には追い出されてしまう。そのうち瀬野が「ポンちゃん、マジで悩んでるんか」などと言いはじめたので、大人しく部屋で自習をするようになった。
(ねむ……)
夜更かしも毎晩となると堪える。ついウトウトして、教科書の字が霞みだす。本当は仮眠をとって消灯前に起きられればいいのだが、うっかり寝過ごすのが怖かった。北極が飼い主を待つ犬みたいに自分を待っているとわかるからだ。
(……あいつ、俺が行かなかったら泣くのかな)
西階段で見た泣き顔が頭に浮かんだ。端正な顔が暗がりで青白く見えた。ほっそりとした輪郭を透明な雫が伝う。それが、雨を受けてうなだれる花みたいに綺麗だった。見ていて胸が痛むのに、びっくりして目を逸らせなかった。
「…………」
このままでは本気で寝てしまいそうだ、優斗は勉強机のわきに置いている古語辞典のカバーを手に取った。このカバー、実はカモフラージュで中には辞典ではなく上下巻の少女マンガが入っている。マンガの持ち込みは別に禁止されていないが、万が一にも人に見つかったら恥ずかしいのでこうして隠しているのだった。
いつ見ても綺麗な絵だ。驚いたことに掲載紙の対象年齢は小学生らしい。主人公も小学六年生の女児。グループ学習のために訪れた霧の立つ丘で、少年少女は美しくも儚い女性と出会う。なんと彼女は幽霊で、恋人の帰りをずっと待ち続けていたのだ。彼女を気の毒に思った小学生たちは手分けして彼女の恋人を探すことになる――。
人気作品で実写化もしているが、優斗は原作マンガのほうがずっと好きだ。寮へ入るにあたりマンガはすべて実家へ置いてきたのだが、この作品だけは手放せなかった。男子寮に少女マンガを持ち込むなんて、我ながら恥ずかしいと思うのだが。
(北極も、どっちかっていうとこういう絵柄だよな)
色白で線が細く、瞳が大粒の宝石みたいに輝いている。実物は目力が強すぎ、笑顔も少ないので近寄りがたい印象になっているが、結局のところ顔が良くてカッコいいのだった。優斗は(ケッ)と毒づいた。自分みたいなタイプは絶対にこの手のマンガで活躍しないとも思った。
(そりゃそうだ。俺だって小6女子だったら北極とつきあいたい)
ふとそう思ったあと、仮定の気持ち悪さにめまいがした。優斗は小学6年生でも女子でもなんでもない。そもそも自分向けじゃないマンガにのめりこんでいるのがおかしい。
ぶんぶん頭を振って正気に戻った優斗は、時計を見て「うわ」と声を上げた。いつの間にか良い時間になっていた。
優斗の部屋は二階、北極の部屋は三階のはじにある。人気のない廊下を足音を忍ばせて歩き、名前表示を確かめる。
ノックすると隣室に音が響いてしまうので、いつもドアの表面を爪で引っ掻くようにして来訪を知らせることにしていた。次の瞬間にはもうドアが開く。
「センパイ」
「ん……」
優斗はむず痒かった。北極は毎晩ドアのすぐそばに待機しているらしい。寮内では誰も見たことがないだろう笑顔を優斗にだけ向けて、手を握り、部屋の中へと招き入れる。音を立てないように用心しているはずなのに、ドアの閉まるカチャッという音が、やけに耳に残った。優斗は自分がこんなに悪いやつだなんて知らなかった。寮則を破っているくせに、なぜか浮き足立ってしまっている。
北極の声は優しかった。
「今日はもう来られないのかと思った……」
「うるせえな。俺だっていろいろ忙しいんだよ」
「あ……。面倒かけて、すみません……」
「は!? 別に謝れなんて言ってないだろ……!」
やりづらいことこの上なかった。ちょっと言い返しただけで北極はすぐ落ち込んでしまうのだ。
「いいから。したいなら、早くすれば……」
自分から腕を広げるのは少し恥ずかしいが、そうすると北極は懐っこい犬みたいにすぐ来る。広い胸に視界を覆われ、優斗は目を細めた。優しく全身をすっぽりと包まれる感覚は意外と悪くなかった。忘れかけていた眠気が戻ってくる。北極の胸元はいつも干し草のような匂いがして落ち着くのだった。
逆に北極のほうは落ち着かないらしい。抱きついてしばらくはモゾモゾしている。優斗が「早くしないとカウント始めるぞ」と脅してようやく身じろぎをやめる。
「ん、」
腰に手を置かれ、優斗は息を詰めた。不可抗力だと思って気にしないことにしている。実際、身長差のせいで手のやり場に困るのだろう。優斗のほうはなんとなく北極の肩甲骨の下あたりを両手で触っているが、それも恥ずかしいことには変わりない。
「じゅう、きゅ、はち、なな」
なるべく早く済ませるため、ハグは10秒だけと決めていた。それも緊張でつい早口になる。鼻にかかったような囁きになってしまうのが我ながら恥ずかしい。
「ろく、ご、よん……」
いつも5秒前くらいで北極の腕の力が強くなる。
一秒でも長く自分を捕まえておこうとする必死さを感じて、優斗の息は細くかすれた。
「さん、に、いち、」
酸欠で頭がぼうっとする。優斗は気が変になりかける。自分の表面的な立場、つまり寮友会役員だとか高校2年生だとかそういう情報が、頭の中からバラバラと剥がれ落ちて、ただただ北極とハグするために生きているみたいな気がした。
「ぜろ……」
無論、一瞬のことだ。北極の腕が離れ、締め付けられていた体に血が巡るに従い、優斗は自分の立場を思い出す。しかしそれまでに若干のタイムラグがあった。くったりと北極の胸に頬を預け、浅い呼吸を繰り返す。
北極はそっと言った。
「……すみません。俺の力、強いですよね」
「別に……」
「本当? でも、どっか痛くしてるんじゃ」
「しつこいなっ。どこも痛くねえよ」
「だって震えてる」
北極の手が優斗の頬に触れていた。
どくん、と耳の奥が脈打つ。北極の言っていることはどうやら本当らしかった。息がいつまでも整わないはずだ。唇が小刻みに震えていた。胸も、膝も。まるで北極に縋らないと立っていられないみたいに。
「…………!」
自分の体が自分の思い通りにならない。小動物のように震え続ける優斗の顔を、北極は申し訳なさそうに覗き込んだ。
「……やっぱり、嫌ですよね」
「え……」
「こんな変な習慣に付き合わせちゃって、ホントすみません」
見上げる北極の瞳は青くて綺麗だった。優斗はまるで少女マンガみたいだと思った。今のこの状況自体がそうだった。優斗は毎晩この男の部屋にせっせと通い詰め、なんと抱き合っている。ここから心ときめく物語の一つや二つ始まりそうだ。
あくまで優斗が、見目麗しくて性格の良いオンナノコだったらの話なのだが。
優斗は一瞬黙った後「それがわかってんなら、さっさと普通に寝られるようになってくれ」と鋭く言い放った。思ったことを口に出しただけだが、そう言ったとたん心がどんどん冷えていくのがわかった。のんびりつかっていた湯舟から急にお湯がなくなってしまったみたいに。
ぐうの音も出ない様子の北極に、優斗はぷいっと背を向けた。押し開けたドアをくぐってすぐ、閉まるドアを北極に向かって雑に押しやる。
自室へ向かって足早に歩くうちにどんどんムカついてきた。まとまりのない怒りが頭の中でポコポコと泡を立てて沸騰している。何を後輩相手に。別に震えたくて震えたんじゃない。あんなふうに謝るくらいなら初めから頼んでこなければよかったのに。こんなことのために夜更かしするなんて、我ながらバカすぎる。
(あいつが俺がいいって言ったんだ。俺がいいって言ったくせに、なんだよ、急に日和りやがって……!)
怒っているのに視界が勝手に潤んでくる。震えもひどくなるいっぽうだ。心の中の天秤みたいなところに大きな怒りと悲しみの塊が載っていて、互い違いにぐらぐらと揺れていた。優斗は複雑な感情を自分でも上手く処理しきれなかった。怒っているのと同じくらい悲しい。いや、もしかするとその二つの感情は相反しているようでいて、まったく同じものなのかもしれなかった。
部屋に戻ると机の上にあのマンガが出しっぱなしになっている。もう何も考えたくなかった。マンガを元通りにカバーの中へしまい、ベッドに横になる。自分で思った以上に気疲れしていたのだろう。その晩は泥のように眠った。
明け方、雨が窓を叩く音で目を覚ました。(なんだよ)と思って再び目を閉じる。誰かがドアをノックしているのかと思ったのだ。誰が。たとえば北極が、昨夜の物言いを反省して、朝早くから謝りに来たんじゃないかと期待した。
『センパイ、生意気なこと言ってごめんなさい』
大きな体をしょんぼりと縮めて謝る北極を、優斗はがみがみ怒った。そうだぞ。俺はおまえが来て欲しいって言うから仕方なくつきあってあげてるのに余計なこと抜かしやがって、もう二度とハグしに行かない。これからは自分のことは自分でなんとかするんだな。
『ええっそんなの困る。センパイ、お願いですからハグさせてください』
夢の中の北極は現実よりもかなり可愛げがあった。しかも本物の北極以上に優斗のことを好きらしい。本当だ。なにしろ本人が『実はオレはセンパイのことがダイスキなのです!』と言い切った。
(うおっ、すげー!)と、夢の中の優斗は思った。なんだか無性に嬉しかった。同性の後輩から告白されている点についてはなんの疑問も持たない。(なんだ、よかった)と思った。(やったー!)とも思った。大きな花束でももらったような気分だった。
『ああセンパイ、愛していますっ』
身も世もなくしがみついてくる北極を、優斗はわあと言って受け止めた。あまり経験がないので知らなかったが、ひとから本気で好かれるというのは、得も言われぬほど気分の良いものだった。ことに自分よりも背が高くて綺麗な顔の後輩から慕われるのは最高だった。今ならなんでもできる気がする。北極はギュッと抱きついて甘えてきた。
『センパイ……』
なんだよ甘ったれ、と優斗は偉そうに返した。
表向き怒ってみせているが、内心ではもう北極が喜ぶならなんでもしてやる気でいた。
『オレ、センパイがほしいよ』
急に腕の力が強くなった。逃げようとしたが上も下もない謎の空間で背中から覆いかぶさられ、優斗はワーワー言った。後ろから抱きしめられているのに、自分が何をどうされているのかハッキリと客観的にわかる。北極は優斗の胸に腕を回し、左のこめかみから耳たぶにかけて唇を落とした。背筋がゾクッと粟立ち、下半身がギュンと反応する。これは恥ずかしい。やだ、やだ、とかぶりを振って抵抗するのだが、北極は言うことを聞かなかった。それどころか『うそつき』などと人聞きの悪いことを言う。
『本気で嫌がってないですよね、センパイ……』
優斗はぎくっとした。自分でも気づいていた。口から洩れる声が嫌がっているというより猫の鳴き真似みたいでなんか変だった。それに、恥ずかしいのは確かなのだが若干気持ちよさみたいなものも同時に感じている。やだとは言いつつ、やめられたら逆にふざけんなとキレてしまいそうだ。そういう不安定なわだかまりが体の中心にもやもやと溜まり、内圧が高まる。北極の手がどんどん胸から上へ上がってくる。
『だって、ふるえてる』
大きな手を、頬にひたりと当てられた瞬間、爆発した。
目覚まし時計の音で二度寝から目覚めた優斗は、衝撃のあまり動けなかった。
(は!?)
優斗は夢精していた。
夜に少女マンガを読んだせい。夢の内容はそれで説明がつくとしても、現実に起こってしまったことはもうどうしようもない。優斗は呻きつつ、下着の汚れ具合を手で確かめた。幸いシーツにまでは染みていないが、動き方次第で面倒なことになりそうだ。ひとまず最悪の状況を脱するため、優斗は上を向いたままじりじりとティッシュへ手を伸ばした。
その日、雨は一日中降り続いた。五月も最終週に入り梅雨が近づいているらしい。空に渦巻く灰色の雲はカタツムリのカラを横倒しにしたような奇妙な色をしていた。全体に黄みがかっているのにところどころ紫っぽく、フッと雲の隙間に陽が射す時には全体が眩しいくらいに白くなる。
校舎の周りを囲む木々が雨に濡れて枝葉の色を濃くしている。風が起きるたびに一斉に頭を振り、窓に雫を浴びせた。鬱陶しい雨だ。帰りには止むんじゃないかと淡い期待をしていたが、降り続いている。優斗は傘を差すのも億劫で寮まで五分の道のりを濡れて歩いた。
もう少しで屋根の下にたどりつくというところで、後ろから傘をさしかけられた。
「センパイ、濡れますよ」
「…………」
北極だった。
無言で行こうとすると「待って」と追いかけてくる。優斗はまともに北極を見られなかった。
北極は自分よりも優斗を傘の内に入れようとするので、寮の正面口へ着くころには傘と同じくらい濡れていた。靴脱ぎ場でも、聞いてもないのに「北海道ってちゃんとした梅雨がないんですよ」などとよくわからない世間話を繰り出してくる。
(なんだ、こいつは)
そう思って北極を見た優斗は、ハッとした。
濡れてひとまわり小さくなった北極は、主人の機嫌をうかがう犬みたいにいたいけな目をしていた。
「ごめん」
思わず謝ると、北極は驚いた顔をした。
「えっ、なんでセンパイが謝るんですか」
「…………」
「違う。謝るのはオレのほうですよ……ずっとセンパイに甘えっぱなしで……」
優斗はなんと言ったらいいのかわからなかった。いつもは考えるより先に言葉がぽんぽん飛び出してくるのに、こういう時に限って舌が固まったように動かない。
北極の瞳は優しい光を放っていた。
「こっちほうこそ昨日はすみませんでした」
「…………」
「……オレが卑怯な言い方したから、嫌だったんでしょう」
虚を突かれた優斗に、北極は「オレ、センパイに大丈夫って言わせようとした」と小さな声で言った。
「本当は無理強いしてるってわかってるのに、センパイに許してもらおうとしたんです」
優斗は瞬いた。雨の音がやけに大きく聞こえ、靴脱ぎ場の埃っぽい匂いを濃く感じる。
北極は「なんか……なんでしょうね」と頭を掻いた。
「いつも堂々としててかっこいいセンパイが、オレなんかのとこに毎晩来てくれるってなったから、つい調子に乗っちゃって。センパイ、いつもすごい恥ずかしそうにオレの腕の中で震えてるじゃないですか。ダメだダメだって思うんですけど、それ見てると胸がぎゅーってなって。……センパイがかわいく見えて仕方なくて。だから、本気で嫌がられてるってわかってても手放したくなかったんです、」
緊張しているのか北極の声はひどく乾いていた。そのうえ語順が乱れていて、ぽそぽそと聞き取りづらい。しかし優斗は雨音の中で彼の言葉を一言一句正確に聞き取っていた。頬が熱くなる。集中しすぎて瞬きも忘れていた。
(かわいい、って……)
怒るべきだ。しかし頭に湧いたあらんかぎりの罵詈雑言は、ことごとく口の中で溶けてしまう。やけに、甘い。
「…………」
赤面する優斗に、北極は心苦しそうに「今日、高校で聞いてみたんですけど」と言った。
北極のぬいぐるみはまだ見つからないらしい。件のボランティアサークルは今、電波が届かない山奥にいるそうだ。廃校予定の小学校に泊まり込みでイベントの手伝いをしているという。学校側は関係者に連絡をとろうと試みているが、情報の遅延状況からみてサークルがまず人里に戻ってこないことにはどうにもならない、と。
「なので……センパイ、迷惑かけてほんとすみません。オレもう変なこと言わない。考えもしないように気をつける。だからもうちょっとだけ、ガマンして付き合ってくれませんか?」
「わ……」
北極は優斗に向かってグッと身を寄せてきた。靴箱に追いつめられたうえなぜか手まで握られている。近づいてわかる睫毛の長さと量に優斗は息を飲んだ。髪と同じ、白に近い灰色が薄青い瞳を縁取っている。泣きそうに潤んだ瞳は天使みたいに綺麗だった。
優斗は慌てて下を向いた。
「いやっ、別にいいけどっ? こっちは、だって、最初からそのつもりだったし」
「でも、オレのこともう、嫌になったんじゃ……」
「~~~っ、だから、俺はおまえをイヤだと思ったことは一度もねえよ! なに一人で余計な心配してんだバカッ」
そう怒鳴りつけたとたん、北極は急に泣きそうな顔になった。あろうことか抱きついてくる。
今ハグすることを許可した覚えはない。
「おい、こら……!」
怒ろうとしたのだが、北極から「ごめんなさい、センパイ」と言われると逆らえない。
気の弱い後輩が何かを必死に言おうとしているのがわかった。
「オレ、センパイにずっと言わないで、黙ってたんですけど……」
優斗は縮みあがった。(まさか今朝見た夢が現実になるのか)と思い(いや、そんなバカなことあるわけない)と自分で否定する。しかしそうでないとしたら、なぜこんなに北極の体が熱くなっているのだろう。触れあう肌から伝わってくる脈の打ち方は激しかった。つられて胸を高鳴らす優斗に北極は囁きかけた。
「あの、実は……っ」
「ポンちゃーん、カノジョから手紙だよーん!」
北極の小さな声は、ポストのほうから歩いて来た瀬野に搔き消された。靴脱ぎ場で鉢合わせた三人の反応は三者三葉だった。優斗はパニックのあまり叫び、瀬野は手に持っていた郵便物を取り落とし、北極は床に落ちた封筒に目をやる。差出人の名前は信楽 美夜。妹から、二通目の手紙だった。
「フギャー!!」
優斗は目にもとまらぬ速さで封筒を回収し、瀬野の襟首を揺さぶった。
「な、な、なにがカノジョだっ。ただの妹だって前にも言っただろうが!」
「ふぇ」
優斗の機敏すぎる動きは、瀬野の視界にサブリミナル的効果をもたらしたらしい。ほんの一瞬目に映った光景――北極に迫られた格好の優斗――に目をパチクリさせている。優斗は瀬野を力強く揺さぶって今見たものを忘れさせようとした。
「だいたいなんでおまえが俺宛ての手紙持ってんだよっ」
「いや……うちのポストに紛れ込んでたのよ。お隣さんだから」
ポストは出席番号順に設置されている。瀬野はふと面白がるような目つきになって「そんなに否定するほうがアヤシイな」などと言った。瀬野は美夜の手紙を見たことがあった。前に同じようなことがあった時、宛名をよく見ずに封を開けてしまったからだ。
「写真も見たけど、妹チャンって美少女だしさ。血はつながってないんだろー?」
「なっ何言ってやがるっ」
「可愛い義妹と一つ屋根の下で暮らしてさ、何も起こらないわけなくないか? 俺が紹介してって頼んでも拒否るしさ」
「うおおお瀬野っテメー!!」
後ろで北極が聞いていると思うと、優斗は気が気ではなかった。
「違うから! あいつとはそういうんじゃないからっ、マジでありえないからっ!」
大きな声で全力で否定するのだが、瀬野はかえって「ふうーん」と笑みを深くする。
「まっ、別にいいけど。なんだよー、元気になったみたいでよかったじゃーん」
口でわからないなら腕力に物を言わせるほかない。真っ赤になって拳骨を振り上げる優斗から、瀬野はげらげら笑って逃げた。
「…………」
静かになった靴脱ぎ場で、優斗はおずおずと北極を振り返った。北極はその場に立ち尽くしている。青い瞳の揺れ方に、優斗はどきんとした。まっすぐ見られると怖くなって、思わず顔を伏せてしまう。
「えっと……なんだっけ。さっき、なんか言いかけてただろ」
下を向いたままそう言って、優斗は自分で自分を(俺のほうが北極よりずっと卑怯だ)と思った。夢の中みたいに北極が自分を好きだと言ってくれるんじゃないかと期待している。それも自分の気持ちはまったく明らかにしないままで。
北極はしばらく口ごもったあと「いえ、なんでもなかったです」と言った。落ち着きなく前髪をいじる手に汗が光っていた。北極は気が弱い。急に大きな声を出されて怖かったのだろう。
「ごめん。うるさくしたな」
「いえ、全然……あの、俺のほうこそすみません。なんか一人で勝手にカン違いしてたみたいで……」
「……なんだよ。昨日のことまだ気にしてんのか?」
優斗は軽く笑い、憂鬱そうな北極の胸を手の甲ではたいた。
「じゃ、また夜にな」
「!」
北極が目を見開く。一瞬、断られるのかと思うような間が空いたが、彼はうなずいた。「待ってます」と言った。
梅雨入りした。
ついこの前、ゴールデンウィークのお土産を交換し合ったばかりのように思えるのに、クラスメイトたちはもう夏休みの予定について話している。優斗は心の中で(その前に七夕だろ)とボヤいた。
寮友会では寮生の親睦を深めるために季節イベントを用意している。今月は七夕だ。内容としては笹に願い事を書いた短冊を飾るだけの小規模なものだが、この後に控えているのが『納涼祭』というちょっと手の込んだ縁日風のイベントで、人手と予算をそちらのほうへ大幅に持っていかれている。結果、七夕担当の優斗は忙しかった。
昼休みだというのに教室の机でチョキチョキと笹飾りを量産しているのも、そんなしわ寄せを受けてのことだった。色紙が湿気で手に付くし、出来上がった飾りがたまに空調の風で飛ばされる。優斗はハサミを動かしながらイラついていた。一緒にやるはずの瀬野が作業をサボッているせいで二倍働かなくてはならない。
(クソ、あいつ人の足元見てきやがって……)
美夜から手紙が来た件で、瀬野は優斗の弱みを握ったと思っているらしい。仕事しろと催促したところ、悪びれずに『じゃー美夜ちゃんのこと紹介してよ』などとせがんできた。優斗はこんな雑用のために義妹を売りたくはなかった。
(瀬野め、美夜がどんなやつか知りもしないで勝手なことを……)
美夜は繊細なのだ。瀬野のようなお調子者とはどう考えても相性が悪い。口も重いほうで、話すより書くほうが気楽らしい。手紙についても一通書いて満足せず二通目を送ってくるようなところがある。
(……その点、北極とは相性がいいのかもな。なんかすぐ仲良くなりそう)
作っていた網飾りを開きながらそう思った。
北極は靴脱ぎ場での一件以来、なんだかずっと緊張しているようだった。ハグをする時も、前までは腕を広げれば即座に抱きついてきたのに、最近はじれったいほどゆっくりと来る。そのくせ、腕の力は初めの頃よりずっと強かった。優斗が身動き取れないくらいに頭と腰を固く抱いてくる。昨日は髪をうなじまで撫でられた。優斗はもちろん恥ずかしいのだが、口に出したらますます恥ずかしい気がして指摘できなかった。北極も黙っていた。重い沈黙と濃厚な抱擁を共有しながら、優斗はやけに心細くてたまらなかった。北極が何を考えているのかわからない。尋ねることもできない。
(……美夜なら、もっと上手くできんのかな)
美夜は思慮深い。受け答えはゆっくりだが、優斗と違っていきなり怒ったりせず、最後までよく考えて話す。北極の本質もきっとすぐに見抜くはずだ。そして美少女の美夜を嫌う男などこの世に存在しない。北極は当たり前のように美夜を好きになる。
まるで少女マンガの主人公と相手役のように二人は惹かれ合い、結ばれる。
優斗は自分で妄想して自分で嫌になった。なんで会ったこともない二人のことをくっつけようとしているのか、我ながら意味がわからない。
ただ、美夜と北極が仲良くなったら自分なんかもうこの世にいらない気がした。
「のぁっ」
空調の風が急に強くなった。作り終えた飾りが教室のはしからはしへ飛んでいく。戸口に立っていた男が顔の前に手をかざしてキャッチした。優斗は渋面を作った。ニヤッと笑って優斗を手招いたのは、寮長の山本だった。
廊下で、山本は優斗に飾りを返してくれた。
「はかどってるらしいな」
「どうも、おかげさまで……」
七夕の準備にかかる手が足りていないのを知って様子を見に来たらしい。山本は三年。夏には柔道部最後の大会を控えているうえ受験生でもある。この気の回りようが優斗は若干怖かった。北極の部屋にいたことを言い当てられてからというもの、なんだかずっと見張られている気がする。
「たしか瀬野と分担してるんだろう。あいつは何やってんだ」
「あー、えーっと……」
「なんだ。ケンカか?」
「イエー、別にそーいうわけではー」
告げ口したと思われたくはない。悟られまいとするあまり思いっきり棒読みになる優斗に、山本はふっと口元を緩めた。
「ったく。おまえってヤツはホントに……」
そのまま優斗の髪を撫でようとしたようだ。優斗は、大きな手の平が自分の頭に向かってくるのをスローモーションに感じた。いつもなら反応する間もなく頭を掴まれるところだ。ところが今日は違った。つむじの毛がピンとアンテナのように立ち、はっきりと(嫌だ)と思った。昨夜、北極の手が頭の後ろを優しく撫でおろした記憶が、肌に鮮明に残っていた。
(イヤだ、北極じゃないヤツに触られたくない!)
気がついた時にはもう遅かった。パシッと乾いた音が立つ。
優斗は反射的に山本の手を払いのけていた。
「あ、っ……」
山本の目が繊月のように細くなる。優斗は咄嗟に頭をよぎった考えを反芻し、真っ赤になった。北極以外の誰にも触られたくなかった。優斗は、先輩としてたった10秒ハグしているだけの相手にこだわって、山本を敵に回した。
「……っ!」
柔道部主将・山本の大外刈りはさすが堂に入っていた。両袖を掴んで引き倒し、上半身の重心を崩させたところへ一気に刈り足で引き倒す。教室からどよめく声が聞こえたが、いきなり固い廊下に倒された優斗は痛みのあまり声も上げられなかった。
「化けの皮が剥がれかけてるぞ」
山本は優斗を組み敷いた格好のまま、低い声で呟いた。
「なんだそのあからさまな雌顔は。うっかり技かけちまっただろうが」
「!?」
雌顔。
山本らしからぬ下品な物言いに、優斗は言葉を失くした。次いで猛烈に恥ずかしくなって言い返す。
「りょ、寮長、気でも狂ったんですかっ。何を変なこと言って……」
「しらばっくれるな。おまえ俺に隠れてまた悪さしてるだろう」
「…………!」
「わかるさ。ずっと見てんだから」
その声はうんざりしているように聞こえた。
「寮生活やってれば、おまえみたいにトチ狂うやつは一定数出てくる」
山本が体重をかけてくる。優斗は押しつぶされ、力比べするみたいに手に手を重ねられてもなにも抵抗できなかった。顔にかかる山本の息は燃えるように熱い。
「男ばっかの閉鎖環境で性欲こじらせて、一過性の感情で人生を棒に振る。こんなにつまらんことないだろうが。あぁ?」
優斗はゾッとした。完全に見抜かれている。
「お、俺、ちがう、ちがいます。これには事情があって……」
「わかってねえなあ。誰もおまえの事情になんか興味ねーよ」
「は……!?」
「バレた時、周りがどんな目で見てくるかって話だ」
山本はそれとなく周囲を顎で示した。その場に居合わせた生徒が、みんな固唾を飲んでこちらを見ている。中にはスマホを構えている者さえいたが、山本は落ち着き払った様子で言葉を続けた。
「たとえばの話だ。俺が可愛い後輩に心底イカれたとする。お互いのためにずっと黙っているつもりでいたが、そいつがぽっと出の変なヤツとよろしくやってると知った。そこで嫉妬と性欲にトチ狂った俺がいったい何を考えるかというと」
山本は大仰に首をかしげて考えるそぶりを見せた。
「『こんなことになるくらいなら俺が先に食っちまえば良かったじゃないか。イヤまだ遅くはない。今夜あいつの部屋へ押し入って想いを遂げてやろう』と、こうくるわけだ。バカバカしい。んなもんやっちまうのはカンタンなことだが、失うものは大きい。わかるな? 退寮になるのはもちろん柔道部の活動も丸ごとおじゃんになる。頭の古い身内からは死ぬまで腫物扱い、うちの母親なんかデリケートにできてるからな、下手したら首吊るかもしれん」
ほとんど唇を動かさずにそれを言う山本は一度も瞬きせず、優斗を見つめ続けていた。それから将棋の駒のように角ばった顎をかすかに傾けたかと思うと、勢いをつけて優斗の上半身を起こさせた。
「!?」
気がつくと優斗は倒された時と同じく、立つ気もないのに立ち上がらされてしまった。
「ケガはしてないようだなあ、ポンタロー」
「……!」
「俺がおまえに言いたいことは二つある」
山本は優斗の顔に向かって、右手の指を二本立てた。
「下手な火遊びはやめろ。まだ続ける気なら俺が本気で潰す。以上」
最後には立てた指をグッと拳に握り込んだ。優斗は触られてもいない喉を絞められた気がした。
予鈴が鳴る。
廊下を歩いてきた教師たちは他学年の階にいる山本を訝しんだ。しかし山本は「後輩指導につい熱が入ってしまって」とはにかんだ笑みを浮かべてみせ、「お騒がせしてすみません」と一礼した。
柔道家らしい美しい一礼に、スマホカメラのシャッター音が鳴った。授業が始まる直前で教室に生徒が集まっていたせいもあるのだろうか、優斗に技をかけた時よりもずっと注目を浴びている。
(きっと俺のほうが悪いことしたと思われてるんだろうな)
優斗は他人事のように思った。北極ほどではないが優斗は友だちが少ない。もし善悪が多数決で決まるとしたら学校でも寮でも評価の高い山本のほうが圧倒的に正しいことになるだろう。背中が痛かった。山本が長々と語ったことは例えが突飛すぎてほとんど頭に入って来なかったが、自分が糾弾される立場であることは身に染みてよくわかった。
(いや潰すってなんだよ……意味わからん。俺、もしかして殺されんの……?)
山本の目は本気だった。
この法治国家で、学生の身分で、まさかそんなことできるわけがないと頭でわかっていても、優斗は怖かった。
夜、優斗はいつもより早い時間に北極の部屋へ行った。いないかもしれないと思いつつドアを軽く引っ掻いてみると、かすかに椅子を引く音がして、ドアが開いた。
「えっ。センパイ……うわっ」
いきなり胸に飛び込んできた優斗を、北極は驚いたように抱き止める。優斗は山本が極秘裏に雇ったヒットマンがどこからか自分の頭を吹っ飛ばすのをじっと待ったが、そんなことは一つも起こらなかった。ただ北極がわたわたと自分の部屋に優斗を引き入れ、そっとドアを閉めただけだった。
「いったい、どうしたんですか……?」
「…………」
優斗は数も数えず、額を北極の胸につけたままじっとしていた。今やハグされているのは北極ではなく優斗のほうだった。先輩として引き受けた役目も果たさず、バカみたいに北極に抱きついている。
(どうせ殺されるんなら、この体勢がいい)
優斗は身勝手に思った。この状況で死んだら真っ先に犯行を疑われるのは北極だろう。もしかしたら山本はそんな優斗の思考さえ読んで、こうするよう仕向けたのかもしれない。疑心暗鬼に駆られて震え出す優斗を、北極は「ちょっと」とか「あの」とか言いながら抱きしめ続けていた。
「センパイ、ダメですよ……オレなんかにこんなことしちゃ……」
優しく髪を撫でおろされ、優斗は我知らず目を閉じていた。山本に痛めつけられている間中、自分はずっとこうされたかったのだと気づいた。北極の背中を抱いて、北極に頭と腰を抱かれていたかった。こうしている間だけ、優斗は自分が無敵になったような気がするのだ。何も怖くない。北極に求められて、自分も北極を求めて、二人で作った完全な円の中に守られているような気持ちになる。
優斗は、北極のことが好きだった。
「きたぎめ、」
胸からゆっくりと頭を起こす。北極の青い瞳に優斗の顔が映っていた。『雌顔』ってもしかしてこれか、と優斗は思う。我ながら恥知らずな表情だった。ただでさえ垂れ目がちな顔が物欲しげにいっそうとろんとしている。頬は紅潮し、息が上がっている。品というものがまるでない。絶対に理性的ではない。マンガみたいにずっと見ていられるような綺麗な顔ではない。ただ間違いなく優斗の顔ではあった。優斗は自分の目ではっきりと見た。涙ぐみ、汗をかき、どもりながら必死に求めようとしている。
「きたぎめ、俺、おれさあ、おまえのことが……」
「ダメだって言ってるじゃないですか!」
北極に怒鳴られた時、優斗は目の前でシャボン玉がはじけたような気がした。
急に焦点が合った北極の顔は、優斗と同じくらい真っ赤になっていた。
「あ……」
優斗は反射的に、北極から一歩距離をとった。視界がぐらぐらと揺れる。北極は自分でもびっくりしたみたいに口をおさえていた。こんな大きな声が自分の口がら出ると思っていなかったに違いない。
優斗は慌てて「あ、そう」と口走った。なんとかして自分がこの場を収めなくてはならないと思った。
「ま、まあ、俺は別にいいけど……なんだよ、そんな怒鳴ることないだろ。ば、ばか」
「!?」
北極が信じられないものを見る目でこっちを見ている。優斗は目に盛り上がってきた涙を瞬きで吹き飛ばし、優斗は「バカ」ともう一度言った。調子が出てきたので、奥歯を噛みしめて口の両端を無理やり持ち上げてみせる。
「ちょっとふざけただけだろ。冗談のわかんないヤツだな、まったく」
「じょ、じょ、じょうだん……!?」
「そだよ。当たり前だろ。ワハハ、ばーか」
目をシロクロさせている北極に向かって、優斗はズッと洟を啜った。
「それでさ、寮長にバレてどやされたから、もう俺、ここ来ない」
「……は!?」
「ああ、いや、でもほら、明日とか日曜だし」
優斗は完全にテンパッていた。なんとか北極を納得させなければならない。先輩として後輩を安心させてやる必要があるし、恥ずかしいから何事もなかった風を装いたい。冷静に。喋りながら頭をフル回転させる優斗は、体の前で落ち着きなく手を動かしていた。
「オーケィ、俺が言いたいのはつまりこういうことなんだぜ。北極、明日おまえには俺の買い物につきあってもらう。荷物持ち役だ。できるな?」
「え? ええと、はい」
「俺の代わりになるぬいぐるみか抱き枕を探そうぜ」
「エッ!?」
「……っ、だからっ。おまえは俺の代わりになるぬいぐるみか抱き枕を探すんだよっ、一回でわかれバカッ」
優斗はガマンできずにキレてしまった。自分でも言っていて恥ずかしい。話の流れでだいぶ変なことを言っている気がする。いつになく横暴な優斗に、北極は目を丸くした。
「ちょ、ちょっと待ってください。話が急すぎて……えっ。センパイがオレのせいで詰められたってことですか?」
「そうだよっ。さっきからそう言ってるだろうがっ」
北極の目がぎらっと光った。ドアノブに猛然と手をかけるので、優斗は慌てて止めた。
「おい、なに考えてんだよ」
「そいつ殺してオレも死にます」
「なっ……おいマジでなにを考えてんだよっ、やめろバカ!」
廊下に飛び出して行こうとする北極の背中に、優斗は飛びついた。北極の戦闘力は見た目だけだ。山本に立ち向かったらただでは済まない。ところが北極は思いとどまるどころか、かえって怒った。
「なに考えてんだはこっちのセリフです。怒られたひとがなにをノコノコとオレのとこ来てんですか」
「……!」
「なんでなんにも悪いことしてないセンパイがっ、当たり前みたいにオレの代わりに責められてんですかっ」
緊張している時と同じだった。北極は怒れば怒るほど無表情になる性質らしい。だが、その怒りは持続しなかった。優斗が震えて立っているのを見ると目を伏せ、「ああ、もう……」とため息をつく。
「センパイ、泣かないでよ……」
優斗は涙で北極の背中を濡らしていた。北極が殺すとか死ぬとか、簡単に言うからだ。『なんにも悪いことしてない』とか言うからだ。そんなこと全然ないのに、山本より優斗のほうが正しいと思っているみたいに。
(こいつ、オレのことほんの十秒前にフッたくせに。俺の一世一代の大告白を、まるで聞きたくないみたいに遮ったくせに)
なぜか、北極まで泣きそうな顔をしている。
(あ……)
北極がくるりと身を翻す。優斗に向き直ると、優しく抱擁した。「いいよ。わかりました」とかすれた声を漏らす。
「荷物持ちですか? センパイが買い物するなら、オレ、喜んでお供するよ」
「う……」
「ぬいぐるみのことは……まぁ、見てからでいいじゃないですか。ねえ」
後輩に慰められる恥より、好きなひとに抱きしめられる喜びが勝った。優斗はゆっくりと瞬きして「うん」と素直にうなずいた。そのあと急に羞恥心がぶり返してきて「わかればいいんだ、わかれば」と北極の背中を強く叩いた。
高校から徒歩で駅前へ向かい、そこからショッピングモール行のバスに乗る。所要時間は三十分ほどだ。日曜のバスは混むので座れればラッキーと言われている。優斗は奇跡的に空いているはしの席に、北極を無理やり押し込んだ。
「センパイ、オレが立ってますからセンパイが座って……」
「いいから座れ。おまえは立ってるとデカくて邪魔なんだ」
「……!?」
ショックを受けている。口を開けたまま固まってしまった北極の頭に、優斗は自分の被っていたキャップを被せた。乗り合わせた客を怯えさせないための配慮だ。北極は身長が高い以上に目力が強いのだった。
北極の髪に、黒いキャップはよく映えた。
「おまえ、ずるいわ。なんでも似合う」
「……え、と。そんなことは別にないですけど……」
「うるさい。先輩の言うことに口答えするな」
「わあ」
キャップのつばを思いっきり下げてやる。北極は間抜けな声を上げてされるがままになった。自分の変なノリに付き合ってくれているんだと、優斗もうっすら気づいていた。今日、買い物につきあってくれること自体、そうなのだ。
(……こいつ、俺とハグしないでももう眠れるんだろうな)
昨夜ぬいぐるみを買わないでもいいと言ったということは、そうだった。実際、北極は四月中はハグもぬいぐるみもなしで眠れていたのだ。寮生活に慣れて、ホームシックも多少は和らいだに違いない。優斗は(今日あたりハグなしで寝かせてみるかな)と思った。もしダメだったとしても誰かに起こしてもらえるよう頼んでおけばいいのだ。寮友会の役割とは本来そういうものだった。
「……センパイ?」
北極が心配そうに優斗を見上げる。バスが動き出し、優斗は軽く肩をすくめて見せた。
(ほんと変なやつだな。フッた相手と休みの日に出かけようとか、よく思えるもんだ)
それはきっと自分たちが男同士で、先輩と後輩の関係だからなんだろう。優斗はバスの大きな窓の向こうに菓子工場の煙を見た。地元では名の知れた工場だ。甘くてほのかに苦い匂いを嗅いだ気がした。立って見ていると、煙突から立ち上る煙が曇り空に色をつけているみたいで少々シュールな眺めだった。
「北極、今、外さあ……」
「え?」
言っている間に通り過ぎた。優斗は「なんでもない」と言って、ふすふすと笑った。北極ががぜん気にして「なんですかっ」と声を上げる。優斗は口を結んで答えなかった。二人で過ごす日曜日は、まだ始まったばかりだった。
ショッピングモールに着いた二人は、まず鏡文字のブランドロゴが有名な玩具量販店に行ってみた。海外資本の店だからかオモチャもぬいぐるみも原色のカラフルなものが多い。親子連れでいっぱいの店内を掻き分けるようにしてあちこち見てみた結果、優斗は「どれも北極には小さすぎるな」という結論に至った。北極は大きな体を縮めて恥ずかしそうにうなだれていた。初めからわかっていたことだが、子供向けの店なのだった。
途中にある雑貨屋や服屋に寄り道しつつ、次に向かったのは人をダメにすることで定評があるビーズクッション専門店だ。こちらも海外資本、ソファ代わりに使える大きなクッションが売られている。
「ふおお……」
「あぁーっ、センパイ……!」
試しに腰を下ろしてみた優斗はものの三秒でダメになった。北極も見かねて助けに入るがミイラ取りがミイラになる。ダメになってしまった二人は、商品の値札を見て正気に返った。想定していた値段よりゼロが一桁多かった。
「くそっ。どいつもこいつも一長一短すぎる!」
考えを整理するために入ったコーヒーショップで優斗は管を巻いた。
北極は苦笑した。
「でも、こういう買い物ってちょうどいいもの見つけても、それはそれでなんか物足りない気がしないですか。なんでなんだろう」
「…………」
優斗は小さなテーブルに頬杖をついて北極を見つめた。(こいつ、マジで探す気ねーだろ)と思う。それはそれで悔しいのだった。アイスコーヒーにストローを刺す手つきが妙にスマートなのも気に食わない。
この態度を見ているだけで、きっと北極は泣き虫の見掛け倒し野郎ながらそれなりの数の女の子たちとデートしたことがあるんだろうと察しがついてしまう。特に興味のない買い物につきあったり、重い荷物を持たされたりすることも日常茶飯事だったに違いない。優斗と違って。
優斗は、このショッピングモールには何度も来たことがある。実家にいた頃は家族みんなで車に乗って来た。寮に入ってからも、寮友会の仕事や友達付き合いで利用している。ただ、好きなひとと一緒に買い物に来るのはこれが初めてだった。
服屋で相手の目線に気づいても、いつもなら「着てみれば」とかわざわざ言ったりしない。試着室の前でドギマギして待ったりしない。思ったよりも全然似合っていなくてコメントに困ったりしない。北極相手だから変にはしゃいで、浮かれて、その実、根っこの部分ではずっと緊張していた。全然いつも通りにふるまえないのだ。寮の外で見る北極は見ていて不安になるくらい魅力的で、絶対に嫌な思いをさせてはいけない気がした。
「……センパイ」
「ん、」
アイスコーヒーのカップ表面から結露が垂れていた。トレイに敷いてあるチラシがよれてしまっている。優斗はぼんやりしていて、すぐに返事できなかった。その間に北極が「生まれてきてすみません」と震え声で謝ってきた。
「うん!?」
「い、いや……オレ、たまに言われるんですけど、一緒に買い物するにはつまんないヤツらしくて」
呆気にとられる優斗の前で、北極は暑そうにキャップを脱いだ。
「こういう時、全然リードとかできないんですよ……だからさっきからセンパイに道案内とか任せっぱなしで……そのうえ面白いことも言えないし……オレは、もう、ダメです……」
「……北極」
「ハイ……」
「ついこないだ北海道から出てきたばっかのヤツに道案内されるほど、俺は方向音痴じゃねーんだよっ」
「あ。それは、そうかも……」
「あとおまえに面白さとか求めてないから!」
「そ、そっか。そうですよね。すみません。すみません」
よく見ると、白い頭から湯気が立っている。「退屈させてると思うと申し訳なくて」と言われ、優斗はバツが悪くなった。自分の緊張が北極にまで伝わっている気がした。
「まず、おまえが俺のこと楽しませる必要ねーだろ。ガキじゃあるまいし」
「いやっ、でも……オレとしては、なんか……なんかしてあげたいです。センパイには」
「はあ。してあげたいとはまた、ずいぶんと上から」
「!? え、いやっ、決してそんなつもりじゃ……!」
耳の中がくすぐったい。優斗は何度も首をひねった。首も背中も熱くて、頭がのぼせる。目の前で北極が必死に釈明してくれているのがなんにも耳に入って来ない。変なことを言われたせいで、ただでさえおかしかった調子が完全に狂ってしまったようだ。北極の顔を見るだけで胸がどきどきして、嬉しすぎて、なんだか泣きたいような気までしてくる。
仕方ないので、優斗はいったんぬいぐるみ探しを中断することにした。文房具屋に用があると言うと、北極は二つ返事でついてきた。目当ては店先に展開されているポストカードだ。北極は物珍しそうに売り場を見回した。
「部屋に飾るんですか?」
「いや、家に送る用」
「えっ」
「おまえも北海道に手紙出せば? いちおう現状は伝えたほうがいいだろ」
「……いえ。うちは、毎日電話してるので……」
「毎日って……どんだけ仲いいんだよ」
「……っ、セ、センパイのほうこそっ、妹さんと毎日電話しないんですかぁ!?」
それを言う北極の声は、甲高く裏返っていた。急な人見知り発動は今に始まったことではないので、優斗は鼻で笑った。
「北極、普通の男子高校生は寮暮らしだからって毎日実家に電話しないんだよ。どうだ知らなかっただろう」
「いや、家っていうか。だって、」
「? 俺は妹と電話とかしない。親が嫌がるし」
「!!!」
北極が驚愕の表情を浮かべる。(なるほど、こいつは家に電話すると喜ばれるんだな)と優斗は思った。今どきそっちのほうが珍しい気もするが、住んでいる世界のレイヤーが違うのかもしれない。説明が面倒で「色々と気を遣うんだよ」とだけ言った。
優斗は柴犬の写真がついたポストカードを買った。笑っている(ように見える)柴犬の顔の横にぶっとい筆文字で、なぜか『ドコサヘキサ塩酸!』とプリントしてある。意味がわからないうえまったく趣味ではなかったが、罪のない明るさが用途に合っていた。
会計を済ませたあと、通路の壁を机代わりに宛名書きまで済ませてしまう。メッセージ欄には悩んだ挙句『元気にやってる』とだけ書いた。
背後では、北極が優斗のカバンを手に待っていた。なにか釈然としない顔をしていたが、優斗はそのまま地下一階の郵便局まで行った。窓口で所定の料金を支払い、用事は片付いた。その頃には優斗の気分も落ち着いていた。北極の顔を見ても(こいつ可愛いな)としか思わない。それはそれで異常な気もするが。
「待たせたな」
「待っては、ないですけど……」
お預けを食らった犬のような顔をしている。優斗は見ていて、今日どうしても北極にぬいぐるみを買い与えたい気がした。今夜から北極は、優斗を十秒ハグする代わりに、そいつと一緒に同じベッドで眠りに就くのだ。きっと毎晩。寮にいる間はずっと。
それは自分をフッた北極への意趣返しとしては悪くない気がした。
「あー……最初に行ったオモチャ屋に戻ってもいいか?」
北極はもちろん嫌と言わなかった。
二人はここまで来た道を戻り、店に入った。商品を目立たせるためなのだろう、群青色に塗られた壁がそのまま棚になっていて、各種ぬいぐるみがギュッと並べられている。優斗の小遣いでも買えるような量産品だが、目の位置や腕の広げ方にちょっとずつ差があった。
「どれか選べよ」
優斗が顎で差すと、北極はようやく抵抗らしきものを示した。
「いやセンパイ、ほんとにいいって……」
「早く選べって言ってんの」
「だって……」
選べと言っているのに、北極は棚を見ずに優斗のほうを向いている。優斗は歯噛みした。気に入らないのはわかる。どれも子供用で、北極が抱いて寝るにはサイズが小さい。しかしベッドに置いておくにはちょうど良さそうだった。
優斗に睨みつけられて、北極は泣きそうな顔になった。情けない声で「センパイが選んでください」と言う。
「はっ? なんでオレが」
「そんなの……だってオレ、センパイが選んでくれたやつがほしいよ」
「フーン!? これでもいいのかっ?」
優斗は売り場を間違えているとしか思えない不気味なブードゥー人形を掲げた。北極はビクッと肩を震わせたが、殊勝にも「センパイが気に入ったなら」と呟いた。覚悟は固いらしい。
優斗は仕方なく、もう一度棚に向き直った。ぱっと目を惹くのはクマだが、確か北極が家族に買ってもらったのもクマのぬいぐるみだったはずだ。比較されるのも癪だし、また泥棒されたら困る。かといってウサギや犬はちょっと子供っぽすぎる。うっかり人に見られてからかわれたら気の毒だ。かと言って、サメやティラノサウルスとなると気の利いたインテリアのようで腹が立つのだった。となると意外とブードゥー人形というのもアリな気がしてくる。いや、しかし・・・。
十分後、優斗はへちゃむくれたアナグマのぬいぐるみを会計して北極の元へ戻ってきた。
「なあ、びっくりした。こいつタヌキじゃなかった!」
「やっぱり。アライグマですよね」
「それも違う」
「……!?」
二人は店の外でレシートを見て驚き合った。試しにスマホで画像検索をかけてみると、ハクビシンという全く違う動物がひっかかる。優斗は正直わけがわからなかったが、北極が謎のぬいぐるみを見てニコニコしているので一旦よしとした。ショッピングモールの白っぽい照明の下で見る北極の笑顔は花みたいに綺麗だった。
バス停に向かう途中、ほかの寮生たちと遭遇した。生活圏内が同じなのでこういうことはよくある。普段と違ったのは三輪田含む一年生三人組が優斗に助けを求めてきたことだ。
「ポンタ先輩、たすけてぇ!」
一人は買い物しすぎてバス代がない。もう一人は本を大量に買ったら袋が破けて身動きがとれない。最後の一人はなぜかさっきからスマホが見つからないらしい。人見知りを起こして固まっている北極をおいて、優斗はひとつひとつ問題を処理した。余っていた買い物袋に本を詰め替え、バス代を立て替え、リュックの中で水筒の下敷きになっていたスマホを見つけ出す。
「おまえら、遠足来た小学生じゃねーんだからよ……」
「すみません、すみません」
「楽しくなっちゃって、つい……」
「ポンタ先輩も今から帰るんですかっ。よかったら一緒に……」
「……信楽センパイは、オレと帰るから」
北極が急に後ろから会話に割り込んできた。妙な威圧感に三人は固まる。同じ一年同士、北極のことは知っているのだろう。なんとなく優斗の脇にくっついてきて「なんですか、あいつ」「ポンタ先輩、日曜まで面倒見てやってるんですか」などと口々に言う。
(北極のやつ、ホントに人間関係作れてないんだな)
優斗は入学した頃の自分を見ている気がした。そう思うと同じ一年でも北極のほうを優先して見てやったほうがいいように感じる。
「おまえら三人で帰れるだろ」
「えー!」
「すみません。わかりました……」
口をとがらせる二人を三輪田が大人しくさせる。ちらっと優斗を心細そうに見たのは、一年生だけで帰るのが不安というよりも、優斗を心配していたのだろう。風呂場で目撃された一件がある。気にするな、という意味を込めて優斗が口のはしを持ち上げてみせると、三輪田はホッとした様子で離れて行った。
「……で、おまえはなんで急に機嫌が悪いんだよ」
「べつに……」
「別にじゃねーだろ! 姿勢悪いぞ!」
北極は背中を丸めていた。唇は二次関数でいう下に凸のグラフを描き、顎に力がこもっているのが見てとれる。やっと口を開けたと思ったら「ポンタ先輩ポンタ先輩って、あいつら一体なんなんですか?」と言った。
「はぁ?」
「なんであんなフザけた呼び方させとくんです」
優斗は衝撃を受けた。山本に聞かせてやりたいセリフだ。が、この場では「山本寮長サマの有難いご厚意だからだよ」とお茶らけるほかないのだった。北極は納得できないらしい。
「寮長に変なあだ名つけられるのが有難いことなんですか」
「……そーだよ。おまえもつけてもらえば? もうちょっと打ち解けやすくなるかも」
「オレ、嫌だ。なんでセンパイのことをあのひとが勝手に決めるんですか」
北極の言い方は子供みたいに意固地だった。優斗の手をぎゅっと握って「変ですよ」ときっぱり言う。
「一人で勝手に呼んでるならともかく、みんなが、一年とかまで一緒になってセンパイのこと変な呼び方してんのは絶対おかしい。なんで寮長がセンパイのことをそこまで支配するんです」
支配という言葉は耳慣れなかった。優斗は瞬いた。山本に支配された覚えはなかったが、北極が真剣なのは確かだった。北極はまだ一年生で、北海道から出てきたばかりで、寮生活のことも山本のことも何もわかっていないくせに、真剣に優斗の側に立とうとしていた。
「……別に。おまえが怒るようなことじゃないだろ」
優斗が身じろぎすると、北極は大人しく手を離した。優斗は北極の青く澄み切った眼差しを真正面から受けることになる。なんだかこの場から逃げ出したい気がした。この場からだけではない。寮の門限や明日の学校や、七夕の準備、夏休みにしなければならない帰省、それらすべてを全部なかったことにして、北極と二人きりでいたいと思った。
「じゃ、北極は俺のこと好きに呼んでいいよ」
「……!」
「フン。つーかおまえ、偉そうなこと言ってるけど俺の名前知ってんの?」
「えっ……」
「知らねーだろ」
「し、知ってますよ。さっき、しがらきセンパイって」
「へー、下は?」
真面目で素直、気の弱い北極は、意外なことにこの挑発に乗ってきた。「ゆ、」と言う。青い目が揺らぐ。恥ずかしがって横を向く。「ゆーとせんぱい」と言った。咳払いすると、急に真顔になって優斗を見下ろしてきた。
「しがらき、ゆうとさん」
「……おう」
優斗は氏名を呼ばれた手前うなずいた。「よく知ってんね」とコメントしたのに、北極は熱暴走を起こしたロボットみたいに「ゆーとさん、ゆーとさん、ゆーとさん」としつこく言ってくる。優斗は両手で強く胸を押して黙らせた。北極に呼ばれると自分の名前じゃないみたいで恥ずかしかった。
四時近く、再び駅前へ戻った。北極はバスに乗る前までは異様なほどテンションが高かったのに、下りる頃にはなぜかしょぼくれていた。歩みも遅いので寮までなかなか歩き着かない。優斗は牛を牽く牧人のように北極を引っ張った。
「早くしろよ。門限に遅れたらどーすんだ」
「だって……」
「だってじゃねえよ。しっかりしろ!」
「はい……」
帰りたくないらしい。北極も楽しかったのかと思うと、優斗はそれ以上怒れなかった。
「近所にあるんだから、また遊びに行けばいいだろ」
「えっ! また連れてってくれるんですか!?」
優斗は苦笑した。自分をフッた相手と何度も遊びに行けるほど、心は強くなかった。
「オレじゃなくて、友達つくって自分で行け。おまえはもっと同学年と仲良くしろよ」
「…………」
「難しいなら、みんなで行けるようにセッティングしてやるから」
思い返せば、優斗も最初のうち山本にあちこち連れだされた記憶がある。寮長引率・一年生買い物ツアー。初めは幼稚園児の遠足じゃあるまいしと思っていたが、そのうち瀬野が『ポンちゃんって意外とノリいいのなっ』とか言って来て、なんとなくほかの寮生とも会話するようになった。寮友会の役員になったのもそんな経験があるからだ。ひとには内申点のためだと言っているが、与えてもらったものを誰かに返ししたい気持ちが確かにあった。
北極はとぼとぼと歩き始めたが、やがて「そうですよね」と呟いた。
「センパイはお仕事だから、オレにもこんな優しいんですもんね」
「あ……?」
「他の一年が困ってても、すぐカッコよく助けに行くし……」
「そんなの当たり前だろ。俺は先輩なんだから」
「…………」
「俺は俺の先輩からそうしてもらった。おまえもおまえの後輩にそうしろ。そうしないほうがおかしい」
二人は歩道橋にいた。背後にはコンビニがあり、正面には寮の西壁が見えた。横に立つ北極の顔は逆光でよく見えなかった。日が落ちる。道沿いの街灯が一斉に灯った。足元の二車線道路を車が忙しなく行き来する。北極の声はエンジン音に紛れてしまいそうなほどか細かった。
「オレだけのセンパイなら良かったのに」
優斗は聞き違いかと思った。そんなことを北極が言うのは明らかにおかしい。しかし聞き返すより先に目に飛び込んでくるものがあった。西門から寮の中を覗き込んでいる男女の二人組がいる。その出で立ちが見るからに怪しかった。
(なんだ? 観光客?)
ダークグレーのジャケットにパンツスーツ、しかもサングラス。
手に持ったアタッシュケースの角が、西日を反射して鈍い光を放っていた。
「えっ!?」
北極の大声に、その二人はパッと顔を上げた。外したサングラスごと手を振って「晶ちゃーん!」などと呼んでいる。北極は優斗と二人の顔を交互に見て「オレの兄ちゃんと姉ちゃんです」と説明した。
「仕事でこっちに来ることになったから、寄ってみたんだ」
「ギリギリまで黙ってることにしてた」
「そう、驚かそうと思って!」
「それでいざ電話してもアキちゃん全然出ないから」
「心配したよねー」
「いや私はぜんぜん心配してなかったよ! 日曜日だもん、友達と遊びに行くに決まってる」
北極の兄と姉は双子らしかった。北極によく似たシベリアンハスキー顔で、お互いにお互いの言葉を補い合うような喋り方をするので、優斗は聞いていてめまいを覚えた。こちらをちらちらと伺う目は、北極と同じく薄青かった。北極はなんとなく優斗を肩で庇うようにしながら「スマホ見てなかった。ごめん」と謝った。しかし二人は弟が隠そうとすればするほど優斗のことが気になるらしい。飛びつくのをガマンする犬みたいに、目がわくわくしている。
「ねえ、お友達? ですか?」
「違う。センパイだよ……」
「やっぱり!」
「電話で言ってた子だ!」
「こんにちは!」
「ねえ挨拶してもいい? いいですか?」
優斗は勢いに流されてうなずいてしまった。北極がしまったという顔になる。
「うわ」
優斗は初めて挨拶のハグというものを受けた。アイコンタクトをとって肩の上に腕を回す。片側の頬同士を軽く触れさせ、それを反対側でもやる。兄とも姉とも同じようにして離れる。ほんの数秒のハグだ。優斗はどっと疲れたが、二人は嬉しそうだった。
「いやー本当に会えてよかった!」
「ねえ、佐々木さんだっけ? 中に入ったら会えるかな」
「ぬいぐるみの件について、一言言ってやりたいんだ」
矢継ぎ早に話しかけられて優斗は立ちすくむ。北極は慌てて優斗から二人を引きはがした。
「それはいいよ、本当にやめたほうがいいよ!」
「そう?」
「そうだよ……来てくれたのは嬉しいけど……」
「でも、大丈夫?」
「大丈夫だよ!」
弟の力強い一言に、兄と姉は顔を見合わせた。言葉なしで意思疎通できるらしい。小さくうなずきあうと「じゃあ帰るよ」とあっさり言った。二人が代わる代わる広げる腕に、北極は自然体で身を任せた。優斗は瞬いた。
(本当に子供の頃からの習慣なんだな)
祖母はドイツ人だという。北極は日本語と簡単な英語しか喋れない男子高校生だが、容姿と習慣に血筋は残っている。北極家とはまったく無関係なはずの優斗もその余波を受けているのかと思うと、不思議だった。
靴を履き替えたとたん雨が降り出した。優斗は二人が濡れずに駅まで着けたか気にかかった。
「北極、おまえの兄さんたち、傘持ってたっけ」
「…………」
「北極?」
またフリーズしている。北極はぬいぐるみの入った袋を持ち上げたり下げたりしていたが、結局、下げた。
「オレはセンパイに謝らないといけないことがあります」
「……なに?」
「いやさっき実際にやったからセンパイももう気づいてると思うんですけど」
「だから、なんだよ。ハッキリしろ」
この時点で優斗は、またどうせ下らないことだろうと決めつけていた。前にも靴脱ぎ場であせらされた覚えがある。北極はその時も『言わないといけないことがある』と言っていたのだ。
北極は肩を怒らせて、肺に思い切り息を吸い込んだ。そこまでして出てきた言葉はとても小さかった。
「挨拶のハグは、ふつう十秒もしません」
優斗は、頭が真っ白になった。
「いや、もちろん、国によって違うし、うちも祖母ちゃんのやり方に従ってハグしているので、正しいやり方がどうとか、よくわかってはないんです、けど」
北極はつっかえながら靴箱に縋っていた。優斗はお調子者の瀬野がいつかのように乱入してくるんじゃないかと思った。『ポンちゃん、お帰り!』とか『明日の宿題みせて!?』とか『七夕の準備終わったよー!』とかなんとか。全部ただの願望だ。ただひたすら、誰かが強制的に北極が「あんなネッチョリしたハグするのはたぶん恋人同士くらいだと思う」などと抜かすのをやめさせてくれないかと思った。優斗は怒鳴った。
「なんでおまえはそれを早く言わないんだよ!?」
「……センパイが毎回十秒、きちんと数えてくれるから、言い出せなくて」
「…………!」
初めてハグした時、北極は寝落ちした。優斗はそれで完全に誤認していた。寝るまで抱きしめているものだと思っていた。そんなわけはない。優斗は先ほど北極の兄姉からハグを受けた。二人合わせて五秒もかからなかった。
「言わなきゃって思って、でも、センパイが可愛くて、ゆーとさんのこと十秒も独占できるのが幸せで……だけど、もし外国の人とハグすることあったら、大変なことになるかもしれないですよね。だから」
「おまえ、それ……わかってんなら言えよ早くっ」
「言う前に、センパイに彼女がいるってわかったから」
「は?? カノジョ!?」
パニックを起こす頭の中を、瀬野が非常口のポーズで駆け抜けて行った。
「おまっ……俺、あの時ちゃんと否定したよな!? 妹と付き合うとかありえねえって、ハッキリ言っただろ!」
「…………」
「意味わからん! なんで俺が違うって言ってるのに、瀬野なんかの言うこと真に受けるんだよ!」
「センパイは……」
ぽつんと靴脱ぎ場のスノコに雫が落ちる。うつむいた北極の青い目には、涙が浮かんでいた。
「センパイはカッコよくて、優しくて、しかもすごく可愛いから。そんなの、彼女いるに決まってるじゃないですかぁ……」
驚いたことに、北極は本気でそれを言っているらしかった。優斗は立ち尽くした。優斗に恋人がいると思い込んでいる。ということは、よそに恋人がいるだろう相手に、恋人みたいなハグを仕掛けていた。どんな神経をしていればそんな芸当ができるのか、まだ誰とも付き合ったことのない優斗には想像もつかない。
だが確かに優斗はそれをされていた。
身動きをとれないほど固く抱かれ、撫でさすられる。恥ずかしいくらいに北極の呼吸を感じた。震えながら受け入れていた。
寮友会役員などという建前からは遠く離れたところで。
「オレは、サイテーの、悪いヤツです……」
北極は標語を読み上げるように言った。
「センパイが女の子とつきあってるんだって思った途端、なんかタガが外れちゃって。じゃあもういいじゃんって。センパイの気づかないところでオレが勝手に好きでいるだけなら、誰にも、なんにも迷惑かからないし。とか言って結局、センパイにこうやって迷惑かけてる、ほんとに」
頭を振って「でももう、悪いことはおしまいです」と微笑った。役を終えた演者かのようにぺこりと優斗に頭を下げる。
「ごめんなさい。オレなんかにぬいぐるみ買ってくれて、ありがとうございます。……もう、ちゃんと一人で寝られますから、センパイはもう、オレみたいなヤツに関わらなくていいんです」