優斗の日常はにわかに様変わりした。それまで夜は早々と寝るほうだったのに、毎晩消灯間際まで起きている予定ができてしまったのだ。最初は談話室のテレビドラマ視聴勢に加わったり、遊戯室のビリヤードを見に行ったりして時間をつぶしていたが、それも消灯一時間前には追い出されてしまう。そのうち瀬野が「ポンちゃん、マジで悩んでるんか」などと言いはじめたので、大人しく部屋で自習をするようになった。
(ねむ……)
夜更かしも毎晩となると堪える。ついウトウトして、教科書の字が霞みだす。本当は仮眠をとって消灯前に起きられればいいのだが、うっかり寝過ごすのが怖かった。北極が飼い主を待つ犬みたいに自分を待っているとわかるからだ。
(……あいつ、俺が行かなかったら泣くのかな)
西階段で見た泣き顔が頭に浮かんだ。端正な顔が暗がりで青白く見えた。ほっそりとした輪郭を透明な雫が伝う。それが、雨を受けてうなだれる花みたいに綺麗だった。見ていて胸が痛むのに、びっくりして目を逸らせなかった。
「…………」
このままでは本気で寝てしまいそうだ、優斗は勉強机のわきに置いている古語辞典のカバーを手に取った。このカバー、実はカモフラージュで中には辞典ではなく上下巻の少女マンガが入っている。マンガの持ち込みは別に禁止されていないが、万が一にも人に見つかったら恥ずかしいのでこうして隠しているのだった。
いつ見ても綺麗な絵だ。驚いたことに掲載紙の対象年齢は小学生らしい。主人公も小学六年生の女児。グループ学習のために訪れた霧の立つ丘で、少年少女は美しくも儚い女性と出会う。なんと彼女は幽霊で、恋人の帰りをずっと待ち続けていたのだ。彼女を気の毒に思った小学生たちは手分けして彼女の恋人を探すことになる――。
人気作品で実写化もしているが、優斗は原作マンガのほうがずっと好きだ。寮へ入るにあたりマンガはすべて実家へ置いてきたのだが、この作品だけは手放せなかった。男子寮に少女マンガを持ち込むなんて、我ながら恥ずかしいと思うのだが。
(北極も、どっちかっていうとこういう絵柄だよな)
色白で線が細く、瞳が大粒の宝石みたいに輝いている。実物は目力が強すぎ、笑顔も少ないので近寄りがたい印象になっているが、結局のところ顔が良くてカッコいいのだった。優斗は(ケッ)と毒づいた。自分みたいなタイプは絶対にこの手のマンガで活躍しないとも思った。
(そりゃそうだ。俺だって小6女子だったら北極とつきあいたい)
ふとそう思ったあと、仮定の気持ち悪さにめまいがした。優斗は小学6年生でも女子でもなんでもない。そもそも自分向けじゃないマンガにのめりこんでいるのがおかしい。
ぶんぶん頭を振って正気に戻った優斗は、時計を見て「うわ」と声を上げた。いつの間にか良い時間になっていた。
優斗の部屋は二階、北極の部屋は三階のはじにある。人気のない廊下を足音を忍ばせて歩き、名前表示を確かめる。
ノックすると隣室に音が響いてしまうので、いつもドアの表面を爪で引っ掻くようにして来訪を知らせることにしていた。次の瞬間にはもうドアが開く。
「センパイ」
「ん……」
優斗はむず痒かった。北極は毎晩ドアのすぐそばに待機しているらしい。寮内では誰も見たことがないだろう笑顔を優斗にだけ向けて、手を握り、部屋の中へと招き入れる。音を立てないように用心しているはずなのに、ドアの閉まるカチャッという音が、やけに耳に残った。優斗は自分がこんなに悪いやつだなんて知らなかった。寮則を破っているくせに、なぜか浮き足立ってしまっている。
北極の声は優しかった。
「今日はもう来られないのかと思った……」
「うるせえな。俺だっていろいろ忙しいんだよ」
「あ……。面倒かけて、すみません……」
「は!? 別に謝れなんて言ってないだろ……!」
やりづらいことこの上なかった。ちょっと言い返しただけで北極はすぐ落ち込んでしまうのだ。
「いいから。したいなら、早くすれば……」
自分から腕を広げるのは少し恥ずかしいが、そうすると北極は懐っこい犬みたいにすぐ来る。広い胸に視界を覆われ、優斗は目を細めた。優しく全身をすっぽりと包まれる感覚は意外と悪くなかった。忘れかけていた眠気が戻ってくる。北極の胸元はいつも干し草のような匂いがして落ち着くのだった。
逆に北極のほうは落ち着かないらしい。抱きついてしばらくはモゾモゾしている。優斗が「早くしないとカウント始めるぞ」と脅してようやく身じろぎをやめる。
「ん、」
腰に手を置かれ、優斗は息を詰めた。不可抗力だと思って気にしないことにしている。実際、身長差のせいで手のやり場に困るのだろう。優斗のほうはなんとなく北極の肩甲骨の下あたりを両手で触っているが、それも恥ずかしいことには変わりない。
「じゅう、きゅ、はち、なな」
なるべく早く済ませるため、ハグは10秒だけと決めていた。それも緊張でつい早口になる。鼻にかかったような囁きになってしまうのが我ながら恥ずかしい。
「ろく、ご、よん……」
いつも5秒前くらいで北極の腕の力が強くなる。
一秒でも長く自分を捕まえておこうとする必死さを感じて、優斗の息は細くかすれた。
「さん、に、いち、」
酸欠で頭がぼうっとする。優斗は気が変になりかける。自分の表面的な立場、つまり寮友会役員だとか高校2年生だとかそういう情報が、頭の中からバラバラと剥がれ落ちて、ただただ北極とハグするために生きているみたいな気がした。
「ぜろ……」
無論、一瞬のことだ。北極の腕が離れ、締め付けられていた体に血が巡るに従い、優斗は自分の立場を思い出す。しかしそれまでに若干のタイムラグがあった。くったりと北極の胸に頬を預け、浅い呼吸を繰り返す。
北極はそっと言った。
「……すみません。俺の力、強いですよね」
「別に……」
「本当? でも、どっか痛くしてるんじゃ」
「しつこいなっ。どこも痛くねえよ」
「だって震えてる」
北極の手が優斗の頬に触れていた。
どくん、と耳の奥が脈打つ。北極の言っていることはどうやら本当らしかった。息がいつまでも整わないはずだ。唇が小刻みに震えていた。胸も、膝も。まるで北極に縋らないと立っていられないみたいに。
「…………!」
自分の体が自分の思い通りにならない。小動物のように震え続ける優斗の顔を、北極は申し訳なさそうに覗き込んだ。
「……やっぱり、嫌ですよね」
「え……」
「こんな変な習慣に付き合わせちゃって、ホントすみません」
見上げる北極の瞳は青くて綺麗だった。優斗はまるで少女マンガみたいだと思った。今のこの状況自体がそうだった。優斗は毎晩この男の部屋にせっせと通い詰め、なんと抱き合っている。ここから心ときめく物語の一つや二つ始まりそうだ。
あくまで優斗が、見目麗しくて性格の良いオンナノコだったらの話なのだが。
優斗は一瞬黙った後「それがわかってんなら、さっさと普通に寝られるようになってくれ」と鋭く言い放った。思ったことを口に出しただけだが、そう言ったとたん心がどんどん冷えていくのがわかった。のんびりつかっていた湯舟から急にお湯がなくなってしまったみたいに。
ぐうの音も出ない様子の北極に、優斗はぷいっと背を向けた。押し開けたドアをくぐってすぐ、閉まるドアを北極に向かって雑に押しやる。
自室へ向かって足早に歩くうちにどんどんムカついてきた。まとまりのない怒りが頭の中でポコポコと泡を立てて沸騰している。何を後輩相手に。別に震えたくて震えたんじゃない。あんなふうに謝るくらいなら初めから頼んでこなければよかったのに。こんなことのために夜更かしするなんて、我ながらバカすぎる。
(あいつが俺がいいって言ったんだ。俺がいいって言ったくせに、なんだよ、急に日和りやがって……!)
怒っているのに視界が勝手に潤んでくる。震えもひどくなるいっぽうだ。心の中の天秤みたいなところに大きな怒りと悲しみの塊が載っていて、互い違いにぐらぐらと揺れていた。優斗は複雑な感情を自分でも上手く処理しきれなかった。怒っているのと同じくらい悲しい。いや、もしかするとその二つの感情は相反しているようでいて、まったく同じものなのかもしれなかった。
部屋に戻ると机の上にあのマンガが出しっぱなしになっている。もう何も考えたくなかった。マンガを元通りにカバーの中へしまい、ベッドに横になる。自分で思った以上に気疲れしていたのだろう。その晩は泥のように眠った。
明け方、雨が窓を叩く音で目を覚ました。(なんだよ)と思って再び目を閉じる。誰かがドアをノックしているのかと思ったのだ。誰が。たとえば北極が、昨夜の物言いを反省して、朝早くから謝りに来たんじゃないかと期待した。
『センパイ、生意気なこと言ってごめんなさい』
大きな体をしょんぼりと縮めて謝る北極を、優斗はがみがみ怒った。そうだぞ。俺はおまえが来て欲しいって言うから仕方なくつきあってあげてるのに余計なこと抜かしやがって、もう二度とハグしに行かない。これからは自分のことは自分でなんとかするんだな。
『ええっそんなの困る。センパイ、お願いですからハグさせてください』
夢の中の北極は現実よりもかなり可愛げがあった。しかも本物の北極以上に優斗のことを好きらしい。本当だ。なにしろ本人が『実はオレはセンパイのことがダイスキなのです!』と言い切った。
(うおっ、すげー!)と、夢の中の優斗は思った。なんだか無性に嬉しかった。同性の後輩から告白されている点についてはなんの疑問も持たない。(なんだ、よかった)と思った。(やったー!)とも思った。大きな花束でももらったような気分だった。
『ああセンパイ、愛していますっ』
身も世もなくしがみついてくる北極を、優斗はわあと言って受け止めた。あまり経験がないので知らなかったが、ひとから本気で好かれるというのは、得も言われぬほど気分の良いものだった。ことに自分よりも背が高くて綺麗な顔の後輩から慕われるのは最高だった。今ならなんでもできる気がする。北極はギュッと抱きついて甘えてきた。
『センパイ……』
なんだよ甘ったれ、と優斗は偉そうに返した。
表向き怒ってみせているが、内心ではもう北極が喜ぶならなんでもしてやる気でいた。
『オレ、センパイがほしいよ』
急に腕の力が強くなった。逃げようとしたが上も下もない謎の空間で背中から覆いかぶさられ、優斗はワーワー言った。後ろから抱きしめられているのに、自分が何をどうされているのかハッキリと客観的にわかる。北極は優斗の胸に腕を回し、左のこめかみから耳たぶにかけて唇を落とした。背筋がゾクッと粟立ち、下半身がギュンと反応する。これは恥ずかしい。やだ、やだ、とかぶりを振って抵抗するのだが、北極は言うことを聞かなかった。それどころか『うそつき』などと人聞きの悪いことを言う。
『本気で嫌がってないですよね、センパイ……』
優斗はぎくっとした。自分でも気づいていた。口から洩れる声が嫌がっているというより猫の鳴き真似みたいでなんか変だった。それに、恥ずかしいのは確かなのだが若干気持ちよさみたいなものも同時に感じている。やだとは言いつつ、やめられたら逆にふざけんなとキレてしまいそうだ。そういう不安定なわだかまりが体の中心にもやもやと溜まり、内圧が高まる。北極の手がどんどん胸から上へ上がってくる。
『だって、ふるえてる』
大きな手を、頬にひたりと当てられた瞬間、爆発した。
目覚まし時計の音で二度寝から目覚めた優斗は、衝撃のあまり動けなかった。
(は!?)
優斗は夢精していた。
夜に少女マンガを読んだせい。夢の内容はそれで説明がつくとしても、現実に起こってしまったことはもうどうしようもない。優斗は呻きつつ、下着の汚れ具合を手で確かめた。幸いシーツにまでは染みていないが、動き方次第で面倒なことになりそうだ。ひとまず最悪の状況を脱するため、優斗は上を向いたままじりじりとティッシュへ手を伸ばした。
その日、雨は一日中降り続いた。五月も最終週に入り梅雨が近づいているらしい。空に渦巻く灰色の雲はカタツムリのカラを横倒しにしたような奇妙な色をしていた。全体に黄みがかっているのにところどころ紫っぽく、フッと雲の隙間に陽が射す時には全体が眩しいくらいに白くなる。
校舎の周りを囲む木々が雨に濡れて枝葉の色を濃くしている。風が起きるたびに一斉に頭を振り、窓に雫を浴びせた。鬱陶しい雨だ。帰りには止むんじゃないかと淡い期待をしていたが、降り続いている。優斗は傘を差すのも億劫で寮まで五分の道のりを濡れて歩いた。
もう少しで屋根の下にたどりつくというところで、後ろから傘をさしかけられた。
「センパイ、濡れますよ」
「…………」
北極だった。
無言で行こうとすると「待って」と追いかけてくる。優斗はまともに北極を見られなかった。
北極は自分よりも優斗を傘の内に入れようとするので、寮の正面口へ着くころには傘と同じくらい濡れていた。靴脱ぎ場でも、聞いてもないのに「北海道ってちゃんとした梅雨がないんですよ」などとよくわからない世間話を繰り出してくる。
(なんだ、こいつは)
そう思って北極を見た優斗は、ハッとした。
濡れてひとまわり小さくなった北極は、主人の機嫌をうかがう犬みたいにいたいけな目をしていた。
「ごめん」
思わず謝ると、北極は驚いた顔をした。
「えっ、なんでセンパイが謝るんですか」
「…………」
「違う。謝るのはオレのほうですよ……ずっとセンパイに甘えっぱなしで……」
優斗はなんと言ったらいいのかわからなかった。いつもは考えるより先に言葉がぽんぽん飛び出してくるのに、こういう時に限って舌が固まったように動かない。
北極の瞳は優しい光を放っていた。
「こっちほうこそ昨日はすみませんでした」
「…………」
「……オレが卑怯な言い方したから、嫌だったんでしょう」
虚を突かれた優斗に、北極は「オレ、センパイに大丈夫って言わせようとした」と小さな声で言った。
「本当は無理強いしてるってわかってるのに、センパイに許してもらおうとしたんです」
優斗は瞬いた。雨の音がやけに大きく聞こえ、靴脱ぎ場の埃っぽい匂いを濃く感じる。
北極は「なんか……なんでしょうね」と頭を掻いた。
「いつも堂々としててかっこいいセンパイが、オレなんかのとこに毎晩来てくれるってなったから、つい調子に乗っちゃって。センパイ、いつもすごい恥ずかしそうにオレの腕の中で震えてるじゃないですか。ダメだダメだって思うんですけど、それ見てると胸がぎゅーってなって。……センパイがかわいく見えて仕方なくて。だから、本気で嫌がられてるってわかってても手放したくなかったんです、」
緊張しているのか北極の声はひどく乾いていた。そのうえ語順が乱れていて、ぽそぽそと聞き取りづらい。しかし優斗は雨音の中で彼の言葉を一言一句正確に聞き取っていた。頬が熱くなる。集中しすぎて瞬きも忘れていた。
(かわいい、って……)
怒るべきだ。しかし頭に湧いたあらんかぎりの罵詈雑言は、ことごとく口の中で溶けてしまう。やけに、甘い。
「…………」
赤面する優斗に、北極は心苦しそうに「今日、高校で聞いてみたんですけど」と言った。
北極のぬいぐるみはまだ見つからないらしい。件のボランティアサークルは今、電波が届かない山奥にいるそうだ。廃校予定の小学校に泊まり込みでイベントの手伝いをしているという。学校側は関係者に連絡をとろうと試みているが、情報の遅延状況からみてサークルがまず人里に戻ってこないことにはどうにもならない、と。
「なので……センパイ、迷惑かけてほんとすみません。オレもう変なこと言わない。考えもしないように気をつける。だからもうちょっとだけ、ガマンして付き合ってくれませんか?」
「わ……」
北極は優斗に向かってグッと身を寄せてきた。靴箱に追いつめられたうえなぜか手まで握られている。近づいてわかる睫毛の長さと量に優斗は息を飲んだ。髪と同じ、白に近い灰色が薄青い瞳を縁取っている。泣きそうに潤んだ瞳は天使みたいに綺麗だった。
優斗は慌てて下を向いた。
「いやっ、別にいいけどっ? こっちは、だって、最初からそのつもりだったし」
「でも、オレのこともう、嫌になったんじゃ……」
「~~~っ、だから、俺はおまえをイヤだと思ったことは一度もねえよ! なに一人で余計な心配してんだバカッ」
そう怒鳴りつけたとたん、北極は急に泣きそうな顔になった。あろうことか抱きついてくる。
今ハグすることを許可した覚えはない。
「おい、こら……!」
怒ろうとしたのだが、北極から「ごめんなさい、センパイ」と言われると逆らえない。
気の弱い後輩が何かを必死に言おうとしているのがわかった。
「オレ、センパイにずっと言わないで、黙ってたんですけど……」
優斗は縮みあがった。(まさか今朝見た夢が現実になるのか)と思い(いや、そんなバカなことあるわけない)と自分で否定する。しかしそうでないとしたら、なぜこんなに北極の体が熱くなっているのだろう。触れあう肌から伝わってくる脈の打ち方は激しかった。つられて胸を高鳴らす優斗に北極は囁きかけた。
「あの、実は……っ」
「ポンちゃーん、カノジョから手紙だよーん!」
北極の小さな声は、ポストのほうから歩いて来た瀬野に搔き消された。靴脱ぎ場で鉢合わせた三人の反応は三者三葉だった。優斗はパニックのあまり叫び、瀬野は手に持っていた郵便物を取り落とし、北極は床に落ちた封筒に目をやる。差出人の名前は信楽 美夜。妹から、二通目の手紙だった。
「フギャー!!」
優斗は目にもとまらぬ速さで封筒を回収し、瀬野の襟首を揺さぶった。
「な、な、なにがカノジョだっ。ただの妹だって前にも言っただろうが!」
「ふぇ」
優斗の機敏すぎる動きは、瀬野の視界にサブリミナル的効果をもたらしたらしい。ほんの一瞬目に映った光景――北極に迫られた格好の優斗――に目をパチクリさせている。優斗は瀬野を力強く揺さぶって今見たものを忘れさせようとした。
「だいたいなんでおまえが俺宛ての手紙持ってんだよっ」
「いや……うちのポストに紛れ込んでたのよ。お隣さんだから」
ポストは出席番号順に設置されている。瀬野はふと面白がるような目つきになって「そんなに否定するほうがアヤシイな」などと言った。瀬野は美夜の手紙を見たことがあった。前に同じようなことがあった時、宛名をよく見ずに封を開けてしまったからだ。
「写真も見たけど、妹チャンって美少女だしさ。血はつながってないんだろー?」
「なっ何言ってやがるっ」
「可愛い義妹と一つ屋根の下で暮らしてさ、何も起こらないわけなくないか? 俺が紹介してって頼んでも拒否るしさ」
「うおおお瀬野っテメー!!」
後ろで北極が聞いていると思うと、優斗は気が気ではなかった。
「違うから! あいつとはそういうんじゃないからっ、マジでありえないからっ!」
大きな声で全力で否定するのだが、瀬野はかえって「ふうーん」と笑みを深くする。
「まっ、別にいいけど。なんだよー、元気になったみたいでよかったじゃーん」
口でわからないなら腕力に物を言わせるほかない。真っ赤になって拳骨を振り上げる優斗から、瀬野はげらげら笑って逃げた。
「…………」
静かになった靴脱ぎ場で、優斗はおずおずと北極を振り返った。北極はその場に立ち尽くしている。青い瞳の揺れ方に、優斗はどきんとした。まっすぐ見られると怖くなって、思わず顔を伏せてしまう。
「えっと……なんだっけ。さっき、なんか言いかけてただろ」
下を向いたままそう言って、優斗は自分で自分を(俺のほうが北極よりずっと卑怯だ)と思った。夢の中みたいに北極が自分を好きだと言ってくれるんじゃないかと期待している。それも自分の気持ちはまったく明らかにしないままで。
北極はしばらく口ごもったあと「いえ、なんでもなかったです」と言った。落ち着きなく前髪をいじる手に汗が光っていた。北極は気が弱い。急に大きな声を出されて怖かったのだろう。
「ごめん。うるさくしたな」
「いえ、全然……あの、俺のほうこそすみません。なんか一人で勝手にカン違いしてたみたいで……」
「……なんだよ。昨日のことまだ気にしてんのか?」
優斗は軽く笑い、憂鬱そうな北極の胸を手の甲ではたいた。
「じゃ、また夜にな」
「!」
北極が目を見開く。一瞬、断られるのかと思うような間が空いたが、彼はうなずいた。「待ってます」と言った。
(ねむ……)
夜更かしも毎晩となると堪える。ついウトウトして、教科書の字が霞みだす。本当は仮眠をとって消灯前に起きられればいいのだが、うっかり寝過ごすのが怖かった。北極が飼い主を待つ犬みたいに自分を待っているとわかるからだ。
(……あいつ、俺が行かなかったら泣くのかな)
西階段で見た泣き顔が頭に浮かんだ。端正な顔が暗がりで青白く見えた。ほっそりとした輪郭を透明な雫が伝う。それが、雨を受けてうなだれる花みたいに綺麗だった。見ていて胸が痛むのに、びっくりして目を逸らせなかった。
「…………」
このままでは本気で寝てしまいそうだ、優斗は勉強机のわきに置いている古語辞典のカバーを手に取った。このカバー、実はカモフラージュで中には辞典ではなく上下巻の少女マンガが入っている。マンガの持ち込みは別に禁止されていないが、万が一にも人に見つかったら恥ずかしいのでこうして隠しているのだった。
いつ見ても綺麗な絵だ。驚いたことに掲載紙の対象年齢は小学生らしい。主人公も小学六年生の女児。グループ学習のために訪れた霧の立つ丘で、少年少女は美しくも儚い女性と出会う。なんと彼女は幽霊で、恋人の帰りをずっと待ち続けていたのだ。彼女を気の毒に思った小学生たちは手分けして彼女の恋人を探すことになる――。
人気作品で実写化もしているが、優斗は原作マンガのほうがずっと好きだ。寮へ入るにあたりマンガはすべて実家へ置いてきたのだが、この作品だけは手放せなかった。男子寮に少女マンガを持ち込むなんて、我ながら恥ずかしいと思うのだが。
(北極も、どっちかっていうとこういう絵柄だよな)
色白で線が細く、瞳が大粒の宝石みたいに輝いている。実物は目力が強すぎ、笑顔も少ないので近寄りがたい印象になっているが、結局のところ顔が良くてカッコいいのだった。優斗は(ケッ)と毒づいた。自分みたいなタイプは絶対にこの手のマンガで活躍しないとも思った。
(そりゃそうだ。俺だって小6女子だったら北極とつきあいたい)
ふとそう思ったあと、仮定の気持ち悪さにめまいがした。優斗は小学6年生でも女子でもなんでもない。そもそも自分向けじゃないマンガにのめりこんでいるのがおかしい。
ぶんぶん頭を振って正気に戻った優斗は、時計を見て「うわ」と声を上げた。いつの間にか良い時間になっていた。
優斗の部屋は二階、北極の部屋は三階のはじにある。人気のない廊下を足音を忍ばせて歩き、名前表示を確かめる。
ノックすると隣室に音が響いてしまうので、いつもドアの表面を爪で引っ掻くようにして来訪を知らせることにしていた。次の瞬間にはもうドアが開く。
「センパイ」
「ん……」
優斗はむず痒かった。北極は毎晩ドアのすぐそばに待機しているらしい。寮内では誰も見たことがないだろう笑顔を優斗にだけ向けて、手を握り、部屋の中へと招き入れる。音を立てないように用心しているはずなのに、ドアの閉まるカチャッという音が、やけに耳に残った。優斗は自分がこんなに悪いやつだなんて知らなかった。寮則を破っているくせに、なぜか浮き足立ってしまっている。
北極の声は優しかった。
「今日はもう来られないのかと思った……」
「うるせえな。俺だっていろいろ忙しいんだよ」
「あ……。面倒かけて、すみません……」
「は!? 別に謝れなんて言ってないだろ……!」
やりづらいことこの上なかった。ちょっと言い返しただけで北極はすぐ落ち込んでしまうのだ。
「いいから。したいなら、早くすれば……」
自分から腕を広げるのは少し恥ずかしいが、そうすると北極は懐っこい犬みたいにすぐ来る。広い胸に視界を覆われ、優斗は目を細めた。優しく全身をすっぽりと包まれる感覚は意外と悪くなかった。忘れかけていた眠気が戻ってくる。北極の胸元はいつも干し草のような匂いがして落ち着くのだった。
逆に北極のほうは落ち着かないらしい。抱きついてしばらくはモゾモゾしている。優斗が「早くしないとカウント始めるぞ」と脅してようやく身じろぎをやめる。
「ん、」
腰に手を置かれ、優斗は息を詰めた。不可抗力だと思って気にしないことにしている。実際、身長差のせいで手のやり場に困るのだろう。優斗のほうはなんとなく北極の肩甲骨の下あたりを両手で触っているが、それも恥ずかしいことには変わりない。
「じゅう、きゅ、はち、なな」
なるべく早く済ませるため、ハグは10秒だけと決めていた。それも緊張でつい早口になる。鼻にかかったような囁きになってしまうのが我ながら恥ずかしい。
「ろく、ご、よん……」
いつも5秒前くらいで北極の腕の力が強くなる。
一秒でも長く自分を捕まえておこうとする必死さを感じて、優斗の息は細くかすれた。
「さん、に、いち、」
酸欠で頭がぼうっとする。優斗は気が変になりかける。自分の表面的な立場、つまり寮友会役員だとか高校2年生だとかそういう情報が、頭の中からバラバラと剥がれ落ちて、ただただ北極とハグするために生きているみたいな気がした。
「ぜろ……」
無論、一瞬のことだ。北極の腕が離れ、締め付けられていた体に血が巡るに従い、優斗は自分の立場を思い出す。しかしそれまでに若干のタイムラグがあった。くったりと北極の胸に頬を預け、浅い呼吸を繰り返す。
北極はそっと言った。
「……すみません。俺の力、強いですよね」
「別に……」
「本当? でも、どっか痛くしてるんじゃ」
「しつこいなっ。どこも痛くねえよ」
「だって震えてる」
北極の手が優斗の頬に触れていた。
どくん、と耳の奥が脈打つ。北極の言っていることはどうやら本当らしかった。息がいつまでも整わないはずだ。唇が小刻みに震えていた。胸も、膝も。まるで北極に縋らないと立っていられないみたいに。
「…………!」
自分の体が自分の思い通りにならない。小動物のように震え続ける優斗の顔を、北極は申し訳なさそうに覗き込んだ。
「……やっぱり、嫌ですよね」
「え……」
「こんな変な習慣に付き合わせちゃって、ホントすみません」
見上げる北極の瞳は青くて綺麗だった。優斗はまるで少女マンガみたいだと思った。今のこの状況自体がそうだった。優斗は毎晩この男の部屋にせっせと通い詰め、なんと抱き合っている。ここから心ときめく物語の一つや二つ始まりそうだ。
あくまで優斗が、見目麗しくて性格の良いオンナノコだったらの話なのだが。
優斗は一瞬黙った後「それがわかってんなら、さっさと普通に寝られるようになってくれ」と鋭く言い放った。思ったことを口に出しただけだが、そう言ったとたん心がどんどん冷えていくのがわかった。のんびりつかっていた湯舟から急にお湯がなくなってしまったみたいに。
ぐうの音も出ない様子の北極に、優斗はぷいっと背を向けた。押し開けたドアをくぐってすぐ、閉まるドアを北極に向かって雑に押しやる。
自室へ向かって足早に歩くうちにどんどんムカついてきた。まとまりのない怒りが頭の中でポコポコと泡を立てて沸騰している。何を後輩相手に。別に震えたくて震えたんじゃない。あんなふうに謝るくらいなら初めから頼んでこなければよかったのに。こんなことのために夜更かしするなんて、我ながらバカすぎる。
(あいつが俺がいいって言ったんだ。俺がいいって言ったくせに、なんだよ、急に日和りやがって……!)
怒っているのに視界が勝手に潤んでくる。震えもひどくなるいっぽうだ。心の中の天秤みたいなところに大きな怒りと悲しみの塊が載っていて、互い違いにぐらぐらと揺れていた。優斗は複雑な感情を自分でも上手く処理しきれなかった。怒っているのと同じくらい悲しい。いや、もしかするとその二つの感情は相反しているようでいて、まったく同じものなのかもしれなかった。
部屋に戻ると机の上にあのマンガが出しっぱなしになっている。もう何も考えたくなかった。マンガを元通りにカバーの中へしまい、ベッドに横になる。自分で思った以上に気疲れしていたのだろう。その晩は泥のように眠った。
明け方、雨が窓を叩く音で目を覚ました。(なんだよ)と思って再び目を閉じる。誰かがドアをノックしているのかと思ったのだ。誰が。たとえば北極が、昨夜の物言いを反省して、朝早くから謝りに来たんじゃないかと期待した。
『センパイ、生意気なこと言ってごめんなさい』
大きな体をしょんぼりと縮めて謝る北極を、優斗はがみがみ怒った。そうだぞ。俺はおまえが来て欲しいって言うから仕方なくつきあってあげてるのに余計なこと抜かしやがって、もう二度とハグしに行かない。これからは自分のことは自分でなんとかするんだな。
『ええっそんなの困る。センパイ、お願いですからハグさせてください』
夢の中の北極は現実よりもかなり可愛げがあった。しかも本物の北極以上に優斗のことを好きらしい。本当だ。なにしろ本人が『実はオレはセンパイのことがダイスキなのです!』と言い切った。
(うおっ、すげー!)と、夢の中の優斗は思った。なんだか無性に嬉しかった。同性の後輩から告白されている点についてはなんの疑問も持たない。(なんだ、よかった)と思った。(やったー!)とも思った。大きな花束でももらったような気分だった。
『ああセンパイ、愛していますっ』
身も世もなくしがみついてくる北極を、優斗はわあと言って受け止めた。あまり経験がないので知らなかったが、ひとから本気で好かれるというのは、得も言われぬほど気分の良いものだった。ことに自分よりも背が高くて綺麗な顔の後輩から慕われるのは最高だった。今ならなんでもできる気がする。北極はギュッと抱きついて甘えてきた。
『センパイ……』
なんだよ甘ったれ、と優斗は偉そうに返した。
表向き怒ってみせているが、内心ではもう北極が喜ぶならなんでもしてやる気でいた。
『オレ、センパイがほしいよ』
急に腕の力が強くなった。逃げようとしたが上も下もない謎の空間で背中から覆いかぶさられ、優斗はワーワー言った。後ろから抱きしめられているのに、自分が何をどうされているのかハッキリと客観的にわかる。北極は優斗の胸に腕を回し、左のこめかみから耳たぶにかけて唇を落とした。背筋がゾクッと粟立ち、下半身がギュンと反応する。これは恥ずかしい。やだ、やだ、とかぶりを振って抵抗するのだが、北極は言うことを聞かなかった。それどころか『うそつき』などと人聞きの悪いことを言う。
『本気で嫌がってないですよね、センパイ……』
優斗はぎくっとした。自分でも気づいていた。口から洩れる声が嫌がっているというより猫の鳴き真似みたいでなんか変だった。それに、恥ずかしいのは確かなのだが若干気持ちよさみたいなものも同時に感じている。やだとは言いつつ、やめられたら逆にふざけんなとキレてしまいそうだ。そういう不安定なわだかまりが体の中心にもやもやと溜まり、内圧が高まる。北極の手がどんどん胸から上へ上がってくる。
『だって、ふるえてる』
大きな手を、頬にひたりと当てられた瞬間、爆発した。
目覚まし時計の音で二度寝から目覚めた優斗は、衝撃のあまり動けなかった。
(は!?)
優斗は夢精していた。
夜に少女マンガを読んだせい。夢の内容はそれで説明がつくとしても、現実に起こってしまったことはもうどうしようもない。優斗は呻きつつ、下着の汚れ具合を手で確かめた。幸いシーツにまでは染みていないが、動き方次第で面倒なことになりそうだ。ひとまず最悪の状況を脱するため、優斗は上を向いたままじりじりとティッシュへ手を伸ばした。
その日、雨は一日中降り続いた。五月も最終週に入り梅雨が近づいているらしい。空に渦巻く灰色の雲はカタツムリのカラを横倒しにしたような奇妙な色をしていた。全体に黄みがかっているのにところどころ紫っぽく、フッと雲の隙間に陽が射す時には全体が眩しいくらいに白くなる。
校舎の周りを囲む木々が雨に濡れて枝葉の色を濃くしている。風が起きるたびに一斉に頭を振り、窓に雫を浴びせた。鬱陶しい雨だ。帰りには止むんじゃないかと淡い期待をしていたが、降り続いている。優斗は傘を差すのも億劫で寮まで五分の道のりを濡れて歩いた。
もう少しで屋根の下にたどりつくというところで、後ろから傘をさしかけられた。
「センパイ、濡れますよ」
「…………」
北極だった。
無言で行こうとすると「待って」と追いかけてくる。優斗はまともに北極を見られなかった。
北極は自分よりも優斗を傘の内に入れようとするので、寮の正面口へ着くころには傘と同じくらい濡れていた。靴脱ぎ場でも、聞いてもないのに「北海道ってちゃんとした梅雨がないんですよ」などとよくわからない世間話を繰り出してくる。
(なんだ、こいつは)
そう思って北極を見た優斗は、ハッとした。
濡れてひとまわり小さくなった北極は、主人の機嫌をうかがう犬みたいにいたいけな目をしていた。
「ごめん」
思わず謝ると、北極は驚いた顔をした。
「えっ、なんでセンパイが謝るんですか」
「…………」
「違う。謝るのはオレのほうですよ……ずっとセンパイに甘えっぱなしで……」
優斗はなんと言ったらいいのかわからなかった。いつもは考えるより先に言葉がぽんぽん飛び出してくるのに、こういう時に限って舌が固まったように動かない。
北極の瞳は優しい光を放っていた。
「こっちほうこそ昨日はすみませんでした」
「…………」
「……オレが卑怯な言い方したから、嫌だったんでしょう」
虚を突かれた優斗に、北極は「オレ、センパイに大丈夫って言わせようとした」と小さな声で言った。
「本当は無理強いしてるってわかってるのに、センパイに許してもらおうとしたんです」
優斗は瞬いた。雨の音がやけに大きく聞こえ、靴脱ぎ場の埃っぽい匂いを濃く感じる。
北極は「なんか……なんでしょうね」と頭を掻いた。
「いつも堂々としててかっこいいセンパイが、オレなんかのとこに毎晩来てくれるってなったから、つい調子に乗っちゃって。センパイ、いつもすごい恥ずかしそうにオレの腕の中で震えてるじゃないですか。ダメだダメだって思うんですけど、それ見てると胸がぎゅーってなって。……センパイがかわいく見えて仕方なくて。だから、本気で嫌がられてるってわかってても手放したくなかったんです、」
緊張しているのか北極の声はひどく乾いていた。そのうえ語順が乱れていて、ぽそぽそと聞き取りづらい。しかし優斗は雨音の中で彼の言葉を一言一句正確に聞き取っていた。頬が熱くなる。集中しすぎて瞬きも忘れていた。
(かわいい、って……)
怒るべきだ。しかし頭に湧いたあらんかぎりの罵詈雑言は、ことごとく口の中で溶けてしまう。やけに、甘い。
「…………」
赤面する優斗に、北極は心苦しそうに「今日、高校で聞いてみたんですけど」と言った。
北極のぬいぐるみはまだ見つからないらしい。件のボランティアサークルは今、電波が届かない山奥にいるそうだ。廃校予定の小学校に泊まり込みでイベントの手伝いをしているという。学校側は関係者に連絡をとろうと試みているが、情報の遅延状況からみてサークルがまず人里に戻ってこないことにはどうにもならない、と。
「なので……センパイ、迷惑かけてほんとすみません。オレもう変なこと言わない。考えもしないように気をつける。だからもうちょっとだけ、ガマンして付き合ってくれませんか?」
「わ……」
北極は優斗に向かってグッと身を寄せてきた。靴箱に追いつめられたうえなぜか手まで握られている。近づいてわかる睫毛の長さと量に優斗は息を飲んだ。髪と同じ、白に近い灰色が薄青い瞳を縁取っている。泣きそうに潤んだ瞳は天使みたいに綺麗だった。
優斗は慌てて下を向いた。
「いやっ、別にいいけどっ? こっちは、だって、最初からそのつもりだったし」
「でも、オレのこともう、嫌になったんじゃ……」
「~~~っ、だから、俺はおまえをイヤだと思ったことは一度もねえよ! なに一人で余計な心配してんだバカッ」
そう怒鳴りつけたとたん、北極は急に泣きそうな顔になった。あろうことか抱きついてくる。
今ハグすることを許可した覚えはない。
「おい、こら……!」
怒ろうとしたのだが、北極から「ごめんなさい、センパイ」と言われると逆らえない。
気の弱い後輩が何かを必死に言おうとしているのがわかった。
「オレ、センパイにずっと言わないで、黙ってたんですけど……」
優斗は縮みあがった。(まさか今朝見た夢が現実になるのか)と思い(いや、そんなバカなことあるわけない)と自分で否定する。しかしそうでないとしたら、なぜこんなに北極の体が熱くなっているのだろう。触れあう肌から伝わってくる脈の打ち方は激しかった。つられて胸を高鳴らす優斗に北極は囁きかけた。
「あの、実は……っ」
「ポンちゃーん、カノジョから手紙だよーん!」
北極の小さな声は、ポストのほうから歩いて来た瀬野に搔き消された。靴脱ぎ場で鉢合わせた三人の反応は三者三葉だった。優斗はパニックのあまり叫び、瀬野は手に持っていた郵便物を取り落とし、北極は床に落ちた封筒に目をやる。差出人の名前は信楽 美夜。妹から、二通目の手紙だった。
「フギャー!!」
優斗は目にもとまらぬ速さで封筒を回収し、瀬野の襟首を揺さぶった。
「な、な、なにがカノジョだっ。ただの妹だって前にも言っただろうが!」
「ふぇ」
優斗の機敏すぎる動きは、瀬野の視界にサブリミナル的効果をもたらしたらしい。ほんの一瞬目に映った光景――北極に迫られた格好の優斗――に目をパチクリさせている。優斗は瀬野を力強く揺さぶって今見たものを忘れさせようとした。
「だいたいなんでおまえが俺宛ての手紙持ってんだよっ」
「いや……うちのポストに紛れ込んでたのよ。お隣さんだから」
ポストは出席番号順に設置されている。瀬野はふと面白がるような目つきになって「そんなに否定するほうがアヤシイな」などと言った。瀬野は美夜の手紙を見たことがあった。前に同じようなことがあった時、宛名をよく見ずに封を開けてしまったからだ。
「写真も見たけど、妹チャンって美少女だしさ。血はつながってないんだろー?」
「なっ何言ってやがるっ」
「可愛い義妹と一つ屋根の下で暮らしてさ、何も起こらないわけなくないか? 俺が紹介してって頼んでも拒否るしさ」
「うおおお瀬野っテメー!!」
後ろで北極が聞いていると思うと、優斗は気が気ではなかった。
「違うから! あいつとはそういうんじゃないからっ、マジでありえないからっ!」
大きな声で全力で否定するのだが、瀬野はかえって「ふうーん」と笑みを深くする。
「まっ、別にいいけど。なんだよー、元気になったみたいでよかったじゃーん」
口でわからないなら腕力に物を言わせるほかない。真っ赤になって拳骨を振り上げる優斗から、瀬野はげらげら笑って逃げた。
「…………」
静かになった靴脱ぎ場で、優斗はおずおずと北極を振り返った。北極はその場に立ち尽くしている。青い瞳の揺れ方に、優斗はどきんとした。まっすぐ見られると怖くなって、思わず顔を伏せてしまう。
「えっと……なんだっけ。さっき、なんか言いかけてただろ」
下を向いたままそう言って、優斗は自分で自分を(俺のほうが北極よりずっと卑怯だ)と思った。夢の中みたいに北極が自分を好きだと言ってくれるんじゃないかと期待している。それも自分の気持ちはまったく明らかにしないままで。
北極はしばらく口ごもったあと「いえ、なんでもなかったです」と言った。落ち着きなく前髪をいじる手に汗が光っていた。北極は気が弱い。急に大きな声を出されて怖かったのだろう。
「ごめん。うるさくしたな」
「いえ、全然……あの、俺のほうこそすみません。なんか一人で勝手にカン違いしてたみたいで……」
「……なんだよ。昨日のことまだ気にしてんのか?」
優斗は軽く笑い、憂鬱そうな北極の胸を手の甲ではたいた。
「じゃ、また夜にな」
「!」
北極が目を見開く。一瞬、断られるのかと思うような間が空いたが、彼はうなずいた。「待ってます」と言った。