朝の点呼は7時と決まっている。点呼放送時、寮生は階段近くの廊下に整列し、点呼係から顔と名前の確認を受ける。その後、寮友会役員は一階大食堂で点呼表のチェック。欠席理由が不明な寮生がいた場合は安全確認を行う。
一般寮生の朝食開始は7時半から。その前に朝食を摂ることを許可されている寮友会役員は食堂で各自業務に追われることになる。
「三階の点呼表オッケーです!」
「はい、どうもー」
「野球部は朝練でしょ。早出届も確認してるから加点はナシ」
「なー、七夕の準備どうなってる? そろそろ笹の手配しないとヤバくない?」
朝食は和食か洋食が選べる。優斗はコッペパンを咥えながら点呼表にチェックをつけていた。チェックはミス防止のために二人体制。計算し終えたものは同じ二年の瀬野へ回す。瀬野は仕事が早いというか、雑だった。表にサッと目を通しただけでもうペンを置き、優斗に向かって身を乗り出してくる。
「ポンちゃん、例の件ありがとなっ」
「なに。いま集中してるから話しかけるな」
「わかってるくせに。北極のことだよ~」
コッペパンが喉につかえる。ただでさえ面倒なところに、一年の三輪田まで口を挟んでくる。
「えっ。ポンタ先輩、北極に指導してくださったんですかっ」
「そーだよー。ほらっ、おかげで北極のやつ、今朝はきちっと点呼に出てきたらしい」
「おい、やめろよ」
優斗は止めたが、瀬野がチラつかせた点呼表に三輪田は飛びついた。
「ひゃあ、ほんとだーっ。すみません、ホントは僕が注意しないといけないのに……」
「あぁ……いや、別に……」
銀縁メガネの奥で、三輪田のドングリ眼が輝いている。口ごもる優斗と反対に、瀬野は筆で書いたような公家顔をほころばせた。
「気にすることないって。北極はマジでやばいやつだし、ポンちゃんに任せたほうがいい」
瀬野は寮の廊下で北極と肩がぶつかったことがあるのだった。
「俺はフレンドリーなセンパイだからさっ。いちおう『イターッ骨折したかもー!』ってリアクションとったわけ」
「それのどこがフレンドリーなんだよ……」
ひと笑いとろうとしたらしいのだが北極の反応は予想と違っていた。氷のように冷たい瞳をぎょんと見開き、こちらを凝視してくる。
「あの目、カラス避けの風船みたいでさあ、怖すぎてしばらく夢でうなされたよ……」
優斗もその話は瀬野から何度も聞かされた。北極と話した今は真相がわかる。
「それはおまえが出会いがしらに変な冗談言うから、咄嗟に反応できなかっただけだろ」
「でも人にぶつかったら普通は何かしら言うでしょ。あんな呪い殺すみたいな目つきで睨んでくるのはオカシイ!」
「いや、だからそれは誤解で……」
「三輪田くん、結局ねえ、俺らみたいないい子ちゃんが指導したところで従うような相手じゃないんだよ。怖い顔には怖い顔で対抗するんだっ」
「おまえひとの話聞けよ!」
「……でも、ポンタ先輩。ホントにありがとうございます」
三輪田は嘆息した。
「北極のやつ、クラスでも浮いてるんです。僕も何度か話しかけようとしたんですけど、基本寝てるし、起きてても無視されるし、もうどうしたらいいのかわからなくって」
「単に人見知りしてるだけだって……」
「えっ?」
三輪田が目をパチクリさせる。優斗は口ごもった。本当にこの場で言っていいことなのか、急にわからなくなる。見るからにガラの悪い北極が本当は泣き虫のビビリだなんて話したところで信じてもらえる気がしないし、言い方を間違えれば陰口になってしまう。優斗は咳払いして、遠回しにフォローした。
「……いや。俺も話してみたけどさ、別に悪いヤツじゃなかったよ」
「そうなんですか?」
「三輪田くん、つまりポンちゃんはこう言いたいんだよ。『今後も北極の世話は俺に任せろっ』てさ!」
「は!?」
勝手なこと言うな、と優斗は思った。北極はただでさえ誤解を受けやすい。今後のことを考えれば同学年の三輪田と打ち解けておいたほうがいいに決まっている。しかし三輪田はすっかり瀬野に乗せられて「信楽センパイ、神すぎます!」と拝んでくる。
ひとり唸る優斗のつむじに、ズシッと大きな手が乗った。
「はかどってるか。ポンタロー」
「ひゃあ、山本センパイ!」
「おはようございます、寮長!」
三輪田と瀬野が口々にあいさつするが、優斗は真上から押さえつけられて返事できなかった。
三学年の山本は寮長と柔道部主将を兼ねる。去年のインターハイには男子個人73キロ級で出場したツワモノだが、優斗のことは肘置きかなにかだと思っているらしい。一年の時からやたらと押しつぶそうとしてくるのだった。
「寮長、ちょっと……」
「うん?」
優斗は身をよじったが、頭をガシッと掴まれてしまうと振りほどけない。
(クソッ、なんでこんなダルい絡み方してくるんだ)
思えば高校で優斗のことを『おまえ子ダヌキみてーだな』と言ったのも山本だった。ポンだのポンタローだの、ポンポンポンポンひとをポップコーンみたいに呼ぶうえ、ほかの寮生にもそう呼べと言うから始末が悪かった。後から他の先輩に『おまえが一年のくせに無愛想で孤立してるから、山本がそうやっていちいち気にかけてたんだよ』と聞かされたが、優斗からすると余計なお世話としか言いようがない。変なあだ名が定着したおかげで、何をしてもマヌケなタヌキのイメージが付きまとうようになってしまったのだ。それは確かに、柄が悪いからと一方的に距離をおかれるよりはマシだったのだが。
「あのっ……朝から勘弁してくださいよっ」
「うん」
「うんじゃなくて、俺の頭から手を離してくださいっ。後輩に示しがつかんでしょうがっ」
「そう思うなら寝ぐせどうにかしろ」
「えっ」
掴んでいた頭を唐突に放される。優斗はびっくりして山本を振り仰いだ。山本は、何か見透かしたような目をしていた。獅子鼻をスンと鳴らし「みんなも聞いてくれ!」と、食堂のテーブルを見回す。
「GW明けから寮則違反が増えた。平たく言えばたるんでるってことだ。で、ここにいる面子も例外じゃない」
鋭い眼光に晒され、場の空気が引き締まる。
「何度も口うるせーことは言いたくない。一回で決めろ。各自、寮則を見直すこと。五分前行動は守れているか? 夜中にひとの部屋に押しかけて騒いでないだろうな。佐々木サンに手間かけさせるようじゃ、俺らが足元すくわれっぞ。返事!」
ハイ!と大きな声が揃う。優斗は口を開けはしたが、うまく声を出せなかった。自分のことを言われているとわかった。昨夜、北極の部屋で大声を出したのがバレている。
山本はどこまで知っているのだろう。寝入ってしまった北極の下からなんとか抜け出して自室へ戻ったことは? 昨夜、優斗はうまく寝付けなかった。いつもは直すような寝ぐせに気づかなかったのもそのせいだ。
(うわっ、ゴリラ山本、こわ……っ)
頭の中をウホウホと覗かれている気がして、優斗は怖気を振るった。柄にもなく親切心を起こして北極に構ったのが間違いだった。びくびくしながら(いや、まあ昨日一晩のことだし……)と自分に言い聞かせる。
(教師に相談して、無事にぬいぐるみが返ってくれば北極の問題もカタがつくだろ。後のことは俺の知ったこっちゃない。寮友会の仕事しただけだっ)
歩いて五分の高校で授業を受ける頃には、そんなこともすっかり忘れていた。午後の教室移動で生カウンセリングルームのそばを通りがかってようやく思い出した。
(……あいつ、ちゃんと相談したかな)
北極の泣き顔を思い出すと、足が止まってしまった。一緒にいた瀬野に「なに?」と聞かれて生返事を返す。その時ちょうど生徒相談室の引き戸が向こうから開いた。出てきたのは北極とは似ても似つかない、オリーブ色のロングカーディガンをまとった女性だ。
スクールカウンセラーの羽飼だった。
「あら、どうかした?」
「あー、いや……」
北極が来たか確かめようとして、優斗は思いとどまった。スクールカウンセラーには守秘義務がある。誰が何の相談に来たか、聞いたところで羽飼は答えられないだろう。この場で事情を伝えようにも瀬野が邪魔だ。沈黙する優斗の前に出て来て、瀬野はおちゃらけた。
「羽飼せんせー、今日もお綺麗ですねー」
「まあ、ありがとう。瀬野くんオシャレだから、褒められると嬉しいわ」
「イェイ!」
「…………」
舌を出して片目をつぶる瀬野から、優斗は露骨に距離をとった。瀬野は北極の悪評を寮中に言い広めた前科がある。もしかしたらホームシックについても面白おかしく吹聴するかもしれない。
(……俺から相談するのは無理だな)
軽く挨拶しただけで羽飼から離れる。瀬野は「ヘイヘーイ」と体当たりしてきた。
「ポンちゃん、どしたん。悩んでるなら話聞こか?」
「うっせ、ザコ、ボケ、カス、消えてしまえ」
「あーん、ひどーい」
罵倒を笑って受け流せるのは一種の才能だが、今は神経に障る。優斗はむっつりと押し黙って考えた。
(北極のやつ、昼メシちゃんと食ったかな……朝は話せなかったけど……)
思い出してしまうと生物の授業はもう身が入らなかった。微生物のプレパラートを作成して顕微鏡で動きを観察するのだが、気泡が入ってしまって何がなんだかわからない。教科書を頼りにもやもやした像をスケッチする。その不確かさが今の状況を表しているかのようで嫌だった。
帰りがけ、一年生の教室に寄ろうかとも思った。あれこれ悩むより本人を捕まえて話を聞いてしまったほうが早い。が、やめた。山本に釘を刺されたばかりだ。わざわざ自分から面倒ごとに首を突っ込むのもバカバカしい。
(北極から頼ってくるなら別だけど……いや、こっちだって忙しいんだ。必要以上に構うのはよそう)
寮に帰ると、実家にいる妹から手紙が届いていた。封筒の分厚さに優斗は眉根を寄せた。離れて暮らしていても家の様子を伝えようと、折に触れて手紙をよこしてくる。たいてい写真も同封されていた。メールで済ませればいいものをわざわざ、手紙で。(なんだよ鬱陶しい)と思った。
(こんなのもらったって困るんだよな。捨てるわけにもいかないし。向こうだって……)
いちおうは、家族だから。義務感でつなぎとめようとしているのだと思うと胸がずんと重くなり、無性にイライラしてくる。自室に戻った優斗は制服も着替えないままベッドに倒れこんだ。昨夜遅かったせいか、眠気は自然と襲ってきた。
そのまましばらく眠っていたらしい。ドアをノックする音で目を覚ました優斗は、枕元の時計を見て舌打ちした。17時。邪魔さえ入らなければ、夕食まであと一時間は眠れたはずだ。
ドアスコープ越しに客の顔を確認して「げっ」と声が出た。ドアの前に無表情に立っていたのは、北極だった。
「んだよ、いったい」
「あ、センパイ」
ドアを開けたとたん、北極の表情がパッと明るくなる。優斗は面食らって黙った。
(なんだよ……人見知りが、俺を見るなり嬉しそうにしやがって……)
北極は緊張すると無表情になってしまう性質らしい。優斗は、なかなか心を開かない大型犬に懐かれたような気がした。聞きたいことは色々とあったが、いったん腕組みしてドアに寄りかかる。心配していたと悟られたら先輩の沽券に関わると思った。
「何の用だよ」
優斗はただ聞いただけなのに、北極は急にしょげてしまった。
「あの、昨日はすみませんでした」
「……まったくだ。おまえってやつは、ひとにしがみついたまま寝やがって」
「えっ!?」
「いいよ、それはもう! なんなんだよ。なんで俺の部屋を知ってる」
「あっ、瀬野センパイに聞きました……!」
「瀬野!?」
「はいっ」
声のボリュームが急に常人並みになったのは、褒めてもらえると思ったからなのだろう。北極は犬なら尻尾をブンブン振っているだろうテンションで言った。
「オレ、なんか今日すっごい調子よくって……! 東京来てから初めて、自分から人に話しかけられましたっ」
言っていることは幼稚園児レベルだが、シベリアンハスキーじみた目力と勢いで迫ってくるので若干コワイ。この目がトラウマになっている瀬野は辛かっただろう。あまり同情する気にはなれないが。
「……で? 例の件は相談できたのか」
「それが……」
話を続けようとした時、北極がビクッと肩を震わせた。寮生が階段を上がってくる気配がする。そのまま口をつぐんでしまうところを見るとまた人見知りが発動しているのだろう。優斗はコキッと首を鳴らした。
「おまえ、もうフロ入った?」
「……えっ。いえ、まだ……」
「そりゃよかった。悪いけど俺、頭カユいんだわ。支度したら風呂場の前で集合な。話はそこで聞くから」
強引に決めてしまうと、北極は慌てたようにうなずく。準備のために廊下を引き返すのを確認して、優斗は自室に戻った。寮の大浴場は早い時間はシャワーのお湯がぬるくて人気がない。裸の付き合いなら北極の緊張も多少はほぐれるだろう。
そう判断して決めたことだが、十分後、優斗は脱衣所で赤面していた。
「センパイ……?」
優斗と同じく、腰にタオルを巻いただけの恰好の北極は、フィットネスジムのチラシから抜け出たみたいに引き締まった体をしていた。横に立たれると自分との差が浮き彫りになって恥ずかしい。
「おまえ、細いくせに意外と鍛えてんだな……」
「えっ……。いえ、こっち来てから全然動かないから、筋肉はかなり落ちたんですよ」
「筋肉落ちてその状態なのか!?」
抜き身の刃のように痩せているのに腕はたくましく、腹筋に至っては六つに割れている。本人は「田舎でチャリこいでたら誰でもこうなる」と言うが果たして本当だろうか。優斗のほうは背は低いし全体的に丸っこくてダメだった。背丈のわりに骨が太い。腰回りがやけにムチッとしていて、なんだか本当にタヌキみたいだ。優斗は恥ずかしまぎれに毒づいた。
「バカなやつだ。男子校にさえ来なきゃモテただろうに」
「いや、そんなことないですよ、ほんとに……」
「ないわけねーだろ。ふざけてんのか」
優斗はプンプン怒って言った。
「少女マンガだって正統派の王子様より、ワルそうな影のある男に女の子はなびくモンなんだよっ。※ただし背の高いイケメンに限る、だ! 俺みたいなポンポコピーは論外だ。はームカつくっ」
「いや、別にそんなことはないと思う……」
「うっせえ、バーカ!」
「ホントですって。それにオレの場合、見かけで寄って来る子はすぐ離れていきますから……」
「……ああ。そっか」
優斗が納得すると、北極は力なく笑った。その笑い方は短くとも豊かな彼の女性経験を物語っているようでもあった。
「センパイ、少女マンガとか読むんですね」
「……ほんとうるさいヤツだな。俺にも色々あるんだよ。色々」
狙い通り、大浴場は無人だった。濛々と湯気が立ち込めるなか優斗は洗髪洗身を済ませ、広い浴槽に浸かる。一番風呂は良かった。シャワーがぬるかったぶん湯舟が熱くて気持ちいい。優斗は目を糸のように細め、ため息をついた。
「ふわぁ~……」
「……センパイ、フロ好きなんですか?」
「はぁー? フロが嫌いなわけねーだろ……」
「ふふ……」
笑われるのは気に食わないが、北極もリラックスできたらしい。
優斗は湯舟のふちに肘を預け「で、首尾は?」と、切り出した。
「北極クンはセンセーにちゃんと相談できたわけ」
「あ、はい……」
北極は今朝、高校に着くなり保健室に直行したらしい。養護教諭にスクールカウンセリングの予約を取ってもらい、昼休みには羽飼に話をすることができた。羽飼は寮監の佐々木に連絡をとったが、そこで少し問題が起こった。
「オレのぬいぐるみ、大きいから学校の倉庫に置いてたらしいんですよ。なんかそこで行方不明になってて」
「はぁ!?」
「どうも手違いで、大学のほうに行っちゃったかもしれないです……」
「えーっ……」
私立昴星大学と附属高校(とその寮)は一部の施設を共有している。体育館や図書館、倉庫がそうだ。出入りは警備員が管理しているが、大学のボランティアサークルが大きなぬいぐるみを持って出て行った可能性があると言う。
「そのサークルが今、ボランティア活動に行ってるらしいんですね」
「おまえそれ、ドロボーじゃん!」
「そう、なんですよね……。でも警察呼ぶわけにもいかないし。いちおう大学のほうからサークルの代表者に連絡してくれてるんですけど、なかなかつかまらないみたいで……」
優斗は鼻を鳴らした。学校側は事件を大ごとにしたくないのだろう。
(……こいつの感じからして、緊急性が伝わってるかも怪しいよな)
羽飼はプロのカウンセラーだが、一晩よく寝てスッキリした顔の北極と、ホームシックの症状は容易に結びつかないだろう。軽く話を聞いただけの優斗でも、対応が後手に回っているのはわかる。
「いやおまえが納得しててどーすんだよ。ちゃんと訴えないとぬいぐるみ戻ってこないぞ」
「え? でも、オレにはセンパイがいるし……」
「は!?」
「えっ。あっ」
しまった、とでも言うように北極が口を押さえる。話の流れを察した優斗は湯を跳ね散らかして立ち上がった。北極が慌てて引き留めようとするが聞く耳持たない。こちらの意志も確認せず、勝手に当てにされては困る。
(冗談じゃない。これ以上つきあってられるか!)
脱衣所に逃げ込もうとして、優斗は濡れた床に足を滑らせた。体勢を崩したところに北極が追いついてくる。
「危ない!」
裸の後輩に後ろから抱きしめられる。背中に触れる北極の胸は広く、生温かい。状況に頭が追いつかない。腕を振りほどいて逃げるべきだ。頭ではそう思うのだが、びっくりしすぎて身動きをとれなかった。広い浴室に、湯の流れる音だけが響く。
やがて北極は、「すみません」と謝った。
「改めてお願いしなきゃと思ってたんですけど、切り出すタイミングがわかんなくて……」
カッと顔が熱くなる。気を遣って風呂にまで連れてきた自分がバカみたいだ。優斗は「離せよ、気色悪い!」と身をよじった。
「だって……離したら逃げますよね」
「たりめーだろっ。てめーの甘ったれにひとを巻き込みやがって! ハグがどーとか知ったことかっ。別のヤツに頼めよ!」
「で、でも、オレ……センパイが良くって……」
「ふぇっ!?」
腕が回っているのは胸なのに、首を絞められたみたいな声が漏れる。北極は構わずに畳みかけてきた。
「オレ、寮に入ってから、いや、今まで生きてきたなかで昨日が一番よく眠れたんです。おかげで授業中も寝なかったし、なんていうか、世界が輝いて見えるっていうか」
「おおおおまえアタマおかしいぞ!」
「そ、そうかも……でもオレ、それでも、センパイがいいよ……」
「……っ」
「今も。こうしてるだけでスゲー気持ちよくて……」
強く抱き寄せられると、自分の輪郭を生々しく意識させられる。北極の手が、優斗のぽてっとした下腹部に触れていた。優斗は見下ろす自分の体が紅葉するかのように朱に染まっていくのを見た。恥ずかしすぎて、いっそ死にたい。
「や、やめろよ……! こんなのマジでダメだって、離せって……」
「センパイ……すみません、なんかオレ……ガマンできないかも……」
「は!? なにバカなこと言って……」
後ろに体重をかけられ、優斗は思わずギュッと目をつぶる。その耳元に北極はあろうことか「ねむくなっちゃう……」とつぶやいた。マヌケな物言いにずるっと踵が滑る。北極は優斗を抱いたまま「わっ」と尻もちをついた。
「ひゃあー!」
その甲高い悲鳴を上げたのは優斗ではなかった。ハッと視線を上げると、脱衣所の戸が開いていて、三輪田がわなわなと震えている。
「だ、だ、だれかたすけてえ! 北極がポンタ先輩をシメようとしている!」
そう誤解されても仕方のない体勢ではあった。キョトンとしている北極の腕を逃れ、優斗は三輪田に走り寄った。悲鳴を聞きつけて山本や佐々木が来たらいよいよ大変なことになってしまう。
「違う、誤解だっ。三輪田、俺は大丈夫だから!」
「えっ。えぇっ……!?」
「北極は転びそうになった俺を助けただけだからっ。は、恥ずかしいからひとに言うなよ、ホントに!」
「え。え、でも……」
「北極! おまえはボサッとしてないではよ来い!」
「あ、はいっ」
なんとか事態に収拾をつけ、優斗は北極と脱衣所に出た。キリのいい時間だったのだろう、ほかの寮生たちも続々と来る。脱衣所はもう話ができる雰囲気ではなかった。追い立てられるように着替え、空いたロッカーを譲る。ふっと北極のほうを見ると、向こうもこちらを見ていた。無表情なのは眠いからなのか、それとも不安がっているからなのか、優斗にはわからなかった。
「……行くぞ。ほら」
北極のTシャツの裾を、優斗ははっしと掴んだ。そのまま引っ張って浴場の暖簾をくぐる。地下一階の変なモニュメントの前を突っ切り、東階段を上って地上階に出る。そのまま階段を上っていこうとする北極を、優斗は強引に人通りの少ない西階段へと誘導した。自分でもどうかしていると思った。こんな厄介な後輩、さっさと放り出せばいいのに人目を避ける方に歩いている自分がいる。引っ張られるまま無言で従う北極も、変だ。
(……さっき、俺がいいって言った。北極は、俺がいいって……)
思い出すだけで胸がばくばくと高鳴る。ただでさえ息の上がる階段で、優斗は苦しかったが立ち止まれなかった。
本当は、自分がどう動くべきなのかわかっていた。
寮友会役員の間で北極のことを共有して、協力を仰げばいい。瀬野あたりは大笑いして話に乗ってくるだろうし、山本と北極のハグなんか絵面のやばさで見物人が集まるかもしれない。三輪田に口止めする必要だって別になかった。事情を知れば一年生同士打ち解けることもできるだろう。そのほうがよっぽど北極のためになる。
考えれば考えるほど自分が間違っている気がして、優斗はとうとう階段の真ん中で立ち止まった。
「北極……」
「……はい」
「さっき、俺がいいって言ったよな」
「うん。言いました」
北極の返事は小学生みたいだった。うつむいたままの優斗に、後ろから重ねて「オレはセンパイがいいんです」などと言う。優斗は昨夜、階段で腕を掴まれたことを思い出した。北極は泣きながら食いつくみたいに優斗から手を離さなかった。
今もそうだ。ビビリのくせに我が強く、先輩に遠慮するとか譲るとかいう発想があまりないに違いない。
「……おまえ、どうせ末っ子だろ」
「!? なんで知ってんですか」
「見りゃわかるよ……」
優斗は振り向き、北極を見た。段差のおかげで背の高い後輩も見下ろせる。しかし目が合うと気まずかった。ぷいと横を向き「消灯前に俺がおまえの部屋に行きゃいいのか」と尋ねる。北極が何か言うより先に「十秒くらいなら付き合ってやるよ」と先回りした。
「……えっ。いいんですか」
「ぬいぐるみが見つかるまでの間だけだからな」
「センパイ、やっぱ優しい……!」
「だからっ。違うからっ」
本当に違った。自分でもなんでそんなふうに思うのかよくわからないのだが、北極とハグする役割をひとに譲るのが惜しくなったのだ。優斗は怒りっぽく、およそひとから好かれる性格ではない。容姿も良いとは言い難い。もしもこの機会をフイにしたら、こんなこと、自分の人生にはもう二度と起こらない気がした。
そう思うと自分のほうこそ何かしてもらう側のように感じて、声が小さくなってしまう。
「……じゃ、夜にそっちの部屋行くから」
「えっ。オレがそっち行きますよっ。さすがに申し訳ないです」
「…………」
優斗は言葉に迷ったが「ひとの部屋に入るのって、原則ダメなんだよ」と言った。入寮前に必ず説明されることだが、北極はちゃんと聞いてなかったらしい。
「え、でも昨日は……」
「うるせえ。昨日のことは昨日のことだ。忘れろ」
「そんな……でも、なんでダメなんですか……?」
困惑しきった声を聞いて、優斗は顔から火が出た。寮でなぜひとの部屋に入ってはいけないのか、北極はまったくわからないらしい。優斗はぼそぼそと遠回しに答えた。
「……だから、なんか変な気起こすやつがいるからだろ」
「変な……?」
「あーもーうるせーなっ。ガキじゃねーんだから自分のアタマで考えろっ」
𠮟りつけて、優斗は北極の鼻づらに人差し指を振りかざした。
「ルール違反で怒られたら、おまえ絶対ぴーぴー泣くだろっ。だから俺がそっち行くって言ってんの。わかったか!」
「そしたらセンパイが怒られるんじゃ」
「は? 一年がなにナマイキ言ってんだ。ばーか」
「でも……いてっ」
指で額を弾いてやると、北極は驚いたように黙る。優斗は噛んで含めるように言った。
「俺が行ってやるから、おまえは大人しく待ってろ」
「……」
北極は手で額を押さえた格好のまま固まった。いつかのような無反応ぶりに、優斗は「おい」と声を荒げる。
「あっ。はい」
「聞いてんのか? また泣き出すんじゃねーだろうな」
「いや……そうじゃないですけど……」
優斗に睨まれ、北極はおずおずと言葉をつづけた。
「……センパイがかっこよくて、見とれてました」
「!」
優斗は一瞬ドキッとして、それから正体不明の苛立ちに襲われた。北極に褒められて、嫌だった。見る目がなさすぎて気に入らなかった。不純な動機でやっていることを、かっこいいとか言われるのは絶対に間違っている。優斗は「バカじゃねえの」と吐き捨て、北極の額をもう一度小突いた。しかし一回目ほど強い力は出なかった。
一般寮生の朝食開始は7時半から。その前に朝食を摂ることを許可されている寮友会役員は食堂で各自業務に追われることになる。
「三階の点呼表オッケーです!」
「はい、どうもー」
「野球部は朝練でしょ。早出届も確認してるから加点はナシ」
「なー、七夕の準備どうなってる? そろそろ笹の手配しないとヤバくない?」
朝食は和食か洋食が選べる。優斗はコッペパンを咥えながら点呼表にチェックをつけていた。チェックはミス防止のために二人体制。計算し終えたものは同じ二年の瀬野へ回す。瀬野は仕事が早いというか、雑だった。表にサッと目を通しただけでもうペンを置き、優斗に向かって身を乗り出してくる。
「ポンちゃん、例の件ありがとなっ」
「なに。いま集中してるから話しかけるな」
「わかってるくせに。北極のことだよ~」
コッペパンが喉につかえる。ただでさえ面倒なところに、一年の三輪田まで口を挟んでくる。
「えっ。ポンタ先輩、北極に指導してくださったんですかっ」
「そーだよー。ほらっ、おかげで北極のやつ、今朝はきちっと点呼に出てきたらしい」
「おい、やめろよ」
優斗は止めたが、瀬野がチラつかせた点呼表に三輪田は飛びついた。
「ひゃあ、ほんとだーっ。すみません、ホントは僕が注意しないといけないのに……」
「あぁ……いや、別に……」
銀縁メガネの奥で、三輪田のドングリ眼が輝いている。口ごもる優斗と反対に、瀬野は筆で書いたような公家顔をほころばせた。
「気にすることないって。北極はマジでやばいやつだし、ポンちゃんに任せたほうがいい」
瀬野は寮の廊下で北極と肩がぶつかったことがあるのだった。
「俺はフレンドリーなセンパイだからさっ。いちおう『イターッ骨折したかもー!』ってリアクションとったわけ」
「それのどこがフレンドリーなんだよ……」
ひと笑いとろうとしたらしいのだが北極の反応は予想と違っていた。氷のように冷たい瞳をぎょんと見開き、こちらを凝視してくる。
「あの目、カラス避けの風船みたいでさあ、怖すぎてしばらく夢でうなされたよ……」
優斗もその話は瀬野から何度も聞かされた。北極と話した今は真相がわかる。
「それはおまえが出会いがしらに変な冗談言うから、咄嗟に反応できなかっただけだろ」
「でも人にぶつかったら普通は何かしら言うでしょ。あんな呪い殺すみたいな目つきで睨んでくるのはオカシイ!」
「いや、だからそれは誤解で……」
「三輪田くん、結局ねえ、俺らみたいないい子ちゃんが指導したところで従うような相手じゃないんだよ。怖い顔には怖い顔で対抗するんだっ」
「おまえひとの話聞けよ!」
「……でも、ポンタ先輩。ホントにありがとうございます」
三輪田は嘆息した。
「北極のやつ、クラスでも浮いてるんです。僕も何度か話しかけようとしたんですけど、基本寝てるし、起きてても無視されるし、もうどうしたらいいのかわからなくって」
「単に人見知りしてるだけだって……」
「えっ?」
三輪田が目をパチクリさせる。優斗は口ごもった。本当にこの場で言っていいことなのか、急にわからなくなる。見るからにガラの悪い北極が本当は泣き虫のビビリだなんて話したところで信じてもらえる気がしないし、言い方を間違えれば陰口になってしまう。優斗は咳払いして、遠回しにフォローした。
「……いや。俺も話してみたけどさ、別に悪いヤツじゃなかったよ」
「そうなんですか?」
「三輪田くん、つまりポンちゃんはこう言いたいんだよ。『今後も北極の世話は俺に任せろっ』てさ!」
「は!?」
勝手なこと言うな、と優斗は思った。北極はただでさえ誤解を受けやすい。今後のことを考えれば同学年の三輪田と打ち解けておいたほうがいいに決まっている。しかし三輪田はすっかり瀬野に乗せられて「信楽センパイ、神すぎます!」と拝んでくる。
ひとり唸る優斗のつむじに、ズシッと大きな手が乗った。
「はかどってるか。ポンタロー」
「ひゃあ、山本センパイ!」
「おはようございます、寮長!」
三輪田と瀬野が口々にあいさつするが、優斗は真上から押さえつけられて返事できなかった。
三学年の山本は寮長と柔道部主将を兼ねる。去年のインターハイには男子個人73キロ級で出場したツワモノだが、優斗のことは肘置きかなにかだと思っているらしい。一年の時からやたらと押しつぶそうとしてくるのだった。
「寮長、ちょっと……」
「うん?」
優斗は身をよじったが、頭をガシッと掴まれてしまうと振りほどけない。
(クソッ、なんでこんなダルい絡み方してくるんだ)
思えば高校で優斗のことを『おまえ子ダヌキみてーだな』と言ったのも山本だった。ポンだのポンタローだの、ポンポンポンポンひとをポップコーンみたいに呼ぶうえ、ほかの寮生にもそう呼べと言うから始末が悪かった。後から他の先輩に『おまえが一年のくせに無愛想で孤立してるから、山本がそうやっていちいち気にかけてたんだよ』と聞かされたが、優斗からすると余計なお世話としか言いようがない。変なあだ名が定着したおかげで、何をしてもマヌケなタヌキのイメージが付きまとうようになってしまったのだ。それは確かに、柄が悪いからと一方的に距離をおかれるよりはマシだったのだが。
「あのっ……朝から勘弁してくださいよっ」
「うん」
「うんじゃなくて、俺の頭から手を離してくださいっ。後輩に示しがつかんでしょうがっ」
「そう思うなら寝ぐせどうにかしろ」
「えっ」
掴んでいた頭を唐突に放される。優斗はびっくりして山本を振り仰いだ。山本は、何か見透かしたような目をしていた。獅子鼻をスンと鳴らし「みんなも聞いてくれ!」と、食堂のテーブルを見回す。
「GW明けから寮則違反が増えた。平たく言えばたるんでるってことだ。で、ここにいる面子も例外じゃない」
鋭い眼光に晒され、場の空気が引き締まる。
「何度も口うるせーことは言いたくない。一回で決めろ。各自、寮則を見直すこと。五分前行動は守れているか? 夜中にひとの部屋に押しかけて騒いでないだろうな。佐々木サンに手間かけさせるようじゃ、俺らが足元すくわれっぞ。返事!」
ハイ!と大きな声が揃う。優斗は口を開けはしたが、うまく声を出せなかった。自分のことを言われているとわかった。昨夜、北極の部屋で大声を出したのがバレている。
山本はどこまで知っているのだろう。寝入ってしまった北極の下からなんとか抜け出して自室へ戻ったことは? 昨夜、優斗はうまく寝付けなかった。いつもは直すような寝ぐせに気づかなかったのもそのせいだ。
(うわっ、ゴリラ山本、こわ……っ)
頭の中をウホウホと覗かれている気がして、優斗は怖気を振るった。柄にもなく親切心を起こして北極に構ったのが間違いだった。びくびくしながら(いや、まあ昨日一晩のことだし……)と自分に言い聞かせる。
(教師に相談して、無事にぬいぐるみが返ってくれば北極の問題もカタがつくだろ。後のことは俺の知ったこっちゃない。寮友会の仕事しただけだっ)
歩いて五分の高校で授業を受ける頃には、そんなこともすっかり忘れていた。午後の教室移動で生カウンセリングルームのそばを通りがかってようやく思い出した。
(……あいつ、ちゃんと相談したかな)
北極の泣き顔を思い出すと、足が止まってしまった。一緒にいた瀬野に「なに?」と聞かれて生返事を返す。その時ちょうど生徒相談室の引き戸が向こうから開いた。出てきたのは北極とは似ても似つかない、オリーブ色のロングカーディガンをまとった女性だ。
スクールカウンセラーの羽飼だった。
「あら、どうかした?」
「あー、いや……」
北極が来たか確かめようとして、優斗は思いとどまった。スクールカウンセラーには守秘義務がある。誰が何の相談に来たか、聞いたところで羽飼は答えられないだろう。この場で事情を伝えようにも瀬野が邪魔だ。沈黙する優斗の前に出て来て、瀬野はおちゃらけた。
「羽飼せんせー、今日もお綺麗ですねー」
「まあ、ありがとう。瀬野くんオシャレだから、褒められると嬉しいわ」
「イェイ!」
「…………」
舌を出して片目をつぶる瀬野から、優斗は露骨に距離をとった。瀬野は北極の悪評を寮中に言い広めた前科がある。もしかしたらホームシックについても面白おかしく吹聴するかもしれない。
(……俺から相談するのは無理だな)
軽く挨拶しただけで羽飼から離れる。瀬野は「ヘイヘーイ」と体当たりしてきた。
「ポンちゃん、どしたん。悩んでるなら話聞こか?」
「うっせ、ザコ、ボケ、カス、消えてしまえ」
「あーん、ひどーい」
罵倒を笑って受け流せるのは一種の才能だが、今は神経に障る。優斗はむっつりと押し黙って考えた。
(北極のやつ、昼メシちゃんと食ったかな……朝は話せなかったけど……)
思い出してしまうと生物の授業はもう身が入らなかった。微生物のプレパラートを作成して顕微鏡で動きを観察するのだが、気泡が入ってしまって何がなんだかわからない。教科書を頼りにもやもやした像をスケッチする。その不確かさが今の状況を表しているかのようで嫌だった。
帰りがけ、一年生の教室に寄ろうかとも思った。あれこれ悩むより本人を捕まえて話を聞いてしまったほうが早い。が、やめた。山本に釘を刺されたばかりだ。わざわざ自分から面倒ごとに首を突っ込むのもバカバカしい。
(北極から頼ってくるなら別だけど……いや、こっちだって忙しいんだ。必要以上に構うのはよそう)
寮に帰ると、実家にいる妹から手紙が届いていた。封筒の分厚さに優斗は眉根を寄せた。離れて暮らしていても家の様子を伝えようと、折に触れて手紙をよこしてくる。たいてい写真も同封されていた。メールで済ませればいいものをわざわざ、手紙で。(なんだよ鬱陶しい)と思った。
(こんなのもらったって困るんだよな。捨てるわけにもいかないし。向こうだって……)
いちおうは、家族だから。義務感でつなぎとめようとしているのだと思うと胸がずんと重くなり、無性にイライラしてくる。自室に戻った優斗は制服も着替えないままベッドに倒れこんだ。昨夜遅かったせいか、眠気は自然と襲ってきた。
そのまましばらく眠っていたらしい。ドアをノックする音で目を覚ました優斗は、枕元の時計を見て舌打ちした。17時。邪魔さえ入らなければ、夕食まであと一時間は眠れたはずだ。
ドアスコープ越しに客の顔を確認して「げっ」と声が出た。ドアの前に無表情に立っていたのは、北極だった。
「んだよ、いったい」
「あ、センパイ」
ドアを開けたとたん、北極の表情がパッと明るくなる。優斗は面食らって黙った。
(なんだよ……人見知りが、俺を見るなり嬉しそうにしやがって……)
北極は緊張すると無表情になってしまう性質らしい。優斗は、なかなか心を開かない大型犬に懐かれたような気がした。聞きたいことは色々とあったが、いったん腕組みしてドアに寄りかかる。心配していたと悟られたら先輩の沽券に関わると思った。
「何の用だよ」
優斗はただ聞いただけなのに、北極は急にしょげてしまった。
「あの、昨日はすみませんでした」
「……まったくだ。おまえってやつは、ひとにしがみついたまま寝やがって」
「えっ!?」
「いいよ、それはもう! なんなんだよ。なんで俺の部屋を知ってる」
「あっ、瀬野センパイに聞きました……!」
「瀬野!?」
「はいっ」
声のボリュームが急に常人並みになったのは、褒めてもらえると思ったからなのだろう。北極は犬なら尻尾をブンブン振っているだろうテンションで言った。
「オレ、なんか今日すっごい調子よくって……! 東京来てから初めて、自分から人に話しかけられましたっ」
言っていることは幼稚園児レベルだが、シベリアンハスキーじみた目力と勢いで迫ってくるので若干コワイ。この目がトラウマになっている瀬野は辛かっただろう。あまり同情する気にはなれないが。
「……で? 例の件は相談できたのか」
「それが……」
話を続けようとした時、北極がビクッと肩を震わせた。寮生が階段を上がってくる気配がする。そのまま口をつぐんでしまうところを見るとまた人見知りが発動しているのだろう。優斗はコキッと首を鳴らした。
「おまえ、もうフロ入った?」
「……えっ。いえ、まだ……」
「そりゃよかった。悪いけど俺、頭カユいんだわ。支度したら風呂場の前で集合な。話はそこで聞くから」
強引に決めてしまうと、北極は慌てたようにうなずく。準備のために廊下を引き返すのを確認して、優斗は自室に戻った。寮の大浴場は早い時間はシャワーのお湯がぬるくて人気がない。裸の付き合いなら北極の緊張も多少はほぐれるだろう。
そう判断して決めたことだが、十分後、優斗は脱衣所で赤面していた。
「センパイ……?」
優斗と同じく、腰にタオルを巻いただけの恰好の北極は、フィットネスジムのチラシから抜け出たみたいに引き締まった体をしていた。横に立たれると自分との差が浮き彫りになって恥ずかしい。
「おまえ、細いくせに意外と鍛えてんだな……」
「えっ……。いえ、こっち来てから全然動かないから、筋肉はかなり落ちたんですよ」
「筋肉落ちてその状態なのか!?」
抜き身の刃のように痩せているのに腕はたくましく、腹筋に至っては六つに割れている。本人は「田舎でチャリこいでたら誰でもこうなる」と言うが果たして本当だろうか。優斗のほうは背は低いし全体的に丸っこくてダメだった。背丈のわりに骨が太い。腰回りがやけにムチッとしていて、なんだか本当にタヌキみたいだ。優斗は恥ずかしまぎれに毒づいた。
「バカなやつだ。男子校にさえ来なきゃモテただろうに」
「いや、そんなことないですよ、ほんとに……」
「ないわけねーだろ。ふざけてんのか」
優斗はプンプン怒って言った。
「少女マンガだって正統派の王子様より、ワルそうな影のある男に女の子はなびくモンなんだよっ。※ただし背の高いイケメンに限る、だ! 俺みたいなポンポコピーは論外だ。はームカつくっ」
「いや、別にそんなことはないと思う……」
「うっせえ、バーカ!」
「ホントですって。それにオレの場合、見かけで寄って来る子はすぐ離れていきますから……」
「……ああ。そっか」
優斗が納得すると、北極は力なく笑った。その笑い方は短くとも豊かな彼の女性経験を物語っているようでもあった。
「センパイ、少女マンガとか読むんですね」
「……ほんとうるさいヤツだな。俺にも色々あるんだよ。色々」
狙い通り、大浴場は無人だった。濛々と湯気が立ち込めるなか優斗は洗髪洗身を済ませ、広い浴槽に浸かる。一番風呂は良かった。シャワーがぬるかったぶん湯舟が熱くて気持ちいい。優斗は目を糸のように細め、ため息をついた。
「ふわぁ~……」
「……センパイ、フロ好きなんですか?」
「はぁー? フロが嫌いなわけねーだろ……」
「ふふ……」
笑われるのは気に食わないが、北極もリラックスできたらしい。
優斗は湯舟のふちに肘を預け「で、首尾は?」と、切り出した。
「北極クンはセンセーにちゃんと相談できたわけ」
「あ、はい……」
北極は今朝、高校に着くなり保健室に直行したらしい。養護教諭にスクールカウンセリングの予約を取ってもらい、昼休みには羽飼に話をすることができた。羽飼は寮監の佐々木に連絡をとったが、そこで少し問題が起こった。
「オレのぬいぐるみ、大きいから学校の倉庫に置いてたらしいんですよ。なんかそこで行方不明になってて」
「はぁ!?」
「どうも手違いで、大学のほうに行っちゃったかもしれないです……」
「えーっ……」
私立昴星大学と附属高校(とその寮)は一部の施設を共有している。体育館や図書館、倉庫がそうだ。出入りは警備員が管理しているが、大学のボランティアサークルが大きなぬいぐるみを持って出て行った可能性があると言う。
「そのサークルが今、ボランティア活動に行ってるらしいんですね」
「おまえそれ、ドロボーじゃん!」
「そう、なんですよね……。でも警察呼ぶわけにもいかないし。いちおう大学のほうからサークルの代表者に連絡してくれてるんですけど、なかなかつかまらないみたいで……」
優斗は鼻を鳴らした。学校側は事件を大ごとにしたくないのだろう。
(……こいつの感じからして、緊急性が伝わってるかも怪しいよな)
羽飼はプロのカウンセラーだが、一晩よく寝てスッキリした顔の北極と、ホームシックの症状は容易に結びつかないだろう。軽く話を聞いただけの優斗でも、対応が後手に回っているのはわかる。
「いやおまえが納得しててどーすんだよ。ちゃんと訴えないとぬいぐるみ戻ってこないぞ」
「え? でも、オレにはセンパイがいるし……」
「は!?」
「えっ。あっ」
しまった、とでも言うように北極が口を押さえる。話の流れを察した優斗は湯を跳ね散らかして立ち上がった。北極が慌てて引き留めようとするが聞く耳持たない。こちらの意志も確認せず、勝手に当てにされては困る。
(冗談じゃない。これ以上つきあってられるか!)
脱衣所に逃げ込もうとして、優斗は濡れた床に足を滑らせた。体勢を崩したところに北極が追いついてくる。
「危ない!」
裸の後輩に後ろから抱きしめられる。背中に触れる北極の胸は広く、生温かい。状況に頭が追いつかない。腕を振りほどいて逃げるべきだ。頭ではそう思うのだが、びっくりしすぎて身動きをとれなかった。広い浴室に、湯の流れる音だけが響く。
やがて北極は、「すみません」と謝った。
「改めてお願いしなきゃと思ってたんですけど、切り出すタイミングがわかんなくて……」
カッと顔が熱くなる。気を遣って風呂にまで連れてきた自分がバカみたいだ。優斗は「離せよ、気色悪い!」と身をよじった。
「だって……離したら逃げますよね」
「たりめーだろっ。てめーの甘ったれにひとを巻き込みやがって! ハグがどーとか知ったことかっ。別のヤツに頼めよ!」
「で、でも、オレ……センパイが良くって……」
「ふぇっ!?」
腕が回っているのは胸なのに、首を絞められたみたいな声が漏れる。北極は構わずに畳みかけてきた。
「オレ、寮に入ってから、いや、今まで生きてきたなかで昨日が一番よく眠れたんです。おかげで授業中も寝なかったし、なんていうか、世界が輝いて見えるっていうか」
「おおおおまえアタマおかしいぞ!」
「そ、そうかも……でもオレ、それでも、センパイがいいよ……」
「……っ」
「今も。こうしてるだけでスゲー気持ちよくて……」
強く抱き寄せられると、自分の輪郭を生々しく意識させられる。北極の手が、優斗のぽてっとした下腹部に触れていた。優斗は見下ろす自分の体が紅葉するかのように朱に染まっていくのを見た。恥ずかしすぎて、いっそ死にたい。
「や、やめろよ……! こんなのマジでダメだって、離せって……」
「センパイ……すみません、なんかオレ……ガマンできないかも……」
「は!? なにバカなこと言って……」
後ろに体重をかけられ、優斗は思わずギュッと目をつぶる。その耳元に北極はあろうことか「ねむくなっちゃう……」とつぶやいた。マヌケな物言いにずるっと踵が滑る。北極は優斗を抱いたまま「わっ」と尻もちをついた。
「ひゃあー!」
その甲高い悲鳴を上げたのは優斗ではなかった。ハッと視線を上げると、脱衣所の戸が開いていて、三輪田がわなわなと震えている。
「だ、だ、だれかたすけてえ! 北極がポンタ先輩をシメようとしている!」
そう誤解されても仕方のない体勢ではあった。キョトンとしている北極の腕を逃れ、優斗は三輪田に走り寄った。悲鳴を聞きつけて山本や佐々木が来たらいよいよ大変なことになってしまう。
「違う、誤解だっ。三輪田、俺は大丈夫だから!」
「えっ。えぇっ……!?」
「北極は転びそうになった俺を助けただけだからっ。は、恥ずかしいからひとに言うなよ、ホントに!」
「え。え、でも……」
「北極! おまえはボサッとしてないではよ来い!」
「あ、はいっ」
なんとか事態に収拾をつけ、優斗は北極と脱衣所に出た。キリのいい時間だったのだろう、ほかの寮生たちも続々と来る。脱衣所はもう話ができる雰囲気ではなかった。追い立てられるように着替え、空いたロッカーを譲る。ふっと北極のほうを見ると、向こうもこちらを見ていた。無表情なのは眠いからなのか、それとも不安がっているからなのか、優斗にはわからなかった。
「……行くぞ。ほら」
北極のTシャツの裾を、優斗ははっしと掴んだ。そのまま引っ張って浴場の暖簾をくぐる。地下一階の変なモニュメントの前を突っ切り、東階段を上って地上階に出る。そのまま階段を上っていこうとする北極を、優斗は強引に人通りの少ない西階段へと誘導した。自分でもどうかしていると思った。こんな厄介な後輩、さっさと放り出せばいいのに人目を避ける方に歩いている自分がいる。引っ張られるまま無言で従う北極も、変だ。
(……さっき、俺がいいって言った。北極は、俺がいいって……)
思い出すだけで胸がばくばくと高鳴る。ただでさえ息の上がる階段で、優斗は苦しかったが立ち止まれなかった。
本当は、自分がどう動くべきなのかわかっていた。
寮友会役員の間で北極のことを共有して、協力を仰げばいい。瀬野あたりは大笑いして話に乗ってくるだろうし、山本と北極のハグなんか絵面のやばさで見物人が集まるかもしれない。三輪田に口止めする必要だって別になかった。事情を知れば一年生同士打ち解けることもできるだろう。そのほうがよっぽど北極のためになる。
考えれば考えるほど自分が間違っている気がして、優斗はとうとう階段の真ん中で立ち止まった。
「北極……」
「……はい」
「さっき、俺がいいって言ったよな」
「うん。言いました」
北極の返事は小学生みたいだった。うつむいたままの優斗に、後ろから重ねて「オレはセンパイがいいんです」などと言う。優斗は昨夜、階段で腕を掴まれたことを思い出した。北極は泣きながら食いつくみたいに優斗から手を離さなかった。
今もそうだ。ビビリのくせに我が強く、先輩に遠慮するとか譲るとかいう発想があまりないに違いない。
「……おまえ、どうせ末っ子だろ」
「!? なんで知ってんですか」
「見りゃわかるよ……」
優斗は振り向き、北極を見た。段差のおかげで背の高い後輩も見下ろせる。しかし目が合うと気まずかった。ぷいと横を向き「消灯前に俺がおまえの部屋に行きゃいいのか」と尋ねる。北極が何か言うより先に「十秒くらいなら付き合ってやるよ」と先回りした。
「……えっ。いいんですか」
「ぬいぐるみが見つかるまでの間だけだからな」
「センパイ、やっぱ優しい……!」
「だからっ。違うからっ」
本当に違った。自分でもなんでそんなふうに思うのかよくわからないのだが、北極とハグする役割をひとに譲るのが惜しくなったのだ。優斗は怒りっぽく、およそひとから好かれる性格ではない。容姿も良いとは言い難い。もしもこの機会をフイにしたら、こんなこと、自分の人生にはもう二度と起こらない気がした。
そう思うと自分のほうこそ何かしてもらう側のように感じて、声が小さくなってしまう。
「……じゃ、夜にそっちの部屋行くから」
「えっ。オレがそっち行きますよっ。さすがに申し訳ないです」
「…………」
優斗は言葉に迷ったが「ひとの部屋に入るのって、原則ダメなんだよ」と言った。入寮前に必ず説明されることだが、北極はちゃんと聞いてなかったらしい。
「え、でも昨日は……」
「うるせえ。昨日のことは昨日のことだ。忘れろ」
「そんな……でも、なんでダメなんですか……?」
困惑しきった声を聞いて、優斗は顔から火が出た。寮でなぜひとの部屋に入ってはいけないのか、北極はまったくわからないらしい。優斗はぼそぼそと遠回しに答えた。
「……だから、なんか変な気起こすやつがいるからだろ」
「変な……?」
「あーもーうるせーなっ。ガキじゃねーんだから自分のアタマで考えろっ」
𠮟りつけて、優斗は北極の鼻づらに人差し指を振りかざした。
「ルール違反で怒られたら、おまえ絶対ぴーぴー泣くだろっ。だから俺がそっち行くって言ってんの。わかったか!」
「そしたらセンパイが怒られるんじゃ」
「は? 一年がなにナマイキ言ってんだ。ばーか」
「でも……いてっ」
指で額を弾いてやると、北極は驚いたように黙る。優斗は噛んで含めるように言った。
「俺が行ってやるから、おまえは大人しく待ってろ」
「……」
北極は手で額を押さえた格好のまま固まった。いつかのような無反応ぶりに、優斗は「おい」と声を荒げる。
「あっ。はい」
「聞いてんのか? また泣き出すんじゃねーだろうな」
「いや……そうじゃないですけど……」
優斗に睨まれ、北極はおずおずと言葉をつづけた。
「……センパイがかっこよくて、見とれてました」
「!」
優斗は一瞬ドキッとして、それから正体不明の苛立ちに襲われた。北極に褒められて、嫌だった。見る目がなさすぎて気に入らなかった。不純な動機でやっていることを、かっこいいとか言われるのは絶対に間違っている。優斗は「バカじゃねえの」と吐き捨て、北極の額をもう一度小突いた。しかし一回目ほど強い力は出なかった。