「何をしているの」

 寮監の佐々木は怖いひとだった。

書面上では寮母と呼ばれる役職らしいが、寮生には母というより祖母に近い年齢に見え、誰も彼女のことをそう呼ばなかった。針金のように痩せた体に、つま先が隠れるほど丈の長いスカートを穿いている。色は黒。シャツも黒。

ひと昔前まではシャツの背中に定規を入れていたらしい。素行の悪い寮生を矯正するためだ。今はもちろんそんなことはしていないはずだが、背筋があまりにもまっすぐなのがなんとも言えず不気味だった。

「えーと、すみません。ハイ」

 佐々木が出てきたとたん、山本は急に二人を背中に庇いだした。

「ぬいぐるみの件について話していただけなんですが、つい興奮して」
「下級生に暴力を振るったのですか?」
「……つい興奮して、手が出ることも、ありました」
「恥を知りなさい!」

 頭に響くカン高い声だった。

「あなたは一体、なんてことをしたのですか!」

 山本は黙った。佐々木は細枝のような腕を振るい、部屋のドアを指し示した。

「今すぐその子たちから離れなさい! 自分のしたことを、部屋でよくよく反省なさい!」
「……」
「返事は!」
「はぁ……」

 ため息とも返事ともつかない声を漏らし、山本はちらっと背後を振り返ったが、何も言わなかった。
 大人しく出て行く山本と入れ替わりに、瀬野が半泣きで部屋の中に入ってきた。

「ちょっと佐々木さん、いやっ、違うんすよ、そもそも寮長はぁ……」

 佐々木はぎょんと瀬野を睨みつけた。

「あなたに意見を求めた覚えはありません。下がってらっしゃい」
「ふぇえ……」

 瀬野は引き下がらざるを得なかった。優斗は無言で、座る位置を北極の前にずらした。
どうせ怒られるにしても、せめて北極の順番は一番最後に回してやりたかった。

 しかし佐々木は優斗と北極には目をくれず、床に落ちたぬいぐるみを拾い上げた。

「いったい何故、こんなに酷いことをするのか……」

 北極は、また佐々木にぬいぐるみを没収されると思うのだろう。もの言いたげに立ち上がろうとするのを、優斗は後ろ手で制した。佐々木は昔、大学のほうで洋裁を教えていたそうだ。優しい手つきだった。

 佐々木はため息をついて言った。

「山本から話は聞きましたか」

 北極は慌てたようにうなずいた。

「あの……ボランティアさきで、色々あったみたいな」
「今日、サークルの代表者が謝罪に来ました」
「えっ」
「新しいものを買って返すか、被害に見合ったお金を支払うか、そういう事務的なお話を伺って。でも今日は日曜日です。ともかくあなたやあなたのご家族の意見を聞いてからと思いました。しかし、いったん寮長の山本には話を通すことにしました。寮友会の自治に関わることですから。……そのことで、彼はひどく責任を感じたようです」
「…………」

 佐々木にとってはそういう認識らしい。部屋に来た時の山本の態度ときたら、とても責任を感じているようには見えなかったが。
 佐々木は、北極をホームシックに苦しむ寮生として、優斗をその相談に乗った寮友会役員として扱っていた。それは確かに事実なのだが、優斗の実感とはだいぶかけ離れているように感じた。北極も同じ気持ちらしい。
 佐々木に話しかけられて、きょとんとしていた。

「山本はあなたに暴力を振るったのですね。何をされたの。どこが痛みますか」
「いや、オレも、やりかえしたし……」
「……!」

 佐々木の眦が吊り上がる。「なぜそんなことを」と言った。雲行きが一気に怪しくなり、優斗は肩を縮めた。
 二人は夕食時間が終了する十分前にようやく説教から解放してもらえた。北極はよほど怖かったのだろう。ずっと無表情でいたのに食堂を出る時になって、時間差でいきなり優斗にめそめそと泣きついてきた。

「な、なんで佐々木さん、次から次へとあんなに怒り続けるんですかあ……! 怖すぎですよ、どうかしてる!」
「うん……」
「それで結局、またぬいぐるみ持ってかれるし!」
「直せるかどうか見てみるって話になったからだろ。今度はちゃんと返してくれるって」

 説教を通してなんとなく察したことだが、佐々木も今回の件については、大学と高校の間で色々と悩まされているらしい。大学側は学生の自己責任を主張する。高校からは物品の管理不備を指摘される。スクールカウンセラーの羽飼からは『もっと優しく!』と指導が入る。優斗は想像してため息をついた。

「佐々木さんは昔、説教してる時に血圧が上がりすぎて倒れたことがあるんだ」
「ひっ……」
「向こうも命がけでやってるから、怒らせないようにしないとな。マジで」

 トレイを下げる優斗の肩に、北極は額をくっつけて唸った。
 食堂にはまだまばらに人がいたが、優斗はかまわずに髪を撫でてやった。

「今日は大変だったな。明日は学校だし、風呂入ってゆっくり寝たほうがいい」
「うう……」
「北極、歩きにくい」

 いつもだったら『シャンとしろよ!』と怒鳴りつけるところだが、今日は優斗もかなり疲れた。泣いたり怒ったり忙しかったせいだろう。気持ちの動きかたがゆっくりしている。北極は言った。

「今日の夜は、来ないんですか……?」
「いや、行かねえよ。なに考えてんだ」
「だって、やっと……」

 優斗は北極を振り向いた。一階東階段の前だ。寮の受付前にはちょっとした談話スペースがある。来月頭にはここに笹を置く。寮生が願い事を書けるようにテーブルを出して、短冊やペンも用意しておく。それが終わったら期末テストの準備が始まる。テスト最終日には縁日だ。屋台で輪投げや型抜きをやる。けっこう本格的で成績がいいと高校の食券がもらえる。

 北極はまだ一年生で、そういう寮生活のことを何も知らないのだった。優斗は笑った。

「これからずっと一緒にいるんだから、夜くらい一人で寝ないとな」
「……!」
「それで、俺の顔見るために早く起きろよ。どうだ。いい考えだろ?」

 照れながら提案してみると、北極の目が急にとろんとした。

「センパイ……」
「なに。なんだよ。ダメだ、こんなところでハグはしないぞ」
「……優斗さん」

 北極は悪いことを覚えてしまった。ハグと違って一秒で済む。顔を近づけるだけで意図が伝わる。
 なによりも、優斗はその仕草をされると自然に唇を閉じ、目蓋を伏せてしまう。
 一秒後、北極は優しい声で「また明日ね」と言った。優斗はうなずく。「おやすみ」と言った。今日はなんだか良く眠れそうだった。