山本だった。
 身を起こそうとする北極の腕を、優斗は掴んで止めた。山本は呼びかけを止めない。

「ぬいぐるみの件で来ましたー。ここ開けてくださーい。すみませーん」

 そういう怪異現象かのように三回同じ文言を繰り返し、ピタリとノック音が止む。
 優斗は身を震わせた。ドアの向こうで山本と瀬野が話をしている。

「瀬野、カギ」
「え。開ける時って佐々木さん呼ぶんじゃ……」
「三回の警告義務は果たした。中で死んでたら大変だろ」
「いや、それは……」

 このままでは優斗は見つかる。部屋で何をしていたのかと問い質されることだろう。寮友会役員のくせに寮規違反を重ねていることが明らかになればきっとただでは済まない。だが今出て行けば、北極だけは助かる可能性があった。ここは北極の部屋で、今のところルールを破っているのは優斗ひとりだからだ。
 瀬野は鍵束の中から目当ての鍵を取り出すのに手間取っている。行くなら今だ。
 しかし北極は優斗の体を押さえつけて囁いた。

「布団かぶって隠れててください。外で話すように持っていきますから、隙を見て逃げて」
「……!?」

 優斗の頭に布団をかぶせてくる。北極は「なんでひとの部屋に入っちゃいけないのか、オレ、もうわかります」と言った。「普通にダメに決まってますね」と笑った。

「こんなに可愛くて、無防備なセンパイがいるんだから」

 ドアが開いた時、北極は部屋の真ん中に立っていた。山本は目をすがめ「なんだよ」と吐き捨てる。

「死んでないじゃねーかよ。あーあ」
「……出てってください」

 北極は強気に応じた。大股で山本に近づき、ドアを押さえようとする。山本はそんな抵抗はものともしない。

「冷たいじゃねーか。こっちはおまえが寂しがってるだろうと思ってわざわざ届けに来たのに」
「は?」
「おら、お友達だぞ」

 山本が部屋に投げ込んだ何かが、ベッドの前に落ちる。ふわふわの毛並みに大きなボタンの瞳。きっと大人が見てもちょっとテンションが上がるような、可愛くて大きなぬいぐるみだったに違いない。今は土にまみれ、首がとれかかり、お腹からワタも出てしまっているけれど。

「……!?」
「ああ悪い悪い、汚したのは俺じゃないんだぜ」

 山本はまったく悪びれずに両手を広げてみせた。北極の注意がそれたのをいいことに、ズカズカと部屋に乗り込んでくる。

「持ってかれた先で、ちびっ子にちょーっとヤンチャされたらしくてな」
「……なんで、あなたがこれを持ってるんです」
「俺が持ってくるのがスジだろう。寮長なんだから」

 山本が拾い上げると、ぬいぐるみの首はぷらぷらと揺れた。

「そもそもなんでこんなことが起こった? このぬいぐるみがちびっ子に大ウケだったからか。ボランティアサークルが間違えて持っていったからか。佐々木さんがぬいぐるみを倉庫に置いたからか。違う違う、そうじゃないだろう。そもそも北極の抱えている問題を寮友会側が把握してなかったからだ。発覚が遅れ、報告もなく、結果なにもかもが後手後手に回った。……俺は情けなかったぜ。北極の事情を知ってて俺に黙ってたヤツがいるんだ」

 北極の布団の中にうずくまりながら優斗は泣きそうだった。山本が怒っている。ベッドをがつんと蹴った。
 伝わってくる衝撃の凄まじさたるや恐ろしかった。瀬野の焦った声が聞こえてくる。ひとりだけ廊下に残っているようだ。

「りょ、寮長、あの、ひとの部屋に入っちゃいけないんじゃ……」
「ああそうだな瀬野、俺もおまえと全く同意見だ」

 そっと掛け布団のふちがめくられた時、優斗はいっそ自分から出て行こうかと思った。謝ってしまったほうが楽だからだ。事実、優斗は寮則違反をした。するべきだとわかっていて寮友会に報告しなかった。間違ったことをしたと認めて、謝ってしまえばいい。山本はきっと許してくれるだろう。山本はいつも正しい。寮でもずっと優斗のことを気にかけてくれていた。

 北極は、山本とベッドの間に肩で割り込んだ。

「オレのものに勝手に触るな!」

 岩みたいにでかい山本が、その体当たりで呆気なくよろめいた。優斗は驚いた。山本も驚いたようだった。

「あ……?」
「触るな、って言ってんです。汚い手でベタベタと気持ち悪い!」

 北極が吠える。優斗は、ブチッという鈍い音を聞いた。山本がキレる音だった。
 物も言わずに北極の襟を掴む。北極はその瞬間、山本の顎を頭突いた。飛んできた拳を山本が掴む。にぎにぎと弄びながらせせら笑った。「ケンカ慣れしてないだろ」と嬉しそうに言って、腰を引く。北極の腹を膝蹴りした。

「北極!!」

 優斗はもう隠れていられなかった。布団から飛び出して北極を庇う。
 山本は二人を見下ろして立っていた。

「おい。なにやってんだ。ポン」
「も、もう、やめてくださいよ……いいでしょう、もう十分じゃないですか、北極はまだ一年生なんですよ、それなのにこんな」
「そんなヤツのことはどうだっていい! おまえはなにやってんだって聞いてんだよ!」

 雷が落ちるような怒鳴りつけ方だった。何をやっているのかと聞かれても、優斗は困った。恐怖のあまり北極にしがみついている。膝蹴りをされた腹に手を当てている。当の北極は泣くことも謝ることもなく沈黙していた。

 奇妙だった。痛めつけられた北極のほうが、むしろ堂々と勝ち誇って見える。
 そして一人で立つ山本ときたらなぜか蒼褪めて、かすかに震えてさえいた。

 混乱する優斗をよそに、バタバタと走ってくる音がした。山本が舌打ちする。
 瀬野が、寮監を連れて戻ってきた。