(は?)

 北極が自分のすぐ脇を通り過ぎていくのを感じて、優斗はぞっとした。

(もう関わらないでいい、って)

 そりゃないだろうと思う。本気なのか。優斗を見るだけで嬉しそうにしていた北極が、自分から背を向けてスタスタと廊下を歩いていく。『センパイがいい』と言ってはばからなかった北極が。夜が来るたびに物も言わずに優斗を抱き締めていたくせに。

(そんなのダメだ。なんでだよ。ちゃんと違うって言ってるのに、なんでオレの言うこと信じてくれないんだよ)

 優斗と美夜がつきあっているわけがない。妹だ。血のつながりがないとしても、今でも優斗が家族でいられるように手紙と写真を送ってくれる。どんなに鬱陶しくても気まずくても、長期休暇には帰省している。

 家族だから。

 実家が近いのに寮にいる。優斗の状態は、確かに人の目には変に映るに違いない。瀬野からもその点をつつかれて『妹ちゃんのことをセイテキに意識しちゃうんだろ~』とか言われた。下種の勘ぐりも甚だしい。理由は確かにあったが、それは優斗が勝手に口にしていいようなことではなかった。

 優斗は背後に美夜が立っている気がした。震えながら、優斗の背中をひっしと掴んでいる。美夜といることを選べば、北極を追いかけられない。逆に北極を追いかければ、美夜と一緒にはいられない。

「…………!」

 その時、優斗の背中を押したものはなんだったのだろう。引っぱたかれるような痛みを感じた。積み重ねてある手紙の山が崩れ落ちる音を聞いた気がする。あるいは少女マンガの折り癖のついたページに、こんなセリフが書いてあった。『自分で叩かないドアは、ずっと開かないんだよっ!』。

 優斗は走った。息せき切らして階段を駆け上り、北極の背中を廊下のはしに見つけ、彼が自室の部屋に入る、そのドアが閉じる寸前に隙間に向かって指と膝とを捻じ込んだ。痛みを感じるよりも先に北極と目が合った。

「……えっ」

 北極が血相を変えてドアを大きく開く。優斗は痛む指に力を込め、強引に部屋へ乗り込んだ。バタンと閉まったドアにそのまま鍵をかけてしまう。部屋に押し込まれた北極は絶句していた。

「北極」
「は、はい……!」
「おまえは秘密を守れるんだろうな」
「……!?」
「俺が今からする話を、墓まで持ってく覚悟はあるんだろうなっ」

 北極は呆気にとられていた。今後関わることはないと思っていた相手が追いかけてきて、急に鬼軍曹みたいな態度をとる。優斗だったら怒って追い返すところだ。しかし北極は薄く開けていた口を結び、うなずいた。

「オレ、言わないよ……。センパイがそうしてほしいなら、絶対。誰にも」

 優斗は、本当はわかっていた。秘密というのは、口に出した瞬間からもう秘密ではなくなってしまうのだ。そしてどんなに隠してもいつかは暴かれる。自分にとっても、今日がその日だったということなのかもしれなかった。

 優斗は北極を初めて部屋まで送り届けた時のように、ベッドに腰を下ろした。

 いざ口を開こうとして、迷った。

「……俺、この話は一度もひとにしたことないんだ。だから、順番とかけっこうめちゃくちゃになるかもしれない」
「いいですよ」
「っていうか、まず……どこから話したらいいんだか……」
「えっと……いつ頃あった話なんですか?」

 中学の頃。
 しかしその前に、優斗がまだ生まれたばかりの頃、両親が離婚をした。父親の女癖の悪さが原因で、母はずいぶんと悩んだのだが、最終的には別れる決断を下した。しばらく母ひとり子ひとりで暮らしていたが、仕事先で思わぬ出会いがあり、優斗が小学生の時に再婚することになった。

 実のところ優斗は当時の記憶がかなり曖昧なのだが、節約家の母が珍しく高級レストランに連れて行ってくれたことはよく覚えている。ちゃんとした服を着て店に入ると、母が予約したはずのテーブルに、なぜか知らない男と可愛い女の子が座っていた。母の恋人と、その娘・美夜。なんとなく状況は飲み込めたものの、優斗は一緒に食事していて面白くなかった。同じテーブルで、母もその男も美夜のことばかりチヤホヤと構うからだ。

 一緒に暮らすようになってから、美夜の本当の母が病死していると知った。忘れ形見である美夜を義父は目に入れても痛くないほど可愛がっている。母も当然、血のつながらない美夜に気を遣う。レストランのテーブルの延長線上のような生活。ストレスは多かったが、それでも一つだけ良いことがあった。

 小遣いがもらえるようになり、マンガを買えるようになったのだ。それも、二倍。
 きっかけは美夜が優斗の少年マンガに興味を示したことだった。読みたそうにしていたので許可すると、美夜も代わりにといって自分の少女マンガを貸してくれた。(いや、妹の読むようなマンガなんか……)と思っていた優斗が一瞬で手のひらを返したことは言うまでもない。優斗は少女マンガの世界観にすっかり魅了されてしまった。美夜のほうも兄のマンガのほうが好みに合ったらしい。

 それで月に一度は一緒に本屋へ行くことにした。二人でごにょごにょと相談して、お互いの読むマンガを買い合ってトレードする。ひとに見られたとしても、それぞれ『妹に頼まれて買った』『兄に頼まれて買った』と説明すればごまかしやすい。親には言えなかった。優斗は少女マンガを読んでいるのが自分でも恥ずかしかったし、美夜は美夜で父にとって望ましい娘を演じなくてはならないという気負いがあったようだ。

 美夜はよく『私がお義兄ちゃんなら良かったのになあ』と言った。

『……いや、それはおまえ、俺というものをナメてるよ。こっちはこっちで大変なんだから』
『でもお義兄ちゃんは、私より自由だと思う』

 優斗は否定できなかった。美夜は確かに義父の愛を一心に受けているが、その代わり強い束縛を受けていた。一人で出かける時はいちいち行先を伝えなければならず、それも場所によってはダメだと言われる。優斗はその点どこで何をしていたところで、誰からも文句をつけられなかった。少女マンガにハマッていた優斗は(でも、美少女に生まれるほうが得だ)と思っていたのだが。

 中学に上がった頃、優斗はよく不良に絡まれるようになった。目つきが気に入らないとか尻がプリプリして生意気だとか、変な因縁をつけられるのを嫌った優斗は図書室へ逃げ込んだ。放課後は委員の仕事をこなしつつ、図書室でギリギリ一般書に見える少女小説を読む。そして家へ帰ったら心置きなくマンガを読む。そんな平和なループは、ある日いきなり断ち切られた。

 帰宅すると、自分以外の家族三人が神妙な顔でリビングのテーブルについている。夕飯の支度もまだらしい。怪訝に思ってテーブルのほうへ行くと、優斗の席にエロマンガが置いてあった。ドピンクな表紙で成年向けと書いてある。

『???』

 優斗は大いに困惑した。義父から『美夜のカバンからこんなものが出てきた』と言われて、もっと困惑した。しかし義父が怒っていることは見てとれたので、うかつに口を挟めなかった。

『美夜は知らないと言っている。気づいたらカバンに入っていたそうだ。君が入れたんじゃないのか』

 身に覚えがなかった。こういうマンガが存在していること自体はもちろん知っているが、読みたいと思わない。それは、異性にまったく興味がないかと言うと嘘になるが、優斗は綺麗なすっぱだかの女性よりも綺麗な服を着た女性のほうに憧れる。クラスの男連中にさえ『レベルたけー』と言われるシュミを、その場で義父に理解してもらうのは不可能だった。

 優斗は財布を出すよう言われた。義父は書店のレシートを探しているらしい。優斗は大人しく従いながら、ずっと不思議だった。

(でも、いったい誰が美夜のカバンにこんなもん入れるんだ? 痴漢か? まさか、いじめ?)

 それで美夜のほうを見たら、向こうがバッと顔を伏せた。それで優斗は理解した。
 美夜が自分で買った。
 よくよく見てみると表紙の絵柄に既視感があった。美夜が好きな少年マンガの作者は、別名義でエロマンガも書いている。それで買った。義父にうっかり見つかった。しらを切るしかない。現在に至る。

 現在に至る。
 話している途中で口を閉じた優斗に、北極は尋ねた。

「……それで?」
「俺が道で拾ったことにした。買ったとか言ったら、本屋に怒鳴り込みに行きそうだったから」
「…………」
「そして俺は、拾ったエロ本を義妹のカバンに入れる変態兄貴の称号を得たわけだ」

 優斗は自分で言いながら笑ってしまった。

「さすがにキモぎるし、そりゃ義父は怒るよな。ただそれ以上にうちの母親のほうがキレちゃって」
「お母さん庇ってくれないんですか!?」
「なんで庇うんだよ。ああ……いや、ていうかそれ以前に俺、実の父親に顔がそっくりらしくて」

 性的にだらしない男の息子が、とうとう本性を現したと思ったのだろう。優斗はノーマークだった相手にどつきまわされ、死ぬかと思った。それを見た美夜が泣き出して。やり返さなきゃと咄嗟に思った結果、一時は警察を呼ぶほどの騒ぎになってしまった。

「……まあ今は、全然そんなことなくて、帰省すれば一緒にメシも食うし、テレビ見て笑ったりもするよ」
「それ……妹さんは今でも親に、なんにも言わないんですか」
「言うって、何を?」
「何を……!? 自分のしたことをですよ!」

 優斗は瞬いた。(なんでコイツにまで怒られなきゃならないんだよ)と思う。怒られるのはもう嫌だった。怒られたくて話したわけじゃないのだ。美夜に今になって恥をかかせたいわけでもない。ただ、北極にわかってほしかった。

「だから俺はっ美夜とつきあってなんかねえよ……!」

 今になって、いきなり涙が出てきた。昔の話だ。別に悲しいわけでも怒っているわけでもないのだが、もっと強い言葉を使わないと全然わかってもらえない気がして、言った。

「あ、あんなむっつりスケベのクソ女、ただ妹だから庇ってやってるだけだよっ。別に好きでもなんでもない、俺は、俺が好きなのは、ずっと……!」

 優斗は変だった。北極と知り合ったのはつい最近のことなのに、自分がそれよりもずっとずっと昔から、北極に恋していたような気がするのだ。少女マンガを読んでる時とか。雨上がりに虹が出た時とか。駅でキスしてるカップルを見た時とか。なんでもない風を装いつつ内心では(うおおおおおお)と吠えていた。わけもわからずずっと待たされていたのだ。そして今こうして隣に座っていると、自分がもう何年も前から待ち侘びていたのは他の誰でもない北極だったんだとハッキリわかるのだった。

「俺、北極のことが好きだ……」
「は……え……」

 当の北極には待たれていたという自覚がない。優斗がベッドシーツに手をつき、自分に向かって身を乗り出してくるのを見て、頬を赤らめた。優斗の肩に両手を置き「いや落ち着いてください」と言う。

「違うから。いくらなんでも、それはないから」
「何がだよ。違わねえよ……」
「……ほらっ、もう! なんでまたオレみたいなのがカン違いするような言い方しちゃうんですかっ」

 しかし北極は口ではそう言いつつ優斗の肩に向かって体重をかけてきた。反応に困った優斗はただ押し倒される。肩を掴んでくる力は、もしかして怒っているのかと思うほど強かった。

「ダメですよっ、オレはセンパイに言われたらなんでも本気にするんです。こんなことされたら嫌でしょう。ね!」

 嫌じゃなかった。
 優斗は答える代わりに、そっと目を閉じた。北極は急ブレーキみたいに甲高い声で吠えた。

「そうやってっ、またオレのことからかって……!」

 北極が自分に向かって覆いかぶさってくるのを、優斗は目を閉じたまま感じた。ベッドが深くきしんだ後。唇は思いがけず目尻に触れた。涙を吸われているとわかり、ひどく恥ずかしくなる。呼吸する間があり、北極は同じところに今度は音を立ててキスした。それでも優斗がじっとしているのを見て、やっと「ほんとに……?」とかすれた声を漏らす。優斗は業を煮やして自分から顔を傾けた。唇に唇を受け入れ、強く吸う。火が水に落ちるような、じゅっと低い音が立った。

「あ……」

 漏れ出す優斗の声を、北極は飲み干してしまった。優斗はやりかえそうとしたが、上に乗っている北極は簡単に逃れて「センパイ、すき」と言ってくる。

「すき、あいしてる、すき。すき、すき、ゆーとさん、ゆーと、すき……!」

 とんでもなかった。もしかして人語を喋る犬に襲われているのかと思う。優斗は北極の頭を撫でてやり、腰にあるはずの尻尾を探したが、どうしても見つからなかった。北極は嬉しそうに喉を鳴らし、優斗に向かっていっそう深く身を屈めた。

 ダンダンと部屋のドアを激しく叩く音がしたのは、その時だった。優斗と北極はギクッと身を固くした。絶えず続くノックの音に混ざり、抑揚のない声が響いた。

「すみませーん、寮友会の者ですがー」