新入生にシベリアンハスキーみたいなやつがいるのは知っていた。目力が異様に強い美形で背が高い。脱色した灰色の髪がいかにもヤンキーっぽい。苗字も変わっていた。北極と書いてキタギメと読む。

 北極(きたぎめ) (あきら)

 自分より頭ひとつぶん背の高い後輩を前に、信楽(しがらき) 優斗(ゆうと)はため息をついた。怖くないと言われれば嘘になるが、こういう場面は初めてではなかった。男子寮の寮友会役員というのは185名ものむさ苦しい男どもを仕切る立場であって、いちいちビビッていては仕事にならない。

 時刻は22時。ほかの寮生たちが消灯に向けて自室で過ごすこの時間、二人は男子寮西階段の踊り場にいた。
 正面口につながる東階段と違い21時には灯りが消えるので、薄暗くて人気がない。後輩を説教するにはもってこいの場所だ。

「なんで呼び出されたかわかってるか。北極」
「……」

 無視。
 優斗は短い黒髪をがしがしと掻いた。
 むろん北極のほうがガタイはいいが、まだ一年生。数か月前まで中学生だった。ナメられていい相手ではない。

(……身長はともかく、ガラの悪さなら俺も負けてないよな)

 人からはよくタヌキに似ていると言われる。垂れ目なうえ苗字からあの置物を連想するのだろう。ぎょろっとした三白眼で、首をかしげるクセがあった。高校ではなぜか『ポン』とか『ポンタ』とかカッコ悪いあだ名をつけられているが、自分としてはそこまでマヌケなキャラじゃないと思う。優斗は咳払いして続けた。

「北極、ゴールデンウィーク明けから、ずっと朝の点呼に遅刻してるよな」
「…………」
「おまえはまだ一年だからよくわかってないのかもしれないけど、こういうの寮則違反って言う。違反すると点数がつく。累積するとこんなふうに寮友会役員が指導しないといけなくなるわけ」
「…………」

 優斗は壁に向かって話しかけている気がした。点呼表を留めたボードを顔の前で軽く振ってみせるが、北極は形のよい唇を結んだまま微動だにしない。

(ツラが良くてうらやましいね)

 美形は無表情で立っているだけで凄みがある。先輩の威厳を保とうと必死に肩をそびやかしている優斗より、見下ろすだけの北極のほうが強そうなのだから癪だった。優斗は聞えよがしに舌打ちした。

「……うちの寮は自主性を尊重する。要は何があっても自己責任ってことだ。まずは寮友会からの指導、明日も遅刻するなら寮監に報告するし罰則もあるから」
「…………」
「最悪、退寮だから」

 ここまで言ってなお、北極は沈黙していた。

(こいつ、なめてんな……)

 指導というのは上級生が相談に乗る意味合いもある。集団生活だ。どうしても自力で朝起きられないなら周囲を頼るべきで、たとえば隣室の寮生に声かけを頼むとか色々と手段はある。そういった気配りも役員の仕事だが、さすがに意思疎通できないやつの世話は焼けない。寮監に任せるのが慣例となっていた。

(……いくらヤンキーでも一年に佐々木サンの相手はきついだろうと思って呼び出してみたけど、余計な世話だったな)

 寮監の佐々木は優斗などよりずっと厳しい。
 優斗はフンと鼻を鳴らして「じゃ、まあそういうことだから」と言い放った。

「明日の朝、点呼に遅刻したらおまえ終わりだからな。オヤスミ」

 とんだ無駄足だった。さっさと立ち去ろうとしたその時、左腕に痛みが走った。Tシャツの袖口から覗く腕を、北極が思いっきり掴んでいる。のみならず後ろに引っ張られ、優斗は一気に頭に血が上った。

「んだよ。やんのかコラッ!」

 体格差に負けじと凄んだ瞬間、優斗はぎょっとした。
 北極は、泣いていた。

「……え。」

 声もなく、ぽろぽろとこぼす涙が優斗の頬に降りかかる。踊り場の小窓から、コンビニの看板の光が射していた。北極の潤んだ瞳はシベリアンハスキーさながらに薄青い。生意気にカラーコンタクトでも入れているのかと思っていたが、どうも自前らしい。驚愕のあまり硬直する優斗の前で、北極は「うっ」と嗚咽を漏らした。空いている手で顔を覆い、北極は泣きじゃくった。

「う……うぇ、……せ、せんぱい、ご、ごぇんらひゃ、う……うーっ……!」
「ま、待て、泣くなっ。おい、落ち着け!」

 寮でのケンカは厳禁。いじめなど以ってのほかだ。下級生を泣かせたとなったら優斗のほうが厳罰に処されてしまう。

(ともかく人目につくのはまずい。えーと……)

 泣き止まない北極に、優斗は「おまえ、部屋どこ?」と尋ねた。寮では原則ひとの個室に入ってはいけないことになっているが、今回は緊急事態だ。「ちょっと座って話そう。な。」となだめると、北極は洟を啜ってうなずいた。

 寮室は六畳のワンルーム、家具も備え付けだ。勉強用のデスクとベッド、ハンガーラック。自宅からカラーボックスや本棚を持ち込む者も多いが、北極の部屋は段ボールがいくつか置いてあるきりで殺風景なものだった。

「……少しは落ち着いたか?」
「はい……」

 その声も見た目に似合わずか細い。アッシュグレーヘアのヤンキーが枕を抱いてベッドに座る図に、優斗は改めて頭がクラクラした。立ったまま額を押さえる優斗に、北極はぐすぐすと謝った。

「……取り乱してすみません。オレ、図体がでかいだけで、ほんとこういうのだめで……」
「おう……」
「か、髪もよく、染めてるのって言われるけどちがくて。うち、ばあちゃんがドイツ人で」
「あー……」
「それで……うっ、うぇええんっ」
「あ、あぁあ……わかったから、泣くなって……」

 ヤンキーどころか気が弱くて泣き虫らしかった。強面の先輩に夜、急に呼び出されて怯え切っていたところに退寮だなんだと脅しつけられたのがトドメになったらしい。そのうえ。

「なに? ホームシックで夜眠れないだと?」
「だって、オレ……寮って、こんな独りぼっちになると思わなくて……」

 北海道の実家では、ドイツ人の祖母を中心にスキンシップが多かったらしい。朝起きればおはようのハグ。家を出る時には行ってきますのハグが当たり前。家で一人になることはほとんどなかった。寝室は兄弟同室、勉強などもリビングのテーブルでしていたという。北の大地でのびのび暮らしていたが、家から通える範囲に高校がなかった。道内で寮付きの高校を志望していたのだが、試験間際にインフルエンザにかかってしまったのだという。

「昴星附属は中学の先生に勧められて念のためのすべり止めで受けてたんです。でもまさか、こんな遠いと思わなくて……」
「……そうだな。北海道は遠いな」

 優斗はため息をついた。私立昴星大学付属高校は鎌倉にある。学校側は地方出身の男子学生を囲い込む気満々らしく、高校では珍しいサテライト受験が可能、さらには一定条件を満たせば作文課題と書類のみで合否が決まる取り組みもなされている。

 実際寮生を見ても、地方出身者は多い。県内に実家がある優斗などはかなり珍しい例だ。同級生には群馬や茨城、京都から来ている者もいる。それでも北海道からという話はなかなか聞かないけれど。

 北極が作文と書類のみで通過した特別枠と知って、優斗はカクッと肩を落とした。

(こいつ、この見た目で優等生なの……?)

 優斗は専願でも受験に苦労した。内申点も低かったのでそのあたり反省して、高校では寮友会の役員などを務めているわけなのだが。北極はティッシュで目を擦りながらつづけた。

「それでも四月いっぱいはなんとかがんばったんです。連休に帰省して……親に相談したら、夜に寂しくないようにって、こんな大きいクマのぬいぐるみを持たせてくれました……でも、そしたら佐々木さんが……っ」

 没収されたのだと、優斗は聞く前からわかった。寮内に持ち込める物品のサイズは決まっている。大きすぎると寮監の許可を得る必要があった。

『いったい何に使うつもりなんですか?』

 北極はぬいぐるみの使用目的なんて考えたこともなかった。おたおたしているうちにぬいぐるみを没収されてしまい、気がついたら寮監室の前にひとり立ち尽くしていたという。それで休暇中に実家で癒したはずの心がポッキリと折れてしまった。夜は眠れず、朝方になってようやくまどろむと点呼にはもう間に合わない。反動で授業中は寝てしまい、クラスでも孤立してしまっているらしい。

「うーん……」

 箱ティッシュが切れた。優斗は北極に手持ちのポケットティッシュを渡してやった。

「運が悪かったな。過去に色々あって、ぬいぐるみの持ち込みはやたら厳しいんだ」
「いろいろ……?」
「ぬいぐるみの腹にタバコとか隠すヤツがいたらしいよ」
「えぇっ……」
「まぁ、あちこちから色んなヤツが来るからさ。……横、いいか」

 優斗は顎でベッドを示した。さっきから遠慮していたが、立ち話が続いて足が限界だった。北極が大人しくわきにずれるとドサッと腰を下ろす。

「さて、どーするか……」
「え……?」
「おまえのことだよ。要はホームシックで五月病なんだろ……」

 少し考えて、優斗は「よし」と膝を打った。

「明日、スクールカウンセラーに相談してみるか。行ったことある?」
「いえ……」
「まず保健室で予約をとるんだ。一人でできるか?」
「えっ?」
「だから、自分でちゃんと相談できんのかって。おまえ階段いた時もずっと黙りこんでただろうが」
「……え、先輩が一緒に来てくれるんですか?」

 会話が噛みあっていない。優斗はカチンと来て怒鳴った。

「できねーってんなら他にどうしようもないだろっ。どっかの誰かが図体のくせにビビリの泣き虫で、朝起きねえんだからよっ」

 狭い部屋に声が響く。優斗は咳払いした。夜中に後輩の部屋で大声を出すのはよろしくない。
「すみません」と小さくなって謝る北極に、優斗はなるべく優しく言った。

「いいんだ。とにかく保健室で話してみろ。そしたら佐々木サンにも事情が通じて、デカいぬいぐるみも返してもらえるだろ」
「あ、なるほど……」
「問題は明日の朝か……」

 寮則違反の累積があるのは事実なので、制度的には次の遅刻でアウトになる。佐々木は厳格なので優斗の口から事情を伝えたところで話が通じない可能性が高い。となると明日の点呼係に事情を伝えに行きたいところだが、消灯時間が迫っている。頼みの綱の隣室からは高らかなイビキが聞こえた。部屋の前を通った時にネームプレートを確認したが、確か朝練のある野球部員だったはずだ。一方的な頼み事のために起こすのも忍びない。

「俺が起こしに来るか? って、そしたら俺が間に合わなくなるか……」
「だ、大丈夫です。今夜は一晩中起きてます!」
「…………」

 北極は本当に眠れていないのだろう。顔が青白かった。血の気のなさがいっそうスカした印象を醸しているのはもう気の毒としか言いようがない。優斗は頭を掻いた。

「……なんか、ぬいぐるみがあればちゃんと寝れるわけ? どっかから借りてきてやろうか」
「いや……別に、そういうわけじゃ……」
「じゃ、緊急ってことで寮監からスマホを返してもらおうぜ。寝る前に親と話せば少しは……」
「そうじゃ、なくて……っ」
「んだよハッキリしろよ、イライラするやつだなっ」
「オレは寝る前におやすみのハグしてもらわなきゃ眠れないんですっ」
「……!」

 高校生にもなって、おやすみのハグ。優斗は思わず赤面した。

「おまえ、言ってて恥ずかしくないのかよ……!?」
「仕方ないじゃないですか……生まれた時からそれが当たり前だったんだから……!」

 その声が潤んでいるのは、顔を伏せていても察せられた。相手は寝不足で情緒不安定。絶対に冷静ではない。北極が、抱きかかえていた枕を床へ放り出す。優斗の心臓は小動物のように跳ねた。

「ま、待て、なんでにじり寄って来るんだ。離れろ、バカ。落ち着くんだよ」
「だって、センパイすごく優しくて……」
「ふざけんなっ、俺が優しいわけないだろっ」

 毛を逆立てて威嚇したが北極は聞かなかった。ガタイが違いすぎる。本気で来られたら敵わない。
 しかし予想に反して、肩に縋ってくる北極の手は非常に弱弱しかった。

「センパイ、たすけてぇ……」

 泣いて懇願されると、拒めない。
 優斗にも身に覚えがある。眠らないといけないのに眠れないのは、死ぬほど辛い。
 背中に回る北極の腕を大人しく受け入れる。服越しに、骨ばった輪郭が伝わってきた。北極は見た目からは想像できないほど痩せていた。朝夕の食事は寮で出るが昼は学校で済ますことになる。友達もおらず、ろくに食べていないのだろう。優斗はかわいそうな後輩の背中をポンポンと軽くはたいた。

 北極がほうっと安心しきった息を漏らす。次の瞬間、ズシッと抗いようのない重みが優斗を襲った。

「むぎゅう」

 耐えきれず後ろに倒れる。(ふざけてんのか!?)と思った優斗は怒って抗議した。

「おい重いだろうが! どけコラッ」

 ベシベシと背中を叩いて訴えるが、反応はない。優斗は呆然とする。北極はハグしたまま寝落ちていた。