1週間後の週末。お仕事終わりの相川さんが来店した。そしてその後に続くひとりの男性。お連れだろうか。歳は相川さんと変わらない様に見えた。細身の淡いグレイのスーツ姿だ。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
相川さんはぺこりと小さく頭を下げ、カウンタ席に掛ける。男性も自然に相川さんの隣に腰を降ろしたので、やはりお連れなのだろう。
世都はふたりにおしぼりを渡す。5月も中旬になりすっかりと気温も高くなって来ていて、おしぼりは常温である。
「ありがとうございます」
先に男性に渡すと、にこりと笑みを浮かべた。感じの良い人だ。続けて相川さんにも。
「ありがとうございます。あの、女将さん、こちら、お付き合いをしている畠山くんです」
「畠山です。いつも相川がお世話になっていて。僕が言うんもおかしいかもですけど、ほんまにありがとうございます」
「いえいえ。相川さんにはいつもご贔屓にしてもろて。こちらこそありがとうございます」
世都は深く頭を下げた。世都はこの畠山さんに良い印象を持った。さすが相川さんが選んだ男性である。相川さんとは大学で知り合ったのだから、畠山さんも頭脳明晰なのだろうが、人当たりがとても良い。腰も低い。内容は畏まっているのに、崩す塩梅も心得ている。
畠山さんは「とんでもありません」と、また人好きのする笑みを浮かべた。
「畠山くん、ここ日本酒めっちゃ豊富やから。畠山くんも日本酒好きやもんな」
「うん。せやからめっちゃ楽しみにしてた。相川からここのこと聞いて、連れてってーて言うても聞いてくれへんかったし」
「ここは私の隠れ家やねん。今日は女将さんに紹介したかったから一緒に来たけど、基本私ひとりで来るから。一緒に来たいときは、私にお伺いを立てること」
「そんなぁ〜、殺生やわぁ」
相川さんがぴしゃりと言ったせりふに、畠山さんはがっくりと項垂れる。おや、どうやら畠山さんは相川さんの尻に敷かれている様だ。
と同時に、世都はもしかして、と思う。相川さんはお母さまからの愛情を満足に受けることができなかった。これは試し行動なのでは無いかと。
相手の愛情が感じられなくて、でも欲しくて、それを実感できる行動をしてしまう。ネグレクトに遭った人がしがちだと聞いたことがある。相川さんに限って、と思うのだが、人の心の奥底までは分からない。
「でも、今日はやっと一緒に来れたんやから、いろいろ飲むで。相川も好きなん頼んでな」
この言葉から、普段のデートでは畠山さんが支払いを請け負っていることが伺えた。
「私、いつも千利休なんよ。好きやねん」
畠山さんは日本酒のおしながきに目を通す。そして眉根を寄せた。
「まぁた相川はいちばん安いもん頼もうとする。何でそんな遠慮するんかなぁ」
相川さんは「ふふ」と苦笑する。それが相川さんの人間性なのだろう。奢られることを後ろめたく感じる人もいる。相川さんの場合はご祖父母が亡くなってから、誰かに何かをしてもらう様なことがほとんど無かったのでは無いだろうか。
相川さんは甘えることが苦手なのかも知れない。そういう環境にいなかったから。
「ほな、今日は僕のおすすめ飲んでみてや。そうやなぁ」
畠山さんはまたおしながきに目を落とし、やがて「うん」と頷いた。
「すいません、相川に黒龍を、僕には田酒ください」
「はい。お待ちくださいね」
黒龍大吟醸龍は、兵庫県の黒龍酒造さんが醸す日本酒だ。まるでパイナップルの様にジューシーで、香り高い一品である。甘口なのだが程よい酸味もあり、すっきりと飲みやすいのだ。
田酒特別純米酒は青森県の西田酒造店で作られる日本酒である。甘みが控えめで、すっきりとした飲み口。ミントを思わせるような爽やかさも併せ持つ一品だ。
「お待たせしました」
相川さんには黄色い切子ロックグラス、畠山さんには緑の切子ロックグラスで日本酒を用意する。ふたつ並べると、まるでそこに花が咲いた様に華やかに見えるのだ。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ふたりは声を揃えてグラスを受け取り、軽くこつんと重ねて、そっと口を付けた。途端に相川さんの顔がほころぶ。
「……美味しい」
「な、黒龍も美味しいやろ。果物みたいな甘みがあってな」
相川さんの反応に、畠山さんは得意げな様子を見せた。畠山さん自身が好きなお酒なのだろう。
「あ、ご飯も頼まなな。空きっ腹やったら悪酔いしてまうわ。相川、何がええ?」
「畠山くん好きなん頼んでや。私、適当につまむから」
「またそんなこと言うんやから。僕は相川が好きなもん食べて欲しいねん」
きっと、お食事のたびにこんな応酬があるのだろう。畠山さんの声は始終穏やかだから、呆れている風でも怒っている風でも無い。きっと気遣っているだけなのだと思う。
優しい人なのだな、世都はそう感じる。
立場は人を変えることがある。例えば相川さんや畠山さんの様に高学歴であるなら、それを鼻に掛けたりする人もいる。会社で出世して上に上がれば上がるほど横柄になる人もいる。
人間なんてそんなもんだと言われればそれまでである。それでも自分を律することができる人も大勢いる。世都は余計なお世話ながら、畠山さんもそういう人であって欲しいと思う。
国立大学出身なのだから、畠山さんも「ええとこ」に就職している可能性が高い。そういう企業はきっと出世争いも苛烈だろう。それでも畠山さんには今のままでいて欲しい。
それは世都の勝手な思いである。でもどうか、相川さんを幸せにしてくれる人間性と度量を保って欲しいと思うのだ。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
相川さんはぺこりと小さく頭を下げ、カウンタ席に掛ける。男性も自然に相川さんの隣に腰を降ろしたので、やはりお連れなのだろう。
世都はふたりにおしぼりを渡す。5月も中旬になりすっかりと気温も高くなって来ていて、おしぼりは常温である。
「ありがとうございます」
先に男性に渡すと、にこりと笑みを浮かべた。感じの良い人だ。続けて相川さんにも。
「ありがとうございます。あの、女将さん、こちら、お付き合いをしている畠山くんです」
「畠山です。いつも相川がお世話になっていて。僕が言うんもおかしいかもですけど、ほんまにありがとうございます」
「いえいえ。相川さんにはいつもご贔屓にしてもろて。こちらこそありがとうございます」
世都は深く頭を下げた。世都はこの畠山さんに良い印象を持った。さすが相川さんが選んだ男性である。相川さんとは大学で知り合ったのだから、畠山さんも頭脳明晰なのだろうが、人当たりがとても良い。腰も低い。内容は畏まっているのに、崩す塩梅も心得ている。
畠山さんは「とんでもありません」と、また人好きのする笑みを浮かべた。
「畠山くん、ここ日本酒めっちゃ豊富やから。畠山くんも日本酒好きやもんな」
「うん。せやからめっちゃ楽しみにしてた。相川からここのこと聞いて、連れてってーて言うても聞いてくれへんかったし」
「ここは私の隠れ家やねん。今日は女将さんに紹介したかったから一緒に来たけど、基本私ひとりで来るから。一緒に来たいときは、私にお伺いを立てること」
「そんなぁ〜、殺生やわぁ」
相川さんがぴしゃりと言ったせりふに、畠山さんはがっくりと項垂れる。おや、どうやら畠山さんは相川さんの尻に敷かれている様だ。
と同時に、世都はもしかして、と思う。相川さんはお母さまからの愛情を満足に受けることができなかった。これは試し行動なのでは無いかと。
相手の愛情が感じられなくて、でも欲しくて、それを実感できる行動をしてしまう。ネグレクトに遭った人がしがちだと聞いたことがある。相川さんに限って、と思うのだが、人の心の奥底までは分からない。
「でも、今日はやっと一緒に来れたんやから、いろいろ飲むで。相川も好きなん頼んでな」
この言葉から、普段のデートでは畠山さんが支払いを請け負っていることが伺えた。
「私、いつも千利休なんよ。好きやねん」
畠山さんは日本酒のおしながきに目を通す。そして眉根を寄せた。
「まぁた相川はいちばん安いもん頼もうとする。何でそんな遠慮するんかなぁ」
相川さんは「ふふ」と苦笑する。それが相川さんの人間性なのだろう。奢られることを後ろめたく感じる人もいる。相川さんの場合はご祖父母が亡くなってから、誰かに何かをしてもらう様なことがほとんど無かったのでは無いだろうか。
相川さんは甘えることが苦手なのかも知れない。そういう環境にいなかったから。
「ほな、今日は僕のおすすめ飲んでみてや。そうやなぁ」
畠山さんはまたおしながきに目を落とし、やがて「うん」と頷いた。
「すいません、相川に黒龍を、僕には田酒ください」
「はい。お待ちくださいね」
黒龍大吟醸龍は、兵庫県の黒龍酒造さんが醸す日本酒だ。まるでパイナップルの様にジューシーで、香り高い一品である。甘口なのだが程よい酸味もあり、すっきりと飲みやすいのだ。
田酒特別純米酒は青森県の西田酒造店で作られる日本酒である。甘みが控えめで、すっきりとした飲み口。ミントを思わせるような爽やかさも併せ持つ一品だ。
「お待たせしました」
相川さんには黄色い切子ロックグラス、畠山さんには緑の切子ロックグラスで日本酒を用意する。ふたつ並べると、まるでそこに花が咲いた様に華やかに見えるのだ。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ふたりは声を揃えてグラスを受け取り、軽くこつんと重ねて、そっと口を付けた。途端に相川さんの顔がほころぶ。
「……美味しい」
「な、黒龍も美味しいやろ。果物みたいな甘みがあってな」
相川さんの反応に、畠山さんは得意げな様子を見せた。畠山さん自身が好きなお酒なのだろう。
「あ、ご飯も頼まなな。空きっ腹やったら悪酔いしてまうわ。相川、何がええ?」
「畠山くん好きなん頼んでや。私、適当につまむから」
「またそんなこと言うんやから。僕は相川が好きなもん食べて欲しいねん」
きっと、お食事のたびにこんな応酬があるのだろう。畠山さんの声は始終穏やかだから、呆れている風でも怒っている風でも無い。きっと気遣っているだけなのだと思う。
優しい人なのだな、世都はそう感じる。
立場は人を変えることがある。例えば相川さんや畠山さんの様に高学歴であるなら、それを鼻に掛けたりする人もいる。会社で出世して上に上がれば上がるほど横柄になる人もいる。
人間なんてそんなもんだと言われればそれまでである。それでも自分を律することができる人も大勢いる。世都は余計なお世話ながら、畠山さんもそういう人であって欲しいと思う。
国立大学出身なのだから、畠山さんも「ええとこ」に就職している可能性が高い。そういう企業はきっと出世争いも苛烈だろう。それでも畠山さんには今のままでいて欲しい。
それは世都の勝手な思いである。でもどうか、相川さんを幸せにしてくれる人間性と度量を保って欲しいと思うのだ。