日付変わって火曜である。
 登校すると校内の様子が一変していた。

 今日から学祭準備解禁。どのクラスも驚くほどの気合の入りようだ。
 柚月のクラスも例外ではない。
 一歩教室へ入った途端だ。いつもなら陽気に手を振る陽翔が「うす、柚月」と低い声で呼びかけた。

「カニなんだけどさ。このデザインでいいと思う? 色合いはどんなのがいい? シック系? カラフル系?」

 えっと、と黒板前へ視線を向ける。
 行灯班の女子たちが鋭い視線でこっちを見ていた。

「……わたしは模擬店班だからね。そういうのは行灯班で決めたらどうかな」
「クラスの出し物には変わりがないでしょ」

 そうだけど、と口ごもると「ああはいはい―」と仁奈が声をかけてくれた。

「ウチの柚月に頼らないでねー。模擬店班も決めること山積みだから。ほかの班に首を突っ込んでいる場合じゃないから」
「少しくらいいいでしょ」
「私、模擬店班のリーダーなんだけど。なんか文句あるかな」
「……ないです」

 すごすごと陽翔は黒板方面へ引きさがっていく。
 ホッとして「仁奈、ありがとうー」と手を合わせた。

「陽翔くんってさ。自分の人気をわかってないよね。いつもはなんてことない挨拶でもだよ。祭りになると神経質になるコがいるって、どうしてわかんないのかね」

 鼻息をあらくした仁奈が「と、いうのもあるけど」と、急に弱い声になる。

「模擬店班もちょーっとピンチでね。柚月の力が必要なんだよ」
「ど、どうしたの」
「ホームルームで頼むから」
「だからなにを」と繰り返すうちにホームルームがはじまった。

 学祭の班に分かれての打ち合わせだ。

 模擬店班は甘味処。メインメニューは白玉団子に決まった。安いし手軽にできるし、傷む心配もさほどない。学祭にうってつけだ。
 問題はその次だ。

「白玉の味なんだけど、定番のきな粉と、それからシロップがけにしたいよね。そこで」

 仁奈、亜里沙をはじめメンバー全員が柚月へ両手を合わせた。

「柚月の梅シロップを使わせてください」

 はいっ? と声が裏返る。

「どうしてわたしの梅シロップ?」
「亜里沙から聞いたんだよ。柚月の梅シロップがすっごくおいしいって。うちらも食べたいし、学祭でもきっとみんなが喜ぶよ」
「ごめんなさい。口が滑りましたっ」
 メンバーの声に亜里沙が柚月へ両手を合わせる。

 ピンチってこういうこと? 
 仁奈を見ると小さく「ごめん」と口を動かしていた。

「お願い、柚月」

 メンバー全員に繰り返される。
「材料代は出すから。少しでもいいから融通できないかな」と仁奈が申し訳なさそうに続けた。

 顎に手を当てる。
 この梅シロップ、巌の大好物だった。
 毎年三リットル容器五個分作る。
 青梅と氷砂糖は巌が自ら厳選して購入してくる気の入れようだ。
 今年も先月中旬に「いいのがあったぞ」と巌が頬を染めて青梅を入手してきた。まさにそろそろ飲み頃だ。その父がいい顔をするだろうか。
 うーん、とうなり声が出る。

「提供できるのは、がんばってひと瓶くらいかな。えっとね。シロップだけの量でいうと一リットルちょっと。足りる?」

「やったー」と拍手が起きる。そこへまたもや「え? なになに」と陽翔がやってきた。
「梅シロップ? 柚月が作った? 絶対おいしいでしょ」とはしゃいで、黒板方向からは「陽翔、帰ってこーい」と声がかかる。
「ああはいはい」と仁奈が割って入る。

「陽翔くんは戻って。これからほかのメニューを決めなくちゃいけないんだわ。メインメニューとサブメニューとドリンクメニューとテイクアウト可能メニュー、店内レイアウト、必要な飾りつけピックアップに担当グループを決めるの」

 模擬店班全員で「無茶でしょうっ」と声を裏返した。
 陽翔は「お邪魔しました」と逃げていく。
 その後、細かいメニューを決めて残り時間でグループに分かれて作業をしているときだ。
「……というかさ」と仁奈がぼそりと柚月へ声を出した。

「わかりやすすぎて、いうのもどうかと思ったんだけどさ。あんたがあんまり普通にしているからどうかなって思って」
「うん? なにが?」
「いや、やっぱ、なんでもない」
「えー。またそれ? いってよ」
「ならいうよ? ──陽翔くんって、あんたのこと、好きでしょ」

 へっ、とペンを落としそうになる。

「うん、めちゃ好きだよね」と亜里沙もうなずく。
「ちょっと、止めてよ」

 そうだね、と亜里沙は声をひそめる。

「適当なことはいえないよね。陽翔くんって人気あるし、狙ってる女子もいるし。でも」
「うん、でも」と仁奈も柔らかい表情で柚月へささやいた。
「柚月にその気があるなら応援するよ?」

 その気って、とこわばった顔になる。

 だって、だって……個別にSNSをもらっても、ずっと他意はないって思おうとしてきた。陽翔くんは誰にでも人懐っこいからって。勘違いしちゃ駄目って。
 なのにそれを二人に『そうじゃない』っていわれても。
 そんな急に気持ちを切り替えるのは……。

「あー……ごめん。柚月はまだそういう気分じゃなかったか」
「お父さんラブだもんね」
「そんなことないけど」
「『けど』父、大事でしょ」、「ちょい悪オヤジなんでしょ?」と二人は茶化す。
「大学教授なんてカッコいいもんねえ。そりゃ自慢でもしょうがないよ」
「そんなことないって」

 拳を握って主張すると、不意に阿寒の姿が目に浮かんだ。
 真剣な顔でおにぎりに向き合う阿寒にスーパーで見かけたスーツ姿の阿寒だ。

 え? なんで? 目をしばたたく。
 だってまだ二回しか会っていないのに? 
 なんだか顔が熱くなり、柚月は浮かんだ阿寒を消すようにそっと顔の前で手を振った。