夕飯の席である。

「実はね」と柚月はダイニングテーブルへ阿寒の名刺を置いた。阿寒とのいきさつをさらりと伝える。巌は「ああ?」とビールグラスを乱暴に置いた。

「なんだそいつは。気味が悪いな」
「またそんなこといって」
「だってお前はセーラー服を着ていたんだろう? なのにひるまず『握り飯を食ってほしい』? どんなロリコンだよ」
「いいすぎだから」
「そもそも俺は土曜の話を聞いてねえ」
「いちいちいわないわよ」
「いえよ。聞きてえよ。どこでどんなふうに出会ったんだよ。もっと具体的にいえよ。なんでそいつは俺の握り飯を食ってんだよ」

 俺の愛するタコさんウインナーも食っただと? 冗談じゃねえ、返せよ俺の土曜日を~、うんぬん。
 パシンと柚月はテーブルへ箸を置く。

「お父さん、しつこい」
「だってよ」
「なによ」と柚月が巌へ鋭い眼差しを向けたときだ。

 つけっぱなしにしていたテレビからチャイム音が聞こえた。
 地震速報だ。
 途端に巌は椅子を蹴った。国営放送へチャンネルを変え、同時にスマートフォンで震源の検索をする。

「紀伊水道かー。……あそこなら揺れてもしゃあねえわな」

 いつもの乙部家の光景だ。
 巌がこの調子なので、柚月は中学へあがるまで「地震があったら、人は怖がるのだ」ということを知らなかった。
 ひととおり情報を仕入れて満足したのか、巌は上気した顔で冷めた味噌汁をすすった。

「ここもいつシャレにならねえ揺れがくるかわからねえ。覚悟しておけよ。なにしろ地震は──」
「備えることしかできない、でしょ?」
「おう。ほんじゃあまあ、ちょっと調べてみるか」
「紀伊水道の地震を?」
「阿寒だ。ヤバい会社じゃなけりゃ、ひとつくらいは検索でヒットするだろう」

 いうがはやいか、巌はわしわしとハンバーグを平らげる。

「ごちそーさん」と食器を流しへ片づけて、阿寒の名刺を片手に仕事部屋へ入っていった。

「わたしはまだ食べているのにー」

 頬を膨らませてハンバーグを口へ入れる。
 大根おろしも甘くすれたし、シソの風味が爽やかだ。お父さんにもこれをわかってもらいたかったのになあ、と遺影の祖母へ視線を向ける。

 やがて仕事部屋から「うお?」とか「はあ?」と声が聞こえた。
 なにを見つけたんだか。……気になる。
 そそくさと残りのご飯を平らげて、食器もそのままに柚月は巌の仕事部屋へ向かった。
 開けっ放しだったドアから顔をのぞかせると、巌が振り返って「ほれ」と顎をしゃくった。パソコンモニターを見ろということらしい。

「俺はまったくの専門外だから知らなかったんだけどな」

 モニターには何ページにも渡って『阿寒公武』の文字があった。

「え? すごい。有名人?」
「機械学習業界っつうかディープラーニング業界ではそこそこメジャーらしいな。ドクター取る前から結構期待の新人あつかいされていたっぽい」
「ドクター? 博士号を持っているってこと? すごい」
「俺だって持ってる」
「ああはいはい」
「なんだよ、俺だってすごいだろう」と阿寒に張り合いながら巌は「こいつ、京都の大学を出ている。出身もそっちらしい」と続けた。
「きょうとだいがく?」

 思わずひらがなで聞き返した。
 そんなにすごい人だったなんて。おにぎりを追いかける姿からは想像もつかない。

「こんなやつがどうして民間にいるんだ? その大学で助教もやっていたみたいだしよ。科研も小さいやつだが二つ持っていたぞ。業績だって結構ある。それなのに握り飯? わけわかんねえな」
「そういえば、会社では最年少だっていってた」
「とすると縁故問題か? 就職せざるを得なかったってか? ──苦労人かよ」

 なんだよもう、と巌は嫌そうにパソコンのメールソフトを開く。

「日曜でいいんだな?」
「返事をしてくれるの?」
「俺も一緒にいってやる」
「えー」
「だってお前、いくなら弁当作っていくだろう?」
「あ、そっか。おにぎりは阿寒さんのがあるとして、おかずは作った方がいいかな。なにがいいかな。とり天? チーズちくわ天?」
「そういうのが悔しいっつってんだよっ」と吠えつつ巌は送信ボタンをクリックする。
「普段もお弁当を作っているでしょう?」
「大学へ持っていく弁当と休みの日に食う弁当はぜんぜん違うっ」
「どう違うのよ」と呆れていると「お」と巌が声をあげる。
「返事がきたぞ」
「早すぎるでしょう?」
「パソコンに張りついてメールを待っていたんじゃねえのか? 俺も是非一緒にとある。大学のアドレスで送ったのが利いたな」
「それ、脅しなんじゃ」
「阿寒がろくでもねえやつだったらどうすんだよ。学歴や業績があったとしても、人間としてまともなやつかどうかはわかんねえだろう」

 それ、お父さんがいう? と顎を引く。
 声にしていないのに巌は「うるせえよ」と吐き捨てる。自覚があったらしい。

「よおし、日曜な。今度こそピクニックな。ああ、早く日曜にならねえかな」

 月曜の夜に、日曜に焦がれる巌なのであった。