遅くなっちゃった、と柚月は足早に地下鉄の改札口を出た。
 思いのほかホームルームが長引いた。カニ圧勝の熱気が冷めず、帰宅のタイミングがつかめなかったのだ。

 地下鉄直結のスーパーへ入り、挽肉を買おうと精肉コーナーへ向かったときだ。

 鮮魚コーナーにスーツ姿の長身男性が立っているのが見えた。
 帆立の刺身を浮かない顔つきで眺めている。あの人は、と目を見張る。
 間違いない。土曜日の青年だ。
 また会えたのが嬉しくて、柚月はにこやかに声をかけた。

「こんにちは」
「へ? ああ、あなたは土曜日の──って、えええっ? 高校生っ?」

 青年は柚月のセーラー服姿を見て盛大にうろたえた。
「な、え?」、「ちょ、ま」と意味不明な言葉を短く発し、口元を手でおおう。……同世代と思われていたのかな。喜ぶべきなのか、それとも、と反応に困る。

 二分くらいたっただろうか。青年は深呼吸をして柚月へ頭をさげた。

「大変失礼しました。あらためて先日はどうもありがとうございました。とても参考になりました」
「お役に立てたならよかったです」

 はい、とうなずく青年の表情が硬い。

「あの、なにかありましたか? えっとその、わたしが高校生だということのほかに」
「えっ。どうして?」
「元気なさそうです。おにぎりが転がっていった土曜日よりずっと」

 あー……、と青年はバツが悪そうな顔になる。

「実は、いただいたアドバイスどおりにおにぎりを作ってみたんですが、ぜんぜんうまくいかなくて」
「土曜からずっとおにぎりにこだわっているんですか?」

 それって、と声を小さくする柚月に気づいたのか、青年は「いや違うんです」とあわてた。

「実は食品関連の仕事をしていまして。いろいろピンチな状況でして」

 なんだ、と柚月は胸に手を当てる。お仕事熱心なだけだったのか。
 しょんぼりとする青年へまた「あの」と声を出す。

「ご飯を召し上がっていますか?」
「え?」
「お仕事としてのおにぎりとかじゃなくてご自身が食べたいものです」
「それは……」
「わたし、ご飯はとっても大事だって亡くなった祖母に教わりました。疲れているときほどご飯を食べなさいって」

 急いでいたり、うまくいかなくてやけになっていたりするときこそご飯を食べる。それが祖母の教えだった。

 食べている場合じゃないよ、といい返すと口に甘い玉子焼きを突っ込まれた。凝り固まった気持ちがみるみるほどけていって、祖母が正しいと柚月はなんど思い知らされたことか。

「素敵なおばあ様ですね。今日の献立はなんですか?」
「シソを混ぜた大根おろしをハンバーグにかけたものにしようかと。あとは、そうですね、カブがあるのでお味噌汁にして、カブの菜っ葉は湯がいて揚げ出し豆腐に添えようかなあ」
「それはうまそうですねえ。彩りもよさそうです」
「彩りって重要ですよね。それなりの味もおいしく感じられますから。父の食も進みますし」
「お父様が羨ましい。僕もしっかり食べなくちゃですね」

 ほほ笑んだ青年の顔が次第に真顔になる。青年は小さくうなずくと姿勢を正した。

「あなたにもう一度お会いしたいと思っていました。さきほどもお伝えしたとおり、少々ピンチな状況にありまして」

 そして上着の内ポケットから名刺を取り出し柚月へ差し出した。

阿寒(あかん)公武(きみたけ)といいます。サッポロ・サスティナブル・テクニクスという企業でAI事業プロジェクトチーム主任をしています」

 AI? 食品関連っていっていなかったっけ? 
 首をかしげる柚月に構わず阿寒は続けた。

「お願いがあります。次の土曜か日曜に、僕の作ったおにぎりを食べていただけませんか? どうしてもまたあなたのご意見が聞きたいんです」

 目を見張る柚月に「あ、えっと」と阿寒は我に返ったように声を小さくした。

「こんなおじさんと一緒におにぎりを食べるなんて嫌かもしれませんけど。ですがあの、やましい気持ちはありませんし、昨日の公園とかオープンな場所ならどうでしょうか」

 柚月はしげしげと阿寒を見た。

「阿寒さんは、ご自分のことをおじさんだって思っていらっしゃるんですか?」
「へっ? い、いえ。会社では四十、五十代がほとんどで僕は最年少なので普段はそういう意識はまったくありません。ですが、あなたよりは十歳は年上で」

 そこで阿寒は言葉を切る。言い訳がましいと思ったのか。深呼吸をすると阿寒は柚月へ丁寧に頭をさげた。

「よろしくお願いします。お父様にもご連絡をさせていただきます」

 ただ、と阿寒は息を継ぐ。

「会ったばかりの僕があなたの連絡先をうかがうのは失礼です。お手数ですが、お父様のご了承を得られましたら、お渡しした名刺のメールアドレスへご連絡をいただけますでしょうか」
「そんなまどろっこしいことをしなくても。公園でおにぎりを食べるだけなんですよね? 父にいう必要なんて」
「いえ、不用心です。僕が怪しいやつだったらどうするんですか? 詐欺とか宗教勧誘かもしれない」
「宗教勧誘なんですか?」
「違います」

 もう、と柚月は笑った。つられたように阿寒も笑い出す。

「じゃあ父へ連絡するように伝えます。天陣山の、えっと、先日と同じ斜面でいいですか? 日曜の方が都合がいいです。土曜は学祭の準備があるかもしれないので」
「学祭っ。そうかあ、本当に高校生なんですねえ」

 阿寒は少し遠くを見るような眼差しになる。

「では日曜のお昼に天陣山でお会いできることを願っています」

 そういって阿寒は丁寧に頭をさげた。