教室へ入った途端だ。

「柚月―、おはよう柚月―」と声をかけられた。
 陽翔だ。
 黒板の前で柚月へ両手を振っている。

「柚月―っ、カニだよ。カニだからねーっ」

 続けられて、ん? と首をかしげた。その柚月へ仁奈と亜里沙が「柚月、おはよう」と声をかける。

「行灯のアイデアだってさ」
「帰りのホームルームで出し物を決めるから、ああやってPRしているんだよ」
「二人ともおはよう。そういうことね。PRが必要なくらいほかに候補があるの?」
「二、三個かなあ。それにアレを見て」と仁奈が前方を指さした。

 黒板脇の掲示板に『クラスの出し物は模擬店、飲食枠に決定』と大きな文字で貼り紙がしてあった。

「やった。わたし、食べ物屋さんがやりたかったの」

 ねー、あたしも、と二人が続く。「なんだよーっ」と陽翔の声が飛んできた。

「柚月も行灯やろうよ。カニはいいぞお。なんといってもカニだからさあ」

「だからなんでカニだよ」と周りの男子から野次が飛ぶ。
「夏っていったらカニでしょうが」と陽翔は明るく笑って、登校してきたほかのクラスメイトにも「カニをよろしくうっ」と声をかけていく。

 休み時間も陽翔は積極的にカニPRだ。
 事あるごとに「カニ、カニ」と声をあげ、昼休みにはカニのイラストを掲示板へ貼りつけていた。
 柚月がSNSで見た画像ではない。絵心のある誰かが陽翔のラフ画をもとに描き起こしたらしい立派なカニのイラストだった。
 おお、と声が漏れる。

「すごい情熱ね。そりゃうちの高校の行灯作りは毎年本格的だけど」
「あんたがそれをいう?」と仁奈が笑った。
「どういう意味?」
「あんたのお弁当への情熱も陽翔くんに負けていないってこと」
「そうかなあ」
「ホント、すごい情熱だよ」と亜里沙も大きくうなずく。仁奈があらためて柚月の弁当箱を見る。
「何時に起きたの?」
「ん? 五時かな」
「五時っ」と二人は声を裏返す。
「あー、わたし、とろいからお弁当作りに時間がかかっちゃうのよ」
「それを情熱っていうんでしょ」
「だっておいしいお弁当があると一日が楽しくなるでしょう?」
「そりゃそうだけど」
「おばあちゃんがそういって作ってくれていたのよ。お父さんも楽しみにしているしね」

「出たよ、ファザコン」とこれまた二人が声を合わせたときだ。
「おおお」と感嘆の声がした。陽翔がすぐ隣に立っていた。

「相変わらずうまそうな弁当」

 今日の献立はスクエア型の弁当箱に、ひと口カツ、きんぴらごぼう、煮卵、カブの浅漬け、プチトマト、それから菜飯ご飯を彩りよく入れた。本当はわっぱ弁当箱を使いたかったのだが「やりすぎだから」と仁奈に止められたのだ。

「食いて―」といいかけて仁奈と亜里沙の顔色が変わったのを見たのだろう、陽翔はあわてて咳払いをする。「これ」と柚月たちへ用紙を差し出す。

「学祭イベントの班分けだってさ。『行灯』にチェックを入れて昼休み中に学祭委員へ出してよ。特に柚月、間違えるなよー」

 見ると用紙には『行灯』と『模擬店』の二項目があった。
 柚月たちはその場で『模擬店』へチェックを入れる。「なんでだよっ」と陽翔は吠える。柚月は首をかしげて陽翔を見た。

「行灯班は人手が足りないの?」
「そういうわけじゃないけどさ」
「わたしは甘味処(かんみどころ)をやってみたいなあ。大詰めになって人手が足りなくなったら手伝いにいく。それじゃ駄目?」
「そりゃおれだって柚月の甘味を食いたいけどさあ」

 なんだよちぇー、と陽翔は不貞腐れつつも「出しておいてやるよ」と柚月たちの用紙を受け取り去っていく。
「……悪いコじゃないんだけどね」、「そうなんだよね」と仁奈と亜里沙はつぶやいた。
 それからそろって柚月へ顔を向ける。

「柚月さ。なんか……嫌がらせとか受けていない?」
「へ? なんの? 誰に?」
「あー……受けていなさそうだね。よかった。ならいいよ」
「だからなんの?」

 繰り返しても二人とも曖昧に笑うだけだ。なんのことだかさっぱりわからない。

 そして迎えた放課後のホームルームだ。
 行灯デザインのコンペがはじまった。

 学校祭で全クラスが出品する行灯作り。数十年の歴史がある学校行事だ。
 学祭最終日にはその行灯を担いで町内を練り歩く。
 このため学校行事にとどまらず、近隣地域でも名物の行事だ。

 作る行灯サイズ規定は普通乗用車並み。各種コンテストも設けてあり、入賞するためには作業最初のデザインが鍵となる。

 陽翔の対抗馬は平家物語をモチーフとしたデザインだった。
 毎年人気があるモチーフだ。
「カニなんてふざけた行灯を作ったら、諸先輩方に顔向けできねえ」という親兄姉や親戚が本校出身者のグループだ。その本校の伝統うんぬんを全面にあげた至極まっとうなプレゼンのあとだ。

 迎えた陽翔はいきなり吠えた。

「みんな、祭りは好きかーッ」、「祭りとはなんだーッ」、「楽しまなくちゃ意味がないだろーッ」。

 立て続けの陽翔の呼びかけに次第に「おーっ、祭りだーっ」と沸いていく。

「おれのデザインは伝統に囚われない自由がある」、「伝統を無視するんじゃない。伝統を踏まえたうえで、次世代の可能性を示すんだ」、「それができるのはおれたちだーッ」

 おーっ、と大声援になる。
「なんだかITベンチャー企業の企業理念みたいだね。だけどなんでカニ?」と亜里沙がつぶやき、「ひょっとして」と仁奈が柚月へ顔を向けた。

「あんた陽翔くんになにかいった?」

 ギクッとする。
 二人は「ああ」と機敏に察し、「勢いだけでクラスの合意が得られるとも限らないし」と続けた。

 けれども勢いというのは重要らしい。

 面白い方へ一票と思うクラスメイトが多かったのか。
 投票結果は陽翔のカニの圧勝だった。

「柚月っ、やったー。カニだぞ、カニっ」

 沸きあがるクラスの中で陽翔はひたすら柚月へ手を振った。
 陽翔ファン女子の視線が痛い。
 柚月は居心地悪く身を縮めるばかりだった。