小一時間ほどひとりピクニックを楽しんだあとだ。鼻歌まじりでマンションへ戻ると、あわただしい足音が近づいてきた。
巌だった。
「お、間に合ったか? がんばった俺。よくやった俺。さあさあさあ。ピクニックへいこう」
「なにいってんの。もういってきたわよ」
柚月は呆れ顔で玄関の鍵を開ける。
「なんだと? 弁当は?」
「食べた」
「少しくらい残っているだろう。食わせろ」
「ないってば」
「なんでだ。お前、二人前作っていただろうが」
う、と言葉に詰まる。
別にやましいことはない。青年とのいきさつを話すのは問題ない。
だけど、と振り返って巌を見あげる。話せばそれはもう面倒くさいことになりそうだった。
柚月は父から顔をそむける。
「お腹が減っていたの」
「俺だって減ってるわっ」
あーもー、と柚月は巌を押しのけ中へ入る。
巌は「俺がどんだけ必死で戻ってきたかー」とか「お前の弁当を昨日からずっと楽しみにしていたのにー」とか「タコさんウインナーはどうなった。あれもぜんぶ食ったのか? なあなあなあ」と、うんざりするしつこさだ。
手で耳をふさいで祖母の遺影を見る。
おばあちゃーん、お父さんがうるさいんですけどどうしたらいい?
遺影の祖母は笑うだけだ。すうっと気持ちが落ち着いた。
──ひょっとしたら本当にお昼ご飯抜きで帰ってきたのかも。
どこの山へいったのかはわからないけど、夕方前に戻るって、よっぽど急いで帰ってきたんだろうし。
チラリと父の顔を見る。この世の終わりみたいな顔をしていた。
……しょうがないなあ。
台所で手を洗ってお櫃を手に取る。祖母が愛用していたものだ。
炊いたご飯がおいしくなるので柚月も大切に使い続けていた。
濡らした手にたっぷりの塩を取ってお櫃のご飯をふっくらと握っていく。しっかりしょっぱい梅干のおにぎりと明太子のおにぎりだ。
「中途半端な時間だからこれでいいでしょう?」
はい、とダイニングテーブルへ皿を置くと、巌は「おおお」と手を震わせて「いただきますっ」と両手を合わせた。
「うめー。サイコー。やっぱ柚月の飯はうめー」
わかったから、と笑って巌の前に麦茶を置く。
「それでポスドクさんたちは無事だったの?」
「おう。あいつら『崖崩れにつき立ち入り禁止』の看板を無視して露頭へ近づきやがってよ。調査には危険がつきものだっつう自覚がゼロだ。あんなのが博士で世の中大丈夫なのかよ」
「世の中はお父さんみたいな人が大学教授で大丈夫なのかって思っているわよ」
「何十年も好きな研究だけやって飯食ってるやつが人徳者なわけねえだろが」
「またそんな尖ったこといって」
「それより」と巌は指についた飯粒を舐めとる。
「地震があっただろう。大丈夫だったか?」
「へ? いつ?」
「十一時四十七分だ。震源は十勝沖。マグニチュードは5.3。最大震度は十勝の大樹町あたりで震度4。ここいらでも震度3だったはずだ」
実に専門家らしい返答だった。いつものことだ。
「あー、外にいたからかな。わかんなかった」
多分、おにぎりとエゾリスの攻防を夢中で見ていたころだ。「そうかよ」と巌は麦茶をひといきで飲み干す。
「最近地震が頻発しているからな。次も大丈夫だなんて思わず気をつけろよ」
「これ以上どう気をつけるの?」
眉をさげて室内へ視線をやる。
玄関には調査用ではなく乙部家の防災グッズのヘルメットがかかっている。
家具にはしっかりストッパーをつけてあり、すべての部屋に懐中電灯と非常用のスリッパを完備だ。
携帯ラジオ、マスク等の衛生用品に風邪薬などの救急用品、防寒具、簡易トイレがひとまとめに整っている。食料や飲料水ストックはいうまでもない。
地震発生時の避難手順も月イチでミーティングをしている。
「地震を舐めるなよ? そもそも地震を予知するなんて不可能だからな。防ぐことなんてもっとできねえ」
「そうだけど」
「俺たちにできるのは備えることだけだ」
ドヤ顔で巌は断言した。
ああはい、と柚月は麦茶をすする。
いっていることは正しいしカッコいい。でも一日に何度も聞かされるとうんざりする。
「なんだよ。真面目に聞けよ」と柚月の反応に巌が不服そうな声を出したときだ。柚月のスマートフォンから着信音がした。SNSの新着メッセージ音だ。
仁奈か亜里沙かな? そう思ってスマートフォンを手に取り、ハッとする。メッセージ主は陽翔だった。
『柚月―、なにしてた? 学祭の行灯デザインができたんだよ。どれがいい?』
メッセージに数枚の画像が続いていた。候補デザインらしい。
よくいえば味のある絵。正直にいえば下手くそな絵だ。とても高校生の作品とは思えない。
「なにこれ」
思わずクスリと笑いが漏れる。それから眉がさがる。
どうしてわたしに聞くのかなあ。クラス全体でのグループアカウントじゃなくて、個人的にメッセージが入ると、どうしても……好意とかもたれているのかな、って思っちゃうでしょ。
ううん、と胸でつぶやく。
勘違いしちゃ駄目。陽翔くんはただ人懐っこくて面倒見がいいだけ。他意はない。
クラスには陽翔くんラブの子たちが結構いるし。あの子たちを差し置いてなんて思うだけで気が重いし。
それにわたしは──。
ふっと、さっきの青年の顔が思い浮かんだ。目を丸くしておにぎりを頬張る青年の顔だ。なんで? 自分の連想にびっくりして、あわてて首を振る。
「どうした? なんかあったのか?」
巌の声と同時に『なあなあ』と陽翔からの催促が入る。巌へ「なんでもない」と返し、陽翔へ『カニかな』と返信をする。不意に巌が勢いよく両手を合わせた。
「うまかったー。ごっそーさんっ」
いいつつ巌は柚月を凝視する。目の前に俺がいるのにスマートフォンを触っているなよ、といいたいらしい。ああはいはい、と画面を閉じる。
「で? 晩飯はなに?」
「いま食べたばっかりでしょう?」
「俺の唯一の楽しみはお前の飯なんだ」
「悲しいことをいわないでよ」
「なんでだ。喜ぶところだろうがよ」
えー? と顔をしかめながら冷蔵庫の中身を思い出す。
「そうだなあ。──アスパラの肉巻きに小松菜のお浸し、長芋のきんぴら、それからキャベツのお味噌汁はどうかな」
「やったー。最高っ」
雄叫びをあげて巌は席を立つ。その背中を見てギョッとする。
「お父さん、背中どうしたの? 泥だらけよ」
おお? と巌は背後へ首を回す。
「あー、ちょいと露頭でな。ちゃんと払ってはあるから家の中に泥は落ちてないはずだ。心配するな。自分で洗濯する」
「そうじゃなくて怪我は? どこか痛むの?」
「そんなヘマはしねえ」
「本当に?」と語気を強めると、証明するように巌は腕や背中を大きく動かしてみせた。
「──無茶したら嫌だから」
「わかってる」
ニカッと笑って巌はその場でシャツを脱ぎ、「洗濯ついでに風呂に入るわー」と洗面所へと向かっていった。
柚月は大きく息をはく。
いつだったか、野外調査先で学生を助けようとして腕を折る怪我をしたこともあった。今回は大丈夫みたいだけど。胸に手を当てる。
「……あのときのおばあちゃんの気持ち、すごくわかるなあ」
おばあちゃん、怒っていたもんなあ。こんなふうに心配だったのね。
シャワーの音を聞きながら、よおし、と立ちあがる。
もう一品、お父さんが好きないももちとか作ろうかな。
ポスドクさんも助けてきたご褒美ご飯ということで、しっかり食べて力をつけてもらおう。
ね、おばあちゃん。
柚月は祖母の遺影へ笑いかけた。