「待って待って待ってっ」

 さっきの奇声と同じ声色だ。
 あっという間にとおり過ぎたので容姿はよくわからないものの、声色に身のこなしから二十代後半くらいの青年に見えた。巌を華奢にした身体つきだ。

 青年はいまにも転びそうな姿勢で必死でおにぎりを追いかけている。その青年の行方を見て柚月は「あっ」と背筋を伸ばした。

 エゾリスがいた。

 まさにおにぎりの進路上だ。背後の藪から出てきたらしく、向かってくるおにぎりに気づいて顔を向けていた。「ごはん?」という顔つきだ。
 そりゃおにぎりはごはんだけど、エゾリスってお米を食べるんだっけ? 
 そうじゃなくて、と立ちあがる。
 早く逃げて。お兄さんに踏みつぶされちゃうわよ。柚月は思わず両手を口元へ当てる。

 時間にすれば十秒かそこらの出来事。
 それがスローモーションのように見えた。

 青年に気づいて目を大きくするエゾリス。
 エゾリスに気づいて背中をこわばらせる青年。
 エゾリスを避けようと青年は足をもつれさせ、エゾリスは尻尾を膨らませて藪の中へ駆け戻っていった。
 その間にも次々と柵を乗り越え斜面の下へと転がっていくおにぎり。
 青年は必死で手を伸ばすけれど届かず、青年のうめき声があたりへ響いた。

 どれほどの無念だったのか。
 その悔しさは数メートル離れた場所にいる柚月にまで伝わり「あの、大丈夫ですか」と思わず声をかけてしまった。

 青年がハッと柚月へ振り返る。
 その顔がみるみるいたたまれない表情になった。
 しまった。声をかけちゃ駄目だった。あわてて視線をそらすと、「……ありがとうございます。大丈夫です」と青年の声が聞こえた。

 けれど声とは裏腹に、青年はおにぎりが転がり落ちた先へ視線を戻していた。
 そんなに大切なおにぎりだったの? こらえきれずまた「あの」と声が出た。

「……お昼ご飯のおにぎりだったんですか?」

 青年は「はい」とうなずく。その姿がまた苦しそうだ。……ものすごくお腹が減っている、とか? 「あの」とまたまた声が出た。

「あの、よかったら、わたしのを召し上がりますか?」
「はい?」と青年が顔をはねあげる。
「あ、いえ」と柚月はあわてた。
「本当にもしよかったらで。手作りおにぎりが苦手な方もいらっしゃると聞きますし」

 ……なんでわたし、こんなことをいい出しちゃったんだろう。
 恥ずかしくて身を縮めると、きゅるるる、と音が聞こえた。青年の腹の音だった。
 そっと青年を見る。青年はバツの悪そうな顔をしていた。
 それを見て肩の力が抜ける。

「たくさん作ったので、本当にお嫌じゃなかったら」

 レジャーシートへ戻って柚月は青年に「どうぞ」と勧める。
 青年は躊躇していたけれど、よほど空腹だったのだろう。
「……ではお言葉に甘えて」とシートへ膝を進めた。弁当箱をのぞき込んで青年は目を見張った。

「これを全部作られたんですか? おひとりで?」
「あー、はい。ちょっと早起きしました」

 青年はひといきうなって弁当箱を眺めていたが、やがて「失礼します」と真っ直ぐにおにぎりへと手を伸ばした。
 野沢菜を細かく刻んで白ゴマと混ぜ込んだおにぎりだ。真ん中にはタネをはずした梅干が入っている。

「いただきます」

 深々と頭をさげてから青年はおにぎりを口へ運ぶ。
 そしてひと口食べたところで雷にでも打たれたように目を大きく見開いた。
 呆けた顔つきでおにぎりから口を離し、おにぎりを凝視する。

「……なんじゃこりゃ……」

「あ、あの」と柚月は急いで青年へカップを差し出した。
「お口に合わなかったのなら無理なさらないで。お茶で口をすすいでください」

 青年は答えず、おにぎりを睨み続けた。
 その目が次第に充血していく。顔もこわばり、頬は小刻みに震えだした。そのまま卒倒しそうだ。
 え? なに? ひょっとしてなにかの発作? 救急車を呼ぶべき? 
 柚月がスマートフォンを取り出して操作しようとした、そのときだ。
 勢いよく青年が柚月へ身を乗り出した。

「このおにぎり、どうやって作ったんですかっ」