翌朝の午前五時前だ。
柚月はブランケットをたたむとそっとグランドへ出た。
公武だけでなく小清水もあれこれ気づかってくれたけれど、慣れない避難所に加えて絶え間ない余震だ。なかなか寝付くことができずうつらうつらと一夜をすごし、少し早いけれど、と起き出してきた。
今日も晴天だ。朝の空気が心地いい。
大きく伸びをして、手を止める。
グランドの向こうから誰かが入ってくる。ガッシリとした自転車を押した大柄な男性だ。大きな荷物を背負っている。
あれは、と目をこらすよりはやく男性が「うおおい」と柚月へ手を振った。
「お父さんっ」
巌は柚月へ駆けより自転車のスタンドを立てるのももどかしそうに柚月を強く抱きよせた。
巌の汗のにおいが身体を包む。いつもなら汗臭いこの匂い。今日はホッとする匂いだった。
「無事そうだな。──よかった」
「うん」
ふわりと巌が腕の力を抜く。柚月の背後へ声をかける。
「安心した。お前のおかげだな」
公武が立っていた。え? いつから? と目を見張る。
公武が「お疲れ様です」と巌へ頭をさげ、巌は「助かる。ありがとうな」としみじみとした声を出す。柚月は巌の腕をつかむ。
「お父さん、怪我とかは?」
「そんなヘマはしねえ。飯もちゃんと食っているから安心しろ」
「またそんなこといって」
「そうそう、これやる」
いいつつ巌はバックパックをおろす。
「対策本部からくすねてきた。一般の避難所には出回っていないやつだ」
高級そうなチョコと野菜のゼリー飲料であった。「それからこれもあれもだな」
と次々に取り出す巌へ、「待って待って」と柚月は手で制した。
「公武さんと二人でも、そんなにこっそり食べ切れないわよ。近いうちに家へ戻れるんでしょう? だったらウチへおいたら?」
巌が低くうなる。
「なに? ……どうしたの?」
「あのよ」と巌は渋い顔になる。
首の後ろへ手をまわし、「どうすっかなー」とひとしきり声を出してから「しばらく──そうだな、半日くらいはほかの連中には黙っていろよ」と念押しをして続けた。
「本州と九州四国地域でもデカい地震があった。マグニチュード9クラスだ」
え、と公武とともに動きを止める。
「南海トラフと東北沖が動いた。……日本全域の沿岸部でアレの警報も発令中だ。余震以上にこの半日がそいつの正念場だ。半日くらい待てっつうのはそのこともある。下手に騒いだらアレより人的被害のほうがより大きくなるからな」
え? え? と顔がこわばっていく。
「北海道でもその余波で結構揺れたはずだ。けど北海道は北海道で千島海溝での地震が続いているからな。道内の沿岸部はずっと警戒状態だし目新しいことはない。つねにネットチェックをしていたやつらは気づいただろうが、そのネット自体がすぐに落ちたからよ。どうなってんのか、一般民はわかってねえはずだ」
「それは──かなりの数の通信基地が被害にあったということですか?」
公武の声に巌は小さくうなずく。
この避難所では電力の問題でまだテレビの解放はしていない。
避難所のルール、ライフラインの状況、被害情報などといった共通情報は手書きの情報を掲示板に貼る程度だ。不意にスマートフォンのネットがつながらなくなっても、本体の故障か通信基地の不具合かは判別できない。
だから、と巌は低い声で続ける。
「向こうから救援物資が届いたり助けがくるのはアテにできねえ。つうか無理だろうな。向こうの被害の方が大きそうだ。そういうわけだから、そいつは持っておけ」
そんな、と声を失う。公武はこわばった顔で唇を噛みしめていた。
公武の出身は本州だ。それに気づいてか、巌が公武の背中を軽く叩く。
「歯がゆい気持ちはわかる。だがな。いま俺たちにできるのは、自分たちの体調管理をすることだ。ここで怪我でもしたら、いざってときに動けねえ」
「はい」と公武は険しい顔でうなずく。
「──昼すぎくらいに、道内全域で避難所体制の変更が伝わるはずだ。それまでは黙っていてくれ。騒ぎになる。さいわい夏だしよ。北海道だからな。食糧に関しちゃ、贅沢いわなきゃとりあえずはなんとかできるだろう」
それからこいつだ、と巌はこれまたバックパックから手のひらサイズの黒い箱を二つ取り出した。柚月と公武へそれぞれ手渡す。
「ソーラー充電器だ。工学研究院の知り合いの試作品で、蓄電もすごいらしい。曇り空でも充電できる。コストがかかりすぎるから実用化に至っていないっつう間違いない優れもんだ」
それって何百万とかするようなものってこと? 受け取った小ぶりの黒い箱が重く感じる。
工学出身の公武は目を輝かせて両手で受け取っていた。
巌は使い方をざっくりと伝えると「じゃあな」とバックパックを背負い直した。
「え? もう?」
「お前の顔が見たくて、ちょいと抜け出してきただけだからな」
ひょっとしてわたしが昨日ガッカリした声を出したから? それでお父さんに無理をさせちゃった?
柚月の顔色を見て「自宅の様子も確認したかったんだ」とあわてて巌は付け加えた。「お父さんっ」と巌のシャツをつかんだ。
「ちゃんと休んでる? 寝てる?」
「安心しろ。居眠りは得意だ」
「そういうことじゃなくて」と首を振る。
鼻先が熱くなる。視界がかすみそうになる。父のことだ。対策本部では誰よりも真剣に声を飛ばしているだろう。一瞬の油断もなく事態急変に備えているに違いない。
少しでも被害を少なくするため、その一心で。
頭があたたかくなる。巌が頭を撫でていた。唇を強くむすんで父の手を両手でギュッとつかむ。
「阿寒『くん』」
巌はかしこまった、そして切実な声で告げる。
「こいつを頼む」
「はい。お気をつけて」
「おう」と朗らかで頼もしい父の声が耳に響いた。
柚月はブランケットをたたむとそっとグランドへ出た。
公武だけでなく小清水もあれこれ気づかってくれたけれど、慣れない避難所に加えて絶え間ない余震だ。なかなか寝付くことができずうつらうつらと一夜をすごし、少し早いけれど、と起き出してきた。
今日も晴天だ。朝の空気が心地いい。
大きく伸びをして、手を止める。
グランドの向こうから誰かが入ってくる。ガッシリとした自転車を押した大柄な男性だ。大きな荷物を背負っている。
あれは、と目をこらすよりはやく男性が「うおおい」と柚月へ手を振った。
「お父さんっ」
巌は柚月へ駆けより自転車のスタンドを立てるのももどかしそうに柚月を強く抱きよせた。
巌の汗のにおいが身体を包む。いつもなら汗臭いこの匂い。今日はホッとする匂いだった。
「無事そうだな。──よかった」
「うん」
ふわりと巌が腕の力を抜く。柚月の背後へ声をかける。
「安心した。お前のおかげだな」
公武が立っていた。え? いつから? と目を見張る。
公武が「お疲れ様です」と巌へ頭をさげ、巌は「助かる。ありがとうな」としみじみとした声を出す。柚月は巌の腕をつかむ。
「お父さん、怪我とかは?」
「そんなヘマはしねえ。飯もちゃんと食っているから安心しろ」
「またそんなこといって」
「そうそう、これやる」
いいつつ巌はバックパックをおろす。
「対策本部からくすねてきた。一般の避難所には出回っていないやつだ」
高級そうなチョコと野菜のゼリー飲料であった。「それからこれもあれもだな」
と次々に取り出す巌へ、「待って待って」と柚月は手で制した。
「公武さんと二人でも、そんなにこっそり食べ切れないわよ。近いうちに家へ戻れるんでしょう? だったらウチへおいたら?」
巌が低くうなる。
「なに? ……どうしたの?」
「あのよ」と巌は渋い顔になる。
首の後ろへ手をまわし、「どうすっかなー」とひとしきり声を出してから「しばらく──そうだな、半日くらいはほかの連中には黙っていろよ」と念押しをして続けた。
「本州と九州四国地域でもデカい地震があった。マグニチュード9クラスだ」
え、と公武とともに動きを止める。
「南海トラフと東北沖が動いた。……日本全域の沿岸部でアレの警報も発令中だ。余震以上にこの半日がそいつの正念場だ。半日くらい待てっつうのはそのこともある。下手に騒いだらアレより人的被害のほうがより大きくなるからな」
え? え? と顔がこわばっていく。
「北海道でもその余波で結構揺れたはずだ。けど北海道は北海道で千島海溝での地震が続いているからな。道内の沿岸部はずっと警戒状態だし目新しいことはない。つねにネットチェックをしていたやつらは気づいただろうが、そのネット自体がすぐに落ちたからよ。どうなってんのか、一般民はわかってねえはずだ」
「それは──かなりの数の通信基地が被害にあったということですか?」
公武の声に巌は小さくうなずく。
この避難所では電力の問題でまだテレビの解放はしていない。
避難所のルール、ライフラインの状況、被害情報などといった共通情報は手書きの情報を掲示板に貼る程度だ。不意にスマートフォンのネットがつながらなくなっても、本体の故障か通信基地の不具合かは判別できない。
だから、と巌は低い声で続ける。
「向こうから救援物資が届いたり助けがくるのはアテにできねえ。つうか無理だろうな。向こうの被害の方が大きそうだ。そういうわけだから、そいつは持っておけ」
そんな、と声を失う。公武はこわばった顔で唇を噛みしめていた。
公武の出身は本州だ。それに気づいてか、巌が公武の背中を軽く叩く。
「歯がゆい気持ちはわかる。だがな。いま俺たちにできるのは、自分たちの体調管理をすることだ。ここで怪我でもしたら、いざってときに動けねえ」
「はい」と公武は険しい顔でうなずく。
「──昼すぎくらいに、道内全域で避難所体制の変更が伝わるはずだ。それまでは黙っていてくれ。騒ぎになる。さいわい夏だしよ。北海道だからな。食糧に関しちゃ、贅沢いわなきゃとりあえずはなんとかできるだろう」
それからこいつだ、と巌はこれまたバックパックから手のひらサイズの黒い箱を二つ取り出した。柚月と公武へそれぞれ手渡す。
「ソーラー充電器だ。工学研究院の知り合いの試作品で、蓄電もすごいらしい。曇り空でも充電できる。コストがかかりすぎるから実用化に至っていないっつう間違いない優れもんだ」
それって何百万とかするようなものってこと? 受け取った小ぶりの黒い箱が重く感じる。
工学出身の公武は目を輝かせて両手で受け取っていた。
巌は使い方をざっくりと伝えると「じゃあな」とバックパックを背負い直した。
「え? もう?」
「お前の顔が見たくて、ちょいと抜け出してきただけだからな」
ひょっとしてわたしが昨日ガッカリした声を出したから? それでお父さんに無理をさせちゃった?
柚月の顔色を見て「自宅の様子も確認したかったんだ」とあわてて巌は付け加えた。「お父さんっ」と巌のシャツをつかんだ。
「ちゃんと休んでる? 寝てる?」
「安心しろ。居眠りは得意だ」
「そういうことじゃなくて」と首を振る。
鼻先が熱くなる。視界がかすみそうになる。父のことだ。対策本部では誰よりも真剣に声を飛ばしているだろう。一瞬の油断もなく事態急変に備えているに違いない。
少しでも被害を少なくするため、その一心で。
頭があたたかくなる。巌が頭を撫でていた。唇を強くむすんで父の手を両手でギュッとつかむ。
「阿寒『くん』」
巌はかしこまった、そして切実な声で告げる。
「こいつを頼む」
「はい。お気をつけて」
「おう」と朗らかで頼もしい父の声が耳に響いた。