公武に自宅マンション前まで送ってもらい、柚月はあわててフロアへ入った。
 すっかり遅くなってしまった。晩御飯、なににしようかな。冷蔵庫の中身を必死で思い出す。オクラがあったわよね。豚切り落とし肉か鶏もも肉を解凍して、それから、と頭をフル回転させてエレベーターから降りたときだ。
 ギョッとして思わず後ずさる。
 巌がエレベーターの前で仁王立ちしていた。

「びっくりした。どこかいくの?」
「違うわー。お前を待っていたんだろうがよっ」
「え? どうかした?」
「遅いっつってんだ。阿寒と握り飯を食ってただけじゃねえのかよ。連絡くらい入れろや」
「あ、そっか。遅くなってごめん」

 あのね、と続けようとすると「知ってるわー。阿寒から連絡をもらったわー」と巌はプリプリと柚月の荷物を取った。そのまま自宅ドアへと入っていく。
 巌に続いて玄関へ入ると巌は「あああ~」とうなり声を出していた。

「なんだってお前は俺に似なかったんだよッ」
「はい?」
「母さんそっくりになりやがって。俺に似たルックスなら悪い虫がつくこともねえのによおっ」
「なにいってんの?」
「そんなに可愛くなりやがったら心配でしょうがねえだろうがよおっ」

 ええ……、と引く柚月に構わず巌はソファへどっかりと座る。それから巌は声色を変える。

「俺はお前から連絡が欲しかったんだ。阿寒からじゃなくてだ」
「……ごめん。実はクラスでトラブルがあって」
「知ってる」
「それも公武さんが?」
「違う。二木(にき)陽翔の親だっつうやつから連絡があった」

 な、と柚月は真顔で巌の前へ座った。

「どうして陽翔くんのおうちから?」
「俺が聞きてえよ。なんなんだ、あの親は。ヤバすぎるだろう。ぜんぜんこっちの話なんて聞いていやがらねえ。しかも今日は大学の代表電話がつながらない土曜で、俺は野外調査へ出ていたんだぞ? 医者だかなんだか知らねえけどよ。どういうルートで俺の仕事用携帯電話へかけてきてんだよ。恐ろしいな」

 口を閉じる。陽翔の電話から漏れ聞こえた両親の剣幕。あれは家族に対してだけでなく、誰に対しても同じだったのか。それから、そっか、お医者さんだったんだ。
 で? と巌は顎をしゃくる。

「お前はその二木陽翔と付き合ってんのか?」
「なにいってんの? 違うわよ」
「だろうな」
「なんなの」と身を乗り出す柚月から視線をそらし、巌は、はあー、とため息をついた。
「二木陽翔も大変だな。……お前、そこそこ助けてやれや」
「うん。公武さんも力になるっていってくれている」

 そうか、と巌は頬を緩ませる。

「あいつならそういうだろうな」

 あれ? と眉をあげる。ずいぶんと公武さんを信頼しているみたい。いつの間に? 巌は「それでその」といいにくそうに首の後ろをかく。

「阿寒のメールだと、お前は阿寒の車に乗って、その二木陽翔を捜しにいったんだろう? それで──お前は海までいったのか?」

 ハッとする。海岸まではいっていない──あわててそう告げようとして言葉をのむ。
 いいの? そんな言い訳みたいなことをいって。

 公武の言葉がよみがえる。

 ──乙部先生は、あなたが本当にやりたいことを止めるようなかたじゃない。
 ──一番嫌なのは、あなたが我慢すること。それからコソコソやることでしょう。

 身体の奥がシンとする。両手をそっと握る。だってお父さんが仕方なくとはいえ海を話題にしたのは数年振り。
 いまいわなくて、いついうの?
 柚月は巌に姿勢を正す。

「お父さん」
「──なんだよ、あらたまって」
「わたし、サンゴの勉強がしたい」

 巌が目を見開く。

「どんなふうにサンゴが生まれて育つのか、ちゃんと勉強を受けて、サンゴがいま直面している問題がなにかももっと調べて、サンゴの凄さももっともっと知って」

 言葉を切って、腹に力を入れる。

「お母さんがわからなかったことも、たくさんたくさん調べあげたい」

 巌の顔が赤く膨れあがる。肩も大きくあがるのをみて、柚月は身を固くした。
 やっぱり怒らせた? だけど、と目に力を入れた。
 ただの思い付きじゃない。やっといえた言葉だ。少し反対されたくらいで引きさがる程度の気持ちなら、お父さんが聞きたくない話題とわかっていて口に出したりしない。

 どれくらい睨み合っていただろう。
 巌の眉がくしゃりと歪んだ。それからぼそりと声を出す。

「甘くはねえぞ」
「わかってる」
「簡単にいいやがるけどな。実際──」
「わかってるって。研究に身をささげているお父さんを見ているのよ? 情熱だけじゃ、やっていけないことだってわかってる」
「……うまいこといいやがって」
「だから」
「なんだよ」
「くじけそうになったら、背中を叩いてほしい。甘ったるいことをいってんなよって。お前の本気はこの程度なのかよって」

 巌がまた大きく目を開けた。目をしばたたき、ぽっかりと口を開けて、それから大きく息をはくと柚月から目をそらして「くっそ」と吐き捨てた。

「だ、駄目、かな。いまからそんな弱音をはくなってことかな?」
「ちげえよ」

 ふたたび柚月へ顔を向けた巌は、鼻先を赤くしていた。

 巌はそっと手を伸ばし、その太い指先で柚月の額を小突く。そのまま柚月の髪を撫でた。

「それ、母さんの口癖だっつうの」

 今度は柚月が目を見張る。「ああもう」と巌が髪を撫でる力が強くなる。

「二人して甘っちょろいことをいってんじゃねえよ。くじけそうだなんていってんなよ」
「お、お父さん?」
「ヤバそうだったらすぐにいえよ。どこにいても飛んでいってやる。昼でも夜でも、海外でもだ。絶対に無茶はするな。一番大事なのは、命だ。研究じゃねえっ」

 叫ぶ巌の瞳から涙が飛び散る。

 十四年間、巌が胸で繰り返した言葉──お前が一番だった。お前が消えるなんて一番あっちゃならねえことだった。研究なんか、どうでもいいだろう。
 そうじゃないのはわかってる。だけどな。俺は、お前に、生きていて欲しかった。そばにいて欲しかった。
 隣で、いつまでも、笑っていて欲しかったんだよ──。

 ずっと誰にも声にできずにいた巌の言葉。
 父のその思いが指先から痛いほど伝わってきた。

「肝に銘じろ。わかったかっ」
「うん」

 うなずく柚月の目からも涙がこぼれる。
 お父さんがどれだけお母さんを愛していたか。ううん、と胸でいい直す。過去形なんかじゃない。いまなおお父さんはお母さんを愛し続けている。
 きっとこれからもどれだけの年月が流れようと、お父さんは変わらずお母さんを思っているんだ。ああ、と胸が熱くなる。まばたきをするたびに涙が落ちる。わたし、お父さんとお母さんの子でよかったなあ。

 巌は「ああくっそ」と腕で涙をぬぐい、ティッシュを取ろうとして「いてっ」と声を出した。なにかにけつまずいたらしい。
 ヘルメットだった。見ると巌の仕事部屋にもいくつかヘルメットが転がっている。

「また大人数で調査へいくの? でもどうして自宅に?」
「違う。ウチ用だ。小さい地震が頻発しているからな。いつどっかの断層がデカく動いてもおかしくないから用心にだ」
「そういえば学祭が終わってからも毎日地震があるものね」
「地球は人間の都合で動いてねえからな。だからな」
「わたしたちにできるのは『地震を防ぐことじゃなくて地震に備えること』でしょう?」
「わかってりゃいいんだよ」

 もう、と笑って立ちあがる。しょうがないなあ。ちょっと手間だけど、がんばっちゃうか。

「晩御飯はくずし豆腐の長ネギたっぷりお味噌汁とオクラおかか」

 それから、ともったいをつける。

「チキン南蛮なんてどうかな」
「最高―」

 巌は両手を高く突きあげた。