頭からすっぽりとバスタオルをかぶって、後部座席の陽翔はかすれた声を出した。

「……パンクするなんて予想外だったから」

 柚月は小さくうなずくと助手席から陽翔へ身を乗り出した。

「怪我はしていない? 痛いところは? まず身体をあたためて。ほうじ茶よ。熱いから気をつけてね。それから残り物だけどおにぎりとおかずもあるわ」

 嫌がる陽翔を強引に車へ乗せてホッとひと息ついたところだ。
 はい、と柚月はカップを差し出した。公武はエアコンの温度をあげる。あたたかい空気が車内へ流れて柚月の頬もほうっと緩む。
 カップを受け取った陽翔はなんどか息を吹きかけて、そっと口をつけていく。
 数口すすって視線だけをあげる。

「……なんで?」

 どうしてここへきたの? どうしてここにいるってわかったの? どうしてここに柚月がいるの?
 そのすべてを含んだ眼差しだ。えっと、あの、といい淀んでから答える。

「──SNSで回ってきたの」

 陽翔の眉が歪む。

「おれのスマートフォンさ。電池が切れちゃってて。だけどなんでSNS?」

 なにからいえばいいのか。戸惑っていると陽翔は視線を泳がせた。

「ひょっとして、あいつ? おれが模試をさぼったから?」

 あいつとは眞帆のことだろう。くっそ、と陽翔は小さく舌打ちをする。

「……聞いた話なんだけど、ご両親も心配なさっているみたい」
「なんで親が? って? あー……」

 陽翔が視線を泳がせる。

「……なるほど、そういうことか」

 怒りを鎮めるように陽翔は強く目を閉じた。肩で大きく息をしている。
 見ている柚月もつらくなって視線を落とした。公武は黙ってなりゆきを見守ってくれていて、車内には雨が叩きつける音とエアコンの音だけが響いた。
 やがて陽翔はドリンクホルダーへカップを入れると、足元に置いたバックパックからなにやら取り出した。
 それを柚月へ向かって差し出した。

「いらないかもだけど、貰ってくれる?」

 息をのむ。陽翔の手のひらに白っぽくつるんとした五センチくらいのメノウが数個のっていた。ほんのりオレンジがかったものもある。
 そっと受け取り、陽翔を見る。

「やっぱり……わたしが海へいったことがないっていったから?」
「……うん」
「……ありがとう。きれい」
「だろ? よかった。おれも嬉しい。がんばった甲斐があった。喜んでくれてありがとうな」

 ぎゅっと胸が苦しくなる。
 どんな思いで陽翔がメノウを拾ってくれたか。それを思ったら安易に受け取るべきではないかもしれない。
 それでも、こんなにびしょ濡れになってまで探してくれて、そして──これから、起きた騒ぎに向き合わなくてはならない陽翔を思うと拒絶はできなかった。

 公武がUSBケーブルを車のジャックへつないだ。反対側を陽翔へ差し出す。

「これでスマートフォンを充電して、状況を把握するのを勧めます。それで……いろいろあるとは思いますが、ご両親に連絡をいれたほうがいいでしょう」

 陽翔が公武を睨んだ。見たこともない凄まじい形相だ。
 それでも公武は表情を変えることなくケーブルの口を差し出し続ける。やがて陽翔は視線を落とすと「お借りします」とくぐもった声を出してケーブルをスマートフォンへつないだ。

 薄暗くなってきた車内で、スマートフォンの灯りが陽翔の顔を照らす。
 画面をスクロールしていく陽翔の顔つきが徐々に変わる。視線が険しくなり、唇の端も細かく揺れていた。SNSメッセージを読んで両親がクラス中で大騒ぎをしているのを目の当たりにしたのだろう。
 陽翔はときおり目を閉じて、叫び出したいのをこらえるように大きく息を吸った。そして首を振って海の底へもぐるようにスマートフォン画面へと向き合った。

 ぜんぶを読み終わったのか。スマートフォンをシートへ落とすと、陽翔は前かがみになって両手で額をおさえた。
 どう事態に対応するか。それを整理整頓しているかのようだった。姿勢を戻して大きく息をはく。
 心配そうに陽翔を見ていた柚月に気づいたのだろう。陽翔は柚月へ大げさに肩をすくめてみせた。

「うちの両親ってさ。度を越した過保護なんだよね」

 驚いただろう? と陽翔は苦しそうな笑みを向ける。

「子どものころからずっとだよ。おれのことをすっごく知りたがる。通学路はどんなだったか。学校で最初に挨拶したのは誰か。一時間目の授業で誰がなにをいったか。昼休みはなにをしていたのか。給食や弁当はなにから食べたのか。帰り道にどんな人とすれ違って、角の家にはどんな花が咲いていたのか」

 食事の前に三十分以上かけて聞き出されるのだという。
 毎日欠かさず、三百六十五日だ。

「聞くだけじゃない。ランダムな現場検証もある。下手な嘘なんてとてもつけない。通りから三件目の家で咲いていた花は何色かを、その家へ電話をかけて確認するんだ。親は町内会の役員もやっているから連絡確認できる相手は選び放題だ」

 もちろん、と陽翔は茶化すように両手を軽く開く。

「休みの日もだよ。部屋にいたって三十分おきになにをしているのか確認にくる。出かけるときは行き先と行程を細かく告げなくちゃ許可されない。告げたって親が気に入らない点があったら外出禁止だ。ネットの履歴はもちろん筒抜けだよ。子どもにはプライバシーなんて不要なんだってさ」

 背筋が寒くなる。陽翔くんはそんな思いをずっと?
 学校ではそんな素振りはぜんぜんなかった。いつだって明るくてみんなの中心で、楽しそうに笑っていた。
 学祭だってそうだった。みんなをグイグイ引っ張ってクラスを明るい空気に変えた。険悪になりかけた空気だってあっという間にほぐしていた。

「今回もさ。バレるとは覚悟していた。そりゃ、こんなふうにクラス中を巻き込むとは思わなかったけど、そうだな──大丈夫」

 うん、大丈夫、と陽翔は自分へいい聞かせるようになんどもつぶやく。

「これは想定内だ。大したことじゃない。でも柚月も巻き込んじゃったね。ごめん」

 首を振って「それで」と思わず声が出る。

「嘘をついたらどうなるの? ごまかしたり、事実じゃないことがあったら?」

 陽翔は途方に暮れたような顔になる。柚月へ向けていた視線を気だるくそらしてこわばった声になる。

「──泣くんだ」
「え」
「どうしてそんな嘘をつくんだ。嘘をつかなきゃならないことがあったのか。そんなに本当のことをいうのが嫌なのかって泣かれる。母さんだけじゃない。父さんも涙こそ流さないけど、心底苦しそうな顔をする。そんで一週間は険悪な空気になる」

 いやー、もうさ、と投げやりな笑みを浮かべた。

「家中の空気を悪くしたのがおれみたいになってさ。そりゃ、おれなんだけどさ。兄弟とかはいないし、三人暮らしだからほかに場を和ませてくれる人もいないしさ。さすがに小学生にそれはキツくてさ。それからだな。いいとか悪いとかじゃなくて、とにかくおれが親の気に添うことだけやっていれば、この家は平和なんだって身に染みて。突っかかるのももうあきらめていたんだけどな」

 大きく眉を歪める柚月に気づいてか、陽翔はあわてて首を振る。

「そんなに深刻じゃないよ。殴られたり蹴られたりするのはたまにだし、骨が折れたのも数回だけだし。数日飯抜きだったことだったり、自宅から出られなかったくらいで、うん、ただ過保護なだけだ。だから──」

 続けようとする陽翔の声を公武がさえぎった。

「それは過保護じゃない」