柚月、柚月―、と朗らかな声が教室に響いた。クラスメイトの陽翔だ。
ちょうど昼休み。柚月は柚月は仁奈と亜里沙と机をくっつけあって弁当を食べているところだった。その柚月へ陽翔が駆けよってくる。クラス全員から下の名前で呼ばれるほど慕われている男子だ。高校夏服の白シャツを袖口までたくしあげて、子犬のような笑顔だ。
「学祭どうするー? アンケートになんて書いたー?」
いいつつ陽翔は柚月の机へ両手をつく。そして「うお」と声をあげた。
「相変わらずうまそうな弁当―」
今日の献立は、鮭と塩昆布のおにぎりに甘―い玉子焼き、父・巌(いわお)のリクエストである北海道版唐揚げのザンギ、レンコンのきんぴら、小松菜とちくわのおかか和え、そして彩りとしてプチトマトだ。
「食いて―」
途端に仁奈と亜里沙が血相を変える。
「図々しい。軽々しくそういうことをいわないでよ。私たちがどんだけ我慢していると思ってんのよ」
「そうだよ。どんなにおいしそうなおにぎりでもグッと我慢しているんだからね」
すまん、落ち着け、と陽翔はタジタジだ。
「ちょっといっただけだよ。それより学祭だよ。柚月、行灯はどうする? なんかアイデアある?」
「そうねえ。仁奈と亜里沙はどんなのがいいと思う?」
「あー、そうだねー。えっと、陽翔くん、うちらの意見もいる?」
「そ、そりゃいるよ」
「柚月のだけじゃなくて?」
「なにいってんのよ。クラスの出し物だもの。いるに決まっているでしょ? ねえ、陽翔くん」
「あ、うん、もちろん」
なぜか陽翔はへどもどとし、黒板前から「陽翔~、帰ってこーい」と声がかかるとホッとしたように「じゃあ考えておいて」と去っていった。
箸を持ち直すと仁奈と亜里沙の視線を感じた。
「なに? どうしたの?」
「柚月さー。なんか気にならない?」
「なにを?」
「……気にならないようだね。ならいいよ」
「なんなの」
頬を膨らませても二人は曖昧に笑うだけだった。
*
翌日、土曜日だ。
ひゃあ、と柚月はあわてて足を引っ込めた。
「ちょっとお父さん。床にハンマーの土が落ちているわ。踏んじゃったでしょう。ちゃんと拭いてから家の中へ入れてよ」
リビングで新聞を読んでいた父・巌が「あー?」と間延びした声をあげた。
「細けえことをいうなよ。それよりお前、なんで俺の仕事部屋にいるんだよ」
「ピクニックで使うレジャーシートがあるかと思って」
ああそれなら、と巌が新聞をおろしたときだ。巌のスマートフォンが鳴った。カリブ海の海賊映画のテーマソング。しかも大音量だ。その音量に負けないほどの大声で「おうっ、俺だっ」と巌はドスの効いた声を出す。
「なんだお前か。休みの日にどうした。ん? 凝灰岩の場所がわかんねえ? ……博士研究員がなにいってんだ? ああ? 怒ってねえよ。呆れてんだよッ。ん? ちょっと待て。お前、どこにいるんだ?」
巌の口調が変わって柚月はリビングへ顔をのぞかせた。巌は新聞を持ったまま仁王立ちで通話をしている。髭面で体格がいいので他人が見たら逃げ出すだろう迫力だ。はあっ? と巌は声を裏返す。
「四年の付き添いで樽前? 聞いてねえっつうか、お前は火山屋じゃねえだろうが。おお? いまの音はなんだ? 小石が降ってきた? あぶねえなあ。しっかりヘルメットをかぶっておけよ。は? 持ってきてねえ?」
ばっかやろうがっ、と巌は吠えた。
「蒸れるとかいってんじゃねえわっ。フィールドの基本だろうがっ。アカハラ? ふざけんなっ。命のが大事だわっ。ああもう、すぐにそこへいくから動かずに待っていろっ。いいなっ」
巌は鼻息あらく通話を終える。それから我に返ったように巌は背筋を伸ばした。そおっと柚月へ振り返る。
「あ、あのな、柚月」
「ピクニックへいけなくなった?」
「えっとあの、すまん」
「お父さんがいきたいって駄々をこねたのに」
「──すまん」
まったくもう。頬を膨らませてダイニングテーブルを見る。できあがったばかりの弁当箱が三つだ。彩りよく詰めたのにな。休みの日なのに早起きしたのにな。……しょうがないなあ。
「気をつけていってらっしゃい。晩御飯は?」
「家で食う。あのな、柚月」
「ポスドクさんの命の危機なんでしょう? 早くいった方がいいわよ」
「そこまでは、いや、そうかもしれねえんだが」
「急いだ方がいいわよ」
巌は「すまん」とうなると仕事部屋へ駆け込んだ。なにやら激しくものをぶつける音がする。やがてヘルメットやらハンマーやらを手に取り、それを壁にぶつけながら玄関へ向かっていく。
靴を履いて巌は柚月へ向き直る。
「すまんっ」
「わかったから」
「すまーんっ」
しつこく繰り返し、巌は嵐のように飛び出していった。
「……あーあ」
玄関マットに膝をつき、巌がひっくり返したスリッパや靴を直す。
「お父さんがあわただしいのはいつものことだけど。……なんだかなあ」
リビングへ戻ってソファへ座るとどっと気持ちが沈んできた。
ため息をついてローボードを見る。
そこにコンパクトな仏壇があった。母と祖父母の遺影が並んでいる。
祖父は柚月が産まれる前に、母は三歳のときにいなくなった。
巌と一緒に柚月を育てたのは中学二年のときに逝ってしまった祖母だ。柚月は家事のすべてを祖母から教わった。
その祖母の遺影に唇を尖らせる。
「おばあちゃんに教わったおにぎりもたくさん作ったのよ? 無駄になっちゃった。おばあちゃんはよく我慢できたわよね」
祖母もよく巌にすっぽかされていた。そのたびに祖母は柚月へ明るく笑った。
──あれがお父さんだからね。怒っても治らないからね。
それより、と祖母はいたずらっぽい眼差しで続けるのだ。
──こっちはこっちでワクワクすることをたくさんしちゃおう。
「……そっか、そうだね。このまま不貞腐れていたらせっかくの休みがもったいないわよね」
立ちあがって窓の外を見る。気持ちのいい青空が広がっていた。スマートフォンで調べると札幌の現在の気温は二十二度、湿度は三十パーセント。
まさに六月の北海道らしい天気だ。
チラリと弁当箱を見る。
「ひとりでピクニックしちゃう? お弁当もたっぷり食べちゃう?」
口に出すとワクワクしてきた。
よおし、と立ちあがり、巌の部屋かレジャーシートを探し出した。トートバッグへ弁当箱と水筒を入れて身支度を整えたら準備万端だ。遺影群へ「いってきまーす」と声をかけ、柚月は颯爽と玄関を飛び出した。
目指すは天陣山だ。
マンションから徒歩五分にある標高九十メートルほどの小高い山だ。地質学者の巌によると「火山じゃねえ。四万年前に支笏カルデラを作った大噴火があってよ。そんとき噴出した火砕流の堆積物だ」とのことだ。
専門家の小難しい話はさておき、幼稚園のころから冬はそり遊び、夏はちょっとしたピクニックと、慣れ親しんだ場所だった。
整備された坂道をのぼるとツピツピとシジュウカラやムシクイなどの野鳥の声が聞こえてきた。ニセアカシアの白い花びらが吹雪のように舞っている。
その甘い香りに目を細めていると、足元をエゾリスが横切った。
「わあ、もうお昼なのに珍しい。仁奈と亜里沙に自慢しちゃおうっと」
うふふ、と笑って見晴らしのいい斜面へ向かう。手入れのされた草地が広がり、すでに何組かがレジャーシートを広げている。
柚月も木陰エリアにシートを広げる。やや傾斜がきついからか、ほかの家族連れとは距離がある。シートに座って前を向けば札幌市内を一望できた。
「奥の山が手稲でしょう? あの左手の山が円山かな? すごい。くっきり見える」
ひと息眺めて弁当箱を取り出した。
北海道版唐揚げのザンギに甘―い玉子焼き、ハムの代わりにカリカリベーコンをいれたポテトサラダとスナップエンドウのお浸し。
それからたっぷりのおにぎりだ。
「お父さんが大好きなタコさんウインナーだって焼いたのにな」
ちぇっ、とそのタコさんウインナーを口へ入れた、そのときだった。
「うわあっ」
男性の声がした。なにごと? 顔をあげると目の前をなにかが転がり落ちていくのが見えた。
「へ?」
目をしばたたく。ひとつではない。いくつも転がっていく。
……おかしいな。わたし疲れているのかな。
目をこすってみたけれど見間違いはない。
どういうこと? だってあれ、と息をのむ。
「おにぎりに見えるんだけど」
まさかそんな、とおにぎりらしき物体を目で追って、ギョッとする。
今度は人間が目の前を駆けおりていった。
ちょうど昼休み。柚月は柚月は仁奈と亜里沙と机をくっつけあって弁当を食べているところだった。その柚月へ陽翔が駆けよってくる。クラス全員から下の名前で呼ばれるほど慕われている男子だ。高校夏服の白シャツを袖口までたくしあげて、子犬のような笑顔だ。
「学祭どうするー? アンケートになんて書いたー?」
いいつつ陽翔は柚月の机へ両手をつく。そして「うお」と声をあげた。
「相変わらずうまそうな弁当―」
今日の献立は、鮭と塩昆布のおにぎりに甘―い玉子焼き、父・巌(いわお)のリクエストである北海道版唐揚げのザンギ、レンコンのきんぴら、小松菜とちくわのおかか和え、そして彩りとしてプチトマトだ。
「食いて―」
途端に仁奈と亜里沙が血相を変える。
「図々しい。軽々しくそういうことをいわないでよ。私たちがどんだけ我慢していると思ってんのよ」
「そうだよ。どんなにおいしそうなおにぎりでもグッと我慢しているんだからね」
すまん、落ち着け、と陽翔はタジタジだ。
「ちょっといっただけだよ。それより学祭だよ。柚月、行灯はどうする? なんかアイデアある?」
「そうねえ。仁奈と亜里沙はどんなのがいいと思う?」
「あー、そうだねー。えっと、陽翔くん、うちらの意見もいる?」
「そ、そりゃいるよ」
「柚月のだけじゃなくて?」
「なにいってんのよ。クラスの出し物だもの。いるに決まっているでしょ? ねえ、陽翔くん」
「あ、うん、もちろん」
なぜか陽翔はへどもどとし、黒板前から「陽翔~、帰ってこーい」と声がかかるとホッとしたように「じゃあ考えておいて」と去っていった。
箸を持ち直すと仁奈と亜里沙の視線を感じた。
「なに? どうしたの?」
「柚月さー。なんか気にならない?」
「なにを?」
「……気にならないようだね。ならいいよ」
「なんなの」
頬を膨らませても二人は曖昧に笑うだけだった。
*
翌日、土曜日だ。
ひゃあ、と柚月はあわてて足を引っ込めた。
「ちょっとお父さん。床にハンマーの土が落ちているわ。踏んじゃったでしょう。ちゃんと拭いてから家の中へ入れてよ」
リビングで新聞を読んでいた父・巌が「あー?」と間延びした声をあげた。
「細けえことをいうなよ。それよりお前、なんで俺の仕事部屋にいるんだよ」
「ピクニックで使うレジャーシートがあるかと思って」
ああそれなら、と巌が新聞をおろしたときだ。巌のスマートフォンが鳴った。カリブ海の海賊映画のテーマソング。しかも大音量だ。その音量に負けないほどの大声で「おうっ、俺だっ」と巌はドスの効いた声を出す。
「なんだお前か。休みの日にどうした。ん? 凝灰岩の場所がわかんねえ? ……博士研究員がなにいってんだ? ああ? 怒ってねえよ。呆れてんだよッ。ん? ちょっと待て。お前、どこにいるんだ?」
巌の口調が変わって柚月はリビングへ顔をのぞかせた。巌は新聞を持ったまま仁王立ちで通話をしている。髭面で体格がいいので他人が見たら逃げ出すだろう迫力だ。はあっ? と巌は声を裏返す。
「四年の付き添いで樽前? 聞いてねえっつうか、お前は火山屋じゃねえだろうが。おお? いまの音はなんだ? 小石が降ってきた? あぶねえなあ。しっかりヘルメットをかぶっておけよ。は? 持ってきてねえ?」
ばっかやろうがっ、と巌は吠えた。
「蒸れるとかいってんじゃねえわっ。フィールドの基本だろうがっ。アカハラ? ふざけんなっ。命のが大事だわっ。ああもう、すぐにそこへいくから動かずに待っていろっ。いいなっ」
巌は鼻息あらく通話を終える。それから我に返ったように巌は背筋を伸ばした。そおっと柚月へ振り返る。
「あ、あのな、柚月」
「ピクニックへいけなくなった?」
「えっとあの、すまん」
「お父さんがいきたいって駄々をこねたのに」
「──すまん」
まったくもう。頬を膨らませてダイニングテーブルを見る。できあがったばかりの弁当箱が三つだ。彩りよく詰めたのにな。休みの日なのに早起きしたのにな。……しょうがないなあ。
「気をつけていってらっしゃい。晩御飯は?」
「家で食う。あのな、柚月」
「ポスドクさんの命の危機なんでしょう? 早くいった方がいいわよ」
「そこまでは、いや、そうかもしれねえんだが」
「急いだ方がいいわよ」
巌は「すまん」とうなると仕事部屋へ駆け込んだ。なにやら激しくものをぶつける音がする。やがてヘルメットやらハンマーやらを手に取り、それを壁にぶつけながら玄関へ向かっていく。
靴を履いて巌は柚月へ向き直る。
「すまんっ」
「わかったから」
「すまーんっ」
しつこく繰り返し、巌は嵐のように飛び出していった。
「……あーあ」
玄関マットに膝をつき、巌がひっくり返したスリッパや靴を直す。
「お父さんがあわただしいのはいつものことだけど。……なんだかなあ」
リビングへ戻ってソファへ座るとどっと気持ちが沈んできた。
ため息をついてローボードを見る。
そこにコンパクトな仏壇があった。母と祖父母の遺影が並んでいる。
祖父は柚月が産まれる前に、母は三歳のときにいなくなった。
巌と一緒に柚月を育てたのは中学二年のときに逝ってしまった祖母だ。柚月は家事のすべてを祖母から教わった。
その祖母の遺影に唇を尖らせる。
「おばあちゃんに教わったおにぎりもたくさん作ったのよ? 無駄になっちゃった。おばあちゃんはよく我慢できたわよね」
祖母もよく巌にすっぽかされていた。そのたびに祖母は柚月へ明るく笑った。
──あれがお父さんだからね。怒っても治らないからね。
それより、と祖母はいたずらっぽい眼差しで続けるのだ。
──こっちはこっちでワクワクすることをたくさんしちゃおう。
「……そっか、そうだね。このまま不貞腐れていたらせっかくの休みがもったいないわよね」
立ちあがって窓の外を見る。気持ちのいい青空が広がっていた。スマートフォンで調べると札幌の現在の気温は二十二度、湿度は三十パーセント。
まさに六月の北海道らしい天気だ。
チラリと弁当箱を見る。
「ひとりでピクニックしちゃう? お弁当もたっぷり食べちゃう?」
口に出すとワクワクしてきた。
よおし、と立ちあがり、巌の部屋かレジャーシートを探し出した。トートバッグへ弁当箱と水筒を入れて身支度を整えたら準備万端だ。遺影群へ「いってきまーす」と声をかけ、柚月は颯爽と玄関を飛び出した。
目指すは天陣山だ。
マンションから徒歩五分にある標高九十メートルほどの小高い山だ。地質学者の巌によると「火山じゃねえ。四万年前に支笏カルデラを作った大噴火があってよ。そんとき噴出した火砕流の堆積物だ」とのことだ。
専門家の小難しい話はさておき、幼稚園のころから冬はそり遊び、夏はちょっとしたピクニックと、慣れ親しんだ場所だった。
整備された坂道をのぼるとツピツピとシジュウカラやムシクイなどの野鳥の声が聞こえてきた。ニセアカシアの白い花びらが吹雪のように舞っている。
その甘い香りに目を細めていると、足元をエゾリスが横切った。
「わあ、もうお昼なのに珍しい。仁奈と亜里沙に自慢しちゃおうっと」
うふふ、と笑って見晴らしのいい斜面へ向かう。手入れのされた草地が広がり、すでに何組かがレジャーシートを広げている。
柚月も木陰エリアにシートを広げる。やや傾斜がきついからか、ほかの家族連れとは距離がある。シートに座って前を向けば札幌市内を一望できた。
「奥の山が手稲でしょう? あの左手の山が円山かな? すごい。くっきり見える」
ひと息眺めて弁当箱を取り出した。
北海道版唐揚げのザンギに甘―い玉子焼き、ハムの代わりにカリカリベーコンをいれたポテトサラダとスナップエンドウのお浸し。
それからたっぷりのおにぎりだ。
「お父さんが大好きなタコさんウインナーだって焼いたのにな」
ちぇっ、とそのタコさんウインナーを口へ入れた、そのときだった。
「うわあっ」
男性の声がした。なにごと? 顔をあげると目の前をなにかが転がり落ちていくのが見えた。
「へ?」
目をしばたたく。ひとつではない。いくつも転がっていく。
……おかしいな。わたし疲れているのかな。
目をこすってみたけれど見間違いはない。
どういうこと? だってあれ、と息をのむ。
「おにぎりに見えるんだけど」
まさかそんな、とおにぎりらしき物体を目で追って、ギョッとする。
今度は人間が目の前を駆けおりていった。