陽翔の顔を見て仁奈が「わあ」と声をあげた。

「陽翔くん、すごいねー。それはいったいなに?」

 陽翔はジャージにクラスTシャツ姿。髪はワックスで逆立っている。顔にもペイントがしてあった。
 険しい形相だった陽翔は一変「すごいだろう?」と笑みになる。

「カニなんだよ。頬のペイントはカニの触覚。髪は親爪をイメージしているんだ」
「カニに触覚なんてあったっけ」
「タラバガニとかめちゃ長いのあるっしょ」
「あー、うちはタラバより毛ガニ派だから」、「ウチもー」と仁奈と亜里沙は声をそろえる。
「えー、なんだよ」といいかけた陽翔は「そうじゃなくて」と柚月へ詰めよった。
「あーもー、やっと見つけたよ。捜しまくったでしょ。行灯のそばまできたなら、ちゃんと行列が終わるまでいてくれよ」

 へ? と目を丸くする。

「どうしてそばまでいったことを知ってるの? なにか頼まれていたっけ?」
「いやあの」と口ごもる陽翔へ「そうよ、行列だよ」と仁奈が割って入った。
「行列って三十分くらいはかかるもんでしょ。もう終わったの?」
「だから、途中で柚月がいないのに気づいて戻ってきたんだよ」
「戻ってきたっ? ちょっと待って。陽翔くん、行灯班のリーダーでしょ。リーダーなしでほかのメンバーは行列してるってこと?」
「よく間違われるけど、おれはデザイン担当でリーダーじゃない」
「そうだったのっ?」と柚月たちは声を裏返した。
「だとしても」と仁奈が気色ばんで続ける。
「最後の最後で陽翔くんがいないのってあんまりでしょ。みんなそろっての晴れ舞台ってもんじゃないの?」
「あ、ま、そうなんだけど」
「ここの片づけがあるから我慢してるけど、できることなら私たちも参加したいくらいなんだよ。それなのにどういうことよっ」
「仁奈、落ち着け。おれは別に──」という陽翔の声を聞きながら柚月は青ざめる。

 そうまでして陽翔くんが行列を抜けてきた。わたしがいなかったから。それって。

「……わたし、それだけ大切な頼まれごとをしていたのよね。それを忘れていたって。ごめんなさい。すぐにいく。グランドでいい?」

 陽翔の答えを待たずに柚月は教室を飛び出した。
「いやあんた、なにも頼まれてないからーっ」と仁奈が叫んでいたけれど、とにかくいってみないことには気持ちがおさまらない。
 その柚月へすぐに陽翔が追いついた。

「あのカニ、柚月に一番見てもらいたかったんだから。すごくがんばったんだぞ」
「そうだよね。すっごく迫力がある仕上がりだった。がんばったよねえ。徹夜もしたんだもんねえ」

 陽翔が言葉に詰まっている。小走りでグランドに向かいながら、どうしたのかな? と振り返る。
 陽翔は数メートル後ろで立ち止まっていた。

「陽翔くん?」
「……さっきの誰?」

 え? と足を止める。さっきのって? 
 首をかしげつつも思い当たるのはひとりしかいない。公武さんのこと?

「お兄さん?」
「違うわよ」
「じゃあ誰」

 えっと、と今度は柚月が言葉に詰まる。
 仁奈たちへ伝えたように「ご近所さん」といえばいい。けれどなぜか声が出ない。だってそういえば陽翔くんは仁奈たちとは違ってわたしと公武さんを「ただの知人」扱いをするだろう。

 それって……なんだか嫌だな。

 じゃあ、わたしと公武さんの関係ってなんだろう。公武さんがいうように弟子と師匠ってわけでもないし。
 胸がどんどん苦しくなる。陽翔が公武を「お兄さん?」といったのも胸に刺さっていた。

 ……人から見たらそう見えるのかな。そりゃわたしと公武さんは歳が離れているけど。あんまり気にしていなかったけど。少なくとも陽翔くんにはそう見えたってことで。

「柚月、黙っていないで答えてよ」

 ああもうっ、と顔をあげる。
 どうしようもないほど腹が立ってきた。わかっている。この気持ちは八つ当たり。それでもこらえられなかった。

「陽翔くんには関係ないでしょう?」

 ハッと口元を押さえる。しまった、と思ったけれど遅かった。陽翔は真っ白い顔になっていた。

「ご、ごめんなさい。そうじゃなくて。わたしがいいたかったのは──」
「──彼氏?」
「ち、違うわよ」

 顔が赤くなる。耳の先まで熱くなり、たまらず柚月は陽翔から逃げ出した。

 ああもう泣きたい。こういうとき、なんていえばよかったのかな。仁奈たちは陽翔くんがわたしに気があるっていっていたけど、そんなわけない。陽翔くんは面倒見がいいからわたしを気づかってくれているだけで──。

 ……ううん。違うな。足を止める。
 気づかないふりをしていたけど、本当はわたし……陽翔くんの気持ちに気づいてる。

 だって。

 なんとも思っていない相手に公武さんとの関係を真顔で問い詰めたりしない。
 ただのクラスメイトに毎日あんなに声をかけてくることなんてないし、個人アカウントへメッセージを送ってくることもない。
 それなのにわたしは陽翔くんを傷つけるようなことばかりしている。さっきなんて八つ当たりまでした。……最低だ。

 足取り重く行灯集合場所へ着くと、ちょうどクラスの行灯が戻ってきたところだった。
 行灯班は「へ? 柚月? なんで?」と驚きつつも「助かるー」とあれこれ手伝いを頼んできた。
 どうもなにかを頼まれていたのは勘違いだと気づいたものの、陽翔への負い目でそんなことはどうでもよくなっていた。
 ひといき作業をすませて教室へ戻ると、仁奈と亜里沙が駆けよってきた。

「……陽翔くんとなにかあった?」
「ひどい顔をしてるよ?」

 思わず涙目を向ける。

「わたし──どうしたらいいんだろう」

 震えた声が出た。口元へ手を当てると仁奈と亜里沙が肩を抱いてくれた。
「ゆっくりでいいから教えて? なにがあったの?」と心配そうな声をかけてくれる。鼻をすすって、あのね、と声を出そうとした。
 ガラッと教室のドアが開いたのはそのときだ。
 級長と学祭委員、それに担任教諭が入ってきた。
 学祭委員が真っ赤な顔で吠える。

「模擬店賞、ウチの甘味処『カニの愛した白玉はいかがカニ?』が受賞しましたっ」

 わあっ、と耳が痛くなるほどの歓声があがる。
 模擬店メンバーが仁奈へ抱きつき、「柚月、やったーっ」と手を取られた。
「柚月の梅シロップ、最高だったからー」、「抹茶白玉もおいしかったもんねー」、「ウチの行列、やばかったし」とクラスメイトは口々にまくし立てた。
 柚月を気づかって仁奈と亜里沙は戸惑った顔をしていたものの、次第に感極まった顔つきになっていく。
「よかったー」、「がんばったもんねー」と柚月も泣き笑いになった。
 鼻をすすって二人の耳元で声を出す。

「……心配してくれてありがとう。大丈夫。自分でちゃんと考える。でも、なんとかできなかったら相談に乗ってくれる?」
「もちろんだよ」

 熱気の中で二人は力強く柚月へうなずいた。

   *

「お疲れ様でした。持ちますよ」

 校門の外で待っていた公武が柚月のカバンへ手を伸ばす。

「いえ、自分で持てます」
「僕のほうが力持ちですから」

 そう笑われて、「ではお願いします」とカバンを手渡した。

「乙部先生へ連絡を入れておきました。乙部先生は帰宅するのにあと一時間くらいかかるそうです」
「あー、そうだ。父へ連絡を入れるのを忘れていました。なにからなにまでありがとうございます」
「学祭ですから。それどころじゃないのは乙部先生もわかっていらっしゃいますよ」

 公武はふんわりと笑って歩き出す。小走りで続くと、それに気づいた公武が歩調を緩めた。
 笑みが浮かぶ。公武さんのこういうところ、ホッとする。

「柚月さんの梅シロップ、おいしかったなあ」
「喜んでいただけてよかった。父の分がまだ残っているので、今度少しお持ちしますね」
「乙部先生に怒られちゃいそうですね」

 ふふっ、と二人でいたずらっぽく笑い合う。

「そういえば公武さん、発表会があったんですよね。いかがでしたか?」

 あー、と公武はうなだれる。

「かなりコテンパンにやられました。おにぎりって奥が深すぎますねえ」

 首を振って、「それで」と公武は申し訳なさそうに続けた。

「お疲れのときに切り出すのは申し訳ないのですが。お願いしてもいいでしょうか」
「なにをでしょう?」
「お手すきのときで構いません。また、おにぎりを食べていただけますか? 方向性がわからなくなってきて。ぜひ柚月さんのご意見をいただきたいんです」
「いいですよ。日曜でいいですか? さすがに明日だとちょっとつらいかなって」
「もちろんです。よかった。本当に師匠がいて心強いです」
「大げさです。そうだ。梅シロップも日曜にお持ちしますね」

 やった、と公武は拳を握る。
 しみじみとそうやって公武が喜んでくれるのが嬉しい。公武と一緒にいると陽だまりの中にいるみたいだ。余計な気遣いも必要ない。
 ──陽翔くんとはぜんぜん違う。

 ハッとする。
 わたし、どうしてそんなことを? 
 なんだか自分がどんどん嫌な人間になっていく気がした。