学祭準備で目の回る平日を過ごし、そして迎えた巌待望の日曜、阿寒とのおにぎり会の日がやってきた。

 空は雲ひとつなく晴れ渡り、空気はさらりと乾いて、先を歩く巌は「ピクニック日和だなあ」と声を張りあげた。
 その声に驚いた散歩中の犬はけたたましく吠え、ジョギング中の男性は振り返る。巌はお構いなしにずんずん進んでいく。

「お前が先週いった斜面って左か? お、右側からのほうが近いぞ。俺はこっちからいくわー」
「お父さん待って」と声をかけたものの、巌は獣道をいってしまった。
「なにごとだゴラ」と寝ていたらしいエゾリス数匹が木を駆けのぼっていく。
「ウチのガサツな父がごめんね」とエゾリスへ詫びて視線を戻すと、もう巌の姿は見えなかった。

「せっかちなんだからー。まあピクニックができる斜面は一か所だから迷うこともないわね」

 そう思って待ち合わせの斜面へ向かったのだが──。
 そこには阿寒の姿しかなかった。

 巌がくると聞いたからか、先日よりややかしこまった格好、ジーンズではなくベージュのチノパンに七分袖の白シャツ姿だ。
 その阿寒は柚月に気づいて会釈をする。

「今日はありがとうございます。あれ? お父様は?」
「五分前までは一緒だったんですけど。はぐれたみたいで」
「天陣山で?」

 阿寒は眉根をよせる。
 もちろん天陣山は遭難するほど険しくも複雑でもない。ただの小山だ。

「いないなら別にいいですよ。阿寒さんのおにぎりをいただくのはわたしですし」
「それはそうですが」
「ただわたしの作ったお弁当を父が持っているんです。父がこないと阿寒さんに食べていただくことができないのが残念です」
「是非お父様を捜しましょう」と阿寒は即答した。

 その勢いに目を丸くすると、「あ、いえ……先週いただいたお弁当が大変おいしかったものですから」と阿寒は耳を赤くする。
 柚月は思わずプッと噴き出す。

「そういっていただけて嬉しいです。じゃあ捜しましょうか。阿寒さんは父の顔を知りませんよね。えっと、画像があったかな」

 スマートフォンから画像を取り出し表示させる。
「これなんです」と阿寒へ見せると「失礼します」と阿寒が顔をよせて画面をのぞき込んだ。
 そのときだ。

「仲良さそうだな、おい」

 太い声が背後から聞こえた。髪に葉っぱをつけた巌が立っていた。

「お父さんっ。どこにいっていたのよ。行先がわかんないのに勝手にどんどんいかないで」
「うるせえよ」

 返しながら巌は阿寒を睨みつけていた。

「ああそうだ。阿寒さん、父です。お父さん、こちら阿寒さん」
「本日はお時間を作っていただきありがとうございます。阿寒公武と申します」

 阿寒は姿勢正しく巌へ礼をする。そして「あらためまして」と巌へ名刺を渡した。

「お聞き及びかもしれませんが、先週、お嬢様のおにぎりをいただき大変感銘をうけました。その際、レシピやコツなどをうかがいまして、それをもとに再現を試みていますが、自分ではいまひとつの出来です。そこで──」

 まくし立てる阿寒へ「待て待て」と巌は手を突き出した。

「難しい話は飯を食ってからにしようや。腹が減っちまった。柚月、そっちの端を持て」

 巌はいいながらレジャーシートを取り出す。その端をつかんで柚月は手早く芝生へ広げた。
「ほら座れよ」と巌はシートを叩き、「失礼します」と阿寒はかしこまって膝を進めた。

 柚月が弁当を広げると、巌と阿寒はそろって、「ほう」と声をあげる。

「お父さんは作っているのを見ていたでしょう?」
「詰め終わったのを見たのははじめてだ。んで? お前のは?」

 急かされて阿寒は恐縮しつつ柚月の弁当箱の隣へプラスチックのケースに入ったおにぎりを並べた。

「なんだ、つまんねえなあ。普通にうまそうじゃん。食っていいの?」
「お願いします」と阿寒はうなずく。

 巌は遠慮なく手を伸ばす。「お嬢様も」とうながされて「では」と柚月も手を伸ばす。

 実にきれいな三角形のおにぎりだ。
 コンビニのおにぎりみたい。型を使ったのかな?
 そう思いつつはむっと頬張る。ほろりと米粒が口の中で崩れた。塊もなく一度にだ。なんていうか、水気の少ないリゾットみたい。
 父へ視線を向けると「もう一個貰っていい?」とおにぎりへ手を伸ばしていた。

「こっちは塩昆布か。塩昆布ってうまいよな」

 巌はわしわしと食べ進める。さらには柚月の作ったおにぎりにも手を伸ばし、「おかかのおにぎりかー」と目を細めて平らげていく。
 空腹だというのは本当らしい。
 楊枝に刺した磯辺とり天を頬張る巌に「い、いかがでしたか」と阿寒は緊張した声を出した。

「うん。柚月のほうが数十倍うまい」
「お父さん。さんざん食べてそのいい方は」
「世辞をいってどうするよ」
「お嬢様は?」
「あ、えっと……不思議な食感だなあって」
「おう。油でも入れたのか? コンビニのやつには入っているらしいけど入れすぎじゃねえか? 飯粒っつうのは適度に固まったほうが味わいが出るんだ。チャーハンじゃねえんだからよ。くちの中で一斉にバラけると気味が悪い」

 阿寒の顔がこわばっていくのを見て、「いいすぎだから」と柚月は巌の前から弁当箱を取りあげた。「なにすんだよ」と巌はあわてる。

「これって品評会かなんかじゃねえのか? 事情はわかんねえけど、遠慮してどうする」
「事情を聞かなかったのはお父さんでしょう」
「いえ、ご指摘ありがとうございます。どんどんお願いします」
「ほらみろ」と巌は鼻を膨らませ、あれが駄目、これが駄目と続けていく。よくそんなに文句がいえるなと感心するほどだ。
 とどめは「とにかく味わいがない。食べてもちっともホッとしない」との決めつけだ。
 公武はがっくりとうなだれる。

「おっしゃるとおりです。僕もそう思います。お嬢様のおにぎりはとにかくホッとする。そういうおにぎりを目指したいんですが」
「……わかってんじゃねえか」

 すっかり元気をなくした阿寒へ「阿寒さんも召しあがってください」と柚月は弁当箱を差し出した。
「ありがとうございます」と阿寒は弱々しくほほ笑んで、柚月のおにぎりをはむっと頬張る。

「ああ……この味わいです。ホッとします」

 黙って甘い玉子焼きを食べていた巌が公武へ身を乗り出した。

「お前さ、この握り飯を作ったとき、なにを考えていた? 食べる相手のこととか考えていたか? そういうのが結構大事だって、よくウチのおふくろがいっていたぞ?」

 え? と阿寒は動きを止める。

「それは──考え『させる』ところまでは至っていないというか、そういう発想がなかったというか」
「ずいぶんと他人事だな。てめえが作った飯だろうがよ」
「実は僕が作ったおにぎりではありません」
「はあ? だったら誰が」

「ロボットが作ったおにぎりです」