琴葉ノ学園の入学式を終えてから数週間。
残念ながら眞白とは別のクラスになってしまったけれど、滑り出しは順調だったのではないかと思う。
友達と呼べる女の子も何人かできたし、クラスメイトたちの顔と名前も覚えつつあった。
ただ、いつもと違うのは額をくすぐる短い前髪があること。引っ張ったって伸びるものではないのに、どうしても気になって触ってしまう。
特にきっかけがあったわけではないのだけど、前髪を作っている女子が多かった。どうやら流行りらしい。
これまでずっと同じ髪型で生活を続けてきた私は、新しいことに挑戦するなら今ではないかと思ったのだ。
(うう……どうして美容院行かなかったんだろう、私のバカ……)
大して器用でもないというのに、自分でハサミを持った私の前髪は思い通りの形にはなってくれなかった。
眉上のあまりにも綺麗な横一直線は、それ以上手を加えるともっと悲惨なことになる気がして、私にはどうすることもできない。
「嶋ちゃん前髪作ったんだね」
「いいと思うよ」
「あ、ありがとう……」
友達はそんな風に言ってくれたけど、そこまで仲が深まっていない相手にはっきりとした意見は言えないんじゃないだろうか。
ちょっとだけナーバスになっていた私は、彼女たちの言葉を素直に受け入れることができなかった。
「藤岡くんのもさあ、そのくらい切りたくなるよね」
「あ、わかるー!」
「藤岡くん……?」
彼女たちが別の方向へと話題を持ち出し始めたので、私は一歩追い付かずに首を傾げる。
話をしていた友達の一人――長野さんが顎をしゃくって示すので、私はそちらへ顔を向けてみた。
教卓の前の席に座って本を読んでいるのは、分厚い眼鏡をかけた男子生徒だ。
その眼鏡はもっさりとした前髪に覆い隠されていて、ちゃんと文字が見えているのだろうかと妙な心配をしてしまう。
「顔立ち悪くなさそうなのに、なんであんななのかな?」
「コミュ障とか? 話してんの見たことないよね」
「遅れてきた厨二病ってやつだったり? 孤高の男感ヤバイw」
二人の言う通り、入学してから今日まで藤岡くんがクラスメイトと話している姿を、私も見たことがない。
いじめを受けているといった風でもないのだけど、どことなく近寄りがたいオーラを発しているのは事実だ。
あの眼鏡と前髪が、他人を近寄らせないようにしている鉄壁に見えてしまうのかもしれない。
「一人でいるのって、悪いことじゃないよね」
「……嶋ちゃん?」
「あ、いや……」
思わず口に出してしまった言葉に、長野さんが意外だと言いたそうな目で私を見てくる。
一度音に乗せてしまったそれは取り消すこともできず、少し迷ってから私は自分の考えを続けることにした。
「人に迷惑かけてるわけじゃないし、一人が楽な人もいるだろうし」
「それは……まあ、うん」
「どんな人なのかってちゃんと知ったら、見え方も変わること……あると思うんだ」
こんなことを言って、長野さんたちにどう思われるかな。そんな風に気になったけど、それ以上に黙っているのが嫌だった。
藤岡くんは気にしていないかもしれないけれど、だからといって何を言っていいとも思わない。
その発言を特に追及されるようなこともなく、長野さんたちとの関係が拗れるようなこともなかった。
ただ、自分で言ったように私は藤岡くんのことをよく知らない。
ああやって一人で過ごしている彼は一体どんな人なのだろうかと、ほんのちょっとだけ興味が湧いた。
◆
今日はタイミングが合わないまま、下校の時間になってようやく眞白と合流することができた。
本当は短い前髪を見られるのが恥ずかしくて、今日は別々に帰ろうかとも考えたのだけど。
合流した途端に、眞白は大きな瞳で私の顔をじっと見つめてきた。
「似合うじゃん、千綿」
「そ、そうかな……? ぱっつんすぎない?」
「ううん、かわいいと思う」
「……ありがとう」
「そういえばさ、駅前のタピオカ屋って今日からオープンじゃなかった?」
大袈裟でもなくさらりと褒めてくれた眞白は、自然な流れで次の話題を提示してくる。
それが普通のことだとしても、すんなり受け入れられるのは私という人間を知る彼女の言葉だからなのだろう。
新しい友達と話をするのは楽しいけれど、やっぱり眞白の傍は落ち着くと思った。
「……あれ?」
「千綿、どうかした?」
眞白と並んで歩いていると、少し先の道で何かが落ちたのが目に入る。形からして生徒手帳のようだ。
そのすぐ前を歩いている背中には、はっきりと見覚えがあった。藤岡くんだ。
鞄から何かを取り出す仕草をしていたので、うっかり落としてしまったのだろう。彼は気づいていないようで、私は咄嗟に走り出して生徒手帳を拾う。
「藤岡くん!」
声を掛けても反応がない背中は、歩幅の違いなのかどんどん離れてしまう。
負けじと追いついた彼のブレザーの裾を掴むと、引っ張られたことでようやく気がついたらしい藤岡くんが私の方を見た。
「え、なに……?」
髪の中に埋もれた耳元から外されたワイヤレスのイヤホンは、小さく音楽を漏れ聞こえさせている。
私が呼んでも気がつかなかったのは、音楽を聴いていたからなのだろう。
「これ、落としたよ。生徒手帳」
「……ありがとう」
始めは怪訝な反応をしていたように思う藤岡君は、受け取った生徒手帳が自分のものであることで、納得したようにそれを受け取った。
「落し物は拾えるけど、視界が狭いと危ないから気をつけて帰ってね」
分厚いレンズと前髪に隠れた瞳がどんな色をしているのか、私から見ることはできない。
お節介かもしれないけれど、それだけ伝えると私は待たせてしまっている眞白のところへと引き返した。
「眞白ー、ごめんね……!」
「千綿、あれ誰?」
「藤岡くん。同じクラスの人だよ」
私が見知らぬ人と話している姿が物珍しかったのだろう。
帰路につく藤岡くんの背中を見送った眞白は、すぐにそちらから興味を失ったように私の方へと向き直る。
「ふーん……? じゃあ、善行も積んだしタピりに行く?」
「行くー!」
この日の出来事を境に、私の日常の中に藤岡志麻くんという男の子が登場していくようになった。