「ん……」
頭の内側から響くような鈍い痛みに、ゆっくり意識が浮上していく。
見上げた先にある白い天井と、周囲は薄緑色のカーテンに囲まれていて、ここは保健室のベッドの上なのだとぼんやりと理解した。
遠くに聞こえる声は賑やかだけれど、ここでは時間がわからない。そう思って上体を起こした時、手の甲にぽたりと何かが垂れたことに気がつく。
「え、これ……鼻血……?」
鼻の下に触れてみると、指先に赤い血液が付着する。
呆然としていると足音が聞こえてきて、開かれたカーテンの向こうから眞白が顔を覗かせた。
「千綿、起き……っ、ちょっと大丈夫!?」
「眞白、今って……いつ?」
鼻血を見て私以上に慌てる眞白は室内を駆け回ると、ティッシュの箱を手にこちらへ戻ってくる。
それを受け取って鼻を抑えるけれど、大量に出血しているわけではなさそうだった。
「昇降口で合流して、まだ二時間くらいだな」
「志麻くん……」
続けてやってきた志麻くんは、なんだかいつもより暗い顔をしているように見える。
(いや、計画が失敗したんだから……無理もないよね)
私が突然倒れてしまっただけで、合流してすぐに再びループが起こったわけではないらしい。
「保健の先生は?」
「今日は休みだって。スミセンには貧血だって報告だけしてあるから、騒ぎにはならないと思うけど」
「そっか、ありがとう」
振り出しに戻った私たちは、また新しく計画を練り直さなくてはならない。
そう思ってベッドから降りようとした私を、伸びてきた志麻くんの手がやんわりと制止してきた。
「……志麻くん?」
「千綿、体調はどうだ?」
「もう大丈夫だよ、鼻血も止まって……」
「いや、大丈夫じゃない」
強く言い切る志麻くんの声に、私だけでなく眞白も驚いた様子で彼を見ている。
「千綿がこんな風に倒れるのは初めてだけど、少し前から兆候はあった」
「兆候?」
「頭が重いとか話してただろ?」
そう言われて、確かに体調の悪さを感じることが何度かあったのを思い出す。
とはいえ、その日の調子や気圧などによって頭が重くなることもあるし、それほど気に掛けるものでもないように感じるのに。
「ループの繰り返しで、千綿の身体に負荷がかかってるのかもしれない」
志麻くんがそんな風に言うものだから、今も感じている頭痛に余計に意識が向いてしまう。
「でも、どうして千綿だけ……? あたしと藤岡くんだって、一緒にループしてるのに」
「わからないけど、最初に死ぬはずだったから……とか」
私の命は、志麻くんによって生かされている。
ループを繰り返す度に、死ぬはずの運命が書き換えられているのだとしたら、そうした可能性もあるのかもしれない。
理解できないことばかり起こり続けているのだから、彼の唱える説を否定はできなかった。
「だとしたら、これ以上ループし続けると千綿が危ないってこと……?」
「今までと違うことは、可能性として考慮すべきだと俺は思う」
(……大丈夫だよって、言えない)
私だけが犠牲になるなら、それでも構わないと思える。それが最後の手段であるならの話だ。
けれど、私がループによって命を落とした後で、志麻くんも死んでしまわない保証はない。
(せっかく志麻くんが命懸けで頑張ってくれてるのに。死んでもループが終わらなかったら? 眞白にまでループで異常が現れたら?)
考え出せばきりがない未来の数々に、私は布団を強く握りしめる。
最悪はいくらでも浮かんでくるというのに、希望がどこにも見つからないなんて。
「……どうして、叶えてもらえなかったのかな?」
きっと考え方は間違っていなかったはずなのに、どちらの願いも叶うことはなかった。
示し合わせて願ったのがダメだったのか、そもそも無効となる願いだったのか。
ジンクスを信じた人間だって、全員がその願いを叶えてきたわけじゃない。叶わない願いもあるのが当然だとしても、どうしてなのかと思わずにいられなかった。
「あのさ、藤岡くんは願ったんだよね?」
「ん?」
「千綿の身代わりになるって」
ベッドの端に腰かけていた眞白は、なんだか怖い顔をして志麻くんの方を窺っている。
「ああ、そうだけど……それがどうかしたのか?」
その返答に苦しそうに眉を寄せた後、眞白が私と志麻くんを交互に見た。
この顔を知っているような気がする。学校で嫌なことがあった日に、彼女が見せる顔に似ていた。
「あたし、4回お願いをしてる」
「えっ……4回って、後夜祭で?」
予想もしていなかった言葉に目を丸くした私は、思わず眞白の方に身を乗り出してしまう。
「うん。最初のと、千綿が死んだのを見て……生き返らせてほしいって思ったのと、あと……リセットしてほしいって思ったんだ」
「リセット……って、願いをか?」
「ループを繰り返して、状況はわからないけどあたしの願いが始まりだったのかなって。だから、リセットしたら全部もとに戻るんじゃないかって思ったの」
眞白自身がそう願ったものに加えて、前回の計画でのお願い。それらを合計して4回ということか。
それでも、現状を見れば叶わなかっただろうことは考えるまでもない。
「ただ……あたしは最初、自分の願いが両方叶ったんだと思ってたの」
「両方?」
「千綿がいなくなるっていうのと、千綿を生き返らせるって願い」
「それは……俺と被ったけど、叶ったことになるんじゃ……」
志麻くんの言う通り、願った内容が偶然同じだっただけで両者の願いが叶ったように見える。
だというのに、眞白は納得していないとばかりに首を左右に振った。
「そうならいい。だけど……もし、ひとつだけだったら?」
そこまで聞いて、眞白の言わんとしていることを脳がストンと理解した気がする。
ここにいる三人とも、最初の願いは叶えられているのだ。その先を考えるのが怖くて、知らず呼吸が浅くなっていく。
「……一人一度だっていうなら、試した願いが全部ダメだったのも理解できるな」
微かな希望が見えては絶望の沼へと引きずり込まれる。
そんなことを繰り返しては、あるかもわからない未来を探し続けてきたのに。導き出された答えはどうしたって、一緒に生きる世界を想像できない。
あの夕焼けの中で見た景色が、私たちにとって最後の希望の日だったのだろうか?
「…………あ」
その時、私はあの瞬間にほんのわずか感じていた違和感の正体を思い出す。
「眞白、屋上で願った時……声に出してたよね?」
「え? ああ、うん。なるべく最初と同じにって思って……」
私にとってのお願い事は、頭の中で唱えて見えない神様に叶えてもらうものだった。
だから眞白が言葉にして願う姿が、遠ざかる意識の中に違和感として残っていたのだ。
「じゃあ、志麻くんは? 私が死んだ時、どうやってお願いしてた?」
「……俺も、口に出してた気がする」
その言葉に、まだ希望は失われていないと思えた。……いや、そう思いたいだけなのかもしれない。
それでも私は、可能性が残されているのなら最後までこの運命に抗い続けたかった。
『言霊には力があるともいうし』
純部先生がそんな話をしていたことを思い出す。この学園の中では、言葉が力を持つ可能性がある。
「叶う願いはひとつだとしても、それは声に出す必要があるんだと思う」
「……千綿、もしかして……!」
期待を乗せた二人の視線が向けられる。私の考えていることが、二人にも伝わったのだろう。
「私、まだ一度も声に出してお願いをしてない」
記憶には無いけれど、志麻くんに告白をした過去は確かに存在している。
それでも私がしたのは告白であって、両想いになりたいとか志麻くんに好きになってほしいとか、お願いの類ではなかったはずだ。
私の願い事がまだ残っているのだとすれば、今度こそループを止めることができるかもしれない。
「だけど、それなら……どうして世界がループしたんだろう……?」
「それは……」
眞白の疑問に答えられる人間はこの場にはいない。その証拠に、誰もその続きを口にしようとはしなかった。
本当は私の考え方が間違っていて、声に出さなくても願い事は叶うのかもしれない。そんな考えが脳裏を過ぎった時だった。
「それは、僕の願いが叶ったからだね」
突然割り込んできた第三者の声に、私たちは一斉に扉の方へと顔を向ける。
開かれた扉の向こうからゆっくりと姿を現したのは、どこか困ったような顔をした純部先生だった。